“小惑星は主に火星と木星のあいだの軌道を公転する無数の小天体。その数は2009年1月現在、軌道の分かっているものだけでも40万個を超え、現在も次々と発見が続いています。„ (宇宙情報センター・JAXA)だそうだ。
また、“新発見の小惑星の場合には、新しく発見されてから軌道何周分かの観測がされ、軌道がはっきりすると、まず番号がつけられます。そして同時に、発見者に対して、その小惑星に名前を提案する権利が与えられます。名前は、「16文字以内であること」や「発音可能であること」「主に軍事活動や政治活動で知られている人や事件の名前をつける場合には、本人が亡くなったり事件が起こってから100年が経過していること」など、いくつかの制約はありますが、その範囲内で好きな名前をつけることができます。„(国立天文台・NAOJ)とのこと。
命名は任意なので番号だけの小惑星が殆どだろう。しかし、上述の一覧から人名に因む名を持つ小惑星は思ったよりも多いとわかった。
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1985年(昭和60年)8月12日の日航機123便墜落事故では坂本九が犠牲になった。彼の公式ファンサイトでは
“AL123便に乗り、星になる„(坂本九 Official Web Site)と書かれている。
「星になる」の言葉通り、後に北海道のアマチュア天文家が発見した小惑星番号の (6980)には坂本九の名前がつけられた(6980 Kyusakamoto)。6(永六輔)、8(中村八大)がその数字で九ちゃんに寄り添っている。坂本の代表曲<見上げてごらん夜の星を>の作曲家はいずみたくなので、この星の通りとはならないが、<上を向いて歩こう>は689トリオなので夜空の先に同じ星があるに違いない。
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上述の一覧に記載がないが、私にとってもう一つの<星になった歌手>にアンナ・ゲルマン(Анна Герман)がいる。

彼女の歌声をどこで初めて聴いたのか。1970年代初め<モスクワ郊外の夕べ>のコールサインとともに壁の向こうから流れてくるラジオで聴いたのかもしれない。一瞬でその美しい歌声に魅せられてしまった。
彼女はポーランドの歌手として知られているが、中央アジアのウズベキスタンに生まれ、ソ連邦(共産圏下のポーランド含む)で1960年から70年代に活躍したドイツ系ロシア人であった。
ポーランドのヴロツワフ大学で地質学を専攻していた学生時代から音楽を学び始め、1964年ポーランド・Opole市で開催されたNational Festival of Polish Songs in Opoleでの歌唱<Tańczące Eurydyki>の受賞を皮切りに、1967年イタリア・サンレモ音楽祭には東の代表的歌手として招聘された(ANNA GERMAN SAN REMO 67)。
サンレモ音楽祭でイタリア滞在中に交通事故に巻き込まれ瀕死の重傷を負いリハビリが終わって再びステージに戻ったのは1972年だった。同年彼女は結婚し1975年には子供にも恵まれたが1982年に白血病で46歳という短い生涯を終えた。
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帝政ロシア時代にインテリゲンツィアたちが集まるサロンでは、プーシキンやレールモントフなどの文人たちも呼ばれ、彼らの詩にのせた叙情的なロマンスが数多く歌われた。このロマンスを歌わせてアンナ・ゲルマンの右に出るものはなかったと言われる。詩人ミハイル・レールモントフの<われ独り旅路に出れば(ВЫХОЖУ ОДИН Я НА ДОРОГУ)>の歌唱の素晴らしさはその一例だろう。
ロシア語の歌詞については、故米原万理さんが訳詞をされている。
“われ独り旅路に出れば もやの向こうに石くれ道がきらめく 夜はひそやに、荒れ野は神の声に聞き入り、星と星は語り合う„ (後略)
ここに星が歌われている。
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そしてもう一つの星<輝け、輝け、私の星(Гори, гори, моя звезда)>は、彼女のとって特別な意味を持っていた。
“輝け、わが星よ
輝け、わが星よ、やさしい星よ
君はただ一人、私が心に決めた人
他の誰も君ほどに愛せない。
月夜の空には満天の星
でも私を幸せにしてくれるのは君の光だけ
心安らぐ希望の星よ、魔法のような日々の愛の星よ
君を恋する私の心に君の星は永遠に輝く
私の人生を明るく照らしてくれたのは君の光
もし私が死んだら墓の上で輝いておくれ„
その歌詞の通り、ソ連の女性天文学者シュミルノバが1981年に発見した<小惑星2519>にはアンナ・ゲルマンの名前が付けられたからである(2519 Annagerman)。ゲルマンが亡くなったのは1982年8月25日だった。
秋の澄んだ夜空に星が煌めく季節になった。
(おわり)