2017年05月31日

豚の独裁者(オーウェルの動物農場)



「現代は、あの農場よりは洗練されているような気もするけど、基本構造は全然変わっていない。豚じゃなくて別のものが入れ替わっているだけ。(宮崎駿)」




ジブリ美術館が紹介する1954年のイギリスのアニメーション映画『動物農場』が、ジョージ・オーウェルの同名小説を下敷きにしていることは周知の通りだが、動物農場も、その指導者からやがて独裁者へと変貌する豚も、厭というほど歴史はそれらの相同物(ホモログ)を繰り返している。オーウェルの同作品がアレゴリーとして現代に通用するのは、その底辺に「権力は腐敗する、絶対的権力は絶体に腐敗する(ジョン・アクトン)」という過去の経験(歴史)から帰納した普遍則があるからだろう。

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安倍首相の国家観は、その政権になってから成立した数々の法律や政策の端々に、市民の利益や主張を私益や私利私欲(エゴ)とみなし(沖縄辺野古の基地問題が象徴するように)、「公益及び公の秩序(自民党憲法改正草案での第13条)」を体現する国家を尊重すべきと、国家への義務を果たしてこそ人としての権利を認めてやろうという傲岸不遜さが見られる。さらに首相自ら、国会議員として憲法を遵守すべき立場を顧みず「みっともない憲法」とか「憲法に縛られるべきでない」と公言し「私が解釈すればそれが憲法である」と立憲主義を蔑ろにしてきた。恭しくその前に首を垂れる高潔なる彼らの大義は、現憲法とは別の賢所にあるらしい。

そして自民党改正憲法草案上では、個人が絶対的に存在せず、国家との相対でしか(さらに個人ではなく人としてしか)存在を認めようとしない、何が「公益及び公の秩序」であるかは国家が決め、国民はそれに従うべきとの国家主義観が見え隠れしている。外交で国際的地位を高めるという政治家に要求される能力の貧しさを弥縫するために、愛国心が国際的地位を高めることであるかの精神主義に傾く(「自国を愛さない人は国際人にもなれない」といった)ことは、教育現場における教育勅語の復活容認などでも顕著である。いくら愛国心があっても国際人になれないことは、安倍首相本人が示している通りで、「地球儀を俯瞰する外交」と言いながら交渉術を駆使し国際紛争の和解や調停に実績を未だ一つとして安倍首相は残していない。フォーブスがまとめた昨年の「世界で最も影響力のある人物」ランキングでは、安倍首相は37位と先進国首脳の中でも後塵に甘んじている。

その安倍首相が我々国民に向かって「アンダーコントロール」と言い放ち、表現・言論・集会の自由に物言わぬ圧力を加え、立憲主義や人権を軽んじる点も、国民から監視されることを嫌う証であろう。それでも足らないとばかりに個人の内心まで監視・内偵しようと共謀罪を成立させようとしている。

森友学園・加計学園問題でも政治権力が寄って集って告発者に陰湿且つ執拗な人格攻撃を加え社会的信用を剥奪しようとする。異なる意見もそれを発しようとする人ごと圧殺するブラック企業経営者のパワハラ手法を採用して恥じない。ブラックな空気を読んでか公務員までが権力側に不都合となる公文書を超法規的に廃棄しツジツマを合わせるようになる。廃棄されずとも公文書は海苔弁状態の開示が当たり前となった。

警察までがレイパーの犯罪を握り潰し、レイプされた女性の人権を無視する。公に顔を晒しプライバシーを捨てない限り社会に問題提起できないという状況は、レイパーやそれを放免した警察を含む公権力がさらに精神的にその女性にセカンド・レイプを加えるに等しい。「女性の輝く社会」なる政権のスローガンは白々しいばかりか、その裏では女性の人権を蹂躙する何か大きな力を働かせている(その力の在処について彼女は今回、問題の本質としていないが)。

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市民から「アンダーコントロール」されない政治権力というものは、その権力を構成するメンバー自らがやがて私益と独善を占めることになる。これがオーウェルの描いた動物農場であり豚の独裁者でありその豚友であり搾取に甘んじる他の動物たちだ。しかし、そのような動物農場の絶体権力は、絶体に腐敗・崩壊することを歴史は一つの例外もなく証明している。

「私が言うのだから、ありえない・絶体にない」と首相が自らの言葉を絶対化する現況は即ち、「他に言う者はない」という独裁に他ならない。その言葉自体が国民にとって議論させないという最大の圧力となっている。国連の特別報告者たちもその対象らしい。経済政策を自らアベノミクスと総称したことも、「私が言うのだから」と同じく国家経済の私物化(私がやるのだから)である。後世歴史家が評価として与えるタイトルを事前に自ら冠してしまうのだから歴史的に結果を伴わなくともアベノミクスである。「名を捨てて実を取る」ではなく、「名を先取りし実は取れても取れなくても良い」、なのだろうか。これでは単なる功名心。

実などまやかしで良いということか、白紙の試験用紙に前もって「安倍晋三君・百点満点」と書いておけば首相に恥をかかせるなとなる(内閣人事局が官僚人事の首根っこを抑えていれば、官僚も従わざるを得ないだろう)。適当にツジツマの合うような数字を官僚がどこからか繰り出してゴソゴソと書き込めば、2020年GDP600兆円達成なる満額回答的粉飾すら可能となる。安倍政権がアベノミクスについて客観的にその是非・成否を総括検証しようとしないのも粉飾・虚飾が最初から前提ならする必要もないことだろう。同様に、福島の事故原発を「アンダーコントロール」と安倍首相が国際社会に向けて言ってのけてしまった以上、首相に恥をかかせるなと、現場は何があっても「アンダーコントロール」で通すしかなくなる。虚飾・粉飾が横行して当たり前である。

答案一つ書いていない試験用紙に「安倍晋三君・百点満点」と書いて、それが嘘にならないように嘘をつくことしかできない、なるパーソナリティがこの人の政治の淵源ならばこれほど国民にとって不幸なことはない。振り返れば問題の積み残しばかりで何一つ答えがなかったと知るような暗澹たる将来が到来しないことを願うばかりである。

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自民党憲法改正草案では、
「すべての国民は、個人として尊重される(現行憲法第13条)」を「全て国民は、人として尊重される(改正草案第13条)」と改めることによって、国民は「絶対的に尊重される」から国家との関係で「相対的に尊重される」とする(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。

動物農場のアニメでは、「すべての動物は平等だ」という当初の理想が、豚の独裁者によって「すべての動物は平等だ。だがある動物はもっと平等だ」と書き換えられるシーンがあるが、これに当てはめると、

「すべて国民は、個人として尊重される」を豚の独裁者が「全て国民は、個人として尊重される。だがある人はもっと尊重される」とさしづめ書き換えることにでもなるだろうか。その人とは国家(独裁者の豚)に義務を果たす(人権に搾取を許す)豚となる。小林節慶大名誉教授の言葉を借りるなら「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう」ことまで許す豚となる。

「権力は腐敗する、絶対的権力は絶体に腐敗する」の通り、「国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう」絶対権力はいずれ腐敗・崩壊するのだろうが、動物農場のストーリーではそれまで待たずに、動物たちが蜂起(反革命)し、豚の独裁者に代わって人間が支配する農場に戻るという結末となっている。

ストーリーの結末までアレゴリーとして読めば、我々国民が豚の独裁者に対して声を上げる時が迫りつつあるということだろう。

(おわり)


posted by ihagee at 17:46| 政治

2017年05月26日

<忖度>する国に<共謀罪>とは笑止千万



安倍首相は「連合国側が勝者の判断によって断罪がなされた」(2013年3月12日、衆院予算委)と公言し、東條英機首相ら A 級戦犯らの共同謀議に基づく国際的な「侵略」と位置づけている「東京裁判(極東国際軍事裁判)史観」を否定することが戦後レジュームからの脱却だと信じているようである。

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渡部昇一氏はその著書「日本を嵌める人々:わが国の再生を阻む虚偽の言説を撃つ」の中で、『(東京裁判が)歴史的事実として「共同謀議」など存在しなかった等々の重大論点に、まったく触れていません』と書く。

戦時体制下、日本の指導者たちに共同謀議などなかったのだから、<共同謀議>なる裁判の争点は元々存在せず、従って<共同謀議>の存在を以て国際的な「侵略」と位置づけている「東京裁判史観」は否定されるべきだとの論である。

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田久保忠衛氏は、『「戦後70年安倍首相談話」に関する意見交換のための拡大政策委員会 報告書(速記録)2015年8月 公益財団法人日本国際フォーラム』の中で、『それから、共同謀議というと、ナチはヒトラー1人でやった。あるいは側近とやったと。日本は満州事変の前というのは、犬養内閣の前ですから、濱口、犬養内閣から東條内閣まで十何人いて、巣鴨に行って初めてお目にかかりましたってあいさつをしたとの話もある。それがどうして共同謀議をやるか。一番茶番だというのは、共同謀議を証明しようとして、日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまったのがあの東京裁判であります。この東京裁判をもとに全ての解釈をするというのは、これはとんでもないことだろうと思います』と言う。

田久保氏は日本会議の会長である。

「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった」と田久保氏は言う。つまり、時の指導者たちはお互い面識もなく言葉も直接交わしていないのに謀議などあり得る筈がないということらしい。


「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった」とは、
ナチ党と親衛隊、突撃隊、ゲシュタポを含む国家と党の代理人を訴追したニュルンベルク裁判では、「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)、ゲシュタポ、その他の組織が一味となった全般的共同謀議」が立証されたニュルンベルク裁判と対比して言っているのだろう。

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<共同謀議>は、そもそも英米法の論理で、違法行為を共同して行うことを2人以上の者が合意すること。コモン・ローでは,共同謀議 conspiracyの合意そのものが処罰の対象とされ、それを実行に移したか否かは重要でなかった。

この法的思考と立証を可能とする素地としては、「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化とそれに最適なコミュニケーション言語がある。文化人類学者エドワード・ホールが『文化を超えて(英語版)』(1976年)の中で、その最たる言語がドイツ語であり、その逆(高文脈文化)の最たるが日本語だと言う。

「高文脈文化のコミュニケーションとは、実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される(理解したと思われる)内容のほうが豊かな伝達方式」であり、その最たる言語は日本語ということだ。

その文脈文化の違いは以下の例(電話をかける場合)で理解できる。英語もドイツ語と同様、低文脈文化言語であることに変わりはない。

日本語:
「Aさんはいらっしゃいますか?」と電話口で言うと、
電話の受け手が日本人なら、「電話をしてきた人はAさんと電話で話したがっている」と推測し、電話をAさんに取り次ぐ。

英語:
「Aさんはいらっしゃいますか?」と電話口でいうと、
「はい、いますが。ご要件はなんでしょうか?」と逆に聞かれる。「何」をどうするまで、推測できないのである。
日本人とて英語で電話する際に、
「Aさんはいらっしゃいますか?(Is Mr. A there?)」とは言わない。
「Aさんに電話を取り次いでいただけますか?May I speak to Mr. A?」とはっきりと言葉で要件を伝える筈である。

例示のように、最小限の言葉でトントンと物事が進むのが我々の日常であり、「実際に言葉として表現された内容よりも言葉にされていないのに相手に理解される」ことに馴れ切っている。これが、「高文脈文化のコミュニケーション」を表わし、その良い面では「おもてなし」の心を育んでいるのかもしれない。欧米人が感動とともに発見するのも、彼らの文脈文化圏では「言葉にされていないのに相手に理解される」ことは稀有だからだ。

「日本って素晴らしい」「日本人は凄い」と外国人たちに言わせては我々がうっとりと悦に入る、この頃大流行大増産のテレビ番組も多くはこの文脈文化の高低の落差を利用している。

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しかし、「高文脈文化のコミュニケーション」は「おもてなし」のように良い面ばかりではない。悪い面が連日ニュースとなっている。それが<忖度>というコミュニケーションである(<忖度>は辞書の上では良い意味と悪い意味の両義があるが、ここでは悪い意味について触れる)。

森友学園問題で、籠池理事長が日本外国特派員協会で記者会見した際に(2017年3月23日)、その場の外国人記者たちが理解に苦しんだ言葉が<忖度>であった。籠池氏の「大きな力が働いた」「神風が吹いた」なる発言が不明瞭とのNYタイムズ記者からの指摘に、籠池氏が「安倍首相または夫人の意志を忖度して動いたのではないかと思っています」と言い換えたが、その<忖度>という言葉がさらに意味不明瞭と混乱を招き、結局、その場の通訳の一人が「reading between the lines(行間を読む)」等々、説明に窮する羽目になった。「reading between the lines」ですら、英語上は言葉在りきが前提の推測の範囲なので、言葉すらまともになく「空気を読む」に等しい<忖度>がその説明で彼らに理解されたとは思えない。

<忖度>なるコミュニケーションの手段が存在しない低文脈文化圏の記者たちにとって、それが何たるか理解できないのは当たり前だろう。

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放送プロデューサーのデーブ・スペクターは朝日新聞デジタルで、『「忖度」は、便利なようでずるい日本語。「よろしくお願いします」って、色んな意味を含み過ぎて英訳できない。その悪い部分が前面に出たのが、森友学園の問題なんだと分かった。当人たちはその自覚もなさそうで、なおさら怖い』と言う。

「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化圏の人々からすれば、<忖度>に代表される日本語の<高文脈文化>はときとして「ずるい」そして「怖い」と受け取られる。

『(東京裁判が)歴史的事実として「共同謀議」など存在しなかった(渡部昇一)』、「日本には共同謀議はなかったんだということが証明されてしまった(田久保忠衛)」に話を戻すと、彼らの『「共同謀議」など存在しなかった』という主張は、「言葉に表現された内容」がなければ裁判上「証明できない」と言っているだけで、天皇陛下を「御光り」と担ぎ上げてその「御信任」の下で<忖度>が<共同謀議>と同義であった歴史的事実が「存在しなかった」ことと同じではない。

それらに共通するのは、<忖度>に代表される日本語の高文脈文化特有のコミュニケーションこそ<共同謀議>の素地であるということを自覚しない「怖さ」であり、文脈文化の違いに逃げ込む「ずるさ」である。

「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>と言っただけで、その意味するところを100%理解できる人々が現政権の中枢を占めている「怖さ」である。神国説が科学的考察に値する思想・論理体系を持たず専ら<至誠>なる精神主義に拠っているのも、言葉や論理を要しない高文脈文化の表れなのだろう。靖国に玉串を捧げ拝礼するだけでお互いに合意形成し、「国民の皆さんに」何かしら忖度を要求する「怖さ」でもある。

従軍慰安婦も南京事件(ジェノサイト)も「証明できない(言葉を残さない)」我々の文脈文化の「悪い部分」を「そのようなことは存在しなかった」と付会するに過ぎず、歴史的事実まで消し去ることはできない。この「悪い部分」を用いる日本政府側のずるさが韓中との問題の解決を阻害し続け、その歴史的事実までも存在しなかったと安倍政権下では歴史の書き換えが行われつつある(歴史修正主義)。

上述の電話の例で言えば、
「Aさんはいらっしゃいますか?」と言ったとしても、「電話を取り次ぐよう相手に要求したことなど有り得ない」と言うに等しい。それが正しいということならば、<共同謀議>を否定する時だけ、低文脈文化の論理を寸借するという<ずるさ>でしかない。

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日本語の高文脈文化という「(ときとして)ずるい」コミュニケーションに浸り続けてきたのがわが国であり、そのコミュニケーションを最も利用してきたのが現政権であることは、森友学園・加計学園問題での<忖度>が象徴している。

何一つ確たる証拠がないと疑惑を全否定する首相だが、これも<忖度>なる<共同謀議>を否定する時だけ、普段は使いもしない低文脈文化の証拠論理を拝借するという<ずるさ>だろう。

森友学園問題での近畿財務局や財務省での保管規定のある公文書の破棄・黒塗りや、加計学園問題での証拠書類の怪文書扱いや証言者(前川喜平前文科省事務次官)に対する陰湿な人格攻撃(菅官房長官)も「証明できない(言葉を残さない)・証言させない(社会的信用を失墜させて)」とすることによって「そのようなことは存在しなかった」と付会しようとする我々の文脈文化の「悪い部分」の発露である。

わが国がグローバリズムを国際社会に対して標榜するのであれば、日本語の高文脈文化の抱える「ずるい」コミュニケーションから、我々が脱却することでなければならないだろう。グローバリズムの相手の多くは「言葉に表現された内容のみが情報としての意味を持ち、言葉にしていない内容は伝わらないとされる」低文脈文化圏にあるからだ。

「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案を巡り、ケナタッチ国連特別報告者が論点を文章にして示したのに対して、日本政府側(菅官房長官)が「全く当たらない・不適切だ」と感情的に反応した。「論理的に意志決定される・言葉に基づく」に対して「感情的に意志決定される・一般的な共通認識に基づく」という低文脈文化と高文脈文化の違いがここでも如実に示されている(エドワード・ホールの比較例に従うと)。

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英米法の論理、つまり低文脈文化を素地とする「国際組織犯罪防止条約(わが国は未加入)」との整合を「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案で図る上は、「国際組織犯罪防止条約」上の<共謀>とその要件は同じだろうが、そのような素地のないわが国に当て嵌めると、どのような事が起きるのか?ケナタッチ国連特別報告者をはじめとして国際社会の知性はそれを懸念しているのである。

最小限の言葉、目くばせ程度でも、トントンと物事が進むのが我々の高文脈文化で、森友・加計学園問題のように大事なことほど、口に出さず「阿吽の呼吸」や「空気を読む」でお互いに合意形成をする社会に我々は生きている。

<共謀共同正犯>が刑法第27条2項「二人以上で犯罪の実行を謀議し、共謀者の或る者が共同の意思に基づいてこれを実行したときは、他の共謀者もまた正犯とする。」と定められているのも、このような言葉にせずとも合意形成をする我々の社会があるからである。

<共謀罪の趣旨を含む>組織犯罪処罰法改正案が成立すれば、謀議の要件が口に出さなくても<忖度>など内心の合意が推定される方向へ拡大解釈される虞がある。未遂以前の準備段階までも法の網にかけようとすれば、当局は憲法で保障されている個人の内心の自由まで常に監視することになる。

前述の例に従えば、英語なら「Aさんはいらっしゃいますか?」と言ったとしても「電話を取り次ぐよう相手に要求したこと」にはならないが、日本語なら「電話を取り次ぐ」合意形成があるとみなされるといった具合に、口に直接出さなくても内心の合意が推定される方向に法律が拡大解釈・適用され、その内心の合意を常に警察が監視することになるかもしれない。ビッグデータ、人工知能=AIとマイナンバーカードなど個人情報を組み合わせれば、任意の条件での総国民のフィルタリングなど容易だろう。

つまり、ケナタッチ国連特別報告者が「プライバシー保護」の措置に欠けるとの指摘は、我々高文脈文化特有の、口に出さなくても互いに合意形成する社会だからこそ、当局が探りを入れるとすれば、それが個人の内心となることを懸念しているからであろう。即ち、メール、SNSや電信電話上の情報の監視・傍受の常態化であり、思想・信条の調査であり、その中から謀議を推定することであり、その過程で本来対象とならない一般市民も個人が特定される(プライバシーが侵害される)虞である。

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<忖度>する国に<共謀罪>とは笑止千万、いや、危険極まりない。あの治安維持法のあった時代と何一つ我々の文脈文化は変っていないからだ。

(おわり)


posted by ihagee at 17:38| 政治

2017年05月19日

安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの



戦後1948年(昭和23年)6月19日参議院本会議(第2回国会)に於いて教育勅語等の失効確認に関する決議が行われ、その「排除」「失効」決議によって、我々国民は教育勅語と決別した筈である。ところが、教育勅語をめぐって「教材として用いることまでは否定されることではない」などと政府が先般閣議決定した。

その「教育勅語」には先のブログ記事(「我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)」)で触れたように、内心の自由を捨てることを国家が国民に対して強いた歴史事実が存在する。

すなわち、キリスト教が禁じられていた江戸時代の背教の証としての踏絵の如く、神道の神札を奉り上げ日本の神々に祷りを捧げることをキリスト教会に要求した時代、「良心」なる建学の精神を捨て修身(国民道徳・国家道徳)へと転向した同志社大学を、「日本主義の旗の下にキリスト教の最消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」と褒め称えた時代があった。

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中日新聞記事(2017年3月28日)「ナチュラルとナショナル 日本主義に傾く危うさ(中島岳志)」は、『文芸春秋』3月号に掲載された石井妙子「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」に基づき、安倍昭恵氏の本質について以下のように記している(抜粋)。

“(安倍昭恵氏は)大麻の神秘性と有用性を訴え、「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」と発言。大麻は日本の神事と深い関係にあると言い、アメリカの占領政策によって大麻栽培が禁止されたと訴える。(中略)過疎地で産業用大麻を栽培する活動を支持し、鳥取県智頭町(ちづちょう)を視察したが、その当事者は昨年十月に大麻所持容疑で逮捕された。スピリチュアルな活動が古来の神秘へと接続し、日本の精神性の称揚へと展開すると、その主張は国粋的な賛美を含むようになる。森友学園が開校を計画した「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長になり、その教育方針を支持した。石井は言う。「そのベースにあるものは日本を神聖視する、危うさを含んだ、少し幼い思考ではないだろうか」”

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「大麻は日本の神事と深い関係にある」の、「大麻(たいま)」と「日本の神事」との関係とは、神宮大麻(じんぐうたいま)を指している。

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神道での神様への捧げものが古来、木綿や麻であり、お祓いをする神具を「大麻(おおぬさ)」と呼び、そのお祓いを経て授けられる神札を「大麻(たいま)」と呼ぶ。麻(あさ)はわが国では紀元前から栽培された繊維原料であり、特に戦時下において繊維需要が増すと大麻の栽培・生産が国策となった。戦後、麻薬原料として大麻はGHQから栽培を禁止され、麻(あさ)の栽培には大麻取扱者の免許を要するようになった歴史がある。

「教育勅語」についての拙稿と照らすと、「神道の神札を奉り上げ日本の神々に祷りを捧げること」をキリスト教会に強要した時代こそ、大麻と日本の神事との深い関係が神道の神札(大麻)に最大限に象徴化されていた時代であり、「日本を取り戻す」の「日本」とはその旗の下に建学の精神(良心)を捨てて更生したと同志社を讃えた「日本主義」なるものなのだろう。

中島岳志氏が「日本主義」と指摘する通りである。

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「大麻は日本の神事と深い関係にある」の淵源は、おそらく、『神宮大麻と国民性』なる書物にあると思われる。神宮神部署主事を務めた当山春三によって著され大正5年(1916)4月に刊行された。

「天祖無ければ国民無く、家長無ければ家族立たず、敬神の念・祭祀の禮は我が国民道徳の根抵なり」「大日本は神国なり、民族祖先の神霊を祭祀するの国なり」「神宮大麻を拝受するのは、吾等国民が、天祖天照大御神に対して奉げる絶対的至誠の披瀝を擅にせんとする所以のものであるから、宗教宗派の如何に拘わらず、拝受すべきものである」「至誠の淵源は、実に、天祖に対して捧げる絶對的崇拝に在ること」等々。

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この書物が刊行された大正5年は教養主義・民主主義が社会全般に浸透し始めた大正デモクラシーの揺籃期にあって、当山はその「変節」しつつある世相に危機感を抱き、かかる書物を著したようだ。精神的自由(内心の自由・個人の自由な意思決定と活動)が社会の中で広まり、書物を介して西欧を鏡とする教養主義・民主主義の跳梁を許せば、神々との交流(スピリチュアルな行為や思考)から国民が疎遠となって(「敬神崇祖の至誠の蔭翳」)、魔が入り込み天祖に対する国民の至誠が蔑ろとなることへの危機感のようだが、その救済が神宮大麻にあると当山は結論し、国民性の発露=崇拝の至誠の披瀝であり、その至誠こそ人事百般の総てを支配する我国特種の国民性の本源であると説く。

昭恵氏は「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」と言う。
大麻と日本の神事との深い関係の淵源を『神宮大麻と国民性』で知らずとも、スピリチュアルな友人関係から耳知識として理解する中で、神々との交流(スピリチュアルな行為や思考)に興味が沸き、スピリチュアルな指導で「修身(国民道徳・国家道徳)」を実践教育している森友学園・塚本幼稚園を知ることで、神道の神札(大麻)を祀り上げることによって「修身(国民道徳・国家道徳)」を国民全体に涵養することが『日本を取り戻す』ことであると信じるようになったと思われる。

大麻栽培に肩入れするのはその植物としての有用性というよりも、その精神主義的な神秘性に強く魅かれた彼女なりの象徴化であると思う。

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「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」は、以下の意味で安倍晋三首相も共有する考えであろう。

すなわち、「『大麻を取り戻す』こと」は、日本の神事と関係では「崇拝の至誠こそ人事百般の総てを支配する我国特種の国民性の本源(当山)」の脈絡での「至誠」であり、「至誠」は安倍首相座右の銘だからだ。

「至誠」は孟子の「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」言葉であり、「誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない」の意で、吉田松陰が好んだことで知られている。

安倍晋三首相の座右の銘「至誠」は彼の尊敬する吉田松陰譲りであるとともに、「敬神崇祖の至誠」は神道政治連盟(後述)と深く共有しさらに昭恵夫人のスピリチュアルな活動とも共鳴し合っている(その先に森友学園問題がある)、と私は考えている。

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「敬神崇祖の至誠」が国民性の本源とみなす精神主義は過去の歴史において「日本主義の旗の下にキリスト教の最消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」と賛美を残している。その精神主義の旗は曰く「日本主義」(正確には「大日本主義」)である。

「大日本主義」の譜代に吉田松陰がおり、その軍力と拡張主義が、ここで言う「日本主義」であり、国民利益の増幅を図り内政や個人の利益を重んじる「小日本主義(小国主義)」と対向する考えであった。言うまでもなくその「日本主義」の旗の下、大東亜共栄圏と列強諸国からの亜細亜諸国の開放たる美名の下で武力による拡張主義の道に突き進んでいった。

集団的自衛権による武力行使、武器輸出三原則の形骸化や憲法第9条改正を目的とした改憲など、過去の歴史と照合し「日本主義」の譜代に安倍晋三氏が名を連ねていると我々は見なくてはならない。そして「日本主義」と「敬神崇祖の至誠」は親和性が高い。靖国神社はその親和性の確たる象徴である。そこで安倍晋三首相が「敬神崇祖の至誠」と崇めるのは天照大御神でも天皇陛下でもなく「日本主義」なる大義でありそれに殉じた軍神である。我々が一般の神社と違う不気味さを靖国に感じるのもムリはない。天皇陛下も天照大御神も寄りつかない特殊な目的の神社だからである。

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実際、安倍政権になってから世の中「日本主義」の賛美に溢れかえっているようだ。テレビをつければ「日本って凄い・日本人って素晴らしい・日本人に生まれて良かった」と、個人よりも大なるものへの賛美が連日繰り返され、その気分に巻かれない者の方がおかしいと言わんばかりである。「我国特種の国民性」を強調するために中国や韓国を見下しそれらの国に対する嫌悪感を増長させることは、安倍政権の政治手法の一つにもなっている。「非国民」「売国奴」「土人」といった一昔前なら口にするだけでもその者の品性が疑われる言葉を若者たちが日常会話で使うようになったのも考えてみれば恐ろしいことである。そういって他者を差別しても構わない空気が「日本主義」の賛美は含んでいる。

自ら卑下するよりもたとえ自画自賛であっても誇らしくすることの方が気分は良いものだ。その限りにおいて、我々も「イイネ!」と脊髄反射的に呼応すれば良いだけで、知性も教養も必要としない。親を大事にとの手本が教育勅語であっても「崇拝の至誠」は素晴らしいからいいじゃないかと、精神主義に簡単に納得してしまう国民を大増産している。

そういう知性も教養も必要としない無思考な「至誠」と「日本主義」は表裏の関係にある。

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日本主義の旗の下、国家至上主義と言論弾圧が頭を擡げ始めた時代に、
長谷川如是閑は「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)の中で、
「二十世紀の日本主義の内容は依然として、原始的「神国」説の文字通りの伝承である」、「千年来発展のない、すなわち歴史を持たない思想は、これを思想と呼ぶべきものでは」ないと喝破している。

すなわち、日本主義とは、伝承であり思想と呼ぶべきものでないことは、それに激しく抗った先人の知性がすでに結論を下した通りであるが、原始的「神国」説はなぜか命脈を保ち続け、安倍政権になって復活し、それと合わせて国家至上主義と言論弾圧が頭を擡げ始めている。歴史は繰返すとは言うが、あまりに我々は歴史に無関心に過ぎるのではないだろうか?

この原始的「神国」説が今も政治教義として息づいていることは「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>からも明らかであり、その神道政治連盟国会議員懇談会の現会長が安倍晋三氏である。

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過去の時代のグロテスクな精神主義に阿るばかりか、忌まわしい歴史の忠実なる再現者としてその「神国」とやらから「宿命の子」として安倍首相が遣わされたのだとすれば、夫人共々我々は一刻も早く国政の場から排除しなければならない。

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(おわり)


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