2017年03月13日

インド映画考 – その8(ヒンディ語映画・”ナレーション“)


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前回、「音楽決め」の一連のミーティングは<口頭>で行われ、音楽監督ですら五線紙に書いて示すようなことはせず、オルガンを弾きながら口で指示し、そのメロディーを聴きながら編曲者はインドの伝統的な採譜法で綴られた音符やコードを西欧の採譜法による楽譜に翻訳する、というようなことを書いた。

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「音楽決め」に限らず、「口頭」作業はヒンディ語映画制作において重要な特徴となっている。

つまり、人(仲介者)や書き物を介するよりも関係者が直接面と向かって口頭でディスカッションすることが専らで、たとえば、映画プロデューサーが自分の映画に特定のスターを出したいと思えば、そのスターのエージェントを介するよりも直接本人とコンタクトを取ることが慣習である。実際、ボンベイの映画産業には、西欧の同業界のエージェントと同じ意味のエージェントは存在しない。ヒンディ語映画スターたちは各人「セクレタリー」を名乗る人々を抱えており、このセクレタリーがスターの仕事のスケジュールを管理している。この業界である権力の地位に達した一握りのセクレタリーがスターたちとのコネクションを利用してプロデューサーになっていくのである。しかし大部分のセクレタリーはプロデューサーとスターとの間でネゴシエーションを行うとともに、メディアや他の力の弱いセクレタリーとの渉外的役割を果たす。しかし、プロデューサーや監督にとって、彼らとネゴや相談をせざるを得ないことは侮辱や無礼を受けることに他ならないので、プロデューサーは自らのステータスと力を誇示できるような場所でスターと直接会うことが普通である。プロデューサーがスターの家まで赴いて会う場合は、スターの方が力関係は上という証でもある。逆にスターがプロデューサーのオフィスや自宅に呼び出される場合は、プロデューサーの方が力関係は上ということになる。また、映画の撮影に入ると、セットの中ではプロデューサーは頻繁にスターと面と向かって話をすることになる。これはセット外では上述のような力関係が作用するが、セットの中は中立的空間と見なされているからでもある(メーキャップ・ルームは除く)。この個人的な交わり方から、「口頭」作業は高度な慣行に発展していったようだ。ここでは、言葉の上での互いの同意が契約と同義となっている(これは映画産業に限らず、インドの商慣習でもある)。たとえば、プロデューサーがスターと映画のプロジェクトについてディスカッションし、スターがその後も現場に残っていればそのスターは何も言わなかったとみなして間違いない、といった具合である。

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映画の主要なキャストとクルーの間では台本とは通常「口述」されたものであり、テレビのインタビューで、業界の関係者が「台本を耳にして」(台本を目にしてではなく)、どうするか決めた、などと語る場面をよく見かけるが、台本そのものも「口頭」作業である。台本を読むのではなく、制作チームの主要メンバーが集って脚本家や監督から映画のストーリーを聞くこの一連の作業は業界では「ナレーション(口伝)」と呼ばれ、撮影に入る前段階(pre-production)作業を通して行われる。脚本が固まるまで、都度30分から数時間かけてナレーションが続くことになる。ナレーションそれ自体はスキルと考えられ、そのナレーション作業のスキルにおいて傑出した監督や脚本家が存在する。ナレーションの重要性が言われるのは、キャスティング前の台本がしばしば不完全であることに起因している。脚本が完成しても、脚本家はそれをキャストやクルーの集団に向かって大声で読み上げるのが通常である。

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脚本のナレーションはヒンディ語またはHinglishで行われる一方(Hinglishとは、ヒンディ語と英語が混ざったもので、都会のエリートたちの間で流行)、多くの脚本家は台本を先ずは英語で書き、セリフ部分をヒンディ語に翻訳するか、言語により堪能なセリフ書きと協働して仕上げる。シナリオ上のト書き、たとえば、ロケーション、時刻、情景描写やカメラワークは、英語で常に行われる。制作現場で英語が用いられるのも、ボンベイの映画産業の都会的性質の証とも言える。すなわち、ここに集まる人々はインドとはいっても互いに異なる言語圏出身者であり、必ずしもヒンディ語を母語としないという言語の多様性から、英語が共通語(lingua-franca)として用いられるからである。学校教育で英語による授業が行われるボンベイのような主要都市に住む中流クラス以上のインド人にとって英語は共通語なのである。結果として、映画の言語はヒンディ語であろうとも、映画はインドの主たる言語全てを含むマルチリンガルでリリースされ、英語はその一つとなる。脚本家の英語への依存は近頃の傾向であり、彼らのバックグラウンドの英語へのシフトの兆候でもある。ヒンディ語映画の最初の数十年、脚本家はヒンディ語又はウルドゥ語の詩人、劇作家又は小説家で、彼らが当時の映画産業で脚本面に貢献したのであるが、今日では脚本家の大多数はそのような文学的バックグラウンドを持たず、映画産業バックグラウンドと同様、広範なプロ領域の出身となっている。上述の通り、書くことは、フィルム制作における分業の僅かばかり特化した一面なので、台本作成に当たっては様々な人々が手書きでその作業に貢献している。

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監督、主演俳優、音楽監督や脚本家といった基本的なキャストとクルーをプロデューサーが決定すると、業界やメディアに対してmuhuratによってアナウンスする。Muhuratとは何か新しい事を始めるに当たって占星術の計算によって吉兆とみなされた特定の日時を意味する。この儀式は映画の撮影が始まる数か月前に行われ、スタジオ又はその他の制作現場での簡単なセレモニーから、高級ホテルでの派手なイベントに至るまで多種多様な形で行われるものである。このmuhuratの主だった特徴の一つが撮影過程の実演で、ここではその映画の主演俳優がカメラや観客の前で短いシーンを演じるのが通例である。このシーンはその場の為に特別に書かれたものであって、撮影されたシーンが映画に使われることはない。この時点では台本はまだ上梓されておらず、映画はアイディアの域に留まっており、映画に魂を入れることがこのイベントの目的の一つである。このイベントの儀式的性格を際立たせる別の面としては、「(カメラ)スタート!」の掛け声の前にヤシの実を割ったり、カメラに向かってarati(オイルランプや樟脳の焔をグルグルと振りかざす)を行うなど、ヒンディ教の礼拝儀式に由来する特徴が組み込まれていることである。


(muhuratにおけるヤシの実割り)

ヤシの実を毎日割って、その日の最初の撮影の後にそのかけらを配るようなこともクランクイン後のその他の一般的な儀式である。このように宗教行事との準信仰的関係はインドでは一般的で、古典音楽の奏者とその楽器、ダンサーとそのアンクル・ベル等の関係からもわかる通りである。

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当初はプロジェクトの財源ねん出のためプロデューサーの宣伝のためのmuhuratであったが、そこで映画の頒布権が売り出され始めると、やがて、配給会社への「パッケージ」の販売になっていった。この「パッケージ」とは、そのプロジェクトに雇われた監督、男性スターや音楽監督などを最小限含むもので、過去の実績やキーパーソンを含む売り物であれば、プロデューサーはmuhuratの行われた日に「完売」と宣言することも有り得る。新聞、映画雑誌やテレビ番組でも取り上げられるmuhuratであるが、視聴者に向けの重要な宣伝方法ではない。幾つかの例外はあるが、muhuratから実際にその映画が劇場で封切となるまで通常数年を要し、それ以上年数を擁する場合もある。このようにヒンディ語映画では、大々的に宣伝される映画は特に、muhuratを経ないで映画制作にとりかかることはないことが一般的な特徴である。

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撮影に入る前段階(pre-production)はこのように対人的共同的作業である。台本を書いたり音楽を作曲したりといった作業は、一人だけで行われることは滅多にない。二人以上のチームを組んで、映画の各場面で監督がしっかりと関わることが常である。監督と主要メンバーとの間のブレインストーミングやディスカッションのセッションに多くの時間が費やされ、その中から台本や音楽が仕上げられていくのである。これらのセッションはこの業界の符丁として「ストーリー決め」とか「音楽決め」と呼ばれる。この段階を通じて台本の観点では脚本とセリフの、音楽の観点ではメロディと詞の、その他の細々とした点では撮影場所、セット、小道具や衣装の詰めが行われる。残りのキャスティングもこの段階で最終的に決定される。ヒンディ語映画制作者はストーリーボード(作業の順番に示すボード)で仕事をすることは滅多にないので、セットが組み上がり撮影が開始されるまでは、ライティング、ブロッキング(俳優に正確な動きやポジショニングを指示すること)やカメラの設置やカメラワークは行われない。監督がストーリーボードに拠らず、カメラアングルや動きに応じて、映画のフレーム上の動きを口頭で指示するが、あたかも監督の頭の中でフィルムが回っているかのように各シーンを心の中で描くことができるのである。

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次回は、歌の重要な要素であるダビング(プレイバックシンギング含む)ついて触れたいと思う。

(つづく)

posted by ihagee at 16:53| インド映画

2017年03月06日

インド映画考 – その7(ヒンディ語映画・音楽の意味)


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1931年にトーキー映画が始まって以来、音楽は重要な役目を果たし、映画と音楽はインドでは密接に関連し合っている。古典的なサンスクリット・ドラマ、村芝居やパーシ劇はどれも音楽、歌、および踊りが密接に演技と融合していることからも、音楽の中心的な役割はその昔の伝統的な芝居に起源があり、映画にも影響したと考えられる。そして、インドで人気の映画に共通する最も明確な特徴は主人公たちが歌う形式で音楽の場面があることだろう。1980年代の初め頃までは、映画の中の歌が大衆に膾炙したインドでの唯一のポピュラー音楽であり、現在でもインド国内の音楽の8割方は映画音楽で占められている。インドでミュージックストアに足を踏み入れると、唖然とするほどの数の映画音楽のセレクションを目にするだろう。それらは映画のタイトル、音楽監督、歌い手、俳優、映画監督、時代やテーマ毎に今流行のリミックス物とともに、分けられてパッケージ化されている。

インドを訪れた者なら至る所で映画音楽の洗礼を受けることになる。映画の中の歌は婚礼の行列、選挙運動や宗教行事の一部となって、喫茶店の中ではカセットプレーヤーから、タクシーやオートリキシャではスピーカーから大音量で流れ出ている。ラジオで人気がある番組は最新から「古典」までカウントダウン形式の映画音楽のヒットパレードで、若い世代も古い時代の歌に馴染むきっかけとなっている。耳だけでなく、ビジュアルでも映画をベースにしたテレビ番組として映画音楽は消費されており、1992年に衛星放送が始まるとその新たな媒体に映画音楽は乗るようになった。公開予定の新作映画の宣伝には歌の場面をスマートにモンタージュしたものが使われるようになる。テレビでは、映画音楽中の歌の題名を当てるクイズや、歌手の人材発掘などの視聴者参加型番組が多くなっている。映画音楽の中の歌が国中で論争が招き、議会沙汰になることもある。1993年、映画”Khalnayak”中のヒットソング “Choli ke peeche kya hai?” (あたしのブラウスの下には何があると思う?]は、その「卑猥な」歌詞に反対する意見が沸き起こり、国会議員までもが非難したが、それが却ってその歌と映画もさらに一層流行らせる結果となったのは当然のことかもしれない。政治的スローガンを人気のある映画の中の歌に被せた音楽カセットを政党が選挙期間中に配り出したのもこの頃からである。


("Choli Ke Peeche Kya Hai"「あたしのブラウスの下には何があると思う?」)

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上述のとおり、音楽がインドにおいて映画の一つのカテゴリーであり、歌の有無は映画を区別する手段でもある。すなわち、「芸術」映画はたいてい歌がなく、「中級クラスの映画」は歌のある芸術映画を意味し、その他の「商業(娯楽)」映画は例外なく歌があるものといった具合である。音楽の中でも歌は映画の典型的な「商業的」要素と認識されている。歌を集客手段として扱う本流の外側の映画制作者たちは、その大衆の嗜好に迎合する点が新聞で非難されることもある。歌ばかりで構成することは「ひどい映画」の典型でもあり、スクリプトや知的筋書きに従う「良い映画」を邪魔するものであるという見方もある。

歌ばかりの構成はストーリーの継続性や迫真性を途切れさせるもの、というのが人気のあるヒンディ語映画に否定的な人々の認識だが、他方、それを異質の特徴と言うよりも、人気のある映画でストーリーの展開を決めたり進めたりする役割があると肯定的な見方もある。もし歌を取り去ったら、多くの映画はストーリーの一貫性を欠くことになるかもしれない。人気のある映画をオペラに喩え、そこではドラマティックな場面は「全ての動作が止まり、歌がそれに代わって、あらゆる感情の陰影をセリフやジェスチャーよりも効果的に表す場面であることが多い」と指摘する映画専門家も多い。ヒンディ語映画制作者たちは映画のストーリーの範囲で歌の構成に多くの機能を持たせるとともに映画でしか表現できないシーンの主たる要素をいかにそれらに持たせるかについて、長い間、情熱をかけて取り組んできたのである。

歌を作り上げる過程は極めて共同的であり堅苦しいものではない。最初の段階は「ストーリー決め」で、ここで映画の脚本は「歌の場面」とともに案出される。つまり、脚本の中で歌が登場するポイントを決める。脚本家がこれらの場面を映画監督とともに創作し、映画監督はその「場面」を音楽監督や作詞家に説明する。いかに歌の場面を脚本に融合させるかに、脚本家や映画監督は技量を試されることになるのである。いい加減に歌がストーリーに合わさっていたり、どこともなく浮き上がったりしたヒンディ語映画の例は枚挙にいとまがないが、そのような一体化の欠如は「だらしない」とか「眠たい」とか単にひどい映画の出来だと言われる。

脚本中の歌の主たる機能の一つは感情の表出にある。ヒンディ語映画の場合、それは圧倒的に色恋に関連する。恋やロマンスは音楽で表現することが最適だというのがこの業界の常識でもある。話の筋の上で恋物語に主たる焦点がない映画では、男声と女声のデュエットによって「ロマンティック・トラック」が最初に展開される。恋に落ちるよりもむしろ結婚を阻むものを克服することに焦点がおかれたラブストーリーでさえ、歌は会話のシーン以上に二人の間で展開するロマンスを描くのにより効果を発揮する。たとえば、恋に落ちていく場面全体では、最初の出会いから恋心を互いに抱きあうまでは、4から5つの歌の場面か、30分程の時間を使って描かれる。

ファンタジー、望み、および情熱への導入として歌が用いられることもある。雨の中で主人公たちが歌い踊るシーンはお決まりの表現の一つだが、インドの神話、古典音楽や文学では雨は繁殖と再生に関連し、エロティックで官能的な意味をいつも帯びている。インドの古典音楽にはモンスーンの雨が来そうだということが愛する人が現れそうだということに結びついた歌が数多くある。


(1955年 ”Shree 420 (詐欺師)” から雨のシーン。ナルギス(Nargis)とラージ・カプール(Raji Kapoor))

濡れたサリーが体に纏わりつくといったエロティックなシーンは多くの映画で使われてきたもので、映画制作者が観客の保守的な倫理観と検閲コードでの表現の限界の両方を見据え、露骨な描写を避けつつ、性的な肉体的密接を暗喩する絶妙な手法とも言える。


(1978年制作 "Satyam Shivam Sundaram"からズィーナト・アマーン(Zeenat Aman)の検閲コードすれすれの水浴シーン。尚、監督はラージ・カプール(Raji Kapoor))

内的な感情や肉体的接触の暗喩を表現することに加えて、時の経過や記憶を呼び起こす場面に、歌が頻繁に使われている。歌の中で子どもは大人に成長したり、主人公を過去に引き戻したりする。主役が登場する場面を特徴付けるためとか、直接言葉に出すのが相応しくないような想いを間接的に表出するために、歌が用いられる。たとえば、人妻を愛している男が彼女と何も知らない亭主を前にして、彼女に亭主と別れることを促すことも歌なら可能である。


(1968年制作 "Diwana"から、Saira Banu(サイラ・バヌー)とラージ・カプール(Raji Kapoor)。もちろん、プラトニックな愛の告白。)

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歌の場面が決まると、監督は音楽監督(この業界では作曲家をそう呼ぶ)、作詞家と共同で歌作りに取り掛かる。

以前は、脚本が要求するセンチメントやムードを表すのに必要な詞を作詞家が先ずは書いて、音楽監督がその作詞に見合うメロディを見つけて音楽を載せるのが普通であったが、今では作詞よりも前に基本的なメロディは作曲が済んでいて、音楽監督が予め組み上げたメロディ構造に合わせて、作詞家が詞を書くという順番になっている。作曲・作詞が完了すると、「音楽決め」の一連のミーティングが音楽監督、映画監督、プロデューサー、およびアシスタントの間で行われ、音楽監督はレコーディングに先だって、編曲者と歌の間の間奏部分やインストルメントなどを決める作業に入る。レコーディングに入っても、映画監督やその場に居合わせた者の提案に応じて変更されることも常である。それらは口頭で行われ、音楽監督ですら五線紙に書いて示すようなことはせず、オルガンを弾きながら口で指示し、そのメロディを聴きながら編曲者はインドの伝統的な採譜法で綴られた音符やコードを西欧の採譜法による楽譜に翻訳する。

歌が録音されると、映画監督はダンスの振り付け師との仕事に入る。撮影技師とともにダンスのコンセプトを決め、振り付けを行い、そのシーンを撮影する。


(1971年制作 "Main Sundar Hoon"の冒頭シーン。プレバイックシンガーのキショール・クマール (Kisore Kumar)本人が登場。)

「映画化」と呼ばれるこのプロセスは撮影が済むまでに3日から3週間程度を要する。この時間はダンサーの数や、振り付けや撮影の手の込み方、そしてセットや撮影場所、衣装の変更回数に比例している。

ヒンディ語映画のこのダンスシーンを伴う歌の場面は、インドのメディアで、しばしば「木の周りをぐるぐる走り回る」と皮肉っぽく言われることがある。これは、映画の設定とは無関係な庭園、草原や森といった美しい景色の中でカップルが突然歌い出すようなラブソングを指すもので、しばしば、頻繁な衣装替えやバックダンサーを伴うものである。


(1984年制作 "Tohfa"から。珍しく森林でも田園でもない設定。シュリデヴィ(Sridevi)とジーテンドラ(Jeedendra)のキッチュな踊り。)

森林や田園風景が好まれるのは、それは未だプレイバックシンガーやアフレコ(dubbing)の技術がなかったトーキー時代の初めの頃の事情、つまり、撮影と同時に音録をする場合、ミュージシャンやマイクを隠すのに草むらや木陰を用いるのが最も簡単な方法であったという事情に由来している。

歌があるため、一般的なインド映画は西欧の映画よりも長尺となり易い。ヒンディ語映画では2時間半から3時間の長さの映画の中で40分以上は歌のシーンで占められている。どの映画も休憩時間を挟んで前後編と二部に分かれ、前篇で登場人物やそれぞれの役どころを描くと共に、後編よりも多くの歌が含まれるのが通常である。歌のほとんどが、リフレインを伴う3から4の詞と6拍子か8拍子のメロディ、歌の間の間奏部からなる。インストルメントは二つ三つの楽器から100人編成のオーケストラまで多様である。一つの歌の長さは3分から12分程度で、長くなればなるほど映画の中では凝った見せ場ともなる。

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インドで人気を博する映画のほとんどが歌を含むものであるが、映画音楽それ自体にジャンル的特徴はなく、映画のジャンルで括られるものである。ほとんどのインド映画は西欧の映画ジャンル、たとえば、「ミュージカル」「コメディ」「ドラマ」「アクション」や「ラブストーリー」のいずれかで分類できるようなものではない。なぜなら、それらすべての要素を含むからである。したがって、あえてジャンルを問うのなら、それはストーリーを展開するに主となり前景となる要素についてであろう。アクションやリベンジを強調する映画が優勢だった1970年代の中頃、一本の映画で歌の数はたった3曲か4曲に減っていった。一本当たり7から10曲の歌があったそれまで数十年間の映画と比べれば違いは明瞭である。1980年代終わり頃からロマンス映画が成功するにつれ、歌数は平均して6から7曲に増えている。今日、映画で歌数が決まる要素の一つに、オーディオメーカーからのプレッシャーが挙げられる。すなわち、片面で3曲収録可能なカセットテープを製造販売している都合、5曲以上、できれば6曲は映画の中に入れて欲しいというメーカー側からの要望である。

歌場面がなく人気を博したヒンディ語映画の例はほんの僅かに過ぎない。歌のない映画はボンベイの映画産業の主流からは外れたもので、たとえ「芸術映画」であっても、この業界では興行的に死を意味するものである。資金面、配給面や上映面で恵まれたいと望むのであれば、歌は映画において必須の要素となる。

音楽会社HMVが独占していた音楽市場に新規オーディオメーカーが参入し始めた1990年代初め頃から、音楽はボンベイ映画産業の中で経済的に重要性を増し、音楽著作権から得る収入は映画制作の為の資金源となってきた。ヒットしたヒンディ語映画の音楽アルバムがミリオンセラーを記録し始めると、オーディオメーカーが競って映画制作予算の25%もの額を出すようになったからである。映画音楽のマーケティングやセールスで成功を収めたVenusやTipsといった会社が映画制作の部門にも進出し始め、当然のことながら、歌のシーンに注力を傾けた。

テレビジョンにおいて、歌は映画のパブリシティの最も重要な形式となり、映画が撮影される前に歌が録音され、歌の幾つかのシーンが映画制作段階の初めに撮影されて、配給会社への映画の販促に用いられた。映画音楽はプロデューサーやオーディオメーカーによって慎重にオーケストレーションされリリースされている。映画がまだ完成していない段階から、完成の数か月前であっても、歌のシーンはテレビの数多くの映画関連番組や番組間のコマーシャルで放映され始める。このように映画音楽は映画の封切りの少なくとも2か月以上前には市場にリリースされているのである。この「オーディオ・リリース」に先立って、プロデューサーやオーディオメーカーが社交界の裕福な人々や配給会社や上映会社のお偉方、音楽卸売業者やジャーリストを招いてイベントを行い、音楽シーンのクリップを上映し、このイベントの主賓として招かれた産業界の重鎮が公式にオーディオカセットを「リリース」し、カセットを開梱し、その音楽シーンに関わった主要なメンバーや俳優に手渡すといったパフォーマンスを行うのである。その間の一部始終は写真やテレビを媒体として報道されることになっている。このイベントは表向き、業界向けだが、映画を一般公衆に広めるにも一役買っている。特に有名な映画俳優が登場するとなればメディアも盛大に取り上げるからである。マーケットリサーチが滅多に行われない環境では、映画の封切の前に30-40%の売り上げを上げることもある音楽セールスが映画制作者にとっては、映画への庶民の関心の高さを測る唯一のバロメータでもある。

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1990年代の終わり頃までテレビでは映画の中の歌を集めた番組が急増していったがそれに伴い映画プロデューサー、配給者、および上映者(映画館)は観客を映画館に足を運ばせる手段としての歌に期待を寄せ、プロデューサーたちはそれら歌のビジュアル化に法外なほどカネをつぎ込んでいた。映画のテーマや脚本の筋とは関係なく、多くの映画では豪華なセット、スペクタクルな衣装、数百人のエキストラとダンサーたち、および特殊効果をてんこ盛りにしたため、制作費用は数百万ルピー(1作当たり)に膨れ上がった。「アイテム」ナンバーと呼ばれるこれらの場面は映画に「リピート価値」を与えるもので、同じ映画をみたいと観客に一度だけでなく何度も映画館に足を運ばせるだけのクオリティーを意味し、映画を興業的にヒットさせる鍵であることを映画業界関係者は経験的に知っているからである。最も興業的に成功したヒンディ語映画とは、10回、20回、50回、ときには100回も映画館で同じ映画を観賞するリピーターを呼ぶ映画でもある。著名な現代画家のM.F. Husain氏は14曲の歌場面のある1994年に大ヒットした”Hum Aapke Hain Koun!”(”HAHK”)を85回も観賞したそうだ。


(1994年制作”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)からマードゥリー・ディークシト(Madhuri Dixit)とサルマン・カーン(Salman Khan))


このように、歌は映画のリピート価値において重要な要素を占めている。1993年制作”Khalnayak” (主演:サンジャイ・ダット(Sanjay Dutt))の封切り直後に何回観客はその映画をみたのかについて新聞紙面に記事が掲載されたが、その映画のメイン・アイテムナンバーである”Choli ke peecke kya hai?“のシーンまでが「リピート価値」という内容であった。

歌のシーンを「エキゾチック」な場所で撮影することは、「リピート価値」を高めるための一要件である。たとえば、欧州、北米やオーストラリアといった場所である。特に、牧草地など田園風景、渓谷や山々といった景観を擁するスイスはヒンディ語映画制作者たちにとって長年の憧れの地であった。


(1970年制作 "Prem Pujari"から。スイスが舞台。デーヴ・アーナンド(Dev Anand)とワヒーダ・レーマン(Waheeda Lehman)のゴールデンコンビ。)

また映画制作者は過去に映画に登場していないロケーションを常に世界中に探し、歌のシーンを撮影して回った。ハンガリー、メキシコ、ニュージーランド、ノルウェイ、スコットランドや南アフリカなどである。いくつかの歌は表向き主人公たちがそれらの場所を訪れたという外国のセッティングであるが、それら外国のロケーションのほとんどは脚本の筋とは何の関係もなかった。映画プロデューサー兼監督であった、ヤシュ・チョプラ(Yash Chopra)氏が、彼の1981年制作映画”Silsila”の中の二つのラブソングをチューリップ畑の真ん中で撮影するためだけの目的でロケをオランダで挙行したのは有名な話である。


(1981年制作 ”Silsila”からオランダのチューリップ畑でのレカー(Rekha)。)

1998年の映画 “Jeans“に至っては、その映画の中の「世界の七不思議」をフィーチャーした歌の通り歌のシーンの撮影が行われた。男女が互いにラブソングを歌い合うシーンは、万里の長城(中国)、ピラミッド(エジプト)、タージマハール(インド)、エッフェルタワー(パリ)、エンパイア・ステートビルディング(ニューヨーク)、ピサの斜塔とコロッセウム(ローマ)で撮影されたが、このような「エキゾチック」な場所での撮影が、映画の主たるマーケティングポイントである。


(1998年制作 “Jeans“から「世界の七不思議」のソングシーケンス)

映画制作者たちが世界を股にかけて歌のシーンを撮影することで、歌は同時にバーチャルな世界旅行を観客に提供することにもなる。ヒンディ語映画が世界的に配給されるようになると、諸外国の政府はボンベイの映画制作者たちにロケ先として申し出るようになった。観光や投資が目的であることは言うまでもない。ロケ地として使われ過ぎて食傷気味のスイスに代わって、映画制作者たちは新たな場所を探し始めたが、スイス政府は彼らに戻ってくるように熱心に働きかけているようだ。

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外国でロケを行えば費用が嵩むと思うかもしれない。しかし、ボンベイの映画制作者たちは外国ロケの方がより費用効果的となる方法を知っていた。それは、最小限のキャスト、クルー、および資材だけでロケ隊を構成し、現地では各撮影日を最大活用すれば費用効果を高めることが可能だからである。夏場は気温や昼間の長さを考慮して欧州や北米にロケに行く傾向がある。人工の光よりも自然光、セットよりも実在する街並みや景色を用いることで、歌のシーンの撮影にかかる時間を半減させることもできる。映画制作者たちが外国ロケを好むもう一つの理由に、やじ馬で撮影が始終邪魔されるボンベイとは異なり、外国の地では俳優たちにより完全な撮影への集中を約束することができるという点がある。また、インド国内ではカットすることができないスターに関連する諸費用を外国ロケでは節減できる点も挙げられる。たとえば、インド国内で撮影する場合、プロデューサーはスターたちの付き人(メーキャップ・アーティスト、ヘア・ドレッサー、ドライバー、パーソナル・アシスタントや友人たち)の勘定もしばしば受け持たなくてはならなかったが、最少人数(スターだけ、または若干名の付き人を付けて)で挙行する外国ロケではプロデューサーはこの慣行に従わなくて済んだからである。インド国内のロケではスターたちはそのステータスから5つ星ホテルに部屋を要求するが、外国ロケの場合は、プロデューサーは予算を重視することができるので、スターたちも手ごろな宿泊設備で間に合わせざるを得ないことになる。外国ロケではそれでもかなりの出費となるが、美的・経済的な理由からヒンディ語映画制作者たちは外国でのロケに利点を見出しているようである。


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日本でロケを行ったインド映画はその「エキゾチック」性ゆえ、インド国内でもヒットした。その例として、タミル語映画(1973年制作”Ulagam Sutrum Valiban” 「世界を旅するヤングスター」・主演MGR)、ヒンディ語映画(1966年制作”Love in Tokyo“/主演:Joy Mukerji(ジョーイ・ムカルジー))、同じくヒンディ語映画(1967年制作 “Aman”/主演: Rajendra Kumar(ラジェンドラ・クマール))が挙げられる。それらの映画の背景には当時高度成長期の只中にあった日本の原風景が映りこんでいることにも興味がそそられる。


<タミル語映画(1973年制作”Ulagam Sutrum Valiban” 「世界を旅するヤングスター」・主演M.G.R.・1970年開催の大阪万博を中心としたロケ。M.G..R.のシュールなおバカさには唖然とするが、当時の日本も背景に映りこんでいて面白い。思わずフレームの中に子どもの頃の私が居まいかと探した。)>




<ヒンディ語映画(1966年制作”Love in Tokyo“/主演:Joy Mukerji(ジョーイ・ムカルジー))・Asha Parekhが怪しげな和服姿で踊り歌う「Sayonara Sayonara」は大ヒットとなった(プレイバックシンガーはLata Mangeshkar(ラター・マンゲーシュカル)。Mahmood(マフムード)が芸者に化けている。彼はその翌々年の映画”Padosan”ではダンス・マスター役で怪演を見せる>。


<ヒンディ語映画(1967年制作 “Aman”/主演: Rajendra Kumar(ラジェンドラ・クマール))・目鼻立ちくっきりのSaira Banu(サイラ・バヌー)がなぜか日本人の設定。>

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そして、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせるかの如く、上述の”Love in Tokyo”のリメーク構想が日印間で進行中だと言う。

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歌のさらなる重要な要素であるダビング(プレイバックシンギング含む)ついては別稿で触れることとし、次回はヒンディ語映画制作での”narrated”「口頭」作業について触れてみたい。

(つづく)

posted by ihagee at 19:06| インド映画

2017年03月01日

インド映画考 – その6(ヒンディ語映画・第三の時代(1991以降)経済自由化と衛星放送の時代)


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第三の時代(経済自由化と衛星放送の時代):
1991に始まる大規模な経済自由化は映画制作に影響した。ヒンディ語文化圏の極端な優越主義が政治の本流として現れ出したのもこの頃である。テレビジョンがなかった1950年代や限定的にしか普及していなかった1970年代はフィルム制作がメディアの覇権を握っていたが、1991年を境にしてフィルム制作のライバルはテレビジョンとなっていった。

以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)

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現代の映画制作と脈絡する最も顕著なプロセス・出来事としては、1991年にインド政府が始めた経済自由化のプロセスおよび1992年の衛星放送開始の二つを挙げることができる。「自由化」とは経済をめぐる各種制限や規制の緩和を意味する。1980年代を通して、インドは財政収支赤字に見舞われた。分離独立を求める暴動の只中にあるカシミールとパンジャーブの二つの地域での軍備増強に関係して増大する費用とともに、公務員の賃金、給与や政府関係機関への助成金などもこの赤字をもたらしていた。国営(国有)企業は相変わらず利益を生み出さず財政に貢献していなかったからである。イラクがクウェートに軍事侵攻した1990年に経済状況はどん底に陥った。インドの外貨獲得高の主たる部分を占めていた湾岸地域のインド人労働者からの送金が激減したことに拠る。軍事侵攻と戦争継続によって原油価格は急上昇した。原油価格の高騰に外貨獲得額の減少が合わさって、インドの外貨準備高は悪化をたどり国際金融取引上のカネの貸し借りにおいて不履行となる虞が差し迫っていた。

1991年、インド政府は国際通貨基金(IMF)から二つの融資を受ける。それらは財政収支赤字の管理と削減並びに経済の構造的改革の実行という条件付きの融資であった。経済における根本的な変化は以下の点で模索された。すなわち、輸出競争力強化のためのルピー安、輸入制限や義務の緩和、特定のセクトや産業を対象とした補助金の減額、産業ライセンス制度の廃止、外国投資の各種規則の緩和、経済成長に向けて技術連携の重要視化、経営規模の大きな企業に対する各種制限の撤廃、経済計画において国営(国有)企業の重用を減らすこと、および経済活動に関する諸規定の削減によって、新たな創業を容易とすること、がその内容である。米国経済の浮揚はIMF融資の理想的な事例であるように、経済成長のエンジンとして消費材の消費を勧奨した。1991年から国の経済方針は都会、中流階級消費者にばかり向かうようになり、自家用車、化粧品、電化製品、家庭用品やソフトドリンクといった日用品の使用とは無縁の大多数のインド社会が基本的に必要としている食品、水、衛星、住居、初等教育および医療が蔑ろにされる結果となった。

経済自由化は役所仕事を減らすとともに多国籍企業がインド国内で事業を興すインセンティブとなって、衛星放送導入の膳立てとなった。衛星放送はインドのテレビ環境を劇的に変化させることになる。1980年代の中頃までインドではテレビジョンは普及していなかった。ユネスコがスポンサーとなった教育プロジェクトの一環として1959年に最初のテレビ試験放送がおこなわれ、電波が届く範囲は当初たった40キロメートル圏内だった。20分の教育プログラムが週に2回放送され始めたのは1961年で、1960年代を通して、教育関連で様々な試験的なプロジェクトが試みられたが、系統だったテレビ放送は当時存在していなかった。1976年になってようやくドゥールダルシャンが、国営一チャンネルの放送網として、テレビ番組をより広い地域に放送し始める(その割に少ない視聴者数だったが)。



インドがアジア競技大会(Asiad)の開催国となるのを契機に1982年、カラー放送および低出力送信と衛星を用いた国内向け送信が開始された。企業のスポンサーシップとしてコマーシャルが入るようになったのは1983年からで、ドゥールダルシャンの放送網がその最初だった。

ケーブルテレビは非公式であったが1984年に、ツアー用ホテルで最初に広まり、アパートメントそして各家庭に広まった。ケーブルネットワークとリンクしたビデオカセットプレーヤーの普及と共にケーブルネットワークは当初広まったようだ。1990年5月までに、3,450のケーブルテレビネットワークがインド国内に存在し、それらはボンベイ、カルカッタ、デリおよびマドラスといった主要都市に分かれていた。1991年までに、ケーブルネットワークは衛星パラボラアンテナを備えるようになり、STAR TV, BNCおよびCNNにアクセス可能となった。この衛星にアクセスする無許可のケーブルネットワークの急速な普及は1990年代のインドのテレビ環境で生ずる変化の主要因の一つとなった。ルパート・マードックのSTAR TVがインドでのサービスを開始したのが1992年で、同年インドで最初の民間ヒンディ語衛星チャンネル, ZEE TVがサービスを開始。その他の衛星チャンネルもすぐに追随し、チャンネルの選択肢は1チャンネルだけの国営放送ネットワークの視聴から、10-50のチャンネルから選択視聴できる環境に変化した。

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衛星テレビジョンの普及に伴い、ヒンディ語映画制作者たちは映画を含む広範な選択肢が家庭の視聴者に提供可能なしかし彼らとは異なるメディア風景に関わるようになった。当初、ボンベイの映画産業は新たなチャンネルを脅威と感じていたが、衛星テレビジョンとの共生の関係を模索し始めた。これらのチャンネルは映画制作者たちにその映画を広告、宣伝し販売する新たな手段を呈示し、人気作のテレビ放映権には多額の放映料を払う用意があり、チャンネルが映画制作者たちにとってもう一つの収入源となると示した。衛星チャンネルの多くがヒンディ語映画、映画音楽、映画産業ニュース、セレブのゴシップ、映画賞授与式、および映画スターをフィーチャーしたステージショーを番組の定番としていた。国際的な若者文化のシンボルであるMTVですらインドではその番組の大半をヒンディ語映画音楽とスターに拠っていたのである。大衆文化において映画の出番は減るどころか、むしろ衛星テレビジョンではヒンディ語映画とそのスターたちの占める割合が増える方向に働いている。

しかし、プライムタイムのクイズ番組やメロドラマの人気が上昇するにつれて、ヒンディ語映画制作者たちは娯楽の代替源として映画に対抗するテレビからの競争に直面していることは認めているようだ。また、蔓延するも殆どの場合罰せられることのないケーブルテレビでの海賊行為は別の付随する問題でもある。映画産業から抗議の声が上がらない限り、警察はケーブルテレビの事業者の取締に動かないからだ。また、多くのケーブルチャンネルでは新作映画が劇場で公開されると同時に、あるいは劇場公開に先だって海賊版を視聴に供することは日常茶飯事となっていた。衛星チャンネルとは異なり、ケーブルチャンネルは地域密着で、一つの場所や地域にサービスを提供している上、ケーブルテレビの事業者は、映画の入ったビデオカセットやビデオディスクを再生するだけで、特定のケーブルネットワークに繋がっている全世帯に映画を送信できてしまう。

映画プロデューサーは、衛星テレビジョンの出現以来、映画産業は異なるプレッシャーを受けており、映画館に観客を呼び込むのも一苦労であることを主張している。一般的な家族にとって、劇場で映画を観賞するのは、ビデオやテレビで観るのと比べて手頃でないと感じているからである。さらに、大都市の交通渋滞および小都市の劇場施設の貧弱さが、劇場への足を遠ざける要因となっていると主張する。劇場に観客を呼び込もうと、映画制作者はテレビでは不可能な映画的な経験やスペクタクルを企画するために多額の費用と労力をかけてきた。1990年代中頃からヒンディ語映画はデジタル音響や外国ロケ、ゴージャスな歌や踊りの場面やカネに糸目をつけないセットなどを取り込むことで制作経費が大幅に上がることになった。

さらにスター、監督、技術者へのギャラも高騰し、映画配給者は前例のない額を前払いしてまでも配給権を得ようとした。映画制作者新作のリリースの前後にかけてはマーケティングや宣伝に今まで以上に関心を払うようになり、1997年以降は映画の宣伝の場としてインターネットを活用し始めるようになった。1990年代以降、制作予算を大幅に増やした結果、大当たりをするか大損をするかという可能性を生むようになった。これは平均的に収益のあがる程度の映画はほとんど制作されなくなるという結果に繋がっている。

インド経済の自由化で生じた変化はヒンディ語映画の制作や配給の国際化も容易にした。アフリカ、オーストラリア、欧州や北米で映画の特徴的なシーンのロケが頻繁に行われるようになった。


(1989年制作 "Chandni" から / リシ・カプール(Rishi Kapoor)、シュリデヴィ(Sridevi)のスイスを舞台としたロマンス。)

1930年代からヒンディ語映画は国際的に流通しており、数十年来アフリカ、東欧、アラブおよび中央アジアでは人気を博しているが、近年になってボンベイの映画制作者たちは国際市場から収益を得ることができるようになった。ヒンディ語映画制作者たちは現在意識的に幅広い顧客層をインド国外に求めて、映画の配給オフィスをニューヨーク、ニュージャージーおよびロンドンに開設し、映画宣伝のためにウェブサイトを構築し、英語、スペイン語およびフランス語で作品を吹き替えし、さらに英語、ヘブライ語および日本語で字幕を付けるなどして、市場拡大に努めている。また、カンヌ、ヴェネチアやトロントといった名だたる国際映画祭でプレミアショーを行うなどヒンディ語映画は西欧のメディアでも頭角を表すようになってきた。また、ロンドンのレスター・スクウェア、ニューヨークのタイムズスクエア、インディアナポリスのIMAXシアターなどのメインストリームでも映画が上映され、Lagaan(「ラガーン」)は2001年度アカデミー賞の外国最優秀映画部門にノミネートされ、さらに、Baz Luhrmann(バズ・ラーマン)監督作品のMoulin Rouge(「ムーラン・ルージュ」)、Terry Zwigoff(テリー・ツワイゴフ)監督作品のGhost World(「ゴーストワールド」)やLars von Trier(ラース・フォン・トリアー)監督作品のDancer in the Dark(「ダンサー・イン・ザ・ダーク」)はヒンディ語映画にインスパイアーされたものである。


(Moulin Rouge(「ムーラン・ルージュ」)からインドをイメージとしたシーン)


(Ghost World(「ゴーストワールド」)からワンシーン)


(1966年制作 "Teesri Manzil" から- シャンミー・カプール(Shammi Kapoor)やヘレン(Helen)の一連の映画が、Ghost World(「ゴーストワールド」に影響を与えているようだ。)

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1998年以降、いくつかのヒンディ語映画がインド国内よりも英国や米国に於いて大きな商業的成功を収めるようになり、ボンベイの映画会社にとって海外市場は最も有益な市場の一つとなり始めた。ヒンディ語映画が米国の映画館で上映され出したのは1970年初め頃であったが、ビデオカセットレコーダーの出現によってヒンディ語映画の消費動向は家庭という領域に後退していった。しかし、1990年代にヒンディ語映画の世界的ブームが到来する。シンガポール、モスクワ、ロンドンおよびトロントといった遠く離れた場所の映画館でヒンディ語映画が上映され、米国内ではヒンディ語映画の新作封切りに熱心な映画館がニューヨーク、ニュージャージー、ワシントンD.C.、ロサンゼルス、ヒューストン、サンフランシスコ、およびそれら大都市区域に出現したのである。英国では興行収入トップ10に毎週ランキングされ、米国ではバラエティー部門での興業収入トップ60に毎週ランキングされるなど、興業的成功が定着した。インド国外でのヒンディ語映画の成功は南アジアに散らばった在外インド人がボンベイ映画産業の市場として重要であることも示した。

インド国内よりも国外で大成功を収める特定のヒンディ語映画はボンベイ映画産業内に議論を呼び起こした。すなわち、特定のスターやジャンルのフィルムだけが海外市場で成功を収める状況で、ヒンディ語映画のターゲットとする観客は誰であり誰とすべきかという議論である。「ファミリー・エンターテイナー」、すなわち、大富豪の家族を背景に歌、踊り、婚礼といった趣向を凝らした文化的スペクタクルで埋め尽くされたラブストーリー、なるジャンルばかりもてはやされることについて1994年から翌年にかけて映画産業内で議論が沸き起こったのである。この当時、”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)、”Dilwale Dulhaniya Le Jayenge” (「真心ある者嫁を得る」)の興業的成功は、テーマ、ビジュアルスタイル、音楽、およびマーケティングの観点で1990年代のヒンディ語映画のトレンドを固めていった。これら二つの映画とそれに引き続く同様の映画はインド国内外で巨大なビジネスとなり、インドと海外市場との間の興業上の反応に相違があるにも拘わらず、このジャンルの優位性が変らないことについて、インド国内のメディアや映画産業に携わる者から国内の観客を軽視して映画が南アジア向けに作られていることについて苦言が上がる。ボンベイの映画制作者に対しては主導性や創作性の欠如とともにヒンディ語映画に郷愁や独特な味わいを求める在外インド人を無視していると厳しい意見がインドの新聞紙面に載った。


(1994年制作”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)から)


(1995年制作”Dilwale Dulhaniya Le Jayenge” (「真心ある者嫁を得る」)から)

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衛星時代以後の映画はそれ以前と比べてテーマや内容の観点でも顕著に異なっている。この時代以降成功を収める映画と、家族やロマンスに焦点を当てたそれ以前のヒンディ語映画との間の最も明確な違いは、階級的格差がほとんど描かれなくなり代わって富に焦点が当てられるようになったことであろう。それ以前の時代の映画で描かれていたような貧困や経済的困難、努力を象徴するものは全て映画から排除され、主人公は労働者階級や中流階級よりも下の人々よりもむしろ億万長者の子息など、大金持ちとして描かれるようになる。稀に労働者階級の主人公が描かれる場合でも、映画の中では大抵不安や問題を抱える者として描かれる。それ以前の映画とのもう一つの顕著な違いは、悪役がいないことであり、国家やそれを代理する者(警官や判事など)が登場しないことである。1950年代から1980年代のヒンディ語映画では富裕なビジネスマンはいつも搾取や不正、犯罪の象徴として描かれていたが、1990年代中頃からは、温和で愛情溢れる寛大な父親として描かれるようになる。

それ以前の時代、ラブストーリーはしばしば身分の違いが元で、親から反対され争いとなる内容であったが、同じ身分を背景とする主人公たちのラブストーリーに変化していった。身分の違いが排除されると、ドラマ性は内面化し、ストーリー上の衝突は個人的な欲望と家族に対する義務との間の葛藤に中心を置かれるようになった。三角関係か厳格な両親(最後は結婚相手についての息子の選択に応じる)を絡めた争いがこの手の筋書きである。いずれのストーリーにおいても、彼/彼女を愛する誰かと、その彼/彼女が結婚をせざるを得ない誰かとの間で主役が引き裂かれる展開である。それ以前のラブストーリーでは、若さゆえの反抗が基調であり、若い恋人たちは駆け落ちする展開であった。しかし、1990年代中頃からは家族の名誉や調和のために愛を犠牲にすることも厭わない迎合的な恋人たちがストーリーのテーマを占めはじめてきた。名誉に対する父権的基準や孝行の概念へのヒーローとヒロインの受動性や恭順性が、現代のヒンディ語映画が都会的でMTVにインスパイアーされたビジュアルスタイルを装いながらも、本質的には保守的な面を表していると言える。これらの「ファミリー・エンターテイナー」のジャンルは特に北インド、ヒンディ文化圏から派生するコモディティ化したインド人のアイデンティを示しており、それはインドの高級カーストの合同家族(joint family)のステレオタイプを元にしているのかもしれない。このような映画の成功はメディアや国家には「家族の大切さ」を称え、国際化する世界における「インドの伝統」の肯定するものとして解釈されている。

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それ以外に二つのテーマの傾向が1990年代後半から顕著になった。それらはそれ以前の時代に始まった傾向を受け継ぐものでもある。その一つが組織犯罪やギャングの世界の描写を伴うテーマ(ヒンディ語映画の中でも長い歴史を持つテーマ)である。マフィアのボスとその手下の描かれ方は、初期のヒンディ語映画ではグラマラス、西洋的で小奇麗な描かれ方から、1990年代ではぎらついた、より民族・地域独自の肖像に変っていった。映画の多くは特に、都市ならではのスラングや巷の方言が用いながらボンベイの周辺を表している。かつての映画は悲惨な事情や自暴自棄から、主人公がいかに犯罪に染まっていくかを描くことに腐心したが、今日の映画では手の込んだ正当性の描写をしなくなった。仕事の口から一切締め出され、生きるために犯罪生活に身を投じる者が古い映画の主人公たちであるのに対して、最近の映画では貧困にたいする現実的な仕事の選択肢としてまた、自由化後のインドで豪勢で消費者主義的ライフスタイルに加われる労働者階級の人々として、組織的犯罪を描くようになった。

二つ目のテーマの傾向は、映画における国家主義の発揚である。愛国主義と国家主義の表出はインド独立以来ヒンディ語映画の要であり続けている。今日の映画では強い国家主義的感情の描き方に変化が見られる。国家主義は、インサイダーとアウトサイダーとの間、市民と外国人との間、の対照と境界を論ずるものである。かつて、ヒンディ語映画では西欧=非道徳、利己主義、物質主義、文化欠如:インド=道徳的、文化的、精神的に勝っている、というステレオタイプが用いられていた。映画に登場する悪人もかつては西欧人か西欧かぶれのインド人と相場が決まっていた。しかし、1990年代中頃から、テロリストが明確な悪人像として定着した。テロリズムに関する映画は1980年代の終わりに始まり、1990年代にその数を増した。当時、分離主義者の暴動が激しさを増し、爆弾テロ、地域暴動、誘拐やハイジャックが増加の一途を辿っていた。国家は戦争やテロからの塞を表し、軍人、民兵や警察官がその救い手であった。

国家に対する外部の脅威を描くことで、それ以前映画と顕著な違いを示したのは、1997年の”Border“(J.P. Dutta監督)からだろう。映画制作者は、敵国としてまたインド混乱の扇動者としてパキスタンをあからさまに名指しするようになった。すなわち、この映画以前は、たとえ戦争映画であっても、検閲のガイドラインに「諸外国との友好関係を損なうことがあってはならない」(情報放送大臣・1992年)とあり、映画制作者に具体的な国を示すのは控えるようにとお触れがあった為に、敵国を名指しできなかったのが(婉曲に「向こう側」とか単に「敵」と表現するに留めていた)、この1971年に勃発した印パ戦争を初めて描いた”Border”ではパキスタンを名指しして表現したのである。検閲のガイドラインに変更はなかったものの、過激な国家主義者や(パキスタンに対して)強硬なインド人民党(BJP)が力を増して、政治情勢が変化したのである。歴史的できごとに基づくのに敵国を名指しできない映画では戦争映画としての信ぴょう性に欠くものとなるという映画監督の訴えが認められ、軍隊や国防のキャンペーンに寄与する膨大な数の映画の出現を可能とした。


(1997年制作”Border“から)

従って、国家主義はもはや単純な東洋と西洋の対立の観点から描かれなくなり、西欧とその物質文化は邪悪や脅威を表すものでも、インド人のモラルや文化的優越性を脅かすものでもなくなった。事実、1990年代の中頃からヒンディ語映画では、インド国外に生活するインド人の方がインド国内の同朋よりもより伝統的で文化的に真正な存在としてしばしば描かれるようになる。それ以前のヒンディ語映画は海外で生活するインド人のキャラはコミカルな場面や悪役として用いられてきたが、今日の映画ではそのような海外組のインド人を主人公としオーストラリア、カナダ、英国や米国といった国々を舞台に描かれるようになった。


(1970年制作 "Purab aur Pachhim"「東と西」からワンシーン。西欧文明にどっぷりと浸かりロンドンで暮らすインド人。)

そのようにオーセンティックな「インド人」のアイデンティティ、- 宗教上のしきたり、手の込んだ挙式、大家族、親への敬意、女性の慎み深さなる規範への執着、婚前交渉の禁止、自国に対する誇りと愛によって表される – そのアイデンティティはどこであろうと失うことがなく、ニューヨークであろうとロンドンであろうとシドニーであろうと、ボンベイやカルカッタやデリの「インド人」と同じアイデンティティということである。

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以上、ヒンディ語映画を3つの時代に分けて大まかに考証してみた。次回はヒンディ映画と音楽について。

(つづく)

posted by ihagee at 18:30| インド映画