2017年02月27日

インド映画考 – その5(ヒンディ語映画・第二の時代(1970s))


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第二の時代(1970年代を中心とする国家危機の時代):
1970年代に急速に広まった社会不安・政情不安と政府への不満はインディラ・ガンジー首相が1975年に発した非常事態宣言によって頂点に達した。国家、主人公(一般にヒーローを指す)と悪人の描かれ方がこの時代の映画はそれ以前の映画と異なる。

以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)

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1970年代の初め頃から、よりよい生活への国民の期待や楽観は消え始めていた。1971年に勃発した印パ戦争とその戦費、バングラデシュのパキスタンからの独立という結果を生むものの難民問題が発生しその負担がのしかかり、さらには大干ばつが1972、1973年と続き、1973年の国際的な石油危機でインドは深刻な経済困難に陥った。食糧難と急激なインフレである。食品流通や価格を統制しようとした政府の試みが、結果として大規模な買占めやブラックマーケットを生んだ。人々が通りに繰り出して大規模な抗議デモを行うようになると政情不安はより深刻なものになった。学園紛争はストライキに発展し一時は大学が数週間閉鎖される事態ともなった。全国規模の暴動は1970年代中頃まで年々増加し、警察が群衆に向けて銃を放ったり棍棒で殴ったりという記事は毎日のように新聞に掲載されていた。



1971年の総選挙でインディラ・ガンジー首相は議会の多数支配に成功したが、明確な経済プログラムを持っていなかったためにすぐに問題が顕在化した。1975年夏、1971年の先の総選挙での与党インド国民会議の選挙違反が指摘され、グジャラート州の議会選挙で与党国民会議派は議席を失って、野党やメディアばかりか、与党の内部からもガンジー首相へ辞職を求める声が上がる。ニュー・デリーでの大規模な辞職要求デモが行われた直後の1975年6月26日、ガンジーの命を受けて非常事態令が大統領から全土に宣言される。



この21か月の期間中、インド政府は超法規的な権力を握った。憲法が保障する人権は停止され、100,000名を超える人々が令状もなく逮捕・拘留されたのである。知識人、反対勢力のリーダー、ジャーナリストや政治活動家がその多くを占めた。逮捕は恣意的に行われ、人々は捕らわれた理由を知らされることもなく、また警察も司直に逮捕の理由を通知もしなかった。報道は厳しく検閲を受け、新聞も逮捕者の氏名を掲載することを止められた。牢獄の中では拷問や殺人が発生した。政治犯ばかりでなく、密輸業者、買占め業者やブラックマーケットの住人といった「性悪」や「反社会的」分子も拘留された。インディラ・ガンジーの息子サンジャイは、貧困階級の数百万人の男女への去勢不妊手術の強制を旨とする人口統制政策を管理し、同時に都市「美化」計画も開始し、貧民窟を取り壊し、スラムを一掃することで数千人の人々を都市から放逐したのである。

権威が増すにつれ、ガンジーは自身をインドの救世主であるかに演じ、自らの行いを正当化しようとした。この期間、彼女は20項目の経済計画をその過去に例をみない強権を以て実行に移した。農地改革、小作人への住居提供、年季奉公の禁止、地方負債の清算、物価安、農業賃金値上げ、生産と雇用の増大、市街地の整備、脱税取締、密輸品押収、教科書無償化などである。ガンジーは民主主義を軌道にのせるためには「ショック療法」も必要として非常事態令を宣言したのであった。このように彼女は異議を鎮めることに成功し、次第にその政治的立ち位置に鈍感になっていったのだろう、楽観視していた1977年3月の総選挙で、彼女とその国民会議派は大敗を喫する。野党連合は議会の542議席中、330を奪取した。新政府発足とともに、非常事態令は取り下げられた。

この時期の映画制作は途方もない不確かさと不安定さに苛まれていた。1973年に生フィルムが調達難となる。これは政府が輸入生フィルムに250%もの輸入税を課した為であった。生フィルムの輸入量は政府の規制によって1961年からすでに減少の一途を辿っていた。1974-75年の業界誌は生フィルム調達危機と映画制作への影響についての記事で埋め尽くされている。特に、新作映画への影響についてである。1974年8月、情報放送大臣は映画産業のリーダー達に対し、米イーストマン・コダック社がインド国内での生フィルム製造に公正な提案を示さない限り、同社のカラーポジフィルムは輸出用途のプリント以外は国内で用いることができなくなるだろうと述べた。このコダックのポジフィルムに対する禁止令は翌月には緩和され、1975年3月までコダックの生フィルムの輸入許可を認めることになったものの、生フィルムの割り当てをめぐって映画プロデューサー達は関係機関に申請をしなければならなかった。役所仕事的対応の為、実際に許可を得るのは難しく、彼らはブラックマーケットに足を運ぶことになった。このような生フィルム調達危機に加えて、政府が銀行やその他の主要産業を国有化してきた経緯から映画の制作供給も国有化するかもしれないと噂され、映画産業業界は懸念を深めていく。しかし、こればかりは杞憂だった。

ヒンディ語映画で最も顕著な変化の一つがこの激動の時代にもたらされる。1973年、ある映画が興業的に大成功を収めた。それは警官を主人公(Amitabh Bachchanアミターブ・バッチャンが演じた)とする映画「Zanjeer(鎖)」である。


("Zanjeer"から、Amitabh Bachchan, Jaya Bachchan, Pran, Ajit, Bindu 他出演)

その映画の中で主人公の警官はアウトローとして描かれ、この「怒れる若者」像はそれまでのヒンディ語映画のヒーロー像を全く変えてしまったのである。この映画「Zanjeer(鎖)」の成功がとりわけ目を惹いたのも、当時はラジェッシュ・カンナ(Rajesh Khanna)がその人物像、すなわち、暴力やアクションシーンを排したミュージカル・ロマンスでの柔和で傷つき易い、中流階級風のキャラクターを演じて成功を収め、スーパースターとして全盛を迎えた時期だからである。


(1973年、ラジェッシュとシャルミラのゴールデンコンビによる "Raja Rani"・個人的には"Zanjeer"よりもこの映画の方が好きだ。)

不平を持ち、シニカルであり、暴力的な都会の労働者や人夫が、アミターブ・バッチャン(Amitabh Bachchan)によって膾炙されたヒーロー像である。この時期の映画は目だって暴力的になり、その描かれる対象も家族や内々のコミュニティから、国家、社会および都会の巷での人間関係にシフトし、国家は、犯罪、失業や貧困といった問題を解決するに非効率な存在としてしばしば描かれるようになった。この時期の映画では、正義をもたらすべき法の無力が、自警団の正義と対比して描かれるようになる。この時代の映画の悪人は、富裕で尊敬されるビジネスマンを装う密輸業者やブラックマーケットの住人たちが主であったが、1980年代迄にその悪人の座は、堕落した政治家が取って代わり、警察が国家で唯一まともな存在として描かれるようになる。

1960年代に始まり、1970年代に強まり1980年代まで続いたもう一つの主たるストーリーの傾向は「ロスト・アンド・ファウンド」というジャンルである。ここで描かれる対象は核家族(夫婦と子どもだけの家族)や兄弟といった単位で、悪人の仕業によって心に傷を負ったまま子どもがその親やその兄・弟と離ればなれとなる展開である(ロスト)。そして彼らが大人になって、その別離をもたらした人々や事情を克服し家族が再会を果たす(ファウンド)という展開である。


(1968年の"Sapno Ka Saudagar(夢の商人)", タミル語映画出身のHema Malini (ヘマ・マリニ)のヒンディ語映画デビュー作にして、偉大なラージ・カプール(Raji Kapoor)と共演。ヘマはすでに大スター「ドリームガール」の予感を漂わせる演技。富裕な家の赤ん坊と貧しい家の赤ん坊が取り替えられたことによって物語が始まっている。)

この特別なジャンルは時代を通してポピュラーであり続け、家族の心の別れはわずか30年前に体験した分断(印パ戦争)のトラウマを彷彿させるものであった。それは、数千の家族が離ればなれになり、その大半が再会を果たすことができないという原体験である。家族や血族関係を強調して描くことは、この時代まで数十年を通してヒンディ語映画のストーリーでは顕著な特徴であり続けていた。ヒンディ語映画で描かれる倫理的な板挟みや衝突の場面の殆どは家族関係で描かれてきた。しかし、この家族の描かれ方ががらりと変わるのは1990年代である。

(つづく)

posted by ihagee at 18:24| インド映画

2017年02月24日

インド映画考 – その4(ヒンディ語映画・第一の時代(1950-1960s)「黄金時代」)


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我々も最近は耳にすることがある「ボリウッド(Bollywood)」。
この冗談まじりの英語風の呼び方が最初にインドのメディアに登場したのは1970年代の終わり頃。

ヒンディ語映画の制作拠点がボンベイ(現在のムンバイ)にあり、単にハリウッドにかこつけた呼び方であって、ハリウッド映画とは審美的にも文化的にも元々は別個の存在だった(近年はそうでもない)。そして、ボンベイの映画産業は二つの対立する概念を構築・定義する上で重要な役割を果たしてきた。即ち、伝統/近代、グローバル/ローカル、西洋/東洋が対立する概念であって、文化、国家、インド人などがそのカテゴリーである。

ボンベイの映画産業については誤った事実が語られることが多い。年間800から1000本の映画作品が制作されていると喧伝されることもその一つで、実際は年間で150から200本程度で、長編映画はインド国内のおよそ20言語向けに制作されるため、その裾野までの映画産業規模でいえば世界一というのが事実のようだ。

ヒンディ語映画の全体の20%が国内外に流通し、それらが広義の「インド映画」として認識されている。つまり、インド国外で「インド映画」と一般に呼ばれているのはボンベイで制作されたヒンディ語映画のことで、歌と踊り、メロドラマ、絢爛豪華、スターとスペクタクルの強調といった一般的な特徴は南インドの映画産業に共通している。しかし、ボリウッドがボリウッドたらしめているのは、興業的成功と幅広い客層へのアピールに積極的に指向している点にあるようだ。

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インドが英国から独立したのは1947年。この辺りからヒンディ語映画を年譜的に俯瞰すると以下の3つの時代分けをすることができる。
(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)

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第一の時代(1950年代を中心とするネルー主義の時代):
映画は、芸術、文芸や音楽などの文化物と同じく、社会的、文化的、歴史的そして政治的内容を含み、独立直後のヒンディ映画制作は国家建設と産業発展という複雑な課題を負っていた。これは初代首相ネルーの課題でもあり、国際社会でのインドの立場に関する彼なりの見方でもあった。

第二の時代(1970年代を中心とする国家危機の時代):
1970年代に急速に広まった社会不安・政情不安と政府への不満はインディラ・ガンジー首相が1975年に発した非常事態宣言によって頂点に達した。国家、主人公(一般にヒーローを指す)と極悪人の描かれ方がこの時代の映画はそれ以前の映画と異なる。

第三の時代(経済自由化と衛星放送の時代):
1991に始まる大規模な経済自由化は映画制作に影響した。ヒンディ教の極端な優越主義が政治の本流として現れ出したのもこの頃である。テレビジョンがなかった1950年代や限定的にしか普及していなかった1970年代はフィルム制作がメディアの覇権を握っていたが、1991年を境にしてフィルム制作のライバルはテレビジョンとなっていった。

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先ず、第一の時代(1950-1960s)について触れてみたい。

英国支配が終わるやヒンディ語映画産業は再統合された。しかし、独立国家での新たな始まりへの期待も新政府の施策によって程なく萎んでいった。

この頃の、多民族国家としての経済思想が構築したニーズの階層において、映画制作は経済活動の重要な分野であると認識されなかったからである。国民の識字率18%、平均寿命26才(当時)、食糧危機に瀕し100万人を超える難民を抱えるこの国に娯楽は必要ではなかった。急速な工業化、インフラ整備および食糧自給がこの多民族国家の喫緊の課題であったからだ。

当時、セメントや建築材不足ゆえの「不要不急な建物」というモラトリアムによって、多くの州で劇場建設に待ったがかかった。



この政策の影響は今日まで続いている。5億人の人口に比例する観客数を考慮しても、スクリーンを備えた劇場の数は今もって2万にも満たないからである。世界屈指の映画制作国でありながら、100万人当たりスクリーン数13という割合は、英国の100万人当たり30、米国の100万人当たり117(2000年時点)と比較しても非常に少ない。娯楽税など植民地政策だけでなく、独立後の新政府によって引き継がれた劇場ライセンスや検閲は相変わらず厳しかったこともその理由かもしれない。

中央政府も地方政府もそれなりに繁盛していた映画産業を財源とみなしていた。第二次世界大戦前、殆どの地方で戦時の一時的増税として12.5%だった娯楽税が、1949年には全土で25-75%の税率(平均33.5%)となった。地方自治体においても、フィルムを一カ所から他所に移動させる度に娯楽税を課した。東又は西パキスタンにフィルムを送ろうとした映画制作者は、自分のフィルムにも拘わらず、フィルムを送り返してもらうには、インド政府に法外な輸入税を払わなければならないことに気付いた。

さらに、販売税、その他の輸出税、内地関税、所得税、興業税、検閲費用などが加わり、1949年の中頃までに、映画産業の業界団体の見積もりでは興行収入の60%以上が税金の形で諸州に収められたことになっている。

検閲において映画製作者はさらなるボディブローを加えられた。独立後、検閲は緩和されるどころかより厳しくなったからである。フィルムを検閲する過程は検閲官の思惑が幅を利かせ、殆どのフィルムはそのままでは不許可とされ、審美的判断が増々行われ、見境もなくフィルムのカットが命じられた。フィルム制作者にとって恣意的且つ根拠もないと思われるようなやり方でインド映画も外国映画も検閲官は拒絶し始めた。

映画制作者は当初、このような政府の新政策に対して彼らの抱える問題や不満な点を根気よく説明し、様々な業界団体が関係機関にその旨の書簡を送ったり人を派遣したりした。しかし、これらの行動が何の結果ももたらさないと知るや、1949年6月30日を全インド・シネマ抗議日として、インド映画製作者連盟(India Motion Picture Producers Association – IMPPA)、ベンガル映画連盟(Bengal Motion Picture Association – BMPA)および南インドフィルム商工会議所(South Indian Film Chamber of Commerce - SIFCC)が結束した。実際に、映画劇場の全てが全土に亘って扉を閉めて、重税とその他の問題に抗議の意思表示をしたのである。このような結束の下に抗議を示せたことは、業界団体にとって喜ばしいことだったが、政府の方針に何ら具体的な変化をもたらすことにはならなかった。

しかし、1949年の終わりになると、中央政府はフィルム制作者と官吏から構成された映画審議会に映画制作における問題点や、税制など諸問題の検討調査を諮問した。1951年、委員会は数々の提言を伴う包括的な報告書を公表するが、政府はこの報告書を無視した。これには映画制作者は驚きを隠せなかった。報告書に記載された提言の幾つかは10年後に実施され、今も検討の俎上にある。

独立後10年は国家建設と「真のインド」文化の構築への大議論の時間に充てられた。映画音楽およびダンスは厳しい批判の対象となった。政治的リーダー、官僚、ジャーナリスト、識者および古典芸術の「認知」に関わる「関係市民」が批判する側であった。

映画音楽は西洋音楽に過度に影響されたものとみなされた。古典的なインドの作曲に必要とされる微分音(マイクロトーン)を出すことができないピアノ、オルガン、シロフォンやサキソフォンといった楽器が映画音楽で使用されているからである。


(微分音を出せる古典楽器)

インド音楽の「純粋な」伝統について国民への啓蒙は1952年7月に始まると、政府支援のラジオ網である全インドラジオ(AIR)が映画歌唱曲の放送時間を減らし始めていた。映画音楽に対して毛嫌いしていた情報・通信大臣は、歌唱曲の映画題名をアナウンスすることを止めさせた。これは宣伝に当たるからと判断した為である。歌手の名前だけが放送された。これら歌唱曲の著作権も持っていた映画製作者はAIRへの放送許諾を取消すことで抵抗し、その結果がラジオでの映画歌唱曲の突然の放送減少と、古典番組の増大(放送される全音楽の50%を占めた)となった。

ところが、ラジオ・セイロンがインドのリスニングタイムのピーク時間を狙って商用短波放送でインド映画歌唱曲を流し始めるや、AIRはインド国内のリスナーの大半を失う羽目となった。

1957年、映画製作者たちはAIRと放送許諾を更新し、再びリスナーに映画音楽を届けることができるようになったのである。

相反する文化的地位を占め、度々、国家や中流階級には浅薄だ堕落だと受け取られたこの時期の映画であるが、しかし、今日のボンベイ映画産業、インドのメディアおよび視聴者の見方では、この時期こそ、ヒンディ語映画の「黄金時代」であると賞揚されている。

創造性、オリジナリティ、人材、質、才能、真摯さおよびプロ主義において今日失われたと考えられている全てがあった「古き良き日々」であったと、現在のボンベイ映画産業はこの時期を振り返るのである。現代の映画製作者は、影響、崇拝、伝説や郷愁といった意味から無声映画時代のパールケー(映画製作者・Dadasaheb Phalke)と、インド映画の長い歴史に対して敬意を示すが、1950-60年代の映画および映画製作者こそ、現在のボンベイ映画産業の遺産であろう。

1950年代のヒンディ語映画は様々なファクターの影響を受けていた。すなわち、インド人民演劇協会(Indian People’s Theatre Association - IPTA)のような協会、第一回インド国際映画祭のようなイベント、地方から都会への大規模な移入などの現象および国家建設、経済発展や社会変革といったプロセスなどである。IPTAはインド共産党に非公式に連なる劇場運動で、1943年にボンベイで前衛的な作家、音楽家、俳優、芸術家および活動家のグループによって設立された。IPTAのマニフェストは「自由と社会正義の勇敢で新たな世界を築く役割」を唱えるもので、そのモットーは「労働者は地の塩であり、彼らの運命の一部とすべきことは我々の時代の最も偉大な冒険である」。ボンベイ映画産業からは、数多くの高名な俳優、作曲家、監督、作詞家および作家が、映画の仕事にたずさわる以前にこの運動に加わっていた。この運動から、社会で虐げられ軽視された片隅に生きる者の命と苦悩を描く観点や、資本主義の搾取的性質を指摘し、貧しさを美化肯定する傾向が生まれた。

1952年にボンベイで開催されたインド国際映画祭はハリウッドの外側の映画界へヒンディ語映画製作者を紹介する機会となった。イタリアからの大派遣団は彼らのネオレアリズムの映画作品とともにそれらの作品に表された社会経済的関係がインドと非常に似ていた為、多大なインパクトを残していった。社会派レアリズムはとても持てはやされ理想化されたが、必ずしもインドの映画産業やプレスからは審美的とは理解されなかった。この傾向は今に続いている。興業的には大して成功しなくとも、大衆映画のしきたりに従い、「良い」映画とか模範的とみなされるような設定や視覚スタイルの意味でのより「レアリスティック」さを狙った映画が作られた。


(挨拶をするネルー首相/NPL Auditorium(デリ)でのセッション)

独立後、職を求めて地方から都会に人がなだれ込んできた。都会は雇用や富や興奮と同義であるばかりでなく、搾取や犯罪や危険を孕む場所となった。映画製作者の中には、荒んだ都会生活に焦点を当て、コソ泥やその他犯罪分子に主人公を見立て都会の裏面を描いた映画を作るものもいた。そんな「犯罪スリラー」においてさえ、将来へのより良い生活の可能性について楽観的に描かれていた。この明日は晴れるだろうという理想主義や期待は一般的なセンスとしてこの時期から映画において顕著になっていった。主人公が直面する諸問題は政治的なものよりも、社会や経済的なものとして表されている。金貸し、大地主および富裕なビジネスマンは多くの映画で敵か悪党の典型として描かれ、他方、小作人、都会の労働者階級および中間の職業階級の人々はヒーローとして描かれた。国家は情け深いもの、正義の仲裁人、進歩をもたらすものとして描かれる。映画の中では、争いの元として家族とその中の力関係、世代間ギャップや伝統意識により焦点を当てるようになった。


(1955年 ”Shree 420 (詐欺師)” でのナルギス(Nargis)とラージ・カプール(Raji Kapoor)

挿入歌「オイラの靴は日本製」:
Mera Joota hai Japani​​
オイラの靴は日本製
Yeh Patloon Inglistani​​
このズボンは英国製
Sar pe lal topi rusi​
頭の赤い帽子はロシア製
Phir bhi dil hai Hindustani​
でも心はインド製



植民地支配からの独立やそれに引き続くパキスタンや中国との軍事衝突のあとだけに、「でも心はインド製」と愛国思想を盛り込んだ映画はこの時期数多く制作された。多様な民族を「インド人」という概念の下で統合させようとする、「国民統合」なる国家スローガンと同様に、この時期から映画も宗教、言語、道徳や民族の多様性よりもインド人の国家としての統一性を強調する内容となっていった。


(1955年 ”Shree 420 (詐欺師)” より)

歌やセリフやキャラクターを通じて、映画は言語や地域的なアイデンティティよりも、汎インド主義を掲げるようになる。国としてのアイデンティティを構築する上でのこの種の強調は、以後数十年続くが、その中で国家、ヒーローおよび悪者の描かれ方が顕著に変わっていった。

(つづく)

posted by ihagee at 20:13| インド映画

インド映画考 – その3(ムトゥ踊るマハラジャ)


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1980年代、コピーライターが焚き付けた「不思議、大好き」はそれまでの欧米一辺倒のカルチャー志向にゆらぎをもたらした。

久保田早紀の「異邦人」がシルクロードをイメージしたように、未知未踏のカルチャー領域がその時代の社会の刺激となりつつあった。

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Muthuという原題のタミル語映画(1995年制作)を誰がいかなる経緯で日本に持ち込んだのかは知らない。しかし、邦題を「ムトゥ踊るマハラジャ」と変え、コメディアン(ラビット関根など)、はみだし共感系メディア(ぴあ)などが「不思議、大好き」とばかりに取り上げてあっと言う間に「インド映画」ブームとなった(1998年)。



脈絡なくいきなり歌い踊るシーン、タオル一枚もヌンチャクとなるナンセンス、ド派手なアクションや、人も馬車も空を飛び歯の抜けた婆さんまでモゴモゴと歌い出すシュールさ、お決まりのスラップスティック、クジャクからゴキブリまで小道具となる背中がザワザワするような生活感、顔立ちの濃い役者たちのドロっとした血や汗や涙が綯い交ぜとなった喜怒哀楽などがカオスとなって襲ってくる・・・突っ込みどころやおバカ満載のB級映画として喧伝され、その通り観客に受容された。

「マハラジャ」はその昔のインド諸国の藩王のことであって、映画の時代設定(一応現代らしい)と何ら関係しないが、我々にはバブル絶頂期の同名のディスコ・パブのケバケバした派手さを想起させ、この邦題によってB級・色物映画という先入観を我々に植え付けることに成功したようだ。

私も渋谷のロードショーにこの映画を観に行ったが、何でも良いからワ〜と盛り上がりたいという欲求が上演前から高まり、その熱気たるや凄かった。普段は「静粛にご観賞を」と言う映画館もこの時ばかりは「上映中の歓声や拍手はご自由に」と無礼講を許していたような気がする。助演のミーナさんも急遽来日しカーテンコールに応えたらしいが、降って湧いたブームに困惑していたようである。

この映画でスーパースター=ラジニカーント(Rajini Kanth)は日本のファンを獲得し「インド映画」=「ムトゥ踊るマハラジャ」=ラジニという固定観念が一般に出来上がった。

それと前後する頃、ヒンディ語映画(ボリウッド)の大スター、シュリデヴィ(Sridevi)さんがファンの招きで来日したそうだ。彼女の代表作(例えばNagina)が上映されることもなく、またその来日がメディアに取り上げられることもなく少し寂しい歓迎ぶりだったようだ。


(Sridevi主演Naginaより)

固定観念に捉われ易い国民性ゆえか現在に至るまでも劇場でたまに消費される「インド映画」は突っ込みどころやおバカ満載の「マハラジャ映画」という最初の通り相場のままである。それも食傷気味となってきたのかこの手の「インド映画」はここ数年尻つぼみである。

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歌も踊りもない映画、歌よりも詩に重きを置く映画、踊り子(娼婦)や生き別れの兄弟を中心に社会の不条理を告発する映画、庶民の日常を淡々と描く映画、多宗教間の寛容・和解を説く映画、西欧社会との価値観の違いを描いた映画等々、「マハラジャ映画」などと宣伝広告的に括り上げられたワンパターンとは無縁の広大な領域がタミル語映画にもヒンディ語映画にもそれぞれあるのに我々はそれらを知らない。

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ヒンディ語映画を中心に、年譜的にその領域を綴ってみたいと思う。

(つづく)

posted by ihagee at 03:25| インド映画