2017年05月09日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その7(ポストカード)


手元にあるガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)のポストカード(オリジナル・いずれも1905年前後・ EPSON GT-X980でスキャニング):

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コロタイプ印刷(写真製版)のモノクロームのポストカードは、実物でないと美しさは判らない(上掲のポストカードのうち10枚が同製版印刷)。表現力において今もって他の印刷技術の追随を許さない製版技術であるものの、非常に手間がかかる上、生産効率性の悪さから文化財の再現といった特殊な用途以外は用いられることはなくなった。

印刷とはいえども最新のデジタルカメラでもプリントでも困難な表現の深み(デジタルのエフェクトなる偽装は論外)にすでに一世紀前のカメラとフィルム、製版技術は到達していたと知るだろう。

最高の製版技術で最美な女性を印刷したポストカードに切手を貼り、気の利いたメッセージを添えて最愛の人に送ることができた時代、漱石の目も楽しませたパントマイム劇が場末の劇場であろうと気軽に鑑賞できた時代、とは何と贅沢なことだろう。ヴァーチャリティばかりの産業技術の進展と精神的な贅沢さは反比例しているようである。

(おわり)


posted by ihagee at 00:00| ポストカード

2017年05月08日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その6(在りし日の事ども)



ジェイムズ・ウィットコム・ライリー (James Whitcomb Riley)の詩 :

「さあさあ、少女よもう泣かないで
泣かされたって知ってるよ
若々しい夢の虹の輝きも今となっては
在りし日の事ども」

There, little girl don't cry, don't cry,
They have broken your heart, I know,
And the rainbow gleams of your youthful dreams
Are things of the long-ago.

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アメリカの大富豪アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルト(Alfred Gwynne Vanderbilt)からポルトガルのマニュエル国王に至る世界的に名だたる色男たちがギャビィの足もとに群がり、男爵や伯爵が彼女に求婚したとまことしやかに囁かれたが、その中でギャビィを射止めたのは1千万ドルの資産を持つ若き大富豪 エリック・ロダー(Eric Loder)だった。獣脂業(蝋燭や石鹸の原料)で稼いだ金だったが(同業者は下層市民が多かった)、彼の一族は社会的地位を得、その一人は准男爵となった。

エリックとの挙式は1912年2月29日にウィンザーの聖エドワードローマカトリック教会で執り行われることになった。日の出前から数千人の見物人が押しかけていた。午前10時30分に新郎エリックが到着し、新婦ギャビィの到着を待った。しかし、いくら待てどもギャビィは現れず挙式は取り止めとなった。美人の気まぐれかと人々は思ったようだ。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産と収入にエリックが事前にサインをし忘れ、そのままでは挙式を行うことができないとギャビィが予感したのが真相のようだ。挙式の準備に忙殺されて法的な書類を見過ごしたことをエリック自身が認めている。

エリックは法的手続を済ませ、その3日後にギャビィと挙式をあげた。しかし、ギャビィの最初の予感は正しかったようだ。結婚1年を経ず彼らは不仲となり、ギャビィは離婚を望んだ。移り気な億万長者は完璧な美しさに飽きて、美しさに欠けるが面白みのある女性に慰みを得るようになったからだと、ギャビィの舞台仲間が証言している。彼らは2年後に離婚した。

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ライリーの詩に書かれた少女の一人にギャビィを重ね合せることができるように、その当時ロンドンで美貌と名声に恵まれながら、結婚が「在りし日の事ども」となった少女に、ギャビィと同じ舞台を踏み彼女のライバルだったリリー・エルシー(Lily Elsie)、ギャビィがその代役を務めたガーティ・ミラー(Gertie Millar)、また数々のミュージカル・コメディに出演しその美貌で人気が高かったメイ・エザリッジ(May Etherridge)といったギャビィの同業者たちも奇しくも重なり、結婚相手(およびその家系)に問題があったことで共通しているようだ。

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ガブリエル・レイとエリック・ロダーのケースは、最初から全く相容れない関係だったと言うのが適切だろう。ギャビィはエリックよりも年上である上に、生まれながら劇場しか知らないギャビィと、レーシング(車)やハンティングといったアウトドアに入り浸る一族の出であるエリックが結婚すること自体が彼らの友人たちにとっては驚き以外の何物でもなかったようだ。


(レーシングカーに興ずるエリック・1912年)

(エリックと離婚後)ギャビィは1915年にディリー劇場のミュージカル・コメディ “Betty” で舞台に復帰し、翌年、ロンドン・ヒッポドローム劇場での “Flying Colours” に出演した。彼女のダンサーとしての才能や創造力は未だ健在だったが、心は傷ついたままだったのだろう、これらの興行はウエスト・エンドに彼女が姿を見せた最後となり、その後ほぼ10年間、パントマイム劇や演芸の地方興行に時折姿を見せる程度となる。


("Betty"で舞台復帰したギャビィ・1915年)

ギャビィが受け取った最も変わった贈り物は、巨大なバスケットの中に植えられた葡萄の樹だった。8年育成し20余の房を付けたバスケットは男4人で運ぶのがやっとだったそうだ。しかし、ギャビィは生涯、金になる仕事にありつくことができなかった。メリー・ウィドウに出演した際も、ライバルのリリー・エルシー(Lily Elsie)に自分の古着を買って貰わざるを得なかった程、ギャラが少なかったのである。

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やがて、鬱と飲酒という破滅的な組み合わせが、彼女のエキセントリックな性格と相乗してあらゆる面で健康を損なうこととなった。婚姻によって法的にギャビィが承継する財産の一部があったのだろうか、かつての結婚相手であったエリックの差しのべる金銭的援助をギャビィは受取り続けた。

しかし、1936年になると、ギャビィは精神を病み、精神病院に収容され40年の間、退院することもなく白い壁に囲まれたまま90年の長い生涯を終えた(1973年5月21日)。




(ガブリエル・レイの生家に掲げられたブルー・プラーク (blue plaque))

彼女の容姿はその全盛期のポストカードにあるままに人々の記憶に残され、未だに「英連邦で最も美しい女性」とのタイトルを保持し、当時世界一多く撮られた写真とポストカードの中で生き続けている。

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偉大なファッション・フォトグラファーであり、ミュージカル「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」の衣裳デザイナーでもある、セシル・ビートン(Cecil Beaton)は、エドワーズ版メリー・ウィドウ(1907年)を観たことは物心がついた頃の最初の記憶の一つとなっており、その遠い昔の記憶が彼のファッション・フォトグラフィーに明らかに影響を及ぼし「マイ・フェア・レディ(My Fair Lady)」のコスチュームを作り上げたと述懐している。そして、”The Glass of Fashion” 誌(1954)に彼はギャビィについて一稿を投じている。

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(セシル・ビートンとA. ヘップバーン、ギャビィ)

「ギャビィとオペレッタで共演したリリー・エルシー(Lily Elsie)がギャビィのメーキャップの秘密について私に語ってくれたところによると、そのメーキャップは点描手法で、舞台に上がる際は、藤色と緑色のドットを目の端に、小さな赤色と藤色のドットを鼻孔の端に化粧していたそうだ。まるでスーラ(点描画の大家)が細心の注意を払ってカンバスに向かって仕事をするように、瞼とこめかみに異なる色で陰影を付け、コーラルからボアドローズ(bois de rose)色に変化するように頬を化粧していたようだ。テラコッタ・パウダーを付けた野うさぎの足の毛でできたブラシで顎をメイクし、耳たぶと鼻の先端はサーモン・カラーで軽く叩いてメイクを仕上げたようだ。このようにメーキャップしたギャビィはチャイナ・ドールのようにエナメル色に観客の目に映ったようだ。そして、他のどんな女優よりも写真家を前にしていかにポーズを付けたら良いかこのダンサーはよく知っていた。ギャビィが写真の為に世界で最初に整形手術を受けた先駆者の一人であることに疑いはない。彼女は鼻の下に繭糸を埋め込んでどちらの側から見ても鼻梁が彼女が望む高さとなるように整えることができた。才能は程ほどだったがイマジネーションに富んだギャビィはその短いキャリアの間、自身を "小さな芸術作品" に仕上げたのであった。」

ここに、ギャビィの美貌の秘密と<ファッション・フォトグラフ>の前駆体としてのギャビィの存在が明らかになった。

(つづく)

posted by ihagee at 18:59| ポストカード

2017年05月05日

ガブリエル・レイ(Gabrielle Ray)- その5(全盛期)



“The Orchid”に続くギャビィが出演した3つのショーはいずれもプリンス・オブ・ウェールズ劇場で行われた。1905年 “Lady Madcap”、1906年 “The Little Cherub” と”See See” で、その”See See”でギャビィは主演のリリー・エルシー(Lily Elsie)とライバル関係になった。


(1905年 “Lady Madcap”)


(1906年 “The Little Cherub”)


(1906年 ”See See”, 右から2人目がギャビィ、右端がリリー・エルシー)


(1906年 ”See See”)

1906年10月26日、エドワーズのもう一つのミュージカル・コメディ “Les Merveilleuses” がレスター・スクウェアのディリー劇場で初日を迎えた。批評家には絶賛されたものの、人気を呼ばなかったのは、チケットを買おうにもその演目を何と発音して良いのか市民にはわからなかったからとされている。エドワーズは公演を中止し、脚本を修正し新たな歌を加え、”The Lady Dandies” と改題して、Egl' を演じたモード・パーシヴァル(Maude Percival)をギャビィに代えるなどキャスティングも変更した。ギャビィのパートは脚本が書き加えられ、ウィリー・ウォード(Willie Warde)とのデュエットとダンス “'I Always Come Back to You” が挿入された。



この歌は大ヒットし、1907年3月5日に劇場地区ドルーリー・レーンで催されたロンドン市長身障者ファンド支援の特別慈善公演でも使われた。

”The Lady Dandies” はしかしながら、元の作品よりも成功した訳ではなかった。そこで、エドワーズは代作を速やかに準備することに追われる。フランツ・レハールのオペレッタ メリー・ウィドウ(Merry Widow)が代わりになると思いついたが、そのままで彼の好みに照らしてあまりにコンティネンタル風なので、未亡人(ウィドウ)はもっと若い未亡人に書き換え、英国風とすべくコメディ場面を多く付け加えて改作した。できる限りカネをかけないつもりだったので、コスチュームは殆ど古着を再利用した。

エドワーズ版メリー・ウィドウは1907年6月8日初公演が行われ、リリー・エルシー(Lily Elsie)とジョセフ・コイン(Joseph Coyne)が主役を演じ、ギャビィはロロ、ドド、ジュジュ、クロクロ、マルゴ、フルフルの中のフルフル(Frou Frou)の役だった(ちなみに、リーヌ・ルノーの歌唱で知られるシャンソンの名曲”Frou-frou”はベルエポック時代の女性のドレスの衣擦れの音を模した古い歌だが、このフルフルとは関係はない)。



このメリー・ウィドウはエドワーズの最大のヒット作となった。778回興行のロングランとなり、700回興行で同じくヒットしていた”H.M.S. Pinafore” さえも完全に打ち負かした。

劇中のリリー・エルシーが被った鍔広のメリー・ウィドウ帽は女性たちの間で大流行となった。ギャビィは逆立ちや脚上げを交えた踊りを4人の男たちに頭の高さまでリフトされたマキシムのテーブルの上で繰り広げるなどショー・ストッパーぶりを発揮した。

ギャビィは次の作品、”The Dollar Princess” に出演する為、ディリー劇場に留まった。



その作品でもリリー・エルシーが再び主演となり、1909年9月に舞台の幕が上がった。ディリー劇場での1911年の “Peggy” でギャビィはPolly Polinoを演じた。



その時代になると、ミュージカル・コメディはミュージカルホールの伝統を吸収し、女性のシンガーもダンサーも衣装の早変わりをしなければならなくなった。

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当時の劇場雑誌 “The Play Pictorial” には”Peggy” でのギャビィのコスチュームについて以下の記載がある。

「彼女の肌色と珊瑚色のバス・コスチュームは真っ白なサンダルと共に魅惑的だ。背中にセイラー・カラーのある絹クレープ地の所々カットされた部分から長いタッセルが下がり、シックなピンク色のキャップをシックに頭に巻いている。曲芸の場面では、彼女はコートをさらりと脱ぎ素早く紫のスパンコールのシャツ姿となる。色とりどりのチューリップの模様が美しく飾られている。海軍将校の帽子と肩飾りを纏った姿に早変わりしても、彼女はとてもスィートに見える。」



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”Peggy” の興行が成功裡に終わるや、ギャビィは舞台から引退を公表した。エリック・ロダー(Eric Loder)なる男と結婚することになったからである。

(つづく)

posted by ihagee at 00:00| ポストカード