2019年11月16日

マッチポンプの限界










「桜を見る会」の前日に開かれた「安倍晋三後援会 桜を見る会前夜祭」の会費が5000円だったことについて、安倍晋三首相は15日夕の取材対応の際に「ホテル側が設定した」と述べた。(毎日新聞2019年11月15日)

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安倍首相の「私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい」の言葉が、佐川理財局長(当時)をして近畿財務局に「関係していないということ」になるよう改竄を教唆しているに他ならない。・・具体的に「ああしろ、こうしろ」と言わずとも、「総理大臣の地位・国会議員の地位がかかっているんだぞ」と国会でこの国の自称最高責任者が凄めば、どうその言葉が波及するか時系列で追えばその通りの結果となっている。(拙稿『「だったら辞める」と官僚を脅したのは誰か?』)

またも、同じ「関係していないということ」にすべく構図である。「総理大臣の地位・国会議員の地位がかかっているんだぞ」とばかりに菅官房長が「5000円でできないことはないんじゃないでしょうか」と言い、5000円/人は「ホテル側が設定した」料金だった(と聞いている)と安倍総理が言う。ここに至っては、その話の通りにしなさい、とニューオータニに口裏を合わせるように教唆しているとも受け取られる。

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会費で足りない部分を安倍事務所なり安倍晋三氏の後援会が補填すれば、公職選挙法で禁止されている地元の有権者(後援会会員以外にも多くの地元有権者が参加していた)に対する寄附行為に該当するおそれから、あくまでも「ホテル側が設定した」料金で足り、その料金も安倍事務所なり後援会を介せず(収支とならないから報告の義務はない)、参加者が各人ホテルに直接支払ったことにしたいらしい。

しかし、日本を代表する一流ホテルたる、ホテル・ニューオータニの「鶴の間」を借り切るだけでもその料金以上となる上、料理や酒などを過不足なく提供すれば到底その料金には収まらない。ビジネスホテルじゃあるまいし、さらに850人もの参加者各人がその場で現金で直接ホテルに決済することなど有りえないだろう(安倍晋三事務所が事前にとりまとめれば収支となる)。

”立憲民主党の石川大我参院議員は、独自に同ホテルにパーティーの見積もりを依頼。来年4月で、桜を見る会に招待された首相の後援会約850人と同規模の800人で試算を出してもらうと、1人当たり「1万3127円」という回答を得たと明かした。”

「(5000円/人は)ホテル側が設定した」が正しいとしても、1人当たり「1万3127円」相応のサービスが実際には参加者に提供されたことに他ならない。つまり、安倍晋三後援会は会費以上の食事や酒などを地元の有権者に提供したことになり、政治家の後援会が、選挙区内にある者に対して寄付をする行為に該当するおそれがある(公職選挙法違反)。

さらに、「(5000円/人は)ホテル側が設定した」が正しければ、ホテル側は「1万3127円」の差分は赤字覚悟でサービスを提供したことになるが、「安倍晋三後援会 桜を見る会前夜祭」にだけ、ホテル・ニューオータニが「供給に要する費用を著しく下回る対価」を設定したことになり、独占禁止法上の不当廉売の疑いがかかる。だからと言って、同様の内容で5000円宴会プランがありますからご利用ください、などと言えばホテルの格式を下げ、株主が黙っていないだろう。また、同クラスの競業者との関係で、これはこれで「供給に要する費用を著しく下回る対価」となり、独占禁止法上の不当廉売を問われることになる。

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ホテル・ニューオータニを巻き込んだマッチポンプも今や無理が生じて二進も三進もいかない状況。

平成7年アジア太平洋経済協力(APEC)東京高級事務レベル会合及び同大阪閣僚会議に係わる公金詐取事件では、外務省欧州局西欧第一課課長補佐(当時)の公金詐取にホテル・ニューオータニ関係者2名が、実際に要した室料等に水増し額を上乗せした金額を請求するなど、辻褄合わせをして逮捕されている。後々、そんなことにならぬよう、ホテル・ニューオータニは事実を明かす必要があろう。

(おわり)

追記:

「今回の説明で納得する国民はいないでしょう。後援会の活動であれば当然、政治資金収支報告書に記載する必要がある。ホテル名義の領収書を用意してもらったのは、報告書に記載しないための偽装工作にも見えます。領収書に『飲食代』『会場利用費』などのただし書きがないのも不自然です。それに、食事代が1人5000円だったとしても、数百万円とされる宴会場の貸し切り料金は誰が支払ったのか。会場費の不記載に問われる可能性があります。さらに言えば、仮に首相の説明通り、通常は1万円以上する食事代をホテル側から5000円にすると持ちかけたとすれば、半額以上の割引は社会通念上許される範囲を超えており、現物供与の寄付行為にあたるでしょう。本来は政党への寄付しかできない一企業が首相個人や政治団体に献金したことになり、違法です。名門ホテルの看板に傷がつきかねません」(上脇博之神戸学院大教授・2019/11/16 日刊ゲンダイ記事引用)

「ホテル側から5000円呈示、提案することはまずない、あのようなパーティーは食事で売り上げを立てるのが第一義、5000円で企画したらまず調理部門に持っていけば突き返される、しかし若干の乾き物とビールをひとり1本なら5000円でも可能(しかし実際はちゃんとした料理が並べられていた)あとホテル側が宴会の領収書を発行するのは違和感。」(ホテル・ニューオータニで22年勤務・プリンシプル・ホテルコンサルティング中山晴史所長)


尚、この前夜祭の様子が判る写真でネット上に存在が確認されているのは、同上取材記事内に引用されたケイ潤子氏(シャンソン歌手)提供の写真以外皆無と言って良い(摩訶不可思議)。「桜を見る会」招待者名簿 5月9日に廃棄と内閣府が明かし、参加者たちが自ら嬉々とそれらの様子を綴ったブログ記事も悉く姿を消し・・、終戦時の国ぐるみの証拠隠滅を連想(1945年への道「終戦時の証拠隠滅」記事参照・小説「おしばな」にもこの場面を記述している)。全く不気味と言うしかない。有ったことも無かったことにする、が「美しい国(=国体)」を標榜する者とその支持者・後援会の実相なのか?法治でなく安倍首相の下の人治の方が正しいということか?証拠隠滅はその人治の為せる技であり、安倍政権下で繰り返されてきた。

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2019年11月8日:
田村智子参議院議員(日本共産党)、参議院予算委員会で「桜を見る会」に関し「国費で選挙運動疑惑」を取り上げる。

2019年11月11日
首相動静
【午後】1時47分、自民党の馳浩教育再生実行本部長らから提言書受け取り。2時1分、西村康稔経済再生担当相、新原浩朗経済産業省経済産業政策局長。43分、新原氏出る。45分、西村氏出る。53分、北村誠吾まち・ひと・しごと創生担当相。3時27分、ペルー・リマで開かれる「日本ペルー商工会議所経済フォーラム」に向けたビデオメッセージ収録。47分、北村国家安全保障局長、今井尚哉首相補佐官、外務省の秋葉剛男事務次官、森健良外務審議官、正木靖欧州局長、岡野正敬国際法局長。5時、国会。1分、自民党総裁室。3分、同党役員会。34分、官邸。42分、全国都道府県知事会議。6時59分、東京・銀座の日本料理店「東京吉兆」。経団連の今井敬、御手洗冨士夫両名誉会長ら財界人と食事。9時5分、自宅。(朝日新聞 2019.11.11記事引用)

2019年11月13日
午後、菅官房長官は来年の「桜を見る会」を中止する、と発表。

2019年11月15日
菅官房長「5000円でできないことはないんじゃないでしょうか・本当に聞いたのか。責任ある人に」
安倍晋三首相「安倍晋三後援会 桜を見る会前夜祭」の会費が5000円だったことについて、は取材対応の際に「ホテル側が設定した」と発言。

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今井敬氏:
日本経済団体連合会名誉会長・第9代経済団体連合会会長、株式会社ニューオータニ取締役・日本原子力産業協会会長等々兼任。内閣総理大臣秘書官兼内閣総理大臣補佐官・今井尚哉氏の叔父。
(wikipedia参照)


posted by ihagee at 09:45| 政治

2019年09月06日

チュッチェフとカポネ



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”安倍首相は、その後の国際会議でのスピーチで、プーチン大統領らを前にロシアの詩人であり外交官だった人物によるロシア国内で有名な言葉を引用し、次のように述べた。

「『ロシアは頭ではわからない。並の尺度では測れない。何しろいろいろ特別ゆえ。ただ信じる、それがロシアとの付き合い形だ』(会場拍手)。この有名な詩のロシアを日本に置き換えて見てください(会場笑)」

安倍首相はこのように述べ、日本もロシアを信じるから、ロシアも日本のことを信じて両国の協力を進めようと強調した。そして「その先に平和条約締結がある。未来を生きる人々をこれ以上もう待たせてはならない。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」と呼びかけた。”

産経新聞報:ロシア極東ウラジオストクで開催された東方経済フォーラム全体会合で演説での安倍首相の言葉(2019年9月5日)

帝政ロシア時代の詩人フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフの言葉Фёдор Иванович Тютчев)を借りたようだ。

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しかしそんな詩人の言葉を打ち消すかに、ロシアの各通信社は以下伝える。

「そのような親切な言葉に加えて、1920年代と1930年代に生まれたような言葉もある。優しい言葉に銃を添えれば、優しい言葉だけよりも多くを得ることができるということだ。(You can get more of what you want with a kind word and a gun than you can with just a kind word.)」(同日の日露首脳会談でプーチン露大統領はマフィアの帝王アル・カポネの言葉を引用した。)

このカポネの言葉の引用について、日本はどのメディアも伝えていない。

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“不可侵条約があるにもかかわらず独ソ戦が始まり、同様の条約を結ぶ日本国であれば、ソ聯がわが満州国に攻め込まない保証はないのではないでしょうか、などとエトワスに誰かが交わった。途端「お前たちは信念が足らん!」と一喝。黒板に信不及と大書し、授業に代え長々説教を始めた。(中略)講義ノートを書棚から引っ張り出し頁を手繰り信不及を鉛筆で真っ黒に撲った。軍司令部の敷地から連日朦々と立ち昇っていた煙が止み兵営からひとけが失せ程なくして、ラヂオの前に姿勢を正し終戦の聖勅を奉戴するも、日本人はいない。信念が足らぬと信じて残ったのは一旗組だけじゃないか、先生を嘘つきと呼べる自分がいる。”
(小説「おしばな」より)

「信不及」の顛末は「おしばな」に綴った通り。「信不及」とばかりに残った者は棄てられ(私の父や祖父がその体現者)、そう説いた者ほど一目散と逃げた史実に照らせば、「(日本は)信じるのみ」を「信不及」と、「日ソ不可侵条約」を「日露平和条約」と、小説の先生を安倍首相と、置き換えてみたくもなる。

“玄関の戸口を銃座で打ち付ける音が響く。腕に幾つも時計を巻き付け肩から自動小銃をぶら下げ腋に掻い込んだ汗と脂が混ざった饐えた臭いのダワイに囲まれた。”
(小説「おしばな」より)

ロシアの為政者が歴史的に我々に教えてきたのはチュッチェフのような机の上のアフォリズムなどではなく、カポネのような壁を背にしたプラグマティズムである。父も祖父も「(日本は)信じるのみ」に騙され「頭でロシアは分からない」だけが最後にそのロシア(ソ連)によって分からされた。

“触覚をのばすことでしか知り得ないかの如く、叩き、蹴り、破り、壊す。”
(小説「おしばな」より)

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“皆さんにはぜひ、プーチン大統領と私は、幾度も幾度も、食事をともにしたので、皆さんが言う「塩1プード分、一緒に食べた」仲なんだと、ご理解いただく必要があります。(中略)「信」は、人と人の間で生まれ、人と人をつなぎます。“(安倍首相)

どれだけ会ってどれほど一緒に食事を共にしようと、それが27回に亘る「親切な言葉」の繰り返しでしかなく、その言葉の裏で対米隷属的な姿勢(軍事面)を誇示する安倍首相を前にプーチン大統領はスミス&ウェッソンを抜いてみせたことになる。「頭でロシアは分からない」ことを分からせようとしているのかもしれない。

27回で「塩1プード分」どころか、会うたびに「塩1プード分、食べさせられる」アメリカが日本の本願(誓願)である限りはそうだろう。「私は、幾度も幾度も、食事をともにしたので」と、得意の鮨友関係を披露すればするだけ空しい。平和条約締結が我が使命と逸り、長門の温泉に招き友情を深めようとしたところで、湯に浸かることもなく料理をさして誉めることもなく、そのもてなしに画した安倍首相の功名心をプーチン露大統領は見抜いていたのだと思う。「君は歴史を知らないようだから(教えてやろう)」と、東京に戻ってからの記者会見の席で産経新聞の阿比留記者に向けた苛立ちがそれを如実に表していた。その滔々と語らなくてはならない歴史に長門の温泉旅館は何の関係もなかったわけである。

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自ら座禅を組むという安倍首相なら、「信」とは自家求心であって、相手にその信を求めることではないという禅の思想が「信不及」であり、その意味での「信」を「(日本は)信じるのみ」なる言葉に重ねて理解していても良さそうなもの。少なくとも「(日本は)信じるのみ」などと発言する限りは。

遡れば、日ソ不可侵条約が破られ北方の島々が奪われ、どんなに裏切られ袖にされようと、胸を開き腹を割ってまでも「信じるのみ」とロシアには接するが、他方、1965年の請求権協定に違反したことを以て、全く信がないと隣国を完膚なきまで叩く。「日韓間の真の問題は信頼(河野外相)」と言うのであれば、不可侵条約を一方破棄し領土まで奪ったロシア(当時のソ連)に対しては「日露間の真の問題は信頼」とさらに強く言わなければならない。しかし、「(日本は)信じるのみ」がロシアへの言葉。この違いは何か?

「信」の意味が安倍首相の頭の中では相手に応じて自家撞着している。「信」ならぬは安倍首相自身なのだろう。プーチン露大統領はそう見ているに違いない。

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「親切な言葉」の一つでもかけるべき相手はすぐ隣にいる。過去にせよ人権に関わる問題(従軍慰安婦・徴用工など)であれば、国際社会(人類)はただちに共有する。不名誉だからとわれわれが一方的に問題を過少化したり等閑にすることは許されない。国家間でたとえ政治決着していても人権は別(個人の賠償請求権は存在する)。一人であろうとその人にとってはかけがえのない人権。その人権が過去に脅かされたのであれば、脅かした側が赦しを請いその罪を贖うは人として当然(人倫)。数の多寡ではない(小池都知事は関東大震災下で虐殺された朝鮮人の数が正確でないとして、今年も追悼文を送らなかったが、一体何人だったら虐殺でないとでも言いたいのだろうか?)。言われなくとも行う心こそ自家求心の「信」であろう。

「信」を安倍首相がことさらに言うのなら、ゆえに外交の優先順位を誤ってはならないと私は思う。

(おわり)


posted by ihagee at 18:47| 政治

2019年07月13日

自由主義・民主主義



「国のあり方を決める権利は国民が持っている」からその国民が国のあり方を決めることができるとなる(選挙)。他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従って一票を投じることが、個々の国民の自由意思の表明ということになる。

他方、この国は国際社会に於いて「自由主義経済」の旗手だそうだ。「自由主義」はもっぱら「資本主義」に語られ、その「自由」は政治民主主義と紐つけられ解釈される。その「自由」は「危害原理(他者に危害を加えない)」にのみ制限される。

「自由主義」は経済や国家である以前に、個人の意思や本性に存在していれば、経済や国家にその「自由」を演繹しても構わないかもしれない。個人が「大人」であれば可能だろう。その「大人」の意思の総意を民主主義というなら、民主主義の上に資本主義を重ねることができる。

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個人が「子供」だったらどうだろうか?「子供」はわがままである。他者に危害を加えることによって自己都合を押し通すこともある。そのわがままを「自由」とは言わない。

他者に危害を加えることを良しとする風潮。それは積極的でなくとも消極的に「無視」したり「遠ざけたり」、「隠したり」「騙したり」「嘘をついたり」することが今の社会に蔓延している(陰湿ないじめに近い)。



(新聞社も国会議員も「子供化」)

子供の「自由」の上に資本主義が胡座をかくためには、「自由」は経済的自由主義や政治的イデオロギーの内に留めおき、決して個人の独立した思想の上にあってはならないとしてきた(その「自由」は一握りの者のためにある=強者はさらなる自由を求め、弱者は平等を叫ぶ「新自由主義」)。ゆえに個人の思想よりも集団的意識を重んじ、日本古来の伝統や国粋ばかりを吹聴鼓舞し、国際社会に於いて日本の存在を神聖視し剰えその意識の発露たる同調と排除(差別)を社会に蔓延させる、危うさを含んだ幼い思考である(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。その幼さは過去の歴史に於いて「(大)日本主義」となって立ち現れた。東亜の諸民族の帝国主義からの解放と言いながら、その上から目線は同様にそれらの人々の「日本化(同化)」でしかなかった。

「自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容される」(戸坂潤)となる。

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個人の独立した思想よりも集団の意識が再び今の日本を支配しつつある。個人の思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)を倒置し、国家によって侵され支配される個人の内心を是とする意識はまさに「日本主義の埒内に収容される」ことである(共謀罪)。その「日本主義」は科学的考証に値する思想と言うべきものではなく、

”「国史」の日本主義的「認識」でしかない。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、〔絶対〕主義にまで帰着しなければならず、又現にそうなりつつあるのである。(戸坂潤)”

「国史」の日本主義的「認識」は科学的「史学」さえ歪曲し「国論」として罷り通るようになる。日本の歴史を書いたとする『日本国紀』(百田尚樹)が「史学」と何らの接点も持たない所以である。しかし、そういった細かな日本主義は今や「日本国って凄い・日本人って素晴らしい」と呪文のようにメディアによってばら撒かれ、それらは束ねられると(大)日本主義的「認識」には十分になり得る。そんな「認識」程度に政治が動くゆえ「(大)日本主義」の徒花がまたその花芽を脹らましつつある。

「認識」は論理でも思想・哲学でもなく、子供のわがままや自己愛であって良い。「国のあり方を決める権利は国民が持っている」のその権利に縛られるべき為政者が逆にあり方を決め、国民を縛りにかかって、思想なき認識(私事)はやがて、絶対主義・独裁に陥るのである。「わたくしがそう思えば憲法」「恥ずかしい憲法」などと憲法すらその(私事)下に置く。

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自らの思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)に「危害原理」を当てて制限しようとする国家とは一体何なのだろうか?「修身(国民道徳・国家道徳)」を国民全体に涵養することが『日本を取り戻す』(教育勅語の復権)などと、個人と国家の関係を転倒させようとする者に「棄権」を以って、フリーハンドを持たせてはならない。個人の内心の覚醒を阻み、覚醒自体に「恥を知れ」と一蹴する者は八紘一宇なる幼さを含んだ危うい思考を振りまいている。それが徒花で終わったことを歴史に学ぼうとしない。その「恥」の「恥」たるが何かも知らない者が、恥部を晒したままの裸の王様と共にテレビに映し出される。

古色蒼然とした日本主義的「認識」に巻かれることなく、憲法に保証された内心の自由に従って一票を投じることでしか「民主主義」は達成できない。「こんな人たち」と国民に指をさす子供が「棄権」によって選ばれて良い筈がない。

大人ならば自己の良心に従って必ず投票されたし。

(おわり)

posted by ihagee at 07:28| 政治