2019年12月02日

アマンとマハトマ(平和と偉大な魂)



場所はビルマのラングーン(現:ミャンマーのヤンゴン)。同地を支配している英軍が日本軍の空からの奇襲に遭っている。逃げ惑う多くの民衆の中にガウタム一家がいた。至るところで爆弾が炸裂しガウタム少年の母親が犠牲になった。残された少年と父はやり場のない悲しみと怒りの眼差しを夜空に向けている。

戦争が終わり、父子は遺影を抱いて母国に戻った。ガウタム青年は英国に渡り研学に励み医師の資格を得る。広島・長崎の被爆者に今こそ援助の手を差し向けるべきとの念に駆られる。そして、敬愛する一人の老人の元を訪ねた。

「私の祝福は君と共にあります。君の抱えている問題は全世界の問題です。君の行おうとしていることが成功することを願っています。君の考えに感謝すると共に、その仕事は偉大な人のものとなることであると信じています。あなたのしようとしていることを世界中の全ての国が見るでしょう。そして手を差し伸べるに違いありません。」

信念を新たにしたガウタムは父の待つインドに戻る。母親の遺影の前でガウタムはその堅い決意を父に伝えるが反対される。数日後、父親は考えを改め、日本行きの航空券を息子に手渡した。

高度経済成長只中の日本。赴任した病院のベッドに原爆症に苦しむ人々が横たわっていた。患者を診て回る。火傷の跡が酷い者の中に、一人外見は何ら変わりがないヒロコという女性がいた。血液のガンで自暴自棄となっていたヒロコの手を青年はしっかり握った。

この病院の設立者アキラには娘がいた。インドで教育を受けヒンディ語が達者な彼女はミロダという。ミロダはガウタムに好意を寄せるが仕事に一途なガウタムはそれを感じ取れずにいる。

ガウタムにだけ気を許しその下で治療を受けるようになったヒロコだが、ガウタム以外の医師に対しては反抗した。そして、或る日、ベッドに押さえつけて治療を施そうとする医師たちの手を振り払って、手術室に逃げ込みそこで自殺してしまう。ガウタムは自らの無力を嘆いた。

やがて、ガウタムは放射線治療の画期的方法を見つける。

軌を一にするかに、太平洋のとある環礁で仏軍が大気圏核実験を行った。日本の漁船が巻き添えになりガウタムは周囲の反対を押し切り船を仕立て、救助に赴く。核の雨が降る下をずぶ濡れになりながら漁民を救助したものの被曝してしまう。自ら発見した方法を施術しようとするがその途中、突如視力を失い病院のベッドに自ら横たわる身になった。目の見えぬガウタムの指を借りミロダは額にシンドゥールを付け契りを交わしガウタムはやがて息を引き取る。その遺骸はミロダに付き添われ母国に戻る。英雄と迎える者たち、「不道徳者!」とその遺骸に鼓を鳴らして攻める者たち、そのいずれも遠ざけるようにガウタムの父はミロダを祝福し、息子の額にそっと口付けをした。遺骸は荼毘に付される。



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1967年製作のヒンディ映画「アマン(平和)」のあらすじである。
ガウタム医師役Rajendra Kumar、その父親役Balraj Sahni、日本人のミロダ役Saira Banuで、英国、インド、日本で撮影されたこの映画。ガウタムの決意を祝福する老人は、哲学者バートランド・ラッセル卿(Bertrand Russell)本人である(出演当時95歳)。映画の中の言葉(上述)はヒンディ語のナレーションが被って聞き取りづらい部分のラッセル卿の言葉である。

My blessings are with you, this problem, is a problem of the entire world. I hope that you will be successful in this mission. I appreciate your thoughts, and believe that your work is that of a great man, and I hope all the countries in the world will see your challenging work and support you.

ラッセル卿については、本ブログでも別に記事を掲載している(『「'ヒト'という'種'の一員として」の戦争放棄(憲法第9条)』)。最晩年に至るまで非核平和を自ら世界に発信していたが、それが時にビートルズに語ったり、時に上述のような映画出演ともなったようだ。「アマン」でのラッセル卿のシーンはそれ自体がカメオ(名場面)としてインド映画史に刻まれていると聞く。その相手となるガウタム医師役はRajendra Kumarだが、Kumarは私生活に於いても清廉を貫きヒューマニストとして夙に知られていた名優である。

平和を希求し言葉だけでなく実践する者こそ「その仕事は偉大な人のもの」と、ガウタム医師に照らすのは非暴力主義に徹したマハトマ・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)であることに疑いはない。「マハートマー(महात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンディーの尊称である。

「アマン」を元に以下考察を行った。いささか長文となるがご勘弁。

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「アジア最初のノーベル賞受賞者は誰?」

1913年、文学賞受賞者 ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)と答えられる人は少ないだろう。ガンディーに「偉大なる魂」という尊称を与えたのはこの詩聖タゴールである。「物理学賞の湯川秀樹博士(1949年)に決まっている」などと、ナショナリズムに凝り固まり、何事も「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と一部自慢をする向きに、アジア人としての意識を促す質問でもある。モンゴロイドの血族だけがアジア人ではないのである。

映画「アマン」では、アキラの屋敷の壁にタゴールの肖像画が飾られているシーンがある。

そのタゴールと生涯交流を持った日本人がいた。詩人ヨネ・ノグチこと野口米次郎である(彫刻家イサム・ノグチの実父)。その野口もタゴールと並んで米国で最初に作品が紹介されたアジア人詩人である(1924年「ニュー・ポエトリー(The New Poetry)」に英文詩が掲載)。

しかし、両者は思想面では時として激しく対立した(侵略戦争観)。野口や、その当時の日本国・日本人一般が描いていた「大東亜共栄圏」なるアジア主義と軍事派遣主義(アジアの平和を西洋文明の暴力から守るための戦争)について、タゴールは単なる侵略戦争に過ぎないと一蹴した。

1935 年 12 月にガンディーと会見した野口は、次のように言われる。
「私の日本人へのメッセージは、詩人タゴール博士からあなたがたが受け取ったものに含まれている。彼のメッセージには、私たちが与えることのできるあらゆるメッセージが含まれている。」

しかし、野口はそのメッセージを理解することができなかったのだろう。
「その言葉の意味が私に明瞭でなかったが、恐らく彼はタゴールが常に抱いている日本の物質主義への反対を意味したのであろう。」『印度は語る』1936 年(野口米次郎)

「それから印度を考えて見るに、印度の独立を論ずるのは単に彼地に於ける少数の理想家の夢とばかり結論することが出来ぬ、英国の軍事上又政事上の圧迫は来る幾年かの間も依然として経続するであろうが、いつかは印度人が自覚してその自覚を体現するに至るであろう。今回の大戦争が印度にも波及せしめた民主主義が之の自覚を早めたと思われる実際の証拠もある。してこの印度も支那同様、日本の覇権を認めて共に東亜の一部分となって欧羅巴に対抗するに至るであろう。ずっとこの予想を更に拡めて、波斯その他の小国もその手に入れることも出来そうである。(慶大教授 野口米次郎「猶太国の建設」大阪毎日新聞 1918.7.17-1918.7.21から)

野口にとって、「彼地に於ける少数の理想家の夢」がガンディーであり、タゴールであり、「日本の覇権を認めて共に東亜の一部分となって欧羅巴に対抗する」印度志士が、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)であった。

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私の母方の祖父は太平洋戦争中、内地で軍需産業(写真フィルム・乾板製造)に密接に関わっていた関係もあり、「大東亜共栄圏」の正当性と共に「インド解放の志士」チャンドラ・ボースについて、少年だった私にじゅんじゅんと説いたものだった。その正当たる所以は「日本はアジアを開放し、アジアの諸民族から感謝されている」などと、時折中村屋の話(新宿中村屋で本人を目にした等)が混ざっていたので、もしかすると、チャンドラではなく別人のラース・ビハーリー(Rash Behari Bose、中村屋のボース・インドカレーの父)のことだったのかもしれない。

その中村屋のボースは「自由インド仮政府」のオブザーバーとなって、英国植民地からの解放をスローガンとしインド進攻のための仮政府本部を当時日本の占領下にあったビルマのラングーンに移転させた。すなわち、映画「アマン」の最初のシーンに関わってくるのである。チャンドラと同じく「日本の覇権を認める」印度志士であった。

目下ビルマ作戦に敗れた英国軍はインドに飛行基地を置いて蠢動し、ラングーン市その他を盲爆、無辜のビルマ人、インド人を苦しめつつあり、これに対し日本はインドに対する無差別爆撃を厳に戒めているが、これはインド人の惨禍を避けている結果にほかならない、また地上部隊の進攻についても日本軍は一挙全インドの戡定をなすは易いけれどもそのインド人に対する戦禍の如何に惨憺たるべきかを憂え差控えているにすぎない、この際全インド人はよく事態を認識し機会を失うことなく蹶然起ってその民族の宿敵である英軍を自身の手により全インドより駆逐すべきであると考える(「民族的栄誉担わん・インド人も蹶然起て(飯田最高指揮官)大阪毎日新聞 1942.8.2 (昭和17)」”

だがもっと重要なことは、ラングーン市民がうけた爆撃の被害であった。爆撃の結果は壊滅的だった。火災が全市をおおい、数千人の市民が死傷し、多くの海岸倉庫が破壊された。イギリスの志願兵たちは、爆撃のあと片づけを能率よく行い、負傷者の面倒をみたが、ビルマ人やインド人労務者が田舎に逃げだすのを、阻止することはできなかった。(「孤軍奮闘! ビルマの戦い」から)

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「愛国者は常に祖国のために死ぬことを口にするが、祖国のために殺すことについては決して語らない(バートランド・ラッセル卿)」

「目下ビルマ作戦に敗れた英国軍はインドに飛行基地を置いて蠢動し、ラングーン市その他を盲爆、無辜のビルマ人、インド人を苦しめつつあり(飯田最高指揮官)」と新聞記事にあっても、その実際の仕業は、英国軍ではなく日本軍であったことを史実は示している。


(ラングーン爆撃 陸軍第3飛行集団と爆撃機87機で実施された最初の空襲「ビルマ作戦(援蒋ルートの遮断)」より引用)

映画「アマン」に於いても、「祖国(インド)のために殺す」とインド国軍と協働した日本軍の爆撃で殺されたのがガウタムの母親ということになっている。その一家の祖国はインドであっても。

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マハトマ・ガンディーは1942年に「すべての日本の人々へ」と題する手紙を記している。その訳文がネットで公開されているので以下一節を引用させていただく。

“あなた方の主張とあなた方の容赦ない中国への攻撃に、整合性はありません。あなた方が「インドから歓迎をもって迎え入れられる」などという悲しい幻想に惑わされ、過ちを犯さないようにお願いしたいのです。”

1935 年 12 月、ガンディーが野口米次郎に託したメッセージの内容とは即ちこの「アジア幻想」である。そして、その幻想の果てがインパールだった。

“英国領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略は、作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため(公称7万2,000人)、現在では『史上最悪の作戦』と言われている。・・・インパールでは当時の戦闘を「日本戦争」と呼んでおり、巻き込まれて死亡した住民が237人いる(wikipedia)”

1947年8月15日、ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)は英国からのインド独立を宣言した。「あなた方」ではなく、インド人自身の手による「運動」で勝ち得た独立である。

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そのインパールを安倍晋三内閣総理大臣が今月訪問する。

237人の無辜のインド市民ではなく、7万2,000人の「あなた方」を悼み、「インドから歓迎をもって迎え入れられ(たに相違ない)」などとインパールの地で思いを新たにするのであろうか?「アジア幻想」を追い求め「積極的平和主義」なる造語を以て、武力(積極的)覇権を正当化しようとする先に再び第二のインパールが現れない保証はない。

「その仕事は偉大な人のものとなることであると信じています。(映画「アマン」でのバートランド・ラッセル卿)」

偉大な魂「マハートマー(महात्मा)」は「アマン(平和)」を希求し実践する者にだけ与えられる尊称である。それがガウタム医師に照らすガンディーである。

戦後、日本国は憲法で平和主義を謳っているにも関わらず、「アマン(平和)」を希求し実践することを「少数の理想家の夢(野口)」と言わんばかりに軽んじ、戦争に戦うことから戦争で戦う国に変えてしまった安倍晋三氏に、インド人にとっての「偉大な魂」とは何か全く理解することはできないだろう。「彼地に於ける少数の理想家の夢(野口米次郎)」は幻想でなく現実となった。翻って武力覇権主義に拠った「アジア幻想」こそ夢まぼろしとなったことを我々は忘れてはならない。

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余談:
1.ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)の名著「父が子に語る世界歴史」(みすず書房)の訳者、大山聰氏(元成城大文芸学部教授、東京都立大名誉教授、ドイツ文学)は私の恩師。ご自身、ドイツ文学者でありながら、英語の長大な原著を翻訳された。大山先生は同じくドイツ文学者の登張正美先生とは学生時代(東大)からの盟友で、お二人から等しくドイツ語を教わったことは今でも私にとって得難い経験となっている。大山先生はおっとりと柔和な授業で、音吐朗々威厳に満ちた登張先生の授業とは好対照でもあった。登張正美先生のお父上、登張竹風氏の編纂した赤い表紙のドイツ語辞典は母方の祖父の遺品である。戦前のドイツ文字(フラクトゥール)で実用に供することはなく、書棚の奥で今は眠っている。

2.  ラビンドラナート・タゴールの遠戚にボリウッド映画の名女優シャルミラ・タゴール(Sharmila Tagore)がいる。ワヒーダ・レーマン(Waheeda Rehman)と共に、私の好きな1960-70年代の女優である。Rajendra Kumarとも数本共演の映画があるが、最も共演しているのはRajesh Khannaだろう。唇の端を僅かに引いて微笑む表情やら、何気ない仕草に情感が溢れていた。その娘も同じく女優として活躍している。

3. 映画「アマン」で日本人のミロダ役を演じたサイラ・バヌ(Saira Banu)は幼少期ロンドンで育った為か、その役柄も西欧文明に毒された女性がやがてインド人としてのアイデンティティを取り戻すという類の映画が多かった。美貌に恵まれツンとお高くとまっていながら、トンマなドジを踏むというコメディ場面はいつ観ても楽しい。バヌの夫は伝説の名優Dilip Kumarである(97才で存命)。

(おわり)

posted by ihagee at 18:56| インド映画

2018年02月26日

インド映画考 – その10(シュリ・デヴィ死す)



インド映画界の伝説的人気女優シュリ・デヴィが24日、心臓発作のためドバイで死去した。54歳。親族の結婚式で倒れそのまま逝ったそうだ。

15年ぶりに銀幕復帰となった2014年「マダム・イン・ニューヨーク」でようやく我が国でもその存在が知られるようになったが、昨年公開のMomが遺作となった。



私は彼女が全盛時代の作品しか記憶にない。つまり、ボリウッド(ヒンディ語映画)・クイーンのディーヴァ中のディーヴァとして君臨していた美の象徴としてのシュリ・デヴィである。

彼女の芸歴は1969年のタミル語映画(コリウッド映画・子役)に始まるというから休業期間を除いて人生の殆どを映画俳優に捧げたというに等しい。言葉も民俗宗教性も異なるテルグ語映画、ヒンディ語映画と掛け持ちをするタレントぶりを発揮するところも、インドを代表する女優と称される所以でもある。

シュリ・デヴィの代表作のダンスシーンで彼女を偲びたい。


(1986年作品 Nagina / シュリ・デヴィ自身はこのイメージが付き過ぎて嫌だったようだが)


(1991年作品 Banjaran / ジャイアンのようなRishi Kapoorとは数多く共演した)



(1983年作品 Maine Tujhe Chhua / Jeetendraとはいつもキッチュな踊りを披露)


(Mr. India / 世界制覇を企む悪の組織と戦う話。Anil Kapoorとの共演作ではコミカルな演技が多い)



(1991年作品 Tere Bina Jag / Vinod Khannaとの共演。天知茂似のマッチョなVinodも昨年亡くなっている)


拙稿「インド映画考 – その2(再会)」で

"Padmini(パドミニ)、Hema Malini (ヘマ・マリニ)、Sri Devi(シュリ・デヴィ)やRekha(レカー)といったディーヴァたち(いずれ別稿で取り上げるつもり)は、コリウッド映画から出発してボリウッド映画に進出したが、彼女たちの踊りや演技力の素晴らしさが言語・文化圏を超えて広く認識されたのであろう。その成長・成功の過程を作品から辿れるのも映画の良さである。"

と述べたが、15年ぶりの銀幕復帰というファンとの「再会」を果たしその成功の過程がこれからまた始まるという矢先の突然の死だけに悔やまれる。

(おわり)


posted by ihagee at 18:20| インド映画

2017年03月27日

インド映画考 – その9(ヒンディ語映画・”ダビング“)


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「ダビング」(dubbing)とはビデオテープ、オーディオテープなどの記録内容を複製するという和製英語である(その意味に相当する英語は”copy“)。

「ダビング」(dubbing)の本来の英語の意味は、映画やテレビドラマ等で撮影後に音だけを別途録音すること(和製英語の「アフレコ」に相当)。ヒンディ語映画を含むインド映画において、この意味の「ダビング」はその制作段階で重要な要素となっている。

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前回、撮影に入る前段階(pre-production phase)について触れた。今回は制作段階(production phase)での「ダビング」(dubbing)について以下、具体的に触れてみたい。(以下内容の出典:Tajaswini Ganti著 “BOLLYWOOD a guidebook to popular Hindi cinema”, 出版社:Routledge, London)


一旦、撮影に入ると(制作段階(production phase))コンスタントにスケジュールが進まないのがヒンディ映画の特徴でもある。つまり、継続したスケジュールで映画が完成するのではなく、切れ切れに撮影するので完成までに長い時間がかかるのが通常のようだ。プロデューサーは映画制作に必要な費用を全て初めから準備するようなことはしないので、クランクインからクランクアップまで一気に数週間で済ませるよりも、二日から二週間程度の小口のスケジュールを数か月又は数年のスパンに亘って断続的に積み重ねて制作することがヒンディ映画の特徴となっている。その過程でプロデューサーは資金を調達しようとするからである。そのため、クランクインから劇場公開まで数年かかるのが普通となっている。ボンベイの映画産業において、1年以内に映画を仕上げることは迅速且つ効率的とみなされるが、最初から大きな予算がついた作品であればその期間はおよそ15-20か月である。

断続的且つ断片的な制作過程ゆえに、俳優たちは前もってリハーサルをせず現場のセットで通常セリフを記憶するので、膨大な時間がライティングに使われることになる。歌の場面を撮影しようとすると、セット上で俳優たちはダンスのステップを学び、その場で音楽を何度か繰り返して聴くと、事前に歌を知らなくとも歌詞に合わせて口元をシンクロ(クチパク)させることができる。撮影前のリハーサルは稀で、あるとしてもそれは俳優のためではなく、ミュージカルナンバーに手を入れるためとか、コーラスダンサーのためである。映画の生フィルムは輸入に頼り映画の予算の約10%を占めるほど高価なので、ボンベイの映画制作者は撮り直しや余分な撮影が多くなることを望まない。

音声を同時録りしないことが、この制作段階の顕著な特徴の一つである。これは映画制作者の多くが同時録音機能のない古いタイプのカメラを使っていることと、カメラのノイズがあるので、後々の編集の便宜の為に俳優の声の部分だけはセット上で別録りする必要があるからだ。つまり、セリフから音楽そして効果音まで、ヒンディ語映画の音声の全ては後段階(post-production phase)で加えられる。撮影と編集が済むと特別なダビングスタジオで俳優たちがスクリーンに映し出された演技を見ながらアフレコを行う。その際、スクリーン上の唇の動きに合わせてセリフを載せる作業を繰り返すのである。このアフレコは共演者を介在させずに俳優が一人ずつ行う。台本で作業を行わず耳と記憶力に頼って映像の口元からセリフを読み取ってアフレコを行うのである。助監督の一人は通常この過程の監督責任を負っており、発音、文法並びに語順が正しいかをチェックする。ダビングに要する時間は俳優の経験値に反比例し、経験豊かなベテラン俳優であればダビングを数日で終えることができる。

ダビングの利点の一つとして、ヒンディ語を話せない俳優であってもプロのダビング・アーティストやヒンディ語の声優によってアテレコが可能なので、ボンベイの映画制作者はそんな彼らであってもキャストすることができる点がある。ヒンディ語映画の俳優がインドの他言語の映画に出演する場合には、この逆が当てはまる。無論、撮影の最中は、追ってアフレコすることを想定して俳優は唇の動きに注意を払わなくてはならない。撮影現場で監督やプロデューサーがプロンプターにセリフを言わせ俳優には声を出させずクチパクで演技させる場合もあるが、これは俳優にとって時に侮辱と受け取られることである。

一般的なインド映画では、セリフの声、歌声とスクリーン上の俳優は3つの別々の実体である。2000年以降、撮影と同時に音録を行ったヒンディ語映画が登場し始める。ダビング(アフレコ)の過程で撮影時と全く同じテンションや自発性を再現することは難しいとして、このやり方は理に適っていると主張する俳優も現れ出した。しかし、大多数の映画制作者たちにとって、上述のダビングの利点から、同時音録は現実的ではないと受け止められているようだ。防音(余計な音が入り込まない)撮影環境は今のところ存在しないので、同時音録を採用すると、撮り直しや生フィルムをその分余計に使うとことになりかねない。

ヒンディ語映画は制作本数の高さを誇り、視覚的効果に凝った作品が多いこともなって、制作条件は驚くほどシンプルで最小限のテクノロジーを用いてきた。1998-9年頃まで、原則的にヒンディ語映画は一台のカメラユニットだけで撮影され、映画制作者たちはビデオモニターを用いてこなかった。クレーンやドリーといった撮影装置は人力で動かされ、クラップボードは電子化されておらず、チョークの手書きだった。ライティングには黒い紙と白い発泡スチロールの板が用いられてきたが、この1998-9年辺りから、コンピュータ上のデジタル編集が始まる。

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歌声とスクリーン上の俳優を一体化する為の技術として「プレイバックシンギング」が登場したのは1935年と言われている(1931年、ヒンディ語映画では最初のトーキー作品 “Alam Ara”が上映され、同年『マダムと女房』(松竹キネマ製作、五所平之助監督、田中絹代主演)が本邦初の本格的なトーキー作品とされる)。すなわち、事前に録音しておいた歌声の歌詞に合わせて俳優がクチパクで演技をする技術である。俳優たちは自ら歌う必要がなくなり、歌場面の視覚化は絵と音を同時に記録する必要がなくなった。インドの映画制作に革命をもたらした技術である。


(1931年 "Alam Ara”)


(1931年 "マダムと女房”)

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このインド映画で発明された「プレイバックシンギング」はトーキー映画の大先輩であるハリウッド映画ではなぜか採用されず、カメラや俳優の動きが制約されたようだ。

『撮影時に録音しようとしたとき、様々な難題が発生した。まずカメラそのものが非常にうるさかったので、防音したキャビネットにそれを格納することが多かった。このためカメラを動かせる範囲が非常に限定されることになった。その対策としてカメラを複数台配置して様々な角度から撮影する方式も採用され、カメラマンらは常に特定のショットを得るためにカメラを解放する方法をなんとか生み出していた。また、マイクロフォンに声が届く範囲にいなければならないため、俳優の動きも不自然に制限されることがあった。(wikipediaより)』

その後、ハリウッドではカメラやマイク、録音方式などに技術的改良を加えて、撮影時の録音での様々な難題を解決していったが、インドでは最初から難題は切り分けて「プレイバックシンギング」を含む「ダビング」で対応しようとしたことになる。

ただしハリウッドが解決できなかった難題があった。それは、
『舞台経験のない俳優は突然トーキーに対応できるか否かについて疑問を持たれるようになった。先述したように、訛りがひどい者や容姿と声が合っていない者も無声映画時代にはその欠点を隠せていたが、特に危険な状態に追い込まれた。無声映画の大スターだったノーマ・タルマッジは、そのようにして事実上映画俳優をやめることになった。(wikipediaより)』

この難題すらインド映画では「プレイバックシンギング」と「アテレコ」で解決してきたのである。

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「プレイバックシンギング」によって歌が先に録音されるので、映画の封切りの前に歌を以て映画の宣伝ができるという利点もある。「プレイバックシンギング」はまたたく間に映画制作に侵透し、1940年代までに、ボンベイの映画産業では分業化が進み、その中で銀幕の全てのスターに代わって歌声を提供する一握りの歌い手たちが「プレイバックシンガー」なる肩書きで脚光を浴び始めた。四半世紀に亘って、男声歌手ではMukesh, Mohammad Rafi並びにKishore Kumar、そして女声歌手ではLata MangeshkarとAsha Bhonsleがヒンディ語映画(1950後半-1980年代前半)におけるプレイバックシンガーのトップの座に君臨した。

MukeshといえばRaji Kapoorのプレイバックシンガー。ソ連邦に招かれたRaj KumarがMukeshを紹介する貴重なビデオがあるが、分身としての彼の存在を伝えようとしているのがわかる。

(1967年モスクワ・Raji Kapoor(ラージ・カプール)とMukesh(ムケシュ))

Lata Mangeshkarの声の美しさと感性の機微は日本人の心に通じるところがある。

(1966年映画 "Anupama"から、主演:Dharmendra(ダーメンドラ)、Sharmila Tagore(シャーミラ・タゴール、プレイバックシンガー:Lata Mangeshkar(ラタ・マンゲシュカル))

Kishore Kumarは大俳優であるAshok Kumarの息子であり自身俳優である。音痴ゆえにクチパクで懸命に歌うフリをするSunil Duttの背中に隠れてその二役をコミカルに演じた作品(Padosan)は「プレイバックシンギング」がまさにストーリーの肝になっている。

(1968年映画 "Padosan"から、主演: Sunil Dutt(スニル・ダット)、Saira Banu(サイラ・バヌー)、Kishore Kumar(キショール・クマール)、Mahmood(マフムード))

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次回からは俳優編。1950-1980前半迄の間に活躍した銀幕の人々について綴ってみたい。

(つづく)

posted by ihagee at 17:51| インド映画