2017年07月10日

豪雨被災者に対しても「こんな人たち」扱いなのか



リテラ記事「九州北部豪雨で被害拡大も安倍首相は帰国せず! G20終わったのに北欧訪問続けるのは閉会中審査に出ないためか」に書かれているように、G20が閉会すれば安倍首相は直ちに帰国すべきところを、スウェーデンとフィンランド、デンマーク、エストニアといった緊急を要しない国々に立ち寄っている。

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自国の国民が「重大な危険が差し迫った異常な事態」に晒されているにも関わらず放ったらかしにしている首相は「異常」な人間だとG20の首脳の目には映ったに違いない。訪問先のスウェーデン、フィンランド、デンマーク、エストニアの諸国は当然「こんな時だから中止して構わない」と日本政府に事前に通知している筈だ。訪問先の国々でさえ困惑している。それに対していかなる理由をかざして訪問を強行したのか、野党・メディアは帰国後、安倍首相に問い質すべきだろう。首相が帰国したところで何ができるわけでもない、と言う人もあるが一時の外交よりも自国の甚大な災害に直ちに公務を切り上げて帰国することを躊躇う首脳は先進国には他にいない。政治家としての誠実さと「今」取るべき態度(ガバナンス)を問われることだからだ。

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「こんな人たち」と国民に指を突き立てる理由が安倍晋三なる一人の人間の保身・都合にしかすぎないことは誰の目にも明らか。G20閉会後の帰国ならば間に合うはずの本日(10日)国会での「加計疑惑の追及」から逃れるため、公務を私的に作っているにすぎないと。そして、豪雨被災者に対しても結果として安倍首相は「こんな人たち」扱いをしているのである。

昨晩(9日)新宿では「こんな人ですが何か?」と8,000人を超える人々が安倍首相に抗議の声をあげていた。

無用な公務を続け帰ってこないことは豪雨被災者に対しても同じく「こんな人たち」とあからさまに不誠実な態度を取り続けると同じこと。首相である以前に政治家としても失格との認識は国内ばかりでなく諸外国でも共有される結果となった。

(おわり)

追伸:
エストニア訪問だけは取りやめて帰国となった模様。
それならば最初から北欧歴訪などやめておけば良かった筈。明日(11日)帰国し、被災地に向かうのだろう。
10日さえ外せば良かったという思惑が見え見えである。その当て馬にされたのが被災者。東京が同じ目にあっていたらこういう態度は取らなかったろう。北九州なら良いという国民の一部を差別して然りの考えが安倍首相にはある。沖縄然り。「こんな人たち」意識の安倍首相には即刻辞任してもらいたい。

追伸(続き):
北欧歴訪で唯一訪問中止扱いにされたエストニア。
10日さえ外せば良かったという安倍首相の思惑はエストニア大使館にはお見通しだったようだ。「時間つぶしの用は済んだからもうそちらに訪ねる必要はなくなりました。」と言わんばかり。国民を「こんな人たち」と仕分けする安倍首相であれば、同じくエストニアを「こんな国」に仕分けしたのだろう。

エストニアをすっかり怒らせてしまったようだ(以下、大使館がRTしているところをみると)。最初から北欧歴訪などしなければ良かったのである。身勝手な<安倍首相の個人旅行>だと国際社会に知れてしまった。国民と対話しない為(気晴らしの為・健康管理の為)に作り上げた公務だと知って応接する国はない。庶民が額に汗して納めた税金を<地球儀を俯瞰する>逃避行に使ってもらいたくない。

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posted by ihagee at 03:23| 政治

2017年07月03日

安倍晋三という者に対する国民の不信任



安倍晋三首相は3日朝、自民党が惨敗した2日の東京都議選について「大変厳しい都民の審判が下された。自民党に対する厳しい叱咤と深刻に受け止め、深く反省しなければならない」と語った。首相官邸で記者団の取材に応じた。敗因を「政権が発足して既に5年近くが経過する中で、安倍政権に緩みがあるのではないかという厳しい批判があったんだろうと思う」と分析したうえで、「真摯に受け止めなければならない」と述べた。(朝日新聞電子版・7/3配信)

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この惨敗の弁は相変わらず酷い。「安倍政権に緩みがあるのではないかという厳しい批判があったんだろうと思う」などは、自らの専横且つ驕傲な振る舞いや嘘に嘘を重ねる不誠実さが惨敗の淵源であるにも拘わらず、その「私」となるべき主語を「安倍政権」や「自民党」にサラッと置き換え批評家然とした「あったんだろう」口調には呆れるばかりである。「叱咤(=お叱り)」などと我田引水に解釈してもらっては困る。「叱咤激励」では「お叱りを受けながらもしっかりやれと励まされた」となるではないか?「辞めろ」と都民・国民から言われているのであって、そう厳しく受け取るべきである。

「安倍晋三という者に対する国民の不信任」を都議会選挙で都民(国民)は示したのである。「真摯に受け止めなければならない」と言う本人が辞めることこそが言行一致の責任の取り方である。

しかし、

都政与党(自民)への都民の不信任ではなく、国政それも安倍晋三という政治家個人(人間性)への国民の不信の増大が惨敗の直接の原因であると未だに当の本人が気づいていない(または敢えて気づこうとしない)。つまり、少なからぬ多くの都民(国民)は安倍晋三氏が首相として相応しくないと断じ、その職を辞することを求めているのに、安倍晋三氏は組織の人事や運営に問題の起首をすり替えて、「緩み」を生じさせた閣僚を更迭し人気者を閣僚に抜擢するなど内閣改造をすれば済むと思っている。更迭されるべきその首っ玉こそ自分であろうものを

内閣総理大臣・自民党総裁以前、いや政治家以前、もっと言えば社会人として、安倍晋三氏に社会の中の利害の対立を調整する能力が元々ないのではないかと疑われているのである。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」などとその人たりとて国民であることを忘れ指を突き立て(さらにその先に数多の抗議する国民の姿すら想像せず)喧嘩腰になって一切調整に応じない様を見せつければ、元々その能力がないと都民・国民から見限られて当然。

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(指を突き立てて「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫ぶ)


国政はおろか、町内会といった小さなコミュニティですら、導火線が短く器の小さな人は長として信頼されない。一枚の舌と二個の耳を持っていないのである(拙稿「一枚の舌と二個の耳」)。

元々能力がないのにあるかの如く場を繕うのは一身上の様々なコンプレックスに由来するものかもしれないが、その繕い(虚飾・粉飾)を国政にまで持ち込んだのが安倍晋三氏であれば、国家・国政の私物化と言われても仕方あるまい(拙稿『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』)。安倍家(岸家)と何の関係もない我々国民がその家名や家訓に恭順せよと言わんばかり「宿命の子」などと母親に公言させて悦に入る安倍晋三なる「子」なのである。

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「宿命」は桐箱の中の干乾びた「へその緒」程の意味しかないのに、そんなモノ見せつけて、我々に何を納得させようと思っているのだろうか?逆に、このような私的なコンプレックスや偏執的宿命観に少なからぬ多くの国民が辟易し、その「へその緒」程の動機と引き換えに内心の自由など国民の基本的人権を奪い取る安倍晋三氏個人に「安倍政治を許さない」と、政治に今まで無関心だった一般市民までがタオルを投げ込みだしたのが実相ではなかろうか?

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「必要だから必要」的な論理にならない説明を繰り返すばかりでは政治ではない。いかなる立場の国民であろうと論理立って対話ができなければ政治家でもない。

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一人の人間の歪なパーソナリティの為に国を危うくして良いものか、韓国では大統領が罷免され収監された。米国では大統領の個人的な能力・資質が問われている。弾劾される日は近いかもしれない。同じことを安倍晋三氏に今こそはっきりと我々は問うべきであろう。「あなたは国政を預かるに足る能力・資質に欠けている」のだと。彼だけが特別に及第扱いされる理由は一つとしてない。

(おわり)

追伸:
安倍晋三という人間に対する嫌悪感を一般市民は共有し始めているようだ。
首相とか総裁とかいう立場以前に、人間として信用が置けない、そのレベルでの嫌悪感である。生理的に受け付けないという女性も増えた。何を言い出すかわからない者の顔ポスターは今や貼付を断る家や商店も増えてきたという。TBSラジオの朝の番組『森本毅郎スタンバイ」中、リスナー対象のアンケート調査で「アベ首相、好きですか?嫌いですか?」と聞かれて、「嫌いじゃないです、大っ嫌いです」と答えた人がいたそうだが、嫌いに「大」が付けば=生理的嫌悪となる。おっと、ゴキブリが出てきた。


posted by ihagee at 18:04| 政治

2017年07月02日

<蟻の一穴・アキレスの踵> 選挙の公正


追伸:

都民ファーストが選挙で大勝した、否、自民党が大敗した。大敗した夜、安倍自民党総裁(内閣総理大臣)は、東京・若葉のフランス料理店「オテル・ドゥ・ミクニ」で麻生太郎副総理兼財務相、菅義偉官房長官、甘利明前経済再生担当相と共に豪華なディナーを喰らっていた。同じ夜、稲田朋美防衛相は広島県呉市内の居酒屋で、防衛省の村川豊海上幕僚長ら海上自衛隊の関係者と一杯やっていた。

所詮、こういう暗愚な感覚の人たちなのである。自分たちが選挙応援した候補の姿すらその目で確認しようとしない。会見一つ開かない。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と壮語しておきながら、負けても宴を開く感覚は尋常ではない。<安倍内閣総理大臣>が秋葉原の駅頭で応援演説をした千代田選挙区の候補は落選した。彼女の落選の言葉の端々に自党の暗愚な感覚の者たちへの恨みつらみが滲みでていた。

都民ファーストの政策理念は安倍政権と根を同じくするという指摘もある。一脈を通わせるブレーンもいると聞く。そういう裏があれば、負けても勝ったと早晩なると、フレンチを喰らう余裕があるのだろう(『小池知事と都民ファーストでいいのか? 仕切っているのは国民主権否定を公言する極右、安倍政権に全面協力の密約も』(リテラ記事))。つまり、安倍政治の対局(野党)が選ばれたのではなく、安倍政治側(第一自公)の別の名前の政治勢力が台頭した(第二自公)と捉えるべきなのかもしれない。唯一の対局として議席を伸ばしたのは共産党だった。今後、野党再編成はやはり共産党が軸になるだろう。

第二自公となりかねない都民ファースト・小池都政の方向性を我々は監視しなくてはならない。

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東京都・都議会選挙当日である。公正な選挙を期待したい。

先日の秋葉原駅頭(正しくは安倍首相のシンパである秋元康のAKB48 CAFE前)での千代田区自民党公認推薦候補への<内閣総理大臣・安倍晋三>応援演説は公職選挙法第百三十六条の二((公務員等の地位利用による選挙運動の禁止)に違反する。そもそも、その行政府の地位を掲げて<自由民主党総裁・安倍晋三>が登壇する事自体が法律を完全に無視している。この一点だけでも有権者は法を無視する政党だと認識すべきであろう

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(今回の都議会選挙での<内閣総理大臣>なる地位を利用した選挙応援>

その上に群衆の中の抗議に指を突き立てて「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と力説する。かなり離れた場所で、黙って演説を聞いていたお年寄りが「こんな人ってなんだ。都民だ、国民だよ」と急に声を上げたそうだ。「こんな人たち」を「都民」「国民」に置き換えてみたらいい。<安倍内閣総理大臣>という地位を利用し「都民」「国民」にすら指を突き立てているのである。異常極まりない。

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(抗議する群衆に指を突き立てるが、彼らをまともに見ようとしない)

指を突き立てる男が共謀罪を必要とする理由はもう明白だろう。「こんな人たち」=都民・国民の少なからぬ多数の口を塞ぐためである。

そして、「プロ市民」とか「アカ」とか<レッテル貼り>をして括れば済むと思っていたら、いつの間にかごく普通の一般市民まで「安倍政治は要らない」と声を上げ始めた。そうなると今までの陳腐な括りは通用しない。そこでこの頃はやれ「テロの脅威」「北のミサイル」と不安を煽り始めた。不安による民心の支配である(拙稿「不安による支配(不安ファシズム)が安倍政治の原動力」)。


過去掲載していた記事を以下、再度掲載したい。

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「どんなに堅固に築いた堤でも、蟻が掘って開けた小さな穴が原因となって崩落することがある、ということを表す語。一般的に、どんなに巨大な組織でも、些細な不祥事が原因となって、組織全体を揺るがすような深刻・致命的な事態に至る場合がある、といった意味の格言として用いられる(出典:実用日本語表現辞典)」

穴の喩えは、不死身の筈のアキレスが敵将にその唯一の弱点(踵)を射られて死んだギリシャ神話と同じである。

アキレスがもし不死身を願うなら、その踵を隠し通したことだろう。つまり、唯一の弱点は射られさえしなければ最大の強みとの意味にもなる。スポーツ選手にとって、断裂し易いアキレス腱がまさにそうである。

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政党・政治家の願う不死身とは選挙に毎回勝ち続けることであろう。一票がまさに命運を握っている。票をカネで買収したと豪語したハマコーさんの時代もあった。バレなければ手っ取り早い集票となる。あるいは組織票である。選挙区の政党支部や後援会、各種団体が主体となって、または場合によっては選挙公示日の3か月前までに大量に住民票を移すなどして、特定の政党・候補に票を集める手段である。しかし、近年、どの組織にも属しない無党派層が都市部を中心に拡大したこともあって組織頼みの集票にも陰りが見えてきた。「無党派層は寝ていてくれれば(森喜朗元首相)」は、彼らが投票所に向かうと票の行方が読めなくなるという組織票主体の政党の本音であろう。そして足元の組織にも不協和音が起きつつある(創価学会など)。

原発再稼働・安保法制・憲法解釈・辺野古問題・TPP・特定秘密保護法・表現の自由・税制・年金問題など、現政権の議論も許さぬ専断強権ぶりにさすがの無党派層・無関心層も声を上げ始めてきた。憲法学者も文化人もそれは違うと言い出した。政権与党が不死身であり続けるには、彼らは手ごわいのである。カネや利権、地縁・血縁、政治・宗教上のイデオロギーに簡単に括られない相手だからである。「サヨクだ、プロ市民だ」と幾ら<レッテル貼り>を試みようとも、彼らのほとんどはそういう括りにないのだから動じることもない。そういう背景を持たない一般市民が<まともに>選挙権を行使しようとするのだから、背景頼みの政権与党とすれば何とかねじ伏せたいと思うだろう。

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ねじ伏せようにも、政治的イデオロギーの色を持たない一般市民を相手には戦前のような旗色鮮明な思想統制は利かない。<暴力革命集団>と半世紀以上前の錆びついたステレオイメージを持ち出して一括りにレッドパージをしようにも(鈴木貴子衆議院議員)、相手は必ずしも赤くないのである。

情報を統制したり(アンダーコントロール)・攪乱したり・敵対し合わせたり・バイアスを加えたり・スピンさせたりする。表現の自由、報道の自主性を脅かす手段をちらつかせる。そのように情報を政治が操るに電子情報社会は相応しい。時の政権がマイナンバー制度を近い将来、個人の思想信条まで把握する手段に用いない保証はない。しかしいずれも仮想世界での操作であって、その世界の住人である所謂<ネトウヨ>君が群衆となって大挙現実世界に現れることはない。仮想世界をいじくる政権に、国会前に数万の群集がシュプレヒコールを挙げる現実世界はやはり無視できず脅威なのである。

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(筆者撮影:国会議事堂前「2015年8月30日安保法案反対デモ」)

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憲法を政治的に恣意解釈(解釈改憲)し、集団的自衛権の行使容認など禁じ手を次々と繰り出す政権のことだから、選挙においても禁じ手は場合によっては躊躇わないであろう。

その禁じ手とは、少なからぬ人々が懸念している通り、選挙をいくら行っても民意が反映されているようには思えない結果に終わることへの疑念である。「負けた側は悔しくてそう言うのだ」、ということではなく(勝ち負けではなく)、選挙が公正であったか否かという選挙制度根幹に対する根本的な疑念である。

即ち、自分の投じた一票が正しく集計されているのか?という民主主義の生死に関わる疑念である。投票・集票・開票・集計のプロセスに万一、不公正が存在すれば、選挙権は著しく侵害されていることになる。

その疑念の発端となったのは、2013年7月の高松市選挙管理委員会の票不正操作事件である。参院選比例区の開票作業で、高松市の選管事務局長が同市元幹部らと共謀してパソコンで投票結果を操り、集計済みの白票を二重に数えたり投票箱の封印を勝手に解くなどして票を増減した事件であった(後に公職選挙法違反で関係者は有罪)。

この事件をきっかけに、あとで消去改竄されないようにと、投票所に据え置きの鉛筆を使わずに、自宅から持参した消えない筆記具(ボールペン・サインペン)で記入し票を投じる人が増えたとも聞く。公職選挙法には筆記用具に関する規定はないので用いること自体は合法だが、有効・無効の判断は各選管の判断に委ねている(総務省見解)とのことである。

人間を介在させると碌なことはないとばかりに全てのプロセスを自動化してしまおうと思えば、電子投開票である。ただし、電子データというものは投票済み用紙と異なって現物を目で確認できない。誰かが脚を付けると操ることも可能であるし、最後は秘密保護法という藪に突っ込んでしまえば誰のどんなデータであったのかも永久に不明となる。福島の事故原発から風下のゴルフ場に落下した放射性物質を<無主物>、即ち、誰のものでもないとする国である。選挙人の手を離れた瞬間にその一票が<無主物>になるやも知れぬ。選挙の公正さ(トレーサビリティ)が電子投開票によって確実に担保されるのか甚だ疑わしい。前述の高松市の一件も投票箱・投票済み用紙への工作で不正が発覚した。箱や紙という現物があればこそ工作の跡(トレース)が残り、不正が発覚したのである。(拙稿:「紙は最強なり」)

現状は、電子投開票まではいかず、開票・集計の自動化に留まっている。投票・集票までは紙と筆記用具、投票箱を用いたアナログであるが、開票・集計からは筆跡を文字として識別し、どの候補者・どの政党への投票であるのかをその文字化した情報から判断・仕分けする自動デジタル変換処理になる。この一連の処理の公正さについて、我々は公正であると信じるに足る説明や情報を得ていない。「選管が公正だと言うから公正」ということで納得してしまっている。そして、このプロセスに用いる機械・プログラムは長らく特定の民間業者(数社)の独占・寡占状態という。機械というものは必ず誤差を生じるので較正・校正が必要であるが、それらがどう行われているのかわからない。プログラムの中身もブラックボックスで一切開示されていない。

常識的に考えて、マス目もない投票用紙上の各人各様の筆跡から正確に機械が文字を読み取ることは至難である(たとえいくつかの候補のどれかに当たるかを判別させるにしても)。それも瞬時に読み取って仕分けをしているとすれば、工場の生産ラインのように予め用紙の所定の位置に読み取り用のマーキングをしない限り無理である。マーキングの身近な例としては、郵便物に印字されるバーコードがある。これは集荷先の郵便局にてOCRで郵便番号を読み取った後に郵便物に住所情報を含むバーコードをインビジブルインクで印刷し、配達先の郵便局内の二次的な仕分けはこのバーコードを用いて瞬時に行うという仕組みである。また、ディズニーランドで一旦パーク外に出る際に手の平に押されるスタンプがマーキングである。インビジブルインキなのでそのままでは目には見えないがブラックライトでは印影が浮かび上がる。

もっとも、使用済みの投票用紙に任意に仕分けされるようにあらかじめ機械がマーキングすること自体(上述の郵便局の例のように二次的目的であっても)、あってはならない不正行為である。

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国政選挙での公正さを選挙民が確認する手立てとすれば、公職選挙法第204条に規定の選挙の効力に関する訴訟を中央選挙管理会を被告として選挙人又は選挙候補者(候補者政党)が選挙の日から30日以内に高等裁判所に起こすことができる。手作業による再集計なり使用済み投票用紙のチェック(上述のマーキング等の細工の有無)を求めることもできよう。

「どうせ門前払い」と諦めることもない。地方議会選挙に係る過去の最高裁判例(最高裁判所第3小法廷判決/昭和31年(オ)第843号、最高裁判所平成14(行ヒ)95第一小法廷判決)では、選挙管理委員会以外の人間が行った不正であっても訴因となること、「選挙結果への異動を及ぼす虞がない(公職選挙法第205条第1項)」は選挙管理委員会が「虞がないこと」を証明できない限り、選挙の無効を訴えることができることを判示している。国政選挙においても同じであろう。

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一票を投じた側が選挙の効力に関する訴訟を諦めることなく繰り返すことが<蟻の一穴>になる。また、その訴訟で開票・集計のプロセスにおいて構造的・組織的な不正が発覚すればそれこそ<アキレスの踵>となって、その結果を当てにしていた相手には致命傷になるだろう。

現実世界でプラカードを掲げ、「安倍政治は要らない」と声を上げることは政権与党のボディブローになる。外国メディアはありのまま取り上げるのでプラカードは英語のものも用意したら良い。

そして民主主義の根幹たる投票・集票・開票・集計のプロセスに政権与党は隠しておきたい最大の強み且つ弱点があるかもしれない。もしアキレスの踵がそれなら、その弱点を衝けばノックアウトである。安倍政権のレーゾンデートルが否定されることになる。

アキレスばかりではない。巨人ゴリアテも羊飼いの少年ダビデの投げた小石を額に受けて倒れたのである。諦めることはない。

表現の自由度ランキング72位の前後には、選挙制度に不正が横行する民主主義の後進国が踵を並べているのである。そんなランクに我が国を落とした安倍政権であれば、我々が同じ疑いの目を向けるのも当然である。国連の表現の自由調査官を袖にしている場合ではない。選挙監視団が派遣されてくることすらあり得る国々と同じランクに落ちたと認識すべきである。

(おわり)
posted by ihagee at 09:48| 政治