2017年08月02日

「俺がルールブックだ」はもうお断り



地上波のゴールデンタイムからプロ野球中継枠が消えて久しい。

巨人戦すら実況中継はホームの読売テレビでも扱わなくなった。アンチ巨人派であろうとジャイアンツ一軍登録選手の名前ぐらい概ね諳んじていたのは昔のこと、オロナミンCの宣伝に彼らが登場しなくなったのも巨人の顔というものがいつの間にかなくなったからだろう。今では三丁目の夕日風のCMで昔語りの飲み物になって「元気ハツラツ」はどこへやら。

代わって、本場のベースボール(MLB=メジャーリーグベースボール)の話題は尽きない。衛星実況放送もなかった1980年代、「メジャーリーグ通」で知られたパンチョ伊東(伊東一雄)さんがベースボールの啓蒙を兼ねてビデオ撮りの試合を熱心にアテレコで解説していたのを思い出したがあの時代と今では隔世の感がある。ドラフト会議の実況中継に茶の間が一喜一憂した思い出も、伊東氏へのその名司会ぶりとともに遠い過去となり、プロ野球よりもMLBがテレビの視聴率を稼ぐ時代となった。

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V9時代の巨人軍にヤクルト監督として戦った野村克也氏がその監督就任1年目(1990年)の対巨人開幕戦についてこう回想している。

『開幕前に「巨人戦は相手が10人いると思った方がいい」と何人もの監督経験者から聞いていた。要は、審判が巨人贔屓という意味。それを痛感した試合だった。2点リードの8回裏、1死二塁で篠塚和典の打球がライトポール際に飛んだ。このシーズンから審判が6人制から4人制になったが、一塁の塁審が右手を回すんだよ。ビジター三塁側ベンチの俺の座る場所からは、ライトポールがよく見えた。フェンスギリギリでポールの外側に飛び込む、明らかなファウルだった。それを審判は「ポールを巻いた」と言い張るわけ。本当に相手は10人いると確信したね。これで同点となり、延長14回裏に押し出しサヨナラで負け。開幕で躓いたこのシーズンは5位だったよ。』(2017年3月26日付NEWSポストセブン)

複数の審判の実名を挙げ巨人贔屓をしているものがいると公言したのは「俺がルールブックだ」の語録と共に名物球審として知られていた二出川延明氏である。野村氏とも少なからぬ因縁がある。

「気持ちが入ってないからボールだ」と判定した二出川氏に捕手として猛抗議したのが現役時代(南海ホークス)の野村氏だった。「俺がルールブックだ」の二出川氏の前に、ルールブック上の抗議などさぞやムダなことだったのだろう。

「写真が間違っている」も二出川語録で、本塁クロスプレーでのアウトの宣告も、翌日の新聞の写真から捕手がランナーにタッチしていないことが明らかになった。このミスジャッジをセリーグ会長から指摘されるや、二出川氏は新聞の写真を一瞥し「会長、これは写真が間違っているんです」と平然と言い放ったとされる。

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ルールブックがあっても審判が「俺がルールブックだ」と尻をまくったらどうなるだろうか?野村氏のように理詰めで抗議したところで判定が覆らないのなら、ルールブックなんかよりも、次からは審判に贔屓してもらえるようにプレーするかもしれない。「新人の君に教えといてやる。プロの投手にとってど真ん中はボールなんだ」と二出川氏は当時ルーキーだった稲尾和久氏に説教したとされるが、このような越権行為さえも選手は飲んでしまうし、巨人贔屓の審判がいるならば勝ち馬に乗らんばかりに巨人軍に入ろうと思う者もいたかもしれない。火の無いところに忖度なる煙は立たない。その火こそ「俺がルールブックだ」と誇示する者の存在である。

「写真が間違っている」と一蹴できた時代から詳細な映像でストライクゾーンを誰も追視できるようになった(古くはノムラ・スコープ)、そして、WBCなど国際試合の機会が増え選手が従うルールブックは一つであっても実際の運用に解釈の幅があってその解釈が審判の主観に委ねられているのであれば、ストライクゾーンなどの判定で公平性は担保できない時代になった。ベースボールの世界では「俺がルールブックだ」と言うような審判は国際的に通用しない。

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このような時代の流れを受けてMLBでは各審判員のジャッジを可能な限り均一化をすること目的として(ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコールをするべき)、2001年度シーズンより「審判に情報を提供するシステム」、つまりクエステック・システム(QuesTec System)を導入している。このシステムは球審の判断の事後チェックに用いられている。イチローも「球審自身がゲーム後にチェックするだけなら良いと思う。それによってジャッジの精度が上がるなら望ましいことだ」とこのシステムの運用を肯定的に評価しているようだ。

審判員の主観や感情に判定を委ねず、可能な限り客観的に「ルールブック」に立ち返ろうとする動きはプレーの公平性を担保する上では重要なことである。「俺」なる人が治める試合よりもルールブックに従おうとする試合に、観客はフェアプレーを期待し選手は邪念なくスキルを磨くことができる。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」などは二出川氏の時代に許されたことであって、現役のプロ野球の審判員がいまどき公言したら大問題となるだろう。判定やプレーの公正さを担保することができなければ、再び<黒い霧>にプロ野球の存立が脅かされるだろう。

しかし、「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と公言して当たり前が昨今の日米の政権である。

「俺がルールブックだ」の如く「私がそう思えばそれが法律(解釈改憲)」と憲法さえも軽んじ、「写真が間違っている」の如く「総理のご意向」とはっきり記載のある記録文書を「怪文書」と一蹴し、「指摘は一切当たらない」と国民を代表する野党の主張に耳を貸さない。「新人の君に教えといてやる」の如く、行政府の長に過ぎない内閣総理大臣の立場で憲法を変えよと立法府に越権的な介入をする。政権の方針に物言わぬ官僚ばかりを集めるために人事決定権をちらつかせ(内閣人事局)、政権から贔屓してもらえるようにプレーすることを官僚に求める。国会の正面切った野党からの質問も全て「印象操作・レッテル貼り」なる「ボール球」扱いにしてまともに答えようともしない。「ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコール」など一度としてこの政権では聞いたことがない。ルールブックに従って相手と同じ土俵に立つことをしない。言葉の意味を巧みにずらす変則球のみならず「(前川氏への)人格攻撃」などボールにまで小細工をして、ルールブック通りならば本来罷免や退場(総辞職)となるべきところを、「こんな人たちには負けない」と自国民に向かって感情剥き出しの滅茶苦茶な政権運営を続けているのである。法治主義を等閑にしてトモダチ的人治に過度に傾斜し議会主義すら省略する(参院法務委員会での法案採決を省略して本会議で「中間報告」を行い「共謀罪」を強行採決した)。籠池氏は葬り加計氏は助けるのも贔屓筋かそうでないかという安倍氏個人の勝手な距離感でしかない。

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このような政権の暴走を監視する為のクエステック・システム(QuesTec System)を国民の側は持つべきところを(例えば、憲法裁判所)、逆に政権側が国民の言論を監視する為のシステム(共謀罪)を成立させてしまった。野球で喩えれば、どの観客が球審のコールに野次を飛ばしたのか観客に混じった警備員がそっと球審に伝え、その観客は「この人たち」扱いで退場処分(拘束・逮捕)とするシステムにさしずめなることだろう。

国会記者クラブの政治部記者たちの中で、一人果敢に官房長官に歯に衣着せぬ質問を浴びせた東京新聞社会部の女性記者を「あんな奴を二度と会見場に入れるな!これはクラブの総意だからな!」と同新聞のキャップに怒鳴り込んだ読売新聞の官邸キャップは言ってみれば、その警備員に当たるだろう。国民の側に立って官邸を監視すべきウォッチドッグが官邸の飼い犬になって国民の知る権利に噛み付けばもはやジャーナリズムを名乗る資格はない。産経新聞も読売と同様、官邸の下足番となって、執拗に件の女性記者をその紙面で誹謗中傷している。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と安倍首相と同じくトモダチ・身内重用の人治主義で強引に政権を運営してきたトランプ大統領に対して、連邦議会は行政監視の役割をしっかりと果たしているように見える。財政面(予算審議)と人事面(連邦職員の人事承認)そして弾劾という手段は大統領の暴走への歯止めとなっているようだ。トランプという「俺さま」存在が却って、議会にとっては行政監視の実効性を高める機会に、マスメディアにとっては言論の自由の意味を再確認する機会になっているのは興味深い。大統領報道官に対して丁々発止で質問を浴びせかける記者の一人として、ホワイトハウスの下足番を買って出る者はいない。

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(まさに丁々発止)


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(予定調和の指名制)


それらに比して、行政監視の実効性を次々と削ぎ落とすばかりか、議会手続すら省略し、言論や表現・集会の自由に箍を嵌めるなど国民監視の実効性を着々と高め、マスメディアを懐柔して行政側の提灯持ちにさせているのが安倍政権である。安倍首相自身の過ぎた人治主義は饗応関係ばかりのトモダチ以外に知力を得ることができず、内閣改造を行おうにも人材が払底する結果となっている。その貧する最たるものが首相自身であると認めれば内閣総辞職なるべきところを改造で済ますとは全く噴飯ものである。まさに貧すれば鈍し悪手は悪手を呼び嘘の上に嘘を塗り重ねる始末になっている。

安倍首相に対して「退場」と我々国民ははっきりジャッジしコールしなければならない。
「ルールブック通りのストライクゾーン」にアベノミクスを含む安倍政権の諸政策が投じられたか否かを我々国民が総括すべき時期にある。ならば、6年間の独善専横的な政権運営での国民への背信(虚飾・粉飾)が白日の下に晒されることだろう。

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プロ野球も政治も「俺がルールブックだ」はもうお断りである。そんな時代ではない。

(おわり)

posted by ihagee at 17:48| 政治

2017年07月28日

火事場泥棒


「人々が混乱している中で利益を得ること、または利益を得る者」

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東日本大震災の後、民主党は自壊し唐突に安倍政権になった。
そしてこの国の在り方は根底から一変した。市民社会のための政治が企業社会に専ら奉仕する政治になり、強者が自由を求め、弱者が平等を叫ぶ世の中になった。「絶対」という言葉を好んで使う政権は国民すら「この人たち」呼ばわりし「負けるわけにはいかない」と指を突き立てた。「私が言うのだから、ありえない・絶体にない」と首相が自らの言葉を絶対化する現況は即ち、「他に言う者はない」という独善独裁に堕ち、「絶対的権力は絶体に腐敗する(ジョン・アクトン)」の通りとなりつつある。

「東日本大震災という未曾有の混乱」からの復興の中心が気がつけば東京となっていた。被災地には未だ多くの仮設住宅や避難者生活を続ける人々が取り残されたまま、東京にレガシーを残せ!とばかりに2020年東京オリンピックなるコンクリの都市大改造が始まった。私を含め都民の大半はそんなオリンピックは要らないと言っている。冷めているのである。都税は東京の電力を供給したばかりに原発事故を招来したフクシマ(事故対応)に充てるべきであって、東京に充てるべきではない。最大の受益者がさらに受益を求めようとすることに強烈な違和感を覚える。それを「レガシー」と言うのが小池都知事である。

法治主義よりも人治主義に依る政権はついに「私がそう解釈すれば法律である」と言い出す。行政府の長でしかない首相が憲法改正を明言し立法府の権限を侵す。不安を振りまくばかりか自ら火を放って盗みを働く。火事場泥棒とはこういうことだ。

いつからこの国はこんなに破茶滅茶になったのか?襟を正す時がきたようだ。

(おわり)
posted by ihagee at 04:10| 政治

2017年07月24日

もりかけ五輪万博カジノという安倍政権<竜頭蛇尾>ぶり


追記:
衆議院と参議院で開催された予算委員会(24〜25日)。
加計問題は安倍首相自身の汚職(贈収賄)へと疑惑が発展する様相となった。
利害関係者に該当する加計孝太郎氏から食事やゴルフといった供応接待を安倍首相は受けていることから(安倍首相は「私が(加計孝太郎氏に)ごちそうすることもあるし、先方が持つ場合もある」と認めた)、国家公務員倫理規程違反であり、国家戦略特別区に加計学園が申請していることを「今年1月20日初めて知った」とする安倍首相の発言は、その日付以前の国家戦略特別区域諮問会議の期間中の加計孝太郎氏からの供応接待が汚職(贈収賄)とみなされないための弥縫である。つまり、「今年1月20日初めて知った」が汚職(贈収賄)疑惑への分水嶺であって、嘘と知りつつも安倍首相なりに譲れない一線なのだろう。「今年1月20日初めて知った」なる嘘が崩れたとき(早晩詰むことになる)、安倍首相の政治生命は終わるだろうね。その前に持病を理由に降板するかもしれない。

小池都知事は25日、都内で講演し、報道各社の世論調査で安倍内閣の支持率が軒並み低下したことについて「びっくりしている。小さなことが反感を呼び、支持率低下につながっているのではないか」と述べたとのこと(日経新聞報)。憲法を蔑ろにし民意に耳を傾けない安倍首相の政治姿勢は「小さなこと」なのだろうか?

「こんな人たち」の反感は「小さなこと」に向けられているとするのが小池氏の認識だとすれば、いずれ彼女も指を突き立てて「こんな人たちに負けるわけにいかない」と言い出すだろう。都民も心しておかねばならない。

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先日(7月23日)、TBSのサンデーモーニングで寺島実郎氏が安倍政権の経済政策を「竜頭蛇尾」と言い表していた。国家戦略特区なんて聞いたらドキっとするような言葉で、この政権の特色として一億総活躍とか、仰々しい言葉がはねるが、じゃあそれがどうなったかというと、知り合いとか友人に事業機会(それも国家戦略に値しない事業)を提供するという結末にガクっとなってしまう、といった趣旨であった。然りである。

アベノミクス三本目の矢の的が、もりかけ五輪万博カジノという安倍首相のお友達ごっこであることが国民に判ってしまった。関係者は全て安倍首相のお友達である。こんなコンクリ箱物と賭博を「レガシー」と宣って「お友達ごっこ」をしている間に欧米諸国は着々と国家百年の計に値する経済施策を打っていた。

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2017 年6 月7日及び8 日にエルマウで開催されたG7サミットで採択された首脳宣言の中で「陸域を発生源とする海洋ごみに対処するための優先行動」についてわが国がいかなる行動を国際社会に示すのであろうか?

海洋ごみの約70%を占めるプラスチックゴミは年間480万トン〜1,270万トンに上るとされている。このうち大きさが5ミリメートルを下回るものを「マイクロプラスチック」と呼び、元々、スクラブ剤として製造使用されていた「(一次)マイクロプラスチックビーズ(球状で数ミクロン〜数百ミクロンの目に見えない位の大きさ)」もその中に含まれる。いずれも、陸域で回収されることなく下水道や河川などによって海洋に運ばれたものである。清掃助剤として洗顔料や歯磨きに使用されているポリエチレンやポリプロピレン製の「マイクロプラスチックビーズ」は消費者の洗面所やバスルームから下水道を経て下水処理場を通過して(あまりに小さく回収不能)河川・海洋に流れ込んでいる。ちなみに、一本(100〜130g)に含有される「マイクロプラスチックビーズ」の数は洗顔料であれば約4万個、歯磨きであれば約24万個となる。

海洋生物への影響としては、摂食器官または消化管の物理的閉塞または損傷(海鳥などの誤飲)、摂食後のプラスチック成分の化学物質の内臓への浸出及び吸収された化学物質の臓器による摂取と濃縮が考えられ、プラスチックに残存する合成有機化合物(特にポリ塩化ビフェニール=PCB)は環境ホルモンとなって内分泌かく乱や発がん要因となるが、非生分解性ゆえに生態系に一旦取り込まれれば半永久的に残存し生物濃縮によって上位捕食者ほどその化学物質濃度が上昇することが判っている(最上位に人間が含まれる)。

初めは塊として海面を漂うプラスチックゴミも、波などの機械的力に加えて太陽光(紫外線・熱)による光化学的作用によって、徐々に劣化崩壊しやがてプランクトンが誤食する程度の微少な「(二次)マイクロプラスチック」の大きさとなって海中を漂うようになれば最早人間の手によって回収することは不可能。年間の世界のプラスチック消費量は2億8000万トンでその量は増大の一途。

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「(一次)マイクロプラスチックビーズ(球状で数ミクロン〜数百ミクロンの目に見えない位の大きさ)」以上に、地球規模の生態系に対する負荷が懸念される技術開発としては、カーボン・ナノ粒子がある。ナノ粒子は極めて微小であることから、人体の血液脳関門さえも通過する。環境(水、大気、土壌など)に放散された場合の影響、食物連鎖による生態系全体への影響等、未知の部分が多く(鋭い繊維状の形状はアスベストと同様に丈夫で変化しにくい性質のため、組織に取り込まれると長く滞留し線維化・ガン化し易いことなどは動物実験から明らかになっている)、ナノ粒子の特性や挙動が時間の経過と共に(特に環境中に放出された後に)、どのように変化するのかは、一旦、環境に拡散してしまった後では見極めることは困難(回収も困難)。またナノ粒子の環境へのリスク評価(有害性評価、暴露評価)に向けた研究は細々と大学等で行われているだけで、その技術発明について特許はそういった懸念とは別に開発企業に付与され、技術は次々と市場化されている。

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小泉政権が掲げた知財立国ビジョンは現政権まで引き継がれ、日進月歩の企業活動の先端技術開発のインセンティブを後押ししている。しかしながら、言うまでもなく、開発と環境は場合によっては表裏の関係であり、特に先端技術についてはその開発の方向性や利用の仕方によって、生態系を含む地球環境にその経済効果を上回る重大な障害を将来もたらすと予測されるものも含まれている(原子力開発と原発事故との関係にみるように)。

過去の数々の薬害問題にあるように、国が一旦、新たな技術を認可してしまえば、企業はそれをインセンティブにして企業活動を行い、結果として重大な被害が出ても認可した当時は予測し得なかったとして誰の責任にもならないといった事態が頻繁に起きている。

先端技術開発の企業にとってのインセンティブは、その技術に対する国の認可であり、具体的にはその技術発明に対して国から特許を付与されることであろう。製品又は方法の発明に特許が付与されるために、市場での販売又は使用を規制する法律上の要件を満たしている必要はない。例えば、医薬化合物についてその技術発明に特許が付与されることと、薬事法での治験を通らない限り商品化ができないことは法律も要件も別である。人間に対して使われたとき安全又は有効であるかは(クリニカルテスト)、特許法とは別に規制する法律上の要件を満たしているか否かが問われるが、生態系を含む地球環境にどのような負荷をもたらすのかについては問われずに市場化される場合が多い。上述の洗顔料や歯磨きにスクラブ剤や清掃助剤として添加される「マイクロプラスチックビーズ」がその一例である。

特許という国のお墨付きがあれば、その特許権は企業活動における市場からの資金調達の糧となるため、権利が売買され、開発したとは別の会社がその技術を別の思惑で経済活動に利用することが想定され、一旦市場に出てしまえば、環境評価は困難な上、常に後手にまわる。知財立国と言いながら、一企業の利益に任せたビジョンは企業活動のインセンティブを「市場向けの科学技術」にばかり期待する点で、旧態依然な範疇に留まっている。

エルマウの首脳宣言にあるように、生態系を含む地球環境保全の観点からは、一企業の利益に任せた開発スタンスが手放しで許される時代でないことは明らかで、「地球環境保全」は棚に上げてこのような「市場向け」に特化する旧来の政策を大胆に転換(パラダイム)すべき時期に来ているのだろう。

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特許についてさらに言及すれば、大命題とすべき「地球環境保全」は蚊帳の外に、いかなる基準で技術発明に特許権を付与すべきかについて(実体事項)についての国際的な議論ばかりが“SPLT”(実体特許法条約)などの形で行われ、技術上/法文上の命題にのみ議論が集中している。また、エイズ治療薬の問題にあるように、特許権の使用料を支払えずその薬を利用できない国の人命は開発企業の手のひらの上にあるといった特許を持つ国と持たざる国との間での深刻な対立も特許制度にとっては蚊帳の外の議論である。このような事態は行き過ぎた「市場向けの科学技術」政策や「プロパテント」の弊害であり、全人類的な課題(例えばエイズ克服)を前にして、開発した技術を個人の占有から解放し(開発企業のインセンティブを殺ぐことなく)、共有するための新しいモデルが必要ではないかとの議論が沸き起こりつつある。

従来の「市場向け科学技術」にばかりコミットした施策や判断から脱却して、新規性・進歩性などの特許要件において特許性が認められる技術発明であっても、その実施において地球環境への負荷がある指数以上に推認される発明については、特許を付与しない/又は付与するとしても負荷に応じた税(その負荷を解消する為の技術開発に充てる)を開発企業に課するといった、基準/指針(「産業上の利用可能性」に加えて「地球環境に対する保全性」)を世界に率先してわが国は提案すべきではないだろうか?

医療に関わる医薬/生化学/遺伝子工学の中で全人類的課題の解決に不可欠な発明については、開発企業や研究機関からその発明を国や国際機関(例えばWTO)が買い取る等してプールし、経済的貧富の差からその技術の恩恵を受けられない国に与えるなどの施策を行うための、基準/指針、仕組みこそ特許政策上で国際的にハーモナイズすべきであって、その中心的役割をわが国が果たすことが、国際社会でのわが国のイニシアティブを発揮することに繋がるのではないだろうか?

環境評価の基準としては、例えば、その技術発明を実施するにあたって、利用する資源と仕入れ商品・購入部材で利用する資源の採取から加工までに必要な消費エネルギー、直接消費する消費エネルギー、CO2 排出量などを総和したものを指数化した数値、その技術を用いた製品のリサイクル度、環境(水、大気、土壌など)に放散された場合の影響等、生態系に対する負荷(環境ホルモン/食物連鎖等)がある。この基準を特許の実体審査段階に採用し、お墨付きを与えるか否かの審査段階から生態系を含む地球環境保全を強力に目的化する施策が必要で、これは地球という病気の患者に医師/薬剤師/栄養士がそれぞれの基準で与えるべきもの/与えてはならないものを決めると同じことだろう。特許の実体審査段階に反映させることで、企業の開発トレンドも大きくシフトすることになると予想される。そういう企業に銀行は金を貸すことになるだろうし、また、消費者も、単に安くて便利なサービスや製品を提供する企業よりも、多少価格は張っても地球環境保全の基準をクリアしたサービスや製品を提供する企業を評価する意識に変わることが予想される。

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科学技術の進展がそろそろ「技術的特異点(Technological Singularity)」の近傍にあるのではないかといわれている。即ち、科学技術の指数関数的な進展が人類の技術開発の歴史から推測して得られる未来のモデルの正確かつ信頼できる限界に近づきつつあるという考えである。未来モデルは1972 年ローマクラブの報告書「成長の限界」ですでに提起されていた。事実、地球資源レベルでは人間の経済活動は地球の生物生産力をすでに超えている。例えば、WWF のLiving Planet Report 2006によれば、世界のエコロジカル・フットプリント(需要)は、地球の生物生産力(供給)を2003 年時点ですでに約25%超過している。その後のラディカルな技術革新に伴う開発スピードと品質のトレードオフ(非両立)の常態化、地球環境変動の激化など、今までの統計学的/演繹的な変化予測が及ばない次元に入りつつあるのではないかという漠然とした不安を抱く人は多い。また、人工知能(AI)の産業への活用は、モノ・サービスの生産・流通コストを飛躍的に低下させ消費者の選択肢が格段に増えることと比例し、企業間競争の激化の結果として労働者の社会的立場は不安定となり、社会の二極化・差別化が顕著になる(オールドエコノミー=終身雇用・年功序列の終わり)。ここにも、同様の特異点(Singularity)が間近に迫っている(拙稿『「AI本格稼動社会」への大いなる懸念』)。

このように、「市場向けの科学技術」は各技術分野において、技術的特異点の近傍に到達しつつあり、地球環境保全の観点からは、企業利益に任せた開発スタンスが手放しで許される時代ではないようである。「地球環境保全の科学技術」と従来型の「市場向けの科学技術」のバランスの上に、科学技術開発の次のパラダイムを模索すべき時期に差し掛かっていると考える。

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G7サミット首脳宣言の中の「陸域を発生源とする海洋ごみに対処するための優先行動」に合わせて、環境政策に関する国際社会への提言(環境政策にリンクした新たな特許政策を世界に表明すること)といったブレークスルーをわが国が率先することは夢のまた夢なのかもしれない。五輪だ万博だカジノだのと「レガシー」なる古びて陳腐化した発想の貧困に取り憑かれているようではダメだ。そうこうしている内に「マイクロプラスチックビーズ」の使用が法律で規制されていないのは先進諸国ではわが国だけになりつつある。脱原発(廃炉技術)でも電気自動車でもドイツや欧米諸国にデファクトを許し、わが国はその後塵に甘んじる状況は嘆かわしい限りである。

「竜頭蛇尾」はそのまま安倍首相の人となり(アンバランス)を表している。頭から総取っ替えしなければいつまでたっても「竜頭蛇尾」のままである。

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(名は体を表す・体は心を表す)


(おわり)


posted by ihagee at 18:31| 政治