2017年05月18日

五月蠅(うるさい)と共謀罪



『与党は17日に衆議院の委員会で、いわゆる“共謀罪”法案の採決に踏み切る構えだ。16日の国会では専門家による意見陳述が行われ、国際組織犯罪防止条約、通称パレルモ条約について意見が分かれた。これまで政府はこの条約に入るためには“共謀罪”が必要だと強調してきた。しかし、条約に入るための国連の“立法ガイド”を書いた国際刑法の専門家、ニコス・パッサス教授は「条約の目的はテロ対策ではない」と明言。条約は、マフィアなどの経済犯罪を取り締まる目的で制定されたもので、例外的にテロリストが対象になるのは、資金集めなど金銭的な利益を得る目的で犯罪を行った場合だけだという。パッサス教授は、過激派組織「イスラム国」などに対する制裁措置を定めた国連決議がテロ対策としてすでに機能していると指摘。日本は、国連の主要なテロ対策条約13本についてもすでに批准、法整備まで完了している。パッサス教授は「テロなどの犯罪に対して、現在の法体系で対応できないものは見当たらない」と話す。さらに、「それぞれの国は、完全に条件を満たしていなくても条約を批准することは可能」と指摘。「どの国の政府も、国際条約を口実にして国内で優先したい犯罪対策を実現させることは可能。(国内法の整備においては)法の支配にのっとり公正でなくてはいけない。日本国民の意向を反映させるべきだ」と忠告する。』(テレビ朝日・2017年5月16日報道)

パレルモ条約批准の条件でもなくまた「テロ対策」が目的でもないとすると、では「共謀罪」とは、何をその対策の目的としているのか?重大な疑問が湧いてくる。安倍政権は「共謀罪」を必要とした過去の歴史を語りたがらない。なぜならそこに本当の答えがあるから。

その過去の歴史が明かすのは、国家が人権に対していくらでも条件をつけて当然とする<国体・政体>主義への転換であった。その先に監視・密告社会が到来した歴史である。

以下、再度掲載する。

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明治・大正期の外交官で後に著述家となって活躍した小松緑の「満州の蠅・抜本塞源策」なる記事がある(中外商業新報・昭和8年)。



少し長くなるが以下に引用する(原文ママ)。

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「五月蠅」と書いて、「うるさい」とよませるほどだが、満洲の蠅ときたら天下無類、うるさいどころの沙汰ではなく、掃えども掃えども、あとからあとからと集まって来て、どうにも始末におえない。
 尤もこれは日本人が悩まされるだけで、支那人は一向平気なもの、殊に苦力君の対蠅策がふるっている。たとえば、丼に山盛りにもった飯を食おうとする。その白い飯の山が忽ちにして蠅の黒山となる。苦力君敢てそれを逐い掃おうともしない。先ず泰然自若として箸をとりあげ、黒山の一方から穴を開け。そこから除々と、しかし同断なく喰いはじめる。やがて黒山の内側が薄皮となって、崩れかかる時分に、上から湯をぶっかける。さすがずうずうしい満洲蠅も、熱湯に辟易して大部分は逃げ出す。逃げおくれて熱死した残骸は、箸の先でつまみ出し、残った湯漬けをかっこんでしまう。そして幾千万の蒼蠅何かあらんといわんばかりの顔をしている。
 蒋張等の匪賊操縦も、この手でやっているらしい。短気で潔癖な日本人は、遮二無二逐掃うことにのみ熱中する。一群を掃い終らぬうちに、他の数群が早くも襲来する。同じ事をいつまでも際限なく繰返す。骨折損のくたびれ儲けとは、こんな事をいうのであろう。 さりとて、堂々たる王道の守護者を以て自ら任ずる日本国民が、まさか苦力君の真似もできまい。そこで思い立ったのが抜本塞源策である。それは勿論群蠅の出没する巣窟を掃蕩することだ。それにしても一番手っとり早いのはアメリカ人の故智を学ぶことだ。
(中略)
いかに大和民族だなどと威張っていても、この豪放敢為なアメリカ殖民人の真似をすることはとてもむずかしいかも知れないが今の満洲の匪徒にひとしい先住民インデイアン退治の□に做う位の事はできないこともあるまい。
 アメリカ人がその発展の行程において、インデイアンから如何に深刻な迫害を受けたかは、歴史を読まなくとも活動写真を見た者にはよく諒解されるであろう。インデイアンは始めのうちこそ原始的の弓矢を使っていたが、間もなく文明式の銃砲を持ち出したのみか、その戦術もなかなか巧妙になった。それというのも、その背後にメキシコ人が控えていたからだ。
(中略)
今日の満洲匪徒は当年のインデイアンである。それを後方から操縦している支那軍閥は、丁度当年のメキシコ軍閥に匹敵している。
 こう見立てると、なにが抜本塞源策であるかは最早や説明をまたずしてわかるであろう。

(引用終わり)

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つまり、蠅を一々追い払っていては骨折損だから、インディアンに対して行った「アメリカ人の故智」に倣って、原因となるものを徹底的に取り除くことこそ(「群蠅の出没する巣窟を掃蕩すること」)、蠅の如き満州匪徒への<抜本塞源策>であると述べている。アメリカに長く留学した経験を持つ小松緑であれば「アメリカ人の故恵」を陽明学の<抜本塞源>と重ねあわせて、満州匪徒への策として挙げたのであろう。

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インディアンに対して行った「アメリカ人の故智」の一つに「サンドクリークの虐殺」がある。
「やつら(インディアン)は、この地上から消し去るべき、自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種である」との白人入植者の<インディアン絶滅キャンペーン>が繰り広げられ、新聞も「インディアンの脅威」を書きたて「インディアンが陰謀を企んでいる」とでたらめな噂を広めた末に、「シラミを駆除するのと同じこと」とアメリカ軍は無抵抗のシャイアン族とアラパホー族インディアンの村で無差別虐殺を行った。

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ハリウッド<西部劇>の中で我々が先ず思い浮かべるインディアン像は「自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種」であって、「蠅を一々追い払って」がジョン・フォードの「駅馬車」の襲撃・戦闘シーンとなっているが、史実は「サンドクリークの虐殺」に代表されるように、侵略者が先住民に対して行った<抜本塞源策>であった。

『しかし、やがて史実とは違う(白人に都合のいい)内容に対する反発や反省が西部劇を衰退させる強い動因となった。戦後、多様化する価値観や倫理観の変化に勧善懲悪のドラマがついていけなくなったのである。1950年のデルマー・デイヴィス監督『折れた矢』は先住民は他者で白人コミュニティを脅かす存在という図式ではなく、先住民の側から描き、戦いを好むのではなく平和を求める彼らの姿を描いた。

それは、当時黒人の地位向上を目指す公民権運動が次第に激しくなる時代に入り、人権意識が高まる中でインディアンや黒人の描き方が批判されるようになって、単なる勧善懲悪では有り得ない現実を浮かび上がらせ、それまでの西部劇が捨象してきた問題に対して向き合わざるを得なくなったことであった(「西部劇」wikipediaより)』

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「単なる勧善懲悪では有り得ない現実」、そしてその根源に多様な価値観・倫理観を伴う人権があると認識されれば、それらを「懲悪」の対象と括って掃蕩してしまう<抜本塞源>がいかに乱暴な論説であるか判りそうなものだ。

ところが、現実世界は<抜本塞源>が蔓延している。「テロとの戦い」で我々がイメージするその相手とは「この地上から消し去るべき、自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種である(インディアン)」と同じであり、少しでも企ての兆候を見せようものならアジトを急襲殲滅することは当然と思いがちだ。傍で見ている限りは「西部劇」と変わらない。ISはインディアンに見えるわけだ。

しかし「一群を掃い終らぬうちに、他の数群が早くも襲来する。同じ事をいつまでも際限なく繰返す」その側にも、そうするだけの道理がある。その道理に一々付き合っていたら「骨折損のくたびれ儲け」だから、人間などではなくいっそ蠅かシラミと思って大元を根絶してしまえ、では道理も何もない。相手もこちらを蠅かシラミに思って同様に「大元を根絶してしまえ」と応じればマッチポンプであり「際限なく繰返す」ことになる。

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現在審議中の「テロ等準備罪(実質、共謀罪)」を含む「組織犯罪処罰法改正案」は「テロとの戦い」を表向き理由としながらも、その実体は国家が人権に対していくらでも条件をつけて当然とする<国体・政体>主義への転換となり得る内容を多く含んでいる。

多様な価値観・倫理観を伴う人権相互の調整を図る能力・胆力が社会ばかりでなく政治家にも無くなったのか、物事を二極化・単純化して「この道しかない」と決めつけ、議論・対話を許さない空気を安倍政権は作りだそうとしているように思えてならない。人の内心における自由すら国家が嫌疑・詮索しようとしている。

その最たるものが、現在審議中の「テロ等準備罪(実質、共謀罪)」を含む「組織犯罪処罰法改正案」で、憲法で保障されている個人の自由な意思決定(精神的自由)と活動(自己統治)の優越的地位を蔑ろにするものである。

現行憲法では人の内心における自由=精神的自由(憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」・・精神的自由の総則規定)と、その発露=活動(憲法第21条)、はその他の自由な意思決定と活動(経済的自由)よりも優越的地位を占めるものとされている。つまり、個人の自由な意思決定と活動(発露)を国家が妨げることはできない。個人が自由に情報を受け取り、外部にこれを発露する(言論活動)ことによって、自己の人格を発展させる(自己実現)と共に、国に情報開示を求めたり、政治意思決定に関与する<自己統治>という重要な意味を持っている。

この意味について、2016年2月15日の衆院予算委員会で山尾志桜里議員(民主)から質問されて全く答えられないばかりか、「訊くということ自体が、意味がないじゃあないですか」と己の不明も恥じず居直った安倍首相は、憲法の基本さえわからず共謀罪を声高に主張していることになる。国民との直接の対話・討論を極端に嫌うばかりか、日本外国特派員協会での予稿なしの会見を全て断わっている安倍首相には他人様の意見を聞く耳がないらしい。

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「うるさい(五月蠅)」とばかりに精神的自由まで「組織犯罪処罰法改正案」なる<抜本塞源>の網にかけてしまおうと言うなら、<抜本塞源>が公論であった小松緑の時代の「治安維持法」や「暫行懲治叛徒法(満州国)」、「匪徒刑罰令(日本統治下の台湾)」と何の違いもないばかりか、電子情報の監視(傍受・尾行など)の容易さを加味すれば、これまで犯罪として成立していなかった犯罪類型まで網にかけることも可能となり、嘗ての「治安維持法」とは比較にならない強権を国家が持つこととなる。監視・密告社会が到来することは確実だろう

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燃えている薪を竈から引き抜くことで沸騰した湯を冷ます意味が<抽薪止沸>で、<抜本塞源>と同義である。

森友学園問題で燃え上がった疑惑の竈から、証拠隠し・証言拒否など、野党が次々と投げ込む薪を引き抜くことに必死な政権の<抽薪止沸>ぶりは、世間の批判が冷めるのを待ち且つ問題の根本を掃蕩することで元から問題などなかったことにしようとする弥縫策に他ならない。

従軍慰安婦問題、南京虐殺などで発揮される歴史修正主義は悉く<抽薪止沸>なのだろう。<抜本塞源>と共にぴったり当てはまるのが安倍政権である。

「天下無類、うるさいどころの沙汰ではなく、掃えども掃えども、あとからあとからと集まって来て、どうにも始末におえない」と思わせる程、諦めることなく反対の声を上げ続けることが、「五月蠅」にされようとしている我々民衆の最大の抵抗だが、これも「組織犯罪処罰法」が国会で通ってしまえばできなくなる可能性がある。

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戦前の治安維持を目的とした思想対策の一つに<抜本塞源>があったことは忘れてはならないだろう

小松緑が「満州の蠅・抜本塞源策」を著したと同じ年、治安維持を目的とした思想対策強化について国会で「思想対策決議案」が可決された(昭和8年第64回帝国議会)。その理由書は以下の通りである。


《政府ハ速カニ確固タル思想対策ヲ樹立シ以テ民心ノ安定ヲ図ルヘシ右決議ス
決議案理由書
 近時我カ国民ノ一部ニ矯激ナル思想ヲ抱懐シテ民心ヲ惑乱シ或ハ之ヲ実現セントスル者頻頻トシテ輩出ス今ニシテ抜本塞源の方途を講セスムハ邦家ノ前途寔ニ深憂ニ堪ヘサルモノアリ政府ハ速カニ中正堅実ナル思想対策ヲ樹立シテ根本的ニ之ヲ芟除シ以テ民生ノ帰嚮ヲ明ニシ其ノ安定ヲ図ルヘシ是レ本案ヲ提出スル所以ナリ 》

平文にすると、
《政府は速やかに確固たる思想対策の樹立を以て民心の安定を図るべく右決議する。
決議案理由書
 近頃、我が国民の一部に過激な思想を抱いて民心を惑乱しあるいはこれを実現しようとする者が頻出し、今にして抜本塞源の方策を講じなければ、国家の前途は真に深憂に堪えない。政府は速やかに中正堅実な思想対策を樹立して根本的にこれを刈り取ることによって民心の帰嚮を明らかにして、その安定を図るべく本案を提出する所以である。》

政友会の山本悌二郎が提案理由の説明に当たったが、国民同盟の鈴木省吾が山本に対して「いわゆる抜本塞源の思想対策とは何であるか、その具体的内容をお示し願いたい」と迫ったものの、質疑は打ち切られた。

この鈴木の「いわゆる抜本塞源の思想対策とは何であるか、その具体的内容をお示し願いたい」は重要な質問であった。

『この思想対策決議の内容自体には不同意でなかった議員たちの内、どれだけの者が、左傾・右傾の過激思想(これをひとまず、政治的手段として暴力を肯定する思想と考える)対策を越えて、思想・言論の自由の圧殺に同意していたといえるだろうか、ということである。(「思想対策決議」及び「思想対策方策具体案」に関する覚書・久保健助より)』

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現行憲法では人の内心における自由=精神的自由(憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」・・精神的自由の総則規定)と、その発露=活動(憲法第21条)、はその他の自由な意思決定と活動(経済的自由)よりも優越的地位を占めるものとされている。が、治安維持の目的の下で、戦前と同じく《抜本塞源の思想対策》、という国会決議を受けないとも限らない。それが過激思想に限らず「思想・言論の自由の圧殺」が次第に一般人にまで拡大適用されていくことを後で痛いほど国民は知ることになったのは歴史の示すところでもある。

「共謀罪、一般人への適用はありえない」という安倍首相及び担当大臣の答弁に一つとして言質はない。これも過去の歴史が証明するところである。

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「物事に対して見識をもっていて、細かいところまで気にするさま」が五月蠅(うるさい)の意味。五月蠅(さばえ)を漱石が「うるさい」と振り仮名をつけてからそう読み始めたそうだ。本来「さばえ」は数が多い様を示す古語。案外、見識をもつ蠅は数多かもしれない。安倍政権は世の中の知性を蠅如きと侮ってはならない。

(おわり)

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追伸:

以下、ジャーナリスト斎藤貴男の記事を転載する。
「正鵠を射る」とはこのような記事を言う。しかし、「組織犯罪処罰法改正案」が通ってしまえば安倍晋三首相は次は「抜本塞源の思想対策」に着手し、「国民の一部に過激な思想を抱いて民心を惑乱しあるいはこれを実現しようとする者」としてこのような記事を書く者・記事に同調する者は思想的に圧殺する国に変えていくことだろう。

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posted by ihagee at 03:08| 政治

2017年05月15日

「言論統制から輿論(よろん)の作製へ」の歴史に学ぶ



安倍首相が2017年5月8日の衆院予算委員会で、憲法改正について、「自民党総裁としての考え方は相当詳しく(インタビューに応じた)読売新聞に書いてある。ぜひそれを熟読して頂いてもいい」と発言したことが波紋を広げている。

自民党総裁として改憲の意を表明するのであれば自党の機関紙にその肩書きで行うべきところを、一新聞社の紙面を使って改憲を言明する(「首相インタビュー」)という<首相>の立場での行為が、立法府(国会=国民)の権限へのあからさまな侵害であるとの批判が沸き起こっている。そして「ぜひそれを熟読して頂いてもいい」つまり、「意を体する」のが読売新聞であるとさらに予算委員会で公言したことで、読売新聞に対しても同様に非難する声が高まっている。

その読売新聞は全国世論(よろん)調査の結果をこの一週間ほどの間に次々と発表している。
・改憲、「9条に自衛隊」賛成 53%
・慰安婦めぐる再交渉「不要」61%
・テロ準備罪法案、「賛成」は 53%

これら結果は安倍首相の望む方向と合致し、その発表の手際の良さとタイミングは政権と阿吽の呼吸をしているかのように合っている。安倍首相が言う通り「意を体する」メディアは、産経新聞を差し置いて今は読売新聞なのかと思わせるほどである。

一人の調査対象者にこれらすべてを訊けば、改憲に賛成ならテロ準備罪法案も賛成だろうし、政権に親しみを持っていれば当然、慰安婦問題は終わったと答えるだろう。つまり、設問が異なれば、世論調査もそれぞれ別々に行うなど配慮しなければならない。しかし、読売新聞の設問はそうなっていなかった(「2017年5月 電話全国世論調査」)。

「Q あなたは、安倍内閣を、支持しますか、支持しませんか」で、「支持しません」と答えたら「ありがとうございました」と電話を切られたという話も聞く。固定電話があって日中出られる人が社会全体を代表する層だとは思えない。ネットの数多の情報から世論の実勢を知ることぐらい権力側はできそうなものだが、「意を体する」メディアならばこの旧態依然としたアンケート形式を続け、期待値どおりの世論(よろん)を出すこともできよう(拙稿『安倍内閣支持率「支持しない」9割超(Facebookでのアンケート結果)』)。

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メディアも政権も、ソ連やナチスから「奇手」や「勝因」を大いに学んでいた時代があった。

治安維持法が制定される前夜、思想言論の自由に日々箍(たが)がはめられつつあった昭和12年(1937)の満州日日新聞に「言論統制から輿論の作製へ」と題する記事が掲載されている。

満州日日2.gif

抜粋すると「ソ連には言論の自由もなく輿論と称すべきものもなく、国民の声が一切封じられていることは周知の通りだが"輿論"を製造するモスクワ現幹部派の手が、如何に極端なる技術を持っているかということは、容易に外部からは知り得ない、偶々、最近のピアタコフ、ソコリニコフ、ラデック等を繞るトロツキー派併行本部事件の判決に関して、それにソ連国民の"輿論"が絶讚を送ったと伝えるソ連紙の報道を解剖して見ると、案外他愛もなく、ソ連における"輿論製造"の技術を剔出することができる (中略)」(下線は筆者)

判決の出たのは1937年1月30日午前3時で、同日午前5時には新聞に判決記事とともに、各方面の反響が紙面に満載されていたという。

「不思議なのは、第四面である、第四面には、本判決に対する各方面の反響が満載されているのである (中略) この幹部派陰謀事件に関して、判決の正当に賛意を表し、その絶対的支持を与えている"輿論"とは、即ち本判決の齎した自然発生的反響ではなくて、前以て準備された"イズウェスチャ"編輯局作製の、換言すればモスクワ政府現幹部派作成の"輿論"であってスターリン独裁政治が"言論統制"から"輿論作成"にまで飛躍している事実を、自ら告白しているのである、判決宣告前に、既にそれに対する反響があり、"輿論"が、前以て作製準備されている…この奇現象を、単にスターリン・レヂームの心臓の強さと嘲ってばかりはいられない、対外政策にも、この奇手は常用されているからである」(下線は筆者)

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ここで、「輿論(よろん)」と「世論(せろん)」とは異なる。「輿論(よろん)」は正確な知識と情報をもととしての「公論」であるが、「世論(せろん)」は巷の「空気」程度の意見でしかない。その昔は厳密に両者を使い分けていたが、今は「世論(せろん)」を「よろん」と呼ぶように、両者は混同して用いられている。

つまり、スターリン独裁政治下のソ連では官製以外の「輿論(よろん)」はなく、各方面の自然発生的な反響(「世論(せろん)」)など初めから存在していない(そのようなものを調査したこともない)。メディアを使って政府が予め製造しておいた「輿論(よろん)」を発表しているに過ぎない。

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昭和15年の国民新聞には「ナチ統制の勝因」なる記事が掲載されている。

国民新聞.gif

その抜粋、
「例えば宣伝省では言論統制を行うに当って「かくせよ」とは決していわない、唯政府は現在「こう云う方針で行く」ということを言論機関の会合で説明するのみであるすると各自は政府の意を体して一糸乱れぬ啓蒙宣伝並に国際的な言論戦を見事に遂行している」(下線筆者)
とある。

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「かくせよ」とは決していわない、「こう云う方針で行く」ということを言論機関の会合で説明する・・、は安倍首相と頻繁に会食を繰り返すマスメディア(所謂「鮨友」)との関係を彷彿とさせるではないか。

言論機関が「政府の意を体して」とは言いかえると「政府の意を忖度して」となる。

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基本的人権に直接かかわる法律についてそれが憲法であろうと、組織犯罪処罰法であろうと、その改正の是非は国民の側から澎湃として(自然発生的に)議論が沸き起こらなくてはならない筈だ。

「読売新聞に書いてある」との安倍首相の発言は、その澎湃がないにも拘わらず「こう云う方針で行く」と読売新聞の紙面上で展開し、「政府の(ここでは「首相」の)意を体」すること、つまり政府の意(安倍首相の意)に忖度することを国民に要求しているに他ならない。これには前掲の記事にあるナチスの「統制の勝因」が重なる。

そして、その読売新聞は「政府の意を体」する如く、「世論(せろん)」でしかない調査をあたかも「輿論(よろん)」=公論の如く、発表する。これは前掲の記事にある「"イズウェスチャ"編輯局作製の、換言すればモスクワ政府現幹部派作成の"輿論"」が重なり、その予め準備したかの手際の良さは「奇手」を思わせる。

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歴史を少し振り返るだけで、政権とその政権に親和的なメディアが「言論統制から輿論の作製へ」と協力し合う関係にあった時代を見つけだすことができる。ソ連やナチスに手口を学んだかのごとく、治安維持法とともに「言論統制から輿論の作製へ」を実践していった我が国。その先の亡国の顛末を知って、二度と同じ轍を踏まないことが歴史に学ぶということであろう。 (参照:『半藤一利氏が気づいた麻生氏の「ナチス手口学べ」発言の真意』)

(おわり)


posted by ihagee at 18:44| 政治

2017年04月17日

「科学の樹」のないこの国の暗愚



<科学技術>は英語ではScience & Technology と表現する。
つまり、<科学と技術>であって、その二つが最初から混合(混同)した概念として受容されているのがわが国である。

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<科学技術>に於いて明治維新後のわが国が手本としたドイツでは、工学(実学)をアカデミックな研究科目(学問領域)と認めず、工科大学として長らく区別してきた。エネルギーや自然の利用を通じて便宜を得る技術一般は<技術=Engineering、広義のTechnology>であって、学問領域即ち<科学=Science>ではないという<科学=Science>を重視する傾向が歴史的に長く続いたわけだが、日本はこの区別に従わなかった。

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わが国が明治維新後の近代化の過程で重視したのは、産業化・工業化に寄与する<技術=Technology><工学=Engineering>の西欧先進国からの導入であり、その目的から工部大学校が先ず設立された後、工部大学校を統合する形で東京帝国大学が誕生した経緯(世界で初めて工学部を有する大学の登場)があり、ドイツと異なり<技術=Technology><工学=Engineering>を重視する傾向にある。

明治9年に東京帝国大学にドイツから招聘されたエルヴィン・フォン・ベルツ博士(日本の近代医学の父)は在職25年の講演で<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を学ぼうとしない日本人に警鐘を鳴らす言葉を残している。



「日本人は科学の成立と本質について誤解している。何か機械のようなもの、すなわち単に成果を上げ、無造作に別の場所に移して仕事させる機械のように考えている。科学の成長には一定の風土と環境が必要であり、生き物である」「日本人は外人教師を科学の果実を切り売りする人として扱った。成果を生み出すはずの科学の精神を学ばずに、外国人教師から最新の成果物を受け取るだけで満足してしまった」

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西欧先進国に於いて<科学=Science>というアカデミックな研究科目(学問領域)の発展段階でギリシャ時代から共に発展してきた<哲学>をわが国では<科学技術>の範疇の外に追い出したのも、その<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を一々学ぶのは時間がかかり難渋であり無益だと明治政府が考えたからかもしれない。

産業化・工業化に寄与すべく「最新の成果物を受け取る」ことに専念した為、日本は建築や医術などの社会基盤技術をいち早く発展させることができたのだろう。

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何故ドイツでは<哲学>が<科学=Science>というアカデミックな研究科目(学問領域)と同体に発展してきたのか?それは、時として対立する宗教から離脱し<科学=Science>の発展を推し進めるため基礎付けとして<哲学>が重要とされたからだろう。「それでも地球は動く」と宗教裁判でガリレオが呟いたように、宗教裁判にかけられながらも命がけで戦ってきた<科学=Science>の歴史が背景にあり、その宗教から離れるためには<哲学>を必要としたのである。

デカルトは「根は哲学、幹が自然学、枝は諸学であり、医学、工学、道徳の3本の枝に果実が実る、とくに完全な知としての道徳の枝に実る」と述べている。

斯様な背景のないわが国では、<科学=Science>の発展に哲学は根としての関係を持たなかった。根や幹への関心よりも枝に実る果実にばかり<科学技術>を語ってきたのである。

洒脱なエッセイで知られる佐貫亦男氏はその著作「ドイツ道具の旅」の中で「科学技術は、手を抜かない努力の集大成である。日本の過去の軍事技術はその反対の好例で、基礎を飛ばして最終成果だけを追ったから、ついに破滅した」と書いている。道具という成果物を窓にして、同氏が見たのは<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)のようである(拙稿『佐貫亦男氏『発想のモザイク』から』)。

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明治期に世界で初めて工学部を有する大学を登場させたわが国であるが、ドイツでも百年以上遅れて2008年「ドイツ工学アカデミー」が発足し、工学が科学の一翼となりわが国と同じ<科学技術>の側面を持つようになった。

2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地震動と津波の影響で発生した東京電力福島第一原子力発電所の大事故で問われたのは、まさに<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)の不在である。アカデミズムへの信頼が失墜したばかりか、経済の「成果物を受け取る」立場で責任逃れに終始した学者は「御用学者」と呼ばれ蔑まれるようになった。彼らの拠所は<哲学>ではなく<神話>であった。「ニコニコ笑っていれば放射能の被害は受けない(山下俊一 長崎大学大学院教授)」等々。

この事故にいち早く反応したのがドイツだった。自身理論物理学の博士号を持つ学者宰相アンゲラ・メルケルが<脱原発>を諮問し決断したのは、まさに<哲学>に拠って立つ<科学=Science>の精神(「科学の樹」)からだった。いざとなれば<根=哲学、枝=道徳(社会倫理)>を以て決断できる精神の健全性と言えるだろう。



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このような大事故を招来しても尚も、わが国は「根なし」を続けるばかりか、更なる果実が原子力なる枝に実ると盲信し、何一つ根拠もないのに「アンダーコントロール」と唱える暗愚な政治が罷り通っている。ドイツのように「科学の樹」が語られることは一切ない。



折しも、<国立大学改革プラン>を安倍内閣が策定中である。文部科学大臣・下村博文名で、全国の国立大学に出された文系学部・学科の縮小や廃止を「要請」した通達は波紋を呼んでいる。人文社会科学系の廃止ではなく見直しの提言が趣旨だと下村大臣は説明するが、ならば、哲学を含めた人文社会科学系は理学系に編入し「科学の樹」の「根」とすべきであろう。そうでなければ完全な「根なし」となり「科学の樹」など望むべくもない。

「人間は考える葦である(パンセ)」を小林秀雄は「人間は恰も脆弱な葦が考える様に考えねばならぬと言ったのである」と解釈した。考えるという能力があるために、次第に葦ではないように人間は考え始めるが、この過信は愚鈍であるという解釈である。



根がなくとも葦で居られると過信する。哲学を含めた人文社会科学系などなくとも「世界一」の<科学技術>と言って憚らない過信。安倍政権の愚鈍さは過ぎて余りある。

(おわり)


posted by ihagee at 18:10| 政治