2017年03月27日

インド映画考 – その9(ヒンディ語映画・”ダビング“)


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「ダビング」(dubbing)とはビデオテープ、オーディオテープなどの記録内容を複製するという和製英語である(その意味に相当する英語は”copy“)。

「ダビング」(dubbing)の本来の英語の意味は、映画やテレビドラマ等で撮影後に音だけを別途録音すること(和製英語の「アフレコ」に相当)。ヒンディ語映画を含むインド映画において、この意味の「ダビング」はその制作段階で重要な要素となっている。

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前回、撮影に入る前段階(pre-production phase)について触れた。今回は制作段階(production phase)での「ダビング」(dubbing)について以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)


一旦、撮影に入ると(制作段階(production phase))コンスタントにスケジュールが進まないのがヒンディ映画の特徴でもある。つまり、継続したスケジュールで映画が完成するのではなく、切れ切れに撮影するので完成までに長い時間がかかるのが通常のようだ。プロデューサーは映画制作に必要な費用を全て初めから準備するようなことはしないので、クランクインからクランクアップまで一気に数週間で済ませるよりも、二日から二週間程度の小口のスケジュールを数か月又は数年のスパンに亘って断続的に積み重ねて制作することがヒンディ映画の特徴となっている。その過程でプロデューサーは資金を調達しようとするからである。そのため、クランクインから劇場公開まで数年かかるのが普通となっている。ボンベイの映画産業において、1年以内に映画を仕上げることは迅速且つ効率的とみなされるが、最初から大きな予算がついた作品であればその期間はおよそ15-20か月である。

断続的且つ断片的な制作過程ゆえに、俳優たちは前もってリハーサルをせず現場のセットで通常セリフを記憶するので、膨大な時間がライティングに使われることになる。歌の場面を撮影しようとすると、セット上で俳優たちはダンスのステップを学び、その場で音楽を何度か繰り返して聴くと、事前に歌を知らなくとも歌詞に合わせて口元をシンクロ(クチパク)させることができる。撮影前のリハーサルは稀で、あるとしてもそれは俳優のためではなく、ミュージカルナンバーに手を入れるためとか、コーラスダンサーのためである。映画の生フィルムは輸入に頼り映画の予算の約10%を占めるほど高価なので、ボンベイの映画制作者は撮り直しや余分な撮影が多くなることを望まない。

音声を同時録りしないことが、この制作段階の顕著な特徴の一つである。これは映画制作者の多くが同時録音機能のない古いタイプのカメラを使っていることと、カメラのノイズがあるので、後々の編集の便宜の為に俳優の声の部分だけはセット上で別録りする必要があるからだ。つまり、セリフから音楽そして効果音まで、ヒンディ語映画の音声の全ては後段階(post-production phase)で加えられる。撮影と編集が済むと特別なダビングスタジオで俳優たちがスクリーンに映し出された演技を見ながらアフレコを行う。その際、スクリーン上の唇の動きに合わせてセリフを載せる作業を繰り返すのである。このアフレコは共演者を介在させずに俳優が一人ずつ行う。台本で作業を行わず耳と記憶力に頼って映像の口元からセリフを読み取ってアフレコを行うのである。助監督の一人は通常この過程の監督責任を負っており、発音、文法並びに語順が正しいかをチェックする。ダビングに要する時間は俳優の経験値に反比例し、経験豊かなベテラン俳優であればダビングを数日で終えることができる。

ダビングの利点の一つとして、ヒンディ語を話せない俳優であってもプロのダビング・アーティストやヒンディ語の声優によってアテレコが可能なので、ボンベイの映画制作者はそんな彼らであってもキャストすることができる点がある。ヒンディ語映画の俳優がインドの他言語の映画に出演する場合には、この逆が当てはまる。無論、撮影の最中は、追ってアフレコすることを想定して俳優は唇の動きに注意を払わなくてはならない。撮影現場で監督やプロデューサーがプロンプターにセリフを言わせ俳優には声を出させずクチパクで演技させる場合もあるが、これは俳優にとって時に侮辱と受け取られることである。

一般的なインド映画では、セリフの声、歌声とスクリーン上の俳優は3つの別々の実体である。2000年以降、撮影と同時に音録を行ったヒンディ語映画が登場し始める。ダビング(アフレコ)の過程で撮影時と全く同じテンションや自発性を再現することは難しいとして、このやり方は理に適っていると主張する俳優も現れ出した。しかし、大多数の映画制作者たちにとって、上述のダビングの利点から、同時音録は現実的ではないと受け止められているようだ。防音(余計な音が入り込まない)撮影環境は今のところ存在しないので、同時音録を採用すると、撮り直しや生フィルムをその分余計に使うとことになりかねない。

ヒンディ語映画は制作本数の高さを誇り、視覚的効果に凝った作品が多いこともなって、制作条件は驚くほどシンプルで最小限のテクノロジーを用いてきた。1998-9年頃まで、原則的にヒンディ語映画は一台のカメラユニットだけで撮影され、映画制作者たちはビデオモニターを用いてこなかった。クレーンやドリーといった撮影装置は人力で動かされ、クラップボードは電子化されておらず、チョークの手書きだった。ライティングには黒い紙と白い発泡スチロールの板が用いられてきたが、この1998-9年辺りから、コンピュータ上のデジタル編集が始まる。

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歌声とスクリーン上の俳優を一体化する為の技術として「プレイバックシンギング」が登場したのは1935年と言われている(1931年、ヒンディ語映画では最初のトーキー作品 “Alam Ara”が上映され、同年『マダムと女房』(松竹キネマ製作、五所平之助監督、田中絹代主演)が本邦初の本格的なトーキー作品とされる)。すなわち、事前に録音しておいた歌声の歌詞に合わせて俳優がクチパクで演技をする技術である。俳優たちは自ら歌う必要がなくなり、歌場面の視覚化は絵と音を同時に記録する必要がなくなった。インドの映画制作に革命をもたらした技術である。


(1931年 "Alam Ara”)


(1931年 "マダムと女房”)

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このインド映画で発明された「プレイバックシンギング」はトーキー映画の大先輩であるハリウッド映画ではなぜか採用されず、カメラや俳優の動きが制約されたようだ。

『撮影時に録音しようとしたとき、様々な難題が発生した。まずカメラそのものが非常にうるさかったので、防音したキャビネットにそれを格納することが多かった。このためカメラを動かせる範囲が非常に限定されることになった。その対策としてカメラを複数台配置して様々な角度から撮影する方式も採用され、カメラマンらは常に特定のショットを得るためにカメラを解放する方法をなんとか生み出していた。また、マイクロフォンに声が届く範囲にいなければならないため、俳優の動きも不自然に制限されることがあった。(wikipediaより)』

その後、ハリウッドではカメラやマイク、録音方式などに技術的改良を加えて、撮影時の録音での様々な難題を解決していったが、インドでは最初から難題は切り分けて「プレイバックシンギング」を含む「ダビング」で対応しようとしたことになる。

ただしハリウッドが解決できなかった難題があった。それは、
『舞台経験のない俳優は突然トーキーに対応できるか否かについて疑問を持たれるようになった。先述したように、訛りがひどい者や容姿と声が合っていない者も無声映画時代にはその欠点を隠せていたが、特に危険な状態に追い込まれた。無声映画の大スターだったノーマ・タルマッジは、そのようにして事実上映画俳優をやめることになった。(wikipediaより)』

この難題すらインド映画では「プレイバックシンギング」と「アテレコ」で解決してきたのである。

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「プレイバックシンギング」によって歌が先に録音されるので、映画の封切りの前に歌を以て映画の宣伝ができるという利点もある。「プレイバックシンギング」はまたたく間に映画制作に侵透し、1940年代までに、ボンベイの映画産業では分業化が進み、その中で銀幕の全てのスターに代わって歌声を提供する一握りの歌い手たちが「プレイバックシンガー」なる肩書きで脚光を浴び始めた。四半世紀に亘って、男声歌手ではMukesh, Mohammad Rafi並びにKishore Kumar、そして女声歌手ではLata MangeshkarとAsha Bhonsleがヒンディ語映画(1950後半-1980年代前半)におけるプレイバックシンガーのトップの座に君臨した。

MukeshといえばRaji Kapoorのプレイバックシンガー。ソ連邦に招かれたRaj KumarがMukeshを紹介する貴重なビデオがあるが、分身としての彼の存在を伝えようとしているのがわかる。

(1967年モスクワ・Raji Kapoor(ラージ・カプール)とMukesh(ムケシュ))

Lata Mangeshkarの声の美しさと感性の機微は日本人の心に通じるところがある。

(1966年映画 "Anupama"から、主演:Dharmendra(ダーメンドラ)、Sharmila Tagore(シャーミラ・タゴール、プレイバックシンガー:Lata Mangeshkar(ラタ・マンゲシュカル))

Kishore Kumarは大俳優であるAshok Kumarの息子であり自身俳優である。音痴ゆえにクチパクで懸命に歌うフリをするSunil Duttの背中に隠れてその二役をコミカルに演じた作品(Padosan)は「プレイバックシンギング」がまさにストーリーの肝になっている。

(1968年映画 "Padosan"から、主演: Sunil Dutt(スニル・ダット)、Saira Banu(サイラ・バヌー)、Kishore Kumar(キショール・クマール)、Mahmood(マフムード))

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次回からは俳優編。1950-1980前半迄の間に活躍した銀幕の人々について綴ってみたい。

(つづく)

posted by ihagee at 17:51| インド映画

2017年03月13日

インド映画考 – その8(ヒンディ語映画・”ナレーション“)


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前回、「音楽決め」の一連のミーティングは<口頭>で行われ、音楽監督ですら五線紙に書いて示すようなことはせず、オルガンを弾きながら口で指示し、そのメロディーを聴きながら編曲者はインドの伝統的な採譜法で綴られた音符やコードを西欧の採譜法による楽譜に翻訳する、というようなことを書いた。

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「音楽決め」に限らず、「口頭」作業はヒンディ語映画制作において重要な特徴となっている。

つまり、人(仲介者)や書き物を介するよりも関係者が直接面と向かって口頭でディスカッションすることが専らで、たとえば、映画プロデューサーが自分の映画に特定のスターを出したいと思えば、そのスターのエージェントを介するよりも直接本人とコンタクトを取ることが慣習である。実際、ボンベイの映画産業には、西欧の同業界のエージェントと同じ意味のエージェントは存在しない。ヒンディ語映画スターたちは各人「セクレタリー」を名乗る人々を抱えており、このセクレタリーがスターの仕事のスケジュールを管理している。この業界である権力の地位に達した一握りのセクレタリーがスターたちとのコネクションを利用してプロデューサーになっていくのである。しかし大部分のセクレタリーはプロデューサーとスターとの間でネゴシエーションを行うとともに、メディアや他の力の弱いセクレタリーとの渉外的役割を果たす。しかし、プロデューサーや監督にとって、彼らとネゴや相談をせざるを得ないことは侮辱や無礼を受けることに他ならないので、プロデューサーは自らのステータスと力を誇示できるような場所でスターと直接会うことが普通である。プロデューサーがスターの家まで赴いて会う場合は、スターの方が力関係は上という証でもある。逆にスターがプロデューサーのオフィスや自宅に呼び出される場合は、プロデューサーの方が力関係は上ということになる。また、映画の撮影に入ると、セットの中ではプロデューサーは頻繁にスターと面と向かって話をすることになる。これはセット外では上述のような力関係が作用するが、セットの中は中立的空間と見なされているからでもある(メーキャップ・ルームは除く)。この個人的な交わり方から、「口頭」作業は高度な慣行に発展していったようだ。ここでは、言葉の上での互いの同意が契約と同義となっている(これは映画産業に限らず、インドの商慣習でもある)。たとえば、プロデューサーがスターと映画のプロジェクトについてディスカッションし、スターがその後も現場に残っていればそのスターは何も言わなかったとみなして間違いない、といった具合である。

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映画の主要なキャストとクルーの間では台本とは通常「口述」されたものであり、テレビのインタビューで、業界の関係者が「台本を耳にして」(台本を目にしてではなく)、どうするか決めた、などと語る場面をよく見かけるが、台本そのものも「口頭」作業である。台本を読むのではなく、制作チームの主要メンバーが集って脚本家や監督から映画のストーリーを聞くこの一連の作業は業界では「ナレーション(口伝)」と呼ばれ、撮影に入る前段階(pre-production)作業を通して行われる。脚本が固まるまで、都度30分から数時間かけてナレーションが続くことになる。ナレーションそれ自体はスキルと考えられ、そのナレーション作業のスキルにおいて傑出した監督や脚本家が存在する。ナレーションの重要性が言われるのは、キャスティング前の台本がしばしば不完全であることに起因している。脚本が完成しても、脚本家はそれをキャストやクルーの集団に向かって大声で読み上げるのが通常である。

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脚本のナレーションはヒンディ語またはHinglishで行われる一方(Hinglishとは、ヒンディ語と英語が混ざったもので、都会のエリートたちの間で流行)、多くの脚本家は台本を先ずは英語で書き、セリフ部分をヒンディ語に翻訳するか、言語により堪能なセリフ書きと協働して仕上げる。シナリオ上のト書き、たとえば、ロケーション、時刻、情景描写やカメラワークは、英語で常に行われる。制作現場で英語が用いられるのも、ボンベイの映画産業の都会的性質の証とも言える。すなわち、ここに集まる人々はインドとはいっても互いに異なる言語圏出身者であり、必ずしもヒンディ語を母語としないという言語の多様性から、英語が共通語(lingua-franca)として用いられるからである。学校教育で英語による授業が行われるボンベイのような主要都市に住む中流クラス以上のインド人にとって英語は共通語なのである。結果として、映画の言語はヒンディ語であろうとも、映画はインドの主たる言語全てを含むマルチリンガルでリリースされ、英語はその一つとなる。脚本家の英語への依存は近頃の傾向であり、彼らのバックグラウンドの英語へのシフトの兆候でもある。ヒンディ語映画の最初の数十年、脚本家はヒンディ語又はウルドゥ語の詩人、劇作家又は小説家で、彼らが当時の映画産業で脚本面に貢献したのであるが、今日では脚本家の大多数はそのような文学的バックグラウンドを持たず、映画産業バックグラウンドと同様、広範なプロ領域の出身となっている。上述の通り、書くことは、フィルム制作における分業の僅かばかり特化した一面なので、台本作成に当たっては様々な人々が手書きでその作業に貢献している。

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監督、主演俳優、音楽監督や脚本家といった基本的なキャストとクルーをプロデューサーが決定すると、業界やメディアに対してmuhuratによってアナウンスする。Muhuratとは何か新しい事を始めるに当たって占星術の計算によって吉兆とみなされた特定の日時を意味する。この儀式は映画の撮影が始まる数か月前に行われ、スタジオ又はその他の制作現場での簡単なセレモニーから、高級ホテルでの派手なイベントに至るまで多種多様な形で行われるものである。このmuhuratの主だった特徴の一つが撮影過程の実演で、ここではその映画の主演俳優がカメラや観客の前で短いシーンを演じるのが通例である。このシーンはその場の為に特別に書かれたものであって、撮影されたシーンが映画に使われることはない。この時点では台本はまだ上梓されておらず、映画はアイディアの域に留まっており、映画に魂を入れることがこのイベントの目的の一つである。このイベントの儀式的性格を際立たせる別の面としては、「(カメラ)スタート!」の掛け声の前にヤシの実を割ったり、カメラに向かってarati(オイルランプや樟脳の焔をグルグルと振りかざす)を行うなど、ヒンディ教の礼拝儀式に由来する特徴が組み込まれていることである。


(muhuratにおけるヤシの実割り)

ヤシの実を毎日割って、その日の最初の撮影の後にそのかけらを配るようなこともクランクイン後のその他の一般的な儀式である。このように宗教行事との準信仰的関係はインドでは一般的で、古典音楽の奏者とその楽器、ダンサーとそのアンクル・ベル等の関係からもわかる通りである。

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当初はプロジェクトの財源ねん出のためプロデューサーの宣伝のためのmuhuratであったが、そこで映画の頒布権が売り出され始めると、やがて、配給会社への「パッケージ」の販売になっていった。この「パッケージ」とは、そのプロジェクトに雇われた監督、男性スターや音楽監督などを最小限含むもので、過去の実績やキーパーソンを含む売り物であれば、プロデューサーはmuhuratの行われた日に「完売」と宣言することも有り得る。新聞、映画雑誌やテレビ番組でも取り上げられるmuhuratであるが、視聴者に向けの重要な宣伝方法ではない。幾つかの例外はあるが、muhuratから実際にその映画が劇場で封切となるまで通常数年を要し、それ以上年数を擁する場合もある。このようにヒンディ語映画では、大々的に宣伝される映画は特に、muhuratを経ないで映画制作にとりかかることはないことが一般的な特徴である。

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撮影に入る前段階(pre-production)はこのように対人的共同的作業である。台本を書いたり音楽を作曲したりといった作業は、一人だけで行われることは滅多にない。二人以上のチームを組んで、映画の各場面で監督がしっかりと関わることが常である。監督と主要メンバーとの間のブレインストーミングやディスカッションのセッションに多くの時間が費やされ、その中から台本や音楽が仕上げられていくのである。これらのセッションはこの業界の符丁として「ストーリー決め」とか「音楽決め」と呼ばれる。この段階を通じて台本の観点では脚本とセリフの、音楽の観点ではメロディと詞の、その他の細々とした点では撮影場所、セット、小道具や衣装の詰めが行われる。残りのキャスティングもこの段階で最終的に決定される。ヒンディ語映画制作者はストーリーボード(作業の順番に示すボード)で仕事をすることは滅多にないので、セットが組み上がり撮影が開始されるまでは、ライティング、ブロッキング(俳優に正確な動きやポジショニングを指示すること)やカメラの設置やカメラワークは行われない。監督がストーリーボードに拠らず、カメラアングルや動きに応じて、映画のフレーム上の動きを口頭で指示するが、あたかも監督の頭の中でフィルムが回っているかのように各シーンを心の中で描くことができるのである。

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次回は、歌の重要な要素であるダビング(プレイバックシンギング含む)ついて触れたいと思う。

(つづく)

posted by ihagee at 16:53| インド映画

2017年03月06日

インド映画考 – その7(ヒンディ語映画・音楽の意味)


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1931年にトーキー映画が始まって以来、音楽は重要な役目を果たし、映画と音楽はインドでは密接に関連し合っている。古典的なサンスクリット・ドラマ、村芝居やパーシ劇はどれも音楽、歌、および踊りが密接に演技と融合していることからも、音楽の中心的な役割はその昔の伝統的な芝居に起源があり、映画にも影響したと考えられる。そして、インドで人気の映画に共通する最も明確な特徴は主人公たちが歌う形式で音楽の場面があることだろう。1980年代の初め頃までは、映画の中の歌が大衆に膾炙したインドでの唯一のポピュラー音楽であり、現在でもインド国内の音楽の8割方は映画音楽で占められている。インドでミュージックストアに足を踏み入れると、唖然とするほどの数の映画音楽のセレクションを目にするだろう。それらは映画のタイトル、音楽監督、歌い手、俳優、映画監督、時代やテーマ毎に今流行のリミックス物とともに、分けられてパッケージ化されている。

インドを訪れた者なら至る所で映画音楽の洗礼を受けることになる。映画の中の歌は婚礼の行列、選挙運動や宗教行事の一部となって、喫茶店の中ではカセットプレーヤーから、タクシーやオートリキシャではスピーカーから大音量で流れ出ている。ラジオで人気がある番組は最新から「古典」までカウントダウン形式の映画音楽のヒットパレードで、若い世代も古い時代の歌に馴染むきっかけとなっている。耳だけでなく、ビジュアルでも映画をベースにしたテレビ番組として映画音楽は消費されており、1992年に衛星放送が始まるとその新たな媒体に映画音楽は乗るようになった。公開予定の新作映画の宣伝には歌の場面をスマートにモンタージュしたものが使われるようになる。テレビでは、映画音楽中の歌の題名を当てるクイズや、歌手の人材発掘などの視聴者参加型番組が多くなっている。映画音楽の中の歌が国中で論争が招き、議会沙汰になることもある。1993年、映画”Khalnayak”中のヒットソング “Choli ke peeche kya hai?” (あたしのブラウスの下には何があると思う?]は、その「卑猥な」歌詞に反対する意見が沸き起こり、国会議員までもが非難したが、それが却ってその歌と映画もさらに一層流行らせる結果となったのは当然のことかもしれない。政治的スローガンを人気のある映画の中の歌に被せた音楽カセットを政党が選挙期間中に配り出したのもこの頃からである。


("Choli Ke Peeche Kya Hai"「あたしのブラウスの下には何があると思う?」)

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上述のとおり、音楽がインドにおいて映画の一つのカテゴリーであり、歌の有無は映画を区別する手段でもある。すなわち、「芸術」映画はたいてい歌がなく、「中級クラスの映画」は歌のある芸術映画を意味し、その他の「商業(娯楽)」映画は例外なく歌があるものといった具合である。音楽の中でも歌は映画の典型的な「商業的」要素と認識されている。歌を集客手段として扱う本流の外側の映画制作者たちは、その大衆の嗜好に迎合する点が新聞で非難されることもある。歌ばかりで構成することは「ひどい映画」の典型でもあり、スクリプトや知的筋書きに従う「良い映画」を邪魔するものであるという見方もある。

歌ばかりの構成はストーリーの継続性や迫真性を途切れさせるもの、というのが人気のあるヒンディ語映画に否定的な人々の認識だが、他方、それを異質の特徴と言うよりも、人気のある映画でストーリーの展開を決めたり進めたりする役割があると肯定的な見方もある。もし歌を取り去ったら、多くの映画はストーリーの一貫性を欠くことになるかもしれない。人気のある映画をオペラに喩え、そこではドラマティックな場面は「全ての動作が止まり、歌がそれに代わって、あらゆる感情の陰影をセリフやジェスチャーよりも効果的に表す場面であることが多い」と指摘する映画専門家も多い。ヒンディ語映画制作者たちは映画のストーリーの範囲で歌の構成に多くの機能を持たせるとともに映画でしか表現できないシーンの主たる要素をいかにそれらに持たせるかについて、長い間、情熱をかけて取り組んできたのである。

歌を作り上げる過程は極めて共同的であり堅苦しいものではない。最初の段階は「ストーリー決め」で、ここで映画の脚本は「歌の場面」とともに案出される。つまり、脚本の中で歌が登場するポイントを決める。脚本家がこれらの場面を映画監督とともに創作し、映画監督はその「場面」を音楽監督や作詞家に説明する。いかに歌の場面を脚本に融合させるかに、脚本家や映画監督は技量を試されることになるのである。いい加減に歌がストーリーに合わさっていたり、どこともなく浮き上がったりしたヒンディ語映画の例は枚挙にいとまがないが、そのような一体化の欠如は「だらしない」とか「眠たい」とか単にひどい映画の出来だと言われる。

脚本中の歌の主たる機能の一つは感情の表出にある。ヒンディ語映画の場合、それは圧倒的に色恋に関連する。恋やロマンスは音楽で表現することが最適だというのがこの業界の常識でもある。話の筋の上で恋物語に主たる焦点がない映画では、男声と女声のデュエットによって「ロマンティック・トラック」が最初に展開される。恋に落ちるよりもむしろ結婚を阻むものを克服することに焦点がおかれたラブストーリーでさえ、歌は会話のシーン以上に二人の間で展開するロマンスを描くのにより効果を発揮する。たとえば、恋に落ちていく場面全体では、最初の出会いから恋心を互いに抱きあうまでは、4から5つの歌の場面か、30分程の時間を使って描かれる。

ファンタジー、望み、および情熱への導入として歌が用いられることもある。雨の中で主人公たちが歌い踊るシーンはお決まりの表現の一つだが、インドの神話、古典音楽や文学では雨は繁殖と再生に関連し、エロティックで官能的な意味をいつも帯びている。インドの古典音楽にはモンスーンの雨が来そうだということが愛する人が現れそうだということに結びついた歌が数多くある。


(1955年 ”Shree 420 (詐欺師)” から雨のシーン。ナルギス(Nargis)とラージ・カプール(Raji Kapoor))

濡れたサリーが体に纏わりつくといったエロティックなシーンは多くの映画で使われてきたもので、映画制作者が観客の保守的な倫理観と検閲コードでの表現の限界の両方を見据え、露骨な描写を避けつつ、性的な肉体的密接を暗喩する絶妙な手法とも言える。


(1978年制作 "Satyam Shivam Sundaram"からズィーナト・アマーン(Zeenat Aman)の検閲コードすれすれの水浴シーン。尚、監督はラージ・カプール(Raji Kapoor))

内的な感情や肉体的接触の暗喩を表現することに加えて、時の経過や記憶を呼び起こす場面に、歌が頻繁に使われている。歌の中で子どもは大人に成長したり、主人公を過去に引き戻したりする。主役が登場する場面を特徴付けるためとか、直接言葉に出すのが相応しくないような想いを間接的に表出するために、歌が用いられる。たとえば、人妻を愛している男が彼女と何も知らない亭主を前にして、彼女に亭主と別れることを促すことも歌なら可能である。


(1968年制作 "Diwana"から、Saira Banu(サイラ・バヌー)とラージ・カプール(Raji Kapoor)。もちろん、プラトニックな愛の告白。)

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歌の場面が決まると、監督は音楽監督(この業界では作曲家をそう呼ぶ)、作詞家と共同で歌作りに取り掛かる。

以前は、脚本が要求するセンチメントやムードを表すのに必要な詞を作詞家が先ずは書いて、音楽監督がその作詞に見合うメロディを見つけて音楽を載せるのが普通であったが、今では作詞よりも前に基本的なメロディは作曲が済んでいて、音楽監督が予め組み上げたメロディ構造に合わせて、作詞家が詞を書くという順番になっている。作曲・作詞が完了すると、「音楽決め」の一連のミーティングが音楽監督、映画監督、プロデューサー、およびアシスタントの間で行われ、音楽監督はレコーディングに先だって、編曲者と歌の間の間奏部分やインストルメントなどを決める作業に入る。レコーディングに入っても、映画監督やその場に居合わせた者の提案に応じて変更されることも常である。それらは口頭で行われ、音楽監督ですら五線紙に書いて示すようなことはせず、オルガンを弾きながら口で指示し、そのメロディを聴きながら編曲者はインドの伝統的な採譜法で綴られた音符やコードを西欧の採譜法による楽譜に翻訳する。

歌が録音されると、映画監督はダンスの振り付け師との仕事に入る。撮影技師とともにダンスのコンセプトを決め、振り付けを行い、そのシーンを撮影する。


(1971年制作 "Main Sundar Hoon"の冒頭シーン。プレバイックシンガーのキショール・クマール (Kisore Kumar)本人が登場。)

「映画化」と呼ばれるこのプロセスは撮影が済むまでに3日から3週間程度を要する。この時間はダンサーの数や、振り付けや撮影の手の込み方、そしてセットや撮影場所、衣装の変更回数に比例している。

ヒンディ語映画のこのダンスシーンを伴う歌の場面は、インドのメディアで、しばしば「木の周りをぐるぐる走り回る」と皮肉っぽく言われることがある。これは、映画の設定とは無関係な庭園、草原や森といった美しい景色の中でカップルが突然歌い出すようなラブソングを指すもので、しばしば、頻繁な衣装替えやバックダンサーを伴うものである。


(1984年制作 "Tohfa"から。珍しく森林でも田園でもない設定。シュリデヴィ(Sridevi)とジーテンドラ(Jeedendra)のキッチュな踊り。)

森林や田園風景が好まれるのは、それは未だプレイバックシンガーやアフレコ(dubbing)の技術がなかったトーキー時代の初めの頃の事情、つまり、撮影と同時に音録をする場合、ミュージシャンやマイクを隠すのに草むらや木陰を用いるのが最も簡単な方法であったという事情に由来している。

歌があるため、一般的なインド映画は西欧の映画よりも長尺となり易い。ヒンディ語映画では2時間半から3時間の長さの映画の中で40分以上は歌のシーンで占められている。どの映画も休憩時間を挟んで前後編と二部に分かれ、前篇で登場人物やそれぞれの役どころを描くと共に、後編よりも多くの歌が含まれるのが通常である。歌のほとんどが、リフレインを伴う3から4の詞と6拍子か8拍子のメロディ、歌の間の間奏部からなる。インストルメントは二つ三つの楽器から100人編成のオーケストラまで多様である。一つの歌の長さは3分から12分程度で、長くなればなるほど映画の中では凝った見せ場ともなる。

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インドで人気を博する映画のほとんどが歌を含むものであるが、映画音楽それ自体にジャンル的特徴はなく、映画のジャンルで括られるものである。ほとんどのインド映画は西欧の映画ジャンル、たとえば、「ミュージカル」「コメディ」「ドラマ」「アクション」や「ラブストーリー」のいずれかで分類できるようなものではない。なぜなら、それらすべての要素を含むからである。したがって、あえてジャンルを問うのなら、それはストーリーを展開するに主となり前景となる要素についてであろう。アクションやリベンジを強調する映画が優勢だった1970年代の中頃、一本の映画で歌の数はたった3曲か4曲に減っていった。一本当たり7から10曲の歌があったそれまで数十年間の映画と比べれば違いは明瞭である。1980年代終わり頃からロマンス映画が成功するにつれ、歌数は平均して6から7曲に増えている。今日、映画で歌数が決まる要素の一つに、オーディオメーカーからのプレッシャーが挙げられる。すなわち、片面で3曲収録可能なカセットテープを製造販売している都合、5曲以上、できれば6曲は映画の中に入れて欲しいというメーカー側からの要望である。

歌場面がなく人気を博したヒンディ語映画の例はほんの僅かに過ぎない。歌のない映画はボンベイの映画産業の主流からは外れたもので、たとえ「芸術映画」であっても、この業界では興行的に死を意味するものである。資金面、配給面や上映面で恵まれたいと望むのであれば、歌は映画において必須の要素となる。

音楽会社HMVが独占していた音楽市場に新規オーディオメーカーが参入し始めた1990年代初め頃から、音楽はボンベイ映画産業の中で経済的に重要性を増し、音楽著作権から得る収入は映画制作の為の資金源となってきた。ヒットしたヒンディ語映画の音楽アルバムがミリオンセラーを記録し始めると、オーディオメーカーが競って映画制作予算の25%もの額を出すようになったからである。映画音楽のマーケティングやセールスで成功を収めたVenusやTipsといった会社が映画制作の部門にも進出し始め、当然のことながら、歌のシーンに注力を傾けた。

テレビジョンにおいて、歌は映画のパブリシティの最も重要な形式となり、映画が撮影される前に歌が録音され、歌の幾つかのシーンが映画制作段階の初めに撮影されて、配給会社への映画の販促に用いられた。映画音楽はプロデューサーやオーディオメーカーによって慎重にオーケストレーションされリリースされている。映画がまだ完成していない段階から、完成の数か月前であっても、歌のシーンはテレビの数多くの映画関連番組や番組間のコマーシャルで放映され始める。このように映画音楽は映画の封切りの少なくとも2か月以上前には市場にリリースされているのである。この「オーディオ・リリース」に先立って、プロデューサーやオーディオメーカーが社交界の裕福な人々や配給会社や上映会社のお偉方、音楽卸売業者やジャーリストを招いてイベントを行い、音楽シーンのクリップを上映し、このイベントの主賓として招かれた産業界の重鎮が公式にオーディオカセットを「リリース」し、カセットを開梱し、その音楽シーンに関わった主要なメンバーや俳優に手渡すといったパフォーマンスを行うのである。その間の一部始終は写真やテレビを媒体として報道されることになっている。このイベントは表向き、業界向けだが、映画を一般公衆に広めるにも一役買っている。特に有名な映画俳優が登場するとなればメディアも盛大に取り上げるからである。マーケットリサーチが滅多に行われない環境では、映画の封切の前に30-40%の売り上げを上げることもある音楽セールスが映画制作者にとっては、映画への庶民の関心の高さを測る唯一のバロメータでもある。

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1990年代の終わり頃までテレビでは映画の中の歌を集めた番組が急増していったがそれに伴い映画プロデューサー、配給者、および上映者(映画館)は観客を映画館に足を運ばせる手段としての歌に期待を寄せ、プロデューサーたちはそれら歌のビジュアル化に法外なほどカネをつぎ込んでいた。映画のテーマや脚本の筋とは関係なく、多くの映画では豪華なセット、スペクタクルな衣装、数百人のエキストラとダンサーたち、および特殊効果をてんこ盛りにしたため、制作費用は数百万ルピー(1作当たり)に膨れ上がった。「アイテム」ナンバーと呼ばれるこれらの場面は映画に「リピート価値」を与えるもので、同じ映画をみたいと観客に一度だけでなく何度も映画館に足を運ばせるだけのクオリティーを意味し、映画を興業的にヒットさせる鍵であることを映画業界関係者は経験的に知っているからである。最も興業的に成功したヒンディ語映画とは、10回、20回、50回、ときには100回も映画館で同じ映画を観賞するリピーターを呼ぶ映画でもある。著名な現代画家のM.F. Husain氏は14曲の歌場面のある1994年に大ヒットした”Hum Aapke Hain Koun!”(”HAHK”)を85回も観賞したそうだ。


(1994年制作”Hum Aapke Hain Koun!”(「私はあなたの何?」)からマードゥリー・ディークシト(Madhuri Dixit)とサルマン・カーン(Salman Khan))


このように、歌は映画のリピート価値において重要な要素を占めている。1993年制作”Khalnayak” (主演:サンジャイ・ダット(Sanjay Dutt))の封切り直後に何回観客はその映画をみたのかについて新聞紙面に記事が掲載されたが、その映画のメイン・アイテムナンバーである”Choli ke peecke kya hai?“のシーンまでが「リピート価値」という内容であった。

歌のシーンを「エキゾチック」な場所で撮影することは、「リピート価値」を高めるための一要件である。たとえば、欧州、北米やオーストラリアといった場所である。特に、牧草地など田園風景、渓谷や山々といった景観を擁するスイスはヒンディ語映画制作者たちにとって長年の憧れの地であった。


(1970年制作 "Prem Pujari"から。スイスが舞台。デーヴ・アーナンド(Dev Anand)とワヒーダ・レーマン(Waheeda Lehman)のゴールデンコンビ。)

また映画制作者は過去に映画に登場していないロケーションを常に世界中に探し、歌のシーンを撮影して回った。ハンガリー、メキシコ、ニュージーランド、ノルウェイ、スコットランドや南アフリカなどである。いくつかの歌は表向き主人公たちがそれらの場所を訪れたという外国のセッティングであるが、それら外国のロケーションのほとんどは脚本の筋とは何の関係もなかった。映画プロデューサー兼監督であった、ヤシュ・チョプラ(Yash Chopra)氏が、彼の1981年制作映画”Silsila”の中の二つのラブソングをチューリップ畑の真ん中で撮影するためだけの目的でロケをオランダで挙行したのは有名な話である。


(1981年制作 ”Silsila”からオランダのチューリップ畑でのレカー(Rekha)。)

1998年の映画 “Jeans“に至っては、その映画の中の「世界の七不思議」をフィーチャーした歌の通り歌のシーンの撮影が行われた。男女が互いにラブソングを歌い合うシーンは、万里の長城(中国)、ピラミッド(エジプト)、タージマハール(インド)、エッフェルタワー(パリ)、エンパイア・ステートビルディング(ニューヨーク)、ピサの斜塔とコロッセウム(ローマ)で撮影されたが、このような「エキゾチック」な場所での撮影が、映画の主たるマーケティングポイントである。


(1998年制作 “Jeans“から「世界の七不思議」のソングシーケンス)

映画制作者たちが世界を股にかけて歌のシーンを撮影することで、歌は同時にバーチャルな世界旅行を観客に提供することにもなる。ヒンディ語映画が世界的に配給されるようになると、諸外国の政府はボンベイの映画制作者たちにロケ先として申し出るようになった。観光や投資が目的であることは言うまでもない。ロケ地として使われ過ぎて食傷気味のスイスに代わって、映画制作者たちは新たな場所を探し始めたが、スイス政府は彼らに戻ってくるように熱心に働きかけているようだ。

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外国でロケを行えば費用が嵩むと思うかもしれない。しかし、ボンベイの映画制作者たちは外国ロケの方がより費用効果的となる方法を知っていた。それは、最小限のキャスト、クルー、および資材だけでロケ隊を構成し、現地では各撮影日を最大活用すれば費用効果を高めることが可能だからである。夏場は気温や昼間の長さを考慮して欧州や北米にロケに行く傾向がある。人工の光よりも自然光、セットよりも実在する街並みや景色を用いることで、歌のシーンの撮影にかかる時間を半減させることもできる。映画制作者たちが外国ロケを好むもう一つの理由に、やじ馬で撮影が始終邪魔されるボンベイとは異なり、外国の地では俳優たちにより完全な撮影への集中を約束することができるという点がある。また、インド国内ではカットすることができないスターに関連する諸費用を外国ロケでは節減できる点も挙げられる。たとえば、インド国内で撮影する場合、プロデューサーはスターたちの付き人(メーキャップ・アーティスト、ヘア・ドレッサー、ドライバー、パーソナル・アシスタントや友人たち)の勘定もしばしば受け持たなくてはならなかったが、最少人数(スターだけ、または若干名の付き人を付けて)で挙行する外国ロケではプロデューサーはこの慣行に従わなくて済んだからである。インド国内のロケではスターたちはそのステータスから5つ星ホテルに部屋を要求するが、外国ロケの場合は、プロデューサーは予算を重視することができるので、スターたちも手ごろな宿泊設備で間に合わせざるを得ないことになる。外国ロケではそれでもかなりの出費となるが、美的・経済的な理由からヒンディ語映画制作者たちは外国でのロケに利点を見出しているようである。


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日本でロケを行ったインド映画はその「エキゾチック」性ゆえ、インド国内でもヒットした。その例として、タミル語映画(1973年制作”Ulagam Sutrum Valiban” 「世界を旅するヤングスター」・主演MGR)、ヒンディ語映画(1966年制作”Love in Tokyo“/主演:Joy Mukerji(ジョーイ・ムカルジー))、同じくヒンディ語映画(1967年制作 “Aman”/主演: Rajendra Kumar(ラジェンドラ・クマール))が挙げられる。それらの映画の背景には当時高度成長期の只中にあった日本の原風景が映りこんでいることにも興味がそそられる。


<タミル語映画(1973年制作”Ulagam Sutrum Valiban” 「世界を旅するヤングスター」・主演M.G.R.・1970年開催の大阪万博を中心としたロケ。M.G..R.のシュールなおバカさには唖然とするが、当時の日本も背景に映りこんでいて面白い。思わずフレームの中に子どもの頃の私が居まいかと探した。)>




<ヒンディ語映画(1966年制作”Love in Tokyo“/主演:Joy Mukerji(ジョーイ・ムカルジー))・Asha Parekhが怪しげな和服姿で踊り歌う「Sayonara Sayonara」は大ヒットとなった(プレイバックシンガーはLata Mangeshkar(ラター・マンゲーシュカル)。Mahmood(マフムード)が芸者に化けている。彼はその翌々年の映画”Padosan”ではダンス・マスター役で怪演を見せる>。


<ヒンディ語映画(1967年制作 “Aman”/主演: Rajendra Kumar(ラジェンドラ・クマール))・目鼻立ちくっきりのSaira Banu(サイラ・バヌー)がなぜか日本人の設定。>

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そして、2020年東京オリンピック・パラリンピック開催に合わせるかの如く、上述の”Love in Tokyo”のリメーク構想が日印間で進行中だと言う。

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歌のさらなる重要な要素であるダビング(プレイバックシンギング含む)ついては別稿で触れることとし、次回はヒンディ語映画制作での”narrated”「口頭」作業について触れてみたい。

(つづく)

posted by ihagee at 19:06| インド映画