新年元旦は自宅近くのお寺(真言宗智山派 並流山 一乗院平等寺)に初詣をした。
恭しく頭を下げ自宅に戻ると能登半島大震災の一報である。
父の遺した家族旅行の8mmフィルムは一昨年デジタル化をしたがその中に輪島が映っていた。
(1977年の輪島)
金沢、羽咋、輪島と国鉄の気動車に揺られての真夏の旅行であったが鄙びた佇まいでありながら人々の活気に満ちた輪島の朝市の思い出が蘇る。
その輪島の中心街が地震後の大火で消えてしまった。わが国の最大脅威は言うまでもなく自然災害である。中でも巨大地震と破局噴火は一瞬にして国民の生命財産を奪い去ってしまう。ロシア・ウクライナ、パレスチナ・イスラエルといった戦争なる人災の片棒を担ぎ、首を突っ込み軍事費を積み上げている場合ではない。防ぎようのない自然災害であればせめて減災のための施策を国や自治体は計画的に行わなければならない。
2025年大阪・関西万博を巡り、大阪府の吉村洋文知事は4日、能登半島地震の影響で縮小や延期をする可能性を否定した。府庁で記者団に「二者択一の関係ではない。万博があるから(復興の)費用が削減されるものではない」と述べた。(共同通信 2024年1月4日報)
母屋が大火事なのにその軒先で宴会を開くが如くの関西万博。万博は国の事業であるのだからその事業に投じる国費(税金)の用い方は納税者たる国民に委ねるべきことだ。開催のリソース(ヒト・モノ・カネ)を被災地に充てるべきであるが大方の択一の民意(世論)であろう。
福島復興などと大義を掲げて開催した東京オリンピック競技大会は蓋を開けてみれば、都心の一等地たる神宮外苑という公共財の民間への払い下げ・再開発の呼水でしかなく、福島はその踏み台にされたことを思い出して欲しい。
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太古の昔(上代)は祭政一致であった。つまり、祭祀の主宰者と政治上の権力者が同一であり、祭り事は政(まつりごと)である。正月の吉日に初めて行われる朝廷の儀式からその年の政(まつりごと)は始まるとされた。公卿以下判官(ほうがん)が執り行ったようだが、その今様判官(吉村知事)は祭り事に現(うつつ)を抜かすばかりで、政(まつりごと)を全く疎かにしている。
入口の石段を、二三級上ると、扉が開いているので、中が見える。中は思ったよりも、まだ狭い。正面には、一尊の金甲山神が、蜘蛛の巣にとざされながら、ぼんやり日の暮を待っている。その右には、判官が一体、これは、誰に悪戯をされたのだか、首がない。左には、小鬼が一体、緑面朱髪で、猙獰(そうどう)な顔をしているが、これも生憎、鼻が虧けている。その前の、埃のつもった床に、積重ねてあるのは、紙銭であろう。これは、うす暗い中に、金紙や銀紙が、覚束なく光っているので、知れたのである。(芥川龍之介 仙人から)
猙獰(そうどう):あらあらしく、にくにくしいこと。また、そのさま。恐ろしげなさま。凶悪
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此に千金有り、之を用いること侈なれば、則ち一朝にして尽く。之を用いること倹なれば、則ち終身尽くること無し。国家も亦然り。 国家も亦然り。 国家も亦然り。倹を尚ぶ所以なり。商は六百年、周は八百年、何ぞ其れ永きや。後世、乱亡相継ぎ、短き者は或いは四五年に止まる。又何ぞ促やかなるか。古時、封建もて治を為し、王者の封域、千里を過ぎざるも、天下の禄を以て天下の人を養う。其の受用すること倹なればなり。後世変じて郡県と為り、王者、天下を以て一身に奉ず。其の受用すること侈なればなり。…天禄の降ること、何ぞ独り古のみに厚くして今に薄からんや。(江戸時代の儒学者 廣瀬淡窓「析玄三十則」から)
千金を節度なく尊大に用いる猙獰たる政(まつりごと)では、乱亡が相継ぐことを古人は今に伝えている。乱亡を防ぐ(防災)には猙獰たる政をあらためることだ。
(おわり)