2018年02月17日

「下町ボブスレー」と政治(続き)



五輪大会出場間際になって、ジャマイカ・ボブスレー・スケルトン協会は、チームコーチをその職から外すことを決定し、それを不服としたコーチ(サンドラ・キシリス=トリノ五輪二人乗りで金メダリスト・ドイツ出身)がチームを離れるという事態になった。彼女が自身の所有物と主張するラトビアBTC社製のソリ(ボブスレー)は大会競技に用いることができないという。同ソリの使用を強く求めていたのは彼女だとされている。

大会競技出場を危ぶまれていたチームに突如救世主が現れた。

ジャマイカの首都キングストンに本社を持つビール会社のレッドストライプが「ソリがないって?何の問題もないよ」とTwitterで "No bobsled, no problem, if you need a new ride @Jambobsled, put it on @Red Stripe's tab. DM us and we'll be in touch."と、呼びかけたところあっという間に600万円ほどの支援が集まり、チームに新たなソリが提供されることになった。レッドストライプは平昌五輪に関して公式スポンサーシップがないので本来であればアンブッシュ・マーケティングに問われるところだが、純粋な支援であることがIOCに認められたようだ。事実、今回の支援について便乗するような一切のマーケティングをこの会社は行っていない。潔い。

何とも劇的な展開となった。ソリ(ボブスレー)と何のしがらみもない企業とクラウドが、純粋な気持ちで支援を申し出た。これこそ自ずと美談だろう。

政治や経済のしがらみだらけ、アスリートはそっちのけで損害賠償だの謝罪要求だのとソリ話に終始する「下町ボブスレー」は蹴り飛ばされた形だ。美談をあらかじめ書き上げ、その通りにならないと怒り出す者としか「下町ボブスレー」はもはや映らない。

下町ボブスレー


本来、人に投資することが前提でソリはその道具(手段)であるべきなのに、手段を目的化しジャパンブランドを貼り付け「契約があるのに乗らないのはけしからん」と人をブランドの道具扱いにしてはならないということ。これは子どもたちをブランドの道具にする泰明小学校の標準服と同じ(拙稿「だから子供が育たない」)。「服育」ならぬ「ソリ育」がハラスメントになってはならない。

ジャマイカチームが支援を得て購入するソリも600万円程度ということなら標準服なのだろう(どこ製かは報道されていないが)。そりの開発費と輸送費の合計額の4倍となる6800万円の損害賠償が標準服のお値段だと「下町ボブスレー」が言うのなら、それはアルマーニ並みの標準服に違いない。契約上は無償供与というがその異常なまでのジャパンブランド意識はジャマイカチームにとって重荷でしかなかった。そして契約違反だと一転高額な損害賠償を要求され、その意識の異常さに気づいたことだろう。

チームが必要だったのは身の丈にあった標準服でしかなかったということだ。その服を提供してくれた人々の純粋な気持ち(「下町」の人情とやらはこっちの方があるんじゃないか!)こそチームの大いなる資源となるだろう。

(おわり)


posted by ihagee at 07:59| 政治

2018年02月15日

「下町ボブスレー」と政治



拙稿「だから子供が育たない」でも触れたが、安倍政権になって外見ばかりを飾る社会が進んでいる。「日本って凄い・日本人って凄い」と自画自賛・夜郎自大に集団となって飾り立てるが、個に立ち帰れば「私(一人称)」で語れること(能力・実績)が少ない人々が増えている。時代(過去)のその成果だけを着て、あたかも備わったかのように錯誤させるのが安倍政権下の社会である。

下町の町工場を主体とする「ものづくり」の力は喧伝せずとも世界にそれとなく知られていた時代があった。しかし、時代は移り「痛くない注射針」を製造し町工場の「ものづくり」の力を世界的に知らしめていた岡野工業すら後継者が見つからず廃業してしまう「ものづくり」の力の低下が現下の我が国の製造業の状況なのかもしれない。

決して美談やプロジェクトX的な成功譚が先行しない、地道にコツコツと技術を磨く業態に政治がショーアップを企てるとろくなことにならない。「日本スゴイ」の美談先行も実態が伴わないと途端に破綻する。安倍晋三首相肝いりの「下町ボブスレー」がその例となった。東京新聞が詳しく伝えている。

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「下町」といいながらその実は大手企業や大学が技術をバックアップしスポンサーとなり、開発費用は国のお手盛りとなって安倍政権が自慢話のように喧伝すれば、すでに「下町」の域を超えた国家プロジェクトと変容していたわけだが、それでも過去の時代の成果となりつつある「下町」ブランドを着せてみたものの、中身と着物が合わずに大失敗に終わった。

「日本スゴイ」の美談に泥を塗ったとばかりに、不採用としたジャマイカ側に損害を賠償せよとか謝罪せよと上から目線で猛然と抗議する「野暮」も「下町」らしくない。そんなにスゴイものなら、日本選手団が使うべきだろう。アスリートの目線であれば使用を拒むのも選択肢の一つ。氷上のF1と呼ばれるだけ危険な競技だからこそその道具には過去の実績がモノを言う。ラトビアの町工場のボブスレーが長年積み上げてきた実績をジャマイカの選手が選択したとして彼らに何の瑕疵があると言うのだろうか?事故一つ起きれば命に関わるのに「そんなことはどうでも良いから日本ブランドを有り難く使え」という「日本スゴイ」の押し付けは許されない。不採用が悔しければラトビアの町工場並みにコツコツと努力するしかない。その時間が惜しいとばかりに「まだまだ下町ボブスレーは創業直後みたいなものだから、20数年前のウチの会社みたいに信用がない。ここで安倍晋三さんが大ヒットを飛ばしてくれる。(細貝淳一氏)」などと、政治力で促成栽培・ゴリ押ししたところで、相手が信用するわけがない。

日本選手団の目線(下町ボブスレー不採用)は尊重しながらなぜかジャマイカのアスリートの目線は無視し契約を盾に「使え」と強要するに至っては、競技や試合の為というよりもうわべだけの「日本スゴイ」ブランドの押し売り・ジャマイカ選手を役者に仕立てて美談劇を演じさせようとした政治的意図を強く感じる(なぜ、ジャマイカなのか?『クール・ランニング』でも観て、ジャマイカのチームなら美談劇をうてると思ったとすれば浅薄も甚だしい)。

そして、不採用と決断したジャマイカ側への抗議が「日本スゴイ」の美談を無茶苦茶にしたことへの憤りならば極めて政治的である。自画もないのに自賛するという、美談を先に作り上げて政治的自慢話にしようとした者こそ批判されるべきだろう。「(契約上の)信頼関係を裏切った」とジャマイカを非難したところで、信頼に足るボブスレーを提供できなかったのであれば、日本側は関係云々を言う立場にない筈だろう。信頼に足るボブスレーを提供できなかった非力を逆に日本側が詫びてもおかしくない。そういう謙虚さが必要だ。開き直りはダメだ。

ビジュアル・アイデンティティ(美談)なるハリボテ作りに政治が熱心になれば却って下町の町工場を主体とする「ものづくり」は衰えていくことだろう。ハリボテは要らない。他画が素晴らしいのであれば素直に褒め、それを目標とするだけの心の広さを以って(ラトビアの町工場のものづくりの力を素直に認めるべき)、地道に製造の現場は底を固めるべきだろう。戦後の焼け跡から雑草のように這い上がった下町のものづくりは他画の良さを素直に褒め学び、それを超えてやろうという意気があった。ドイツに学んだカメラ然り、スイスに学んだ時計然り。そこから下町主体の部品工場が雨後の筍のように育ち、ニコンやセイコーといったブランドが生まれた。そこには美談など先行しないし、ハリボテの一つもない。自尊による居丈高や居直りなどない。砂を喰むような地道な努力を謙虚に続けることが結果を生む。それが下町の町工場主体のものつくりであった(その原点は、拙稿:佐貫亦男氏『発想のモザイク』から、で綴った通り)。

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佐貫氏が『発想のモザイク』を著した昭和47年、まさにその結果たるや、日本は高度経済成長期の只中にあった。前年のニクソン・ショックも切り抜け、実質経済成長が平均年率9.5%の時代である(昭和48年までの15年間)。その昭和47年、社会学者エズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One: Lessons for America)』を著した。日本の高度経済成長の要因を日本的経営と日本人の勤勉な習慣に発見したとし、翻訳本は一躍ベストセラーになった。「アメリカへの教訓」(日本に見習え)という副題が示すように、多くの日本人は経済・産業の面で欧米にもはや学ぶものはないとの優位観に浸っていた。司馬遼太郎の『坂の上の雲』、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』もこの時代の作品である。これらの作品の基調にある日本回帰、日本人の異質ゆえの特異性への賞賛は日本人に広く膾炙された。

その宴の中で、一人佐貫氏は「評価の際に感情に溺れてはならいことが重大な教訓であり、これはまた日本人の発想に関する警告でもある。」(『発想のモザイク』あとがき)と記していたのである。

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すなわち、我が国が高度経済成長期に得ていた評価・優位観を未だひきずり、日本回帰・日本人の異質ゆえの特異性の賞賛をマスコミを動員し政治が行って「日本スゴイ」と感情に溺れるのが今の社会であり、半世紀も前に佐貫氏がそのことに強く警告を発していたということだ。優位観を見せびらかす着物(ジャパンブランド)を着込んだところで中身が付いてこない。だから感情に溺れ「日本スゴイ」と鼓舞吹聴しがちになる。それを心地よく思う人々も過去の時代の優位観に浸っているだけだ。安倍政権を積極的に支持する層にこの過去の時代の観念を引きずったままの高齢者層が多いのも頷ける。気分だけ浸って現実から逃避しようとする「個」を失った若者世代が多いのも頷ける。「学ぶものはない」と居丈高になって気づいてみれば「学ぶことができない」国民性になっていたなんていうことになれば、本当にまずいことだと思う。何かにつけて傲岸不遜・居丈高な首相の有り体に何をか況やである。

「下町ボブスレー」については、最初から先人の築き上げた「(過去の)日本ブランド」をちらつかせ、職人の手技に拠らない独りよがりで頭でっかちの産業科学技術(素材・理論)を押し込み、政治力に頼って、ウィンタースポーツを本場とする強面の国々ではなく、そうでない立場の相手(ジャマイカ)を選んでゴリ押しすることからして上から目線であろう。下町の町工場ばかりでなくジャマイカの選手まで「日本スゴイ」の広告塔にするのは無理があった。予定調和なんて日本の中だけの話である。

「安倍晋三さんが大ヒットを飛ばしてくれる。(細貝淳一氏)」などと予定調和を言っているようでは、この国のものつくりの底が知れる。

下町ボブスレー
(小学校の教科書にも「日本スゴイ」の美談が政治絡みで先行していた)


(おわり)

posted by ihagee at 03:53| 政治

2018年02月09日

だから子供が育たない



"子どもが入学を予定している区立泰明小学校(和田利次校長)では、今春入学する1年生から、新しい標準服(制服)に切り替える。イタリアの高級ブランド「アルマーニ」に依頼してデザインを監修してもらったものだ。"

"洗い替えのシャツまでそろえると、全部で9万円だった。学校の説明によると、いまの標準服は、上着、長袖シャツ、ズボン、帽子をそろえて男子で1万7755円、女子で1万9277円。夏服が加わったこともあり、洗い替えの価格を加えても、3倍以上の値上がりとみられる。"

(ハフポスト日本版記事より)

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貧富の差なく誰でもが学べることが本筋の公立学校にあって、"標準"を富にスライドさせ土地柄(銀座)に合わせて学童もブランド化してみた・・ということらしい。

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安倍政権になって外見ばかりを飾る社会が進んでいる。「日本って凄い・日本人って凄い」と自画自賛・夜郎自大に集団となって飾り立てるが、個に立ち帰れば「私(一人称)」で語れること(能力・実績)が少ない人々が増えている。

「君は何を努力したのか、学んだのか」という個の内面の充実に本来心を砕くべき学校長が、外見にこだわるとは本末転倒といわざるを得ない。この学校長はビジュアル・アイデンティティとかいう概念で集団の同一化を図ろうとしているようだが、「行儀よく」「型どおり」となることを指導することは、子どもの内心に「(大人社会の)ツジツマ合わせ」を植え付けることになる。そのアイデンティティをアルマーニに借りる理由もさっぱりわからない。それどころか服育と教育勅語によって内心まで「行儀よく」「型どおり」となることで「ツジツマ合わせ」を学ばせようとした森友学園が重なってみえる。だから単に高い服だからとかブランドだから云々の問題に矮小化してはダメだ(拙稿「媚びた絵」)。

「皆で妥協する調和なんて卑しい」と小学生の時分から「行儀よく」「型どおり」となることを否定し個を発揮し続けた画家 岡本太郎が存命だったら、ビジュアル・アイデンティティなど「くだらない!」言下に一蹴しただろう。

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格好は粗末だったけれども、「ぼくは、あたしは、」とそれぞれ語るべきものを学校で学んだ人たちが社会を築き上げてきた時代(過去)のその成果だけを着て、あたかも備わったかのように錯誤させるのが安倍政権下の社会である。明治維新を引き合いにしたり、東京五輪だ大阪万博だと高度経済成長期の威光を借りようとする。現実の社会経済の実勢実態と乖離したアナクロニズムに浸って、夢をもう一度とさして努力もせずにアドバルーンばかり上げるアベノミクスがそれであろう。そのためであればいかなる「ツジツマ合わせ」すなわち、虚飾・粉飾も憚らない。(拙稿『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』、内閣府による名目国内総生産(GDP)の嵩上(粉飾)『粗忽長屋と安倍政治』)

その人の才覚や能力ではなく、環境(生まれた家)だけで政治家になり且つ家訓を国政に持ち込む首相が権勢を振るう社会では、誰もが身の程をわきまえずに先ずは飾ること(虚飾・粉飾)に奔走するのかもしれない。その飾りが剥がれかかっている。気がついたらハリボテだったでは済まない。

ビジュアル・アイデンティティなるハリボテ作りに教育者が熱心になっては子供たちは育たない。

(おわり)

追記:アルマーニのブランドを以って服育をするというのなら、ブランドイメージを毀損しないように常に服は新調しなさい・常にクリーニングしなさい・折り目をつけなさい、と学校長は親に言わざるを得ない筈だ。ブカブカや寸足らずではアルマーニなるビジュアル・アイデンティティを語ることはできないからだ。しかし、そんなことが教育の本論なのだろうか?服に従う子どもとは一体どんな人格形成になるのだろうか?これでは銀座の高級ホテルのドアボーイと同じ。やはり、この学校長の考え方はおかしい。

posted by ihagee at 07:50| 政治