2019年02月05日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その8(ポストカード)



Gabrielle Rayについては本ブログで7回に分けてその生涯を綴った(「ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その1(ポストカードの女性)」〜「ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その7(ポストカード)」。

s-l1600-8.jpg


s-l1600-9.jpg


s-l1600-10.jpg


1 (2).jpg

(1908年 The Merry Widow)

エドワード朝期、英連邦一の美貌を以って当時世界で最も多く写真に撮られた女性、写真映えの為に世界で最初に美容整形(鼻梁)をした女性、ロンドンGaiety劇場の舞台女優としての華々しい活躍、不遇な結婚、酒に溺れ精神を病み、1936年から死ぬまで(1973年)の約40年間を精神病院で過ごした。

彼女が収用された精神病院はヴァージニア・ウォーター、サリーのホロウェイ・サナトリアム(Holloway Sanatorium)である。





トーマス・ホロウェイ(Thomas Holloway)という実業家が自身特許を取得し販売した薬剤で得た利益を慈善に役立てようとこの病院を設立した。かつて国王ジョージ3世はその治世の終りに精神疾患に悩まされたが、その時代から精神疾患について科学的且つ人道的措置を求める世論はあったようだ。他方、1890年に制定された「精神異常法(Lunacy Act, 1890)」は、矯正すべき異常として精神疾患を扱い、精神病院に閉じ込め、矯正措置による物理的治療で行動を規律化するといった非人道的措置が講じられてきた。その措置で多くの患者が命を落としたとされる。

1873年に設立されたホロウェイ・サナトリアムもこの例外ではなく、設立してしばらくは患者を地域社会から離れた施設に収容しその行動を規律する措置が採られていたが、やがて、地域社会の中でケアを行う施策に転換していったようである。

広大な敷地に全天候型のテニスコートやスパ、ジムを配し、フランコ・ゴシック様式の壮麗なエントランスホールにチャペルはおよそ精神病院とは思えないファシリティを備え、ただし、この空間を自由に彷徨するのは健常者ではなく精神を病んだ人々であった。




Gabrielle Rayはこの施設から出られなかっただけで、決して「白い壁に囲まれて」寂しく死んだのではないのかもしれない。その死から5年後、映画館のステージから上がった炎は折からの強風によって幾つかの主要な施設に燃え移り、この火災が元で1980年に施設は閉鎖された。その後は歴史的建造物として、映画やテレビ、ミュージックビデオの舞台としても利用されているようだ。

ホロウェイ・サナトリアムの歴史と共に最も多くの時間をこの内で過ごし、且つ最も名の知れた女性はGabrielle Rayだったとも言える。

ホロウェイ・サナトリアムの閉鎖と共に残された過去の入院患者の膨大なカルテ(日々の行動の記録・写真)については学術資料として古い年代から順番に電子図書化が図られているようだ。


(ホロウェイ・サナトリアムのある患者のカルテ)

ちなみに、Gabrielle Rayの異母兄弟にGladys Rayがいる。Rays sisterとして一時期同じ舞台を踏んだ女優で容姿も大変似ていたが、彼女も名士と結婚後、精神を病み収容先の精神病院で死んだ(1920年)。


(左:Gabrielle Ray, 右:Gladys Ray)

----

eBay UKでGabrielle Rayのポストカードを何枚か購入した(当時のオリジナル / 本記事で掲載のもの)。彼女はポストカードの中にいた。ダンスとパントマイムの喜劇役者。カルテに記録された悲劇は公にしてもらいたくないと思う。

1 (1).jpg


1.jpg


2.jpg


s-l1600-7.jpg


----

Gabrielle Rayを含むGaiety劇場の舞台女優たちは、Gaiety Girlと呼ばれていた。彼女たちの活躍を中心に劇場の変遷を綴ったGaiety Theatre of Enchantment (1949年刊)という本を入手した。いずれ、この続きをそれら女優を何人かをフィーチャーして紹介してみたい。

1 (3).jpg


(おわり)


posted by ihagee at 03:56| ポストカード

2017年05月09日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その7(ポストカード)


手元にあるガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)のポストカード(オリジナル・いずれも1905年前後・ EPSON GT-X980でスキャニング):

gabrielle-ray_34461766556_o.jpg gabrielle-ray_34342798812_o.jpg

gabrielle-ray_33661047234_o.jpg gabrielle-ray_33661168574_o.jpg

gabrielle-ray_33661246464_o.jpg gabrielle-ray_33692882573_o.jpg

gabrielle-ray_33692926293_o.jpg gabrielle-ray_33693011123_o.jpg

gabrielle-ray_33693035203_o.jpg gabrielle-ray_34117476560_o.jpg

gabrielle-ray_34117585020_o.jpg gabrielle-ray_34118064000_o.jpg

gabrielle-ray_34342327182_o.jpg gabrielle-ray_34342475842_o.jpg

gabrielle-ray_34342537792_o.jpg gabrielle-ray_34342568812_o.jpg

gabrielle-ray_34342682812_o.jpg gabrielle-ray_34342869802_o.jpg

gabrielle-ray_34372382201_o.jpg gabrielle-ray_34372503531_o.jpg

gabrielle-ray_34372947131_o.jpg gabrielle-ray_34462110696_o.jpg

gabrielle-ray_34462265676_o.jpg gabrielle-ray_34462288966_o.jpg

gabrielle-ray_34462428956_o.jpg gabrielle-ray_34503139595_o.jpg

gabrielle-ray_34503231185_o.jpg gabrielle-ray_34503274015_o.jpg

gabrielle-ray_34503478445_o.jpg

----

コロタイプ印刷(写真製版)のモノクロームのポストカードは、実物でないと美しさは判らない(上掲のポストカードのうち10枚が同製版印刷)。表現力において今もって他の印刷技術の追随を許さない製版技術であるものの、非常に手間がかかる上、生産効率性の悪さから文化財の再現といった特殊な用途以外は用いられることはなくなった。

印刷とはいえども最新のデジタルカメラでもプリントでも困難な表現の深み(デジタルのエフェクトなる偽装は論外)にすでに一世紀前のカメラとフィルム、製版技術は到達していたと知るだろう。

最高の製版技術で最美な女性を印刷したポストカードに切手を貼り、気の利いたメッセージを添えて最愛の人に送ることができた時代、漱石の目も楽しませたパントマイム劇が場末の劇場であろうと気軽に鑑賞できた時代、とは何と贅沢なことだろう。ヴァーチャリティばかりの産業技術の進展と精神的な贅沢さは反比例しているようである。

(おわり)


posted by ihagee at 00:00| ポストカード

2017年05月08日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その6(在りし日の事ども)



ジェイムズ・ウィットコム・ライリー (James Whitcomb Riley)の詩 :

「さあさあ、少女よもう泣かないで
泣かされたって知ってるよ
若々しい夢の虹の輝きも今となっては
在りし日の事ども」

There, little girl don't cry, don't cry,
They have broken your heart, I know,
And the rainbow gleams of your youthful dreams
Are things of the long-ago.

----

アメリカの大富豪アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト(Alfred Gwynne Vanderbilt)からポルトガルのマニュエル国王に至る世界的に名だたる色男たちがギャビィの足もとに群がり、男爵や伯爵が彼女に求婚したとまことしやかに囁かれたが、その中でギャビィを射止めたのは1千万ドルの資産を持つ若き大富豪 エリック・ロダー(Eric Loder)だった。獣脂業(蝋燭や石鹸の原料)で稼いだ金だったが(同業者は下層市民が多かった)、彼の一族は社会的地位を得、その一人は准男爵となった。

エリックとの挙式は1912年2月29日にウィンザーの聖エドワードローマカトリック教会で執り行われることになった。日の出前から数千人の見物人が押しかけていた。午前10時30分に新郎エリックが到着し、新婦ギャビィの到着を待った。しかし、いくら待てどもギャビィは現れず挙式は取り止めとなった。美人の気まぐれかと人々は思ったようだ。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産と収入にエリックが事前にサインをし忘れ、そのままでは挙式を行うことができないとギャビィが予感したのが真相のようだ。挙式の準備に忙殺されて法的な書類を見過ごしたことをエリック自身が認めている。

エリックは法的手続を済ませ、その3日後にギャビィと挙式をあげた。しかし、ギャビィの最初の予感は正しかったようだ。結婚1年を経ず彼らは不仲となり、ギャビィは離婚を望んだ。移り気な億万長者は完璧な美しさに飽きて、美しさに欠けるが面白みのある女性に慰みを得るようになったからだと、ギャビィの舞台仲間が証言している。彼らは2年後に離婚した。

----

ライリーの詩に書かれた少女の一人にギャビィを重ね合せることができるように、その当時ロンドンで美貌と名声に恵まれながら、結婚が「在りし日の事ども」となった少女に、ギャビィと同じ舞台を踏み彼女のライバルだったリリー・エルシー(Lily Elsie)、ギャビィがその代役を務めたガーティ・ミラー(Gertie Millar)、また数々のミュージカル・コメディに出演しその美貌で人気が高かったメイ・エザリッジ(May Etherridge)といったギャビィの同業者たちも奇しくも重なり、結婚相手(およびその家系)に問題があったことで共通しているようだ。

----

ガブリエル・レイとエリック・ロダーのケースは、最初から全く相容れない関係だったと言うのが適切だろう。ギャビィはエリックよりも年上である上に、生まれながら劇場しか知らないギャビィと、レーシング(車)やハンティングといったアウトドアに入り浸る一族の出であるエリックが結婚すること自体が彼らの友人たちにとっては驚き以外の何物でもなかったようだ。


(レーシングカーに興ずるエリック・1912年)

(エリックと離婚後)ギャビィは1915年にディリー劇場のミュージカル・コメディ “Betty” で舞台に復帰し、翌年、ロンドン・ヒッポドローム劇場での “Flying Colours” に出演した。彼女のダンサーとしての才能や創造力は未だ健在だったが、心は傷ついたままだったのだろう、これらの興行はウエスト・エンドに彼女が姿を見せた最後となり、その後ほぼ10年間、パントマイム劇や演芸の地方興行に時折姿を見せる程度となる。


("Betty"で舞台復帰したギャビィ・1915年)

ギャビィが受け取った最も変わった贈り物は、巨大なバスケットの中に植えられた葡萄の樹だった。8年育成し20余の房を付けたバスケットは男4人で運ぶのがやっとだったそうだ。しかし、ギャビィは生涯、金になる仕事にありつくことができなかった。メリー・ウィドウに出演した際も、ライバルのリリー・エルシー(Lily Elsie)に自分の古着を買って貰わざるを得なかった程、ギャラが少なかったのである。

gabrielle-ray_33661246464_o.jpg

----

やがて、鬱と飲酒という破滅的な組み合わせが、彼女のエキセントリックな性格と相乗してあらゆる面で健康を損なうこととなった。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産の一部があったのだろうか、かつての結婚相手であったエリックの差しのべる金銭的援助をギャビィは受取り続けた。

しかし、1936年になると、ギャビィは精神を病み、精神病院に収容され40年の間、退院することもなく白い壁に囲まれたまま90年の長い生涯を終えた(1973年5月21日)。




(ガブリエル・レイの生家に掲げられたブルー・プラーク (blue plaque))

彼女の容姿はその全盛期のポストカードにあるままに人々の記憶に残され、未だに「英連邦で最も美しい女性」とのタイトルを保持し、当時世界一多く撮られた写真とポストカードの中で生き続けている。

----

偉大なファッション・フォトグラファーであり、ミュージカル「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」の衣裳デザイナーでもある、セシル・ビートン(Cecil Beaton)は、エドワーズ版メリー・ウィドウ(1907年)を観たことは物心がついた頃の最初の記憶の一つとなっており、その遠い昔の記憶が彼のファッション・フォトグラフィーに明らかに影響を及ぼし「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」のコスチュームを作り上げたと述懐している。そして、”The Glass of Fashion” 誌(1954)に彼はギャビィについて一稿を投じている。

myfairlady.jpg gabrielle-ray_34503139595_o.jpg
(セシル・ビートンとA. ヘップバーン、ギャビィ)

「ギャビィとオペレッタで共演したリリー・エルシー(Lily Elsie)がギャビィのメーキャップの秘密について私に語ってくれたところによると、そのメーキャップは点描手法で、舞台に上がる際は、藤色と緑色のドットを目の端に、小さな赤色と藤色のドットを鼻孔の端に化粧していたそうだ。まるでスーラ(点描画の大家)が細心の注意を払ってカンバスに向かって仕事をするように、瞼とこめかみに異なる色で陰影を付け、コーラルからボアドローズ(bois de rose)色に変化するように頬を化粧していたようだ。テラコッタ・パウダーを付けた野うさぎの足の毛でできたブラシで顎をメイクし、耳たぶと鼻の先端はサーモン・カラーで軽く叩いてメイクを仕上げたようだ。このようにメーキャップしたギャビィはチャイナ・ドールのようにエナメル色に観客の目に映ったようだ。そして、他のどんな女優よりも写真家を前にしていかにポーズを付けたら良いかこのダンサーはよく知っていた。ギャビィが写真の為に世界で最初に整形手術を受けた先駆者の一人であることに疑いはない。彼女は鼻の下に繭糸を埋め込んでどちらの側から見ても鼻梁が彼女が望む高さとなるように整えることができた。才能は程ほどだったがイマジネーションに富んだギャビィはその短いキャリアの間、自身を "小さな芸術作品" に仕上げたのであった。」

ここに、ギャビィの美貌の秘密と<ファッション・フォトグラフ>の前駆体としてのギャビィの存在が明らかになった。

(つづく)

posted by ihagee at 18:59| ポストカード