2017年08月10日

沖縄の人々は本土の<防人>なのか?



「中国の脅威の最前線に否応なく立たされている沖縄を『力強い砦』にしないといけない」「中国に侵略されないような『防人』になって、もう一回、日本を盛り立てる」。(2014年11月9日、沖縄県豊見城市での講演での櫻井よし子氏の発言)

「『琉球新報』、『沖縄タイムス』の記事は『日本を愛するという気持ちはない』としか読めない」「本土の比較的まともな『産経新聞』とか『読売新聞』みたいな新聞が、ここでも定着していくといい」とも発言している。
(引用:週刊金曜日ニュース

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さだまさしの<防人の詩>

おしえてください、
この世に生きとし生けるものの
全ての命に限りがあるのならば、
海は死にますか?山は死にますか?
春は死にますか?秋は死にますか? 
愛は死にますか?心は死にますか?
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか?

この詩は万葉集に収められた一首に基づいている
鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼

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鯨魚(いさな)取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ(死許曽)海は潮干(しほひ)て 山は枯(か)れすれ、つまり、死ぬからこそ、海も山も死ぬ、と万葉の名もない詠み人。

あなたが死ぬからこそ、愛も心も故郷もみんな死ぬ、とさだまさし。

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「日本を愛するという気持ち」があるならば、<防人>などになって死のうとしないことだ。誰かを<防人>に仕立てて死なせないことだ。死を前提とした国家観ならそんな国家も死ぬ。先の大戦で沖縄が本土の<防人>となって神国たる日本(本土)は海神(わたつみ)や山神(やまつみ)の加護を得られたか?否、ただ敗けて焦土となっただけである。「正しい狂気があるもの」と若者を洗脳して体当たりさせた特攻も神風の一つ吹かず「日本を愛するという気持ち」なる「死に狂い」に過ぎなかった。

本当の意味での「日本を愛するという気持ち」があるならば、話し合いを基調とする外交こそ求められることである。戦後のわが国の外交はこの無手勝流に徹した。武器を持たない・使わないからこそ極めて高度な対外交渉術・言語能力が閣僚・官僚に要求されてきた。しかし、その術や能力に劣りまたそのための刻苦勉励よりもお友だちとのゴルフや会食に勤しむ安倍首相には「無手」に武器を持つことの方がよほど楽なのだろう、この基調をあっさりと放棄しようとしている。隣家の火事話のポンチ絵程度の喩えで、集団的自衛権の武力行使の国民への説明が済んでしまうのだから、武器を使う話は使わない外交交渉よりアタマを使わずに済む。

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沖縄を含め日本列島全てが有事に於いて米国の軍事の砦・人間の盾となることを前提とする日米安保協定で日本列島の地政学的位置関係は米大陸にとって弾除けとの意識からか、逼迫する米朝情勢に関連してトランプ大統領は「戦争は朝鮮半島、日本で起こる。多数の死者が出るのはそちらであり、米国では死者は出ない」と述べている。

米国民にとって日本国民が<防人>扱いであるから日米地位協定が存在し、日本においては沖縄の人々が本土民の<防人>扱いであるから、地元紙はまともでないとか本土の新聞(産経・読売)を読めといった上から目線の櫻井氏のような発言が頻出する。マトリューシュカのような入れ子のヒエラルキーだ。

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沖縄の人々に軍事の砦・人間の盾になれと高説を垂れる櫻井よし子氏にはさだの<防人の詩>の歌詞は、同じ万葉集の<海行かば>と同じ「大君の 辺にこそ死なめ(大君のお足元にこそ死のう)」と聞こえるのだろうか?そのメロディーは「日本を盛り立てる」軍歌調に聞こえるのだろうか?

(おわり)


posted by ihagee at 17:33| 政治

2017年08月03日

安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの



大日本主義の徒花 「安倍政治」に対抗するヴィジョンとは』なる記事が目に入った。
アメリカからルーピーと袖にされ潰された鳩山政権だが、その目指すビジョンは<小日本主義>であった。もし彼の政権が今続いていたら全く別の社会が生まれていたかもしれないという。

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大日本主義の徒花たる安倍政権については私なりに以下記事を掲載していた。再録する。

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戦後1948年(昭和23年)6月19日参議院本会議(第2回国会)に於いて教育勅語等の失効確認に関する決議が行われ、その「排除」「失効」決議によって、我々国民は教育勅語と決別した筈である。ところが、教育勅語をめぐって「教材として用いることまでは否定されることではない」などと政府が先般閣議決定した。

その「教育勅語」には先のブログ記事(「我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)」)で触れたように、内心の自由を捨てることを国家が国民に対して強いた歴史事実が存在する。

すなわち、キリスト教が禁じられていた江戸時代の背教の証としての踏絵の如く、神道の神札を奉り上げ日本の神々に祷りを捧げることをキリスト教会に要求した時代、「良心」なる建学の精神を捨て修身(国民道徳・国家道徳)へと転向した同志社大学を、「日本主義の旗の下にキリスト教の最消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」と褒め称えた時代があった。

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中日新聞記事(2017年3月28日)「ナチュラルとナショナル 日本主義に傾く危うさ(中島岳志)」は、『文芸春秋』3月号に掲載された石井妙子「安倍昭恵『家庭内野党』の真実」に基づき、安倍昭恵氏の本質について以下のように記している(抜粋)。

“(安倍昭恵氏は)大麻の神秘性と有用性を訴え、「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」と発言。大麻は日本の神事と深い関係にあると言い、アメリカの占領政策によって大麻栽培が禁止されたと訴える。(中略)過疎地で産業用大麻を栽培する活動を支持し、鳥取県智頭町(ちづちょう)を視察したが、その当事者は昨年十月に大麻所持容疑で逮捕された。スピリチュアルな活動が古来の神秘へと接続し、日本の精神性の称揚へと展開すると、その主張は国粋的な賛美を含むようになる。森友学園が開校を計画した「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長になり、その教育方針を支持した。石井は言う。「そのベースにあるものは日本を神聖視する、危うさを含んだ、少し幼い思考ではないだろうか」”

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「大麻は日本の神事と深い関係にある」の、「大麻(たいま)」と「日本の神事」との関係とは、神宮大麻(じんぐうたいま)を指している。

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神道での神様への捧げものが古来、木綿や麻であり、お祓いをする神具を「大麻(おおぬさ)」と呼び、そのお祓いを経て授けられる神札を「大麻(たいま)」と呼ぶ。麻(あさ)はわが国では紀元前から栽培された繊維原料であり、特に戦時下において繊維需要が増すと大麻の栽培・生産が国策となった。戦後、麻薬原料として大麻はGHQから栽培を禁止され、麻(あさ)の栽培には大麻取扱者の免許を要するようになった歴史がある。

「教育勅語」についての拙稿と照らすと、「神道の神札を奉り上げ日本の神々に祷りを捧げること」をキリスト教会に強要した時代こそ、大麻と日本の神事との深い関係が神道の神札(大麻)に最大限に象徴化されていた時代であり、「日本を取り戻す」の「日本」とはその旗の下に建学の精神(良心)を捨てて更生したと同志社を讃えた「日本主義」なるものなのだろう。

中島岳志氏が「日本主義」と指摘する通りである。

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「大麻は日本の神事と深い関係にある」の淵源は、おそらく、『神宮大麻と国民性』なる書物にあると思われる。神宮神部署主事を務めた当山春三によって著され大正5年(1916)4月に刊行された。

「天祖無ければ国民無く、家長無ければ家族立たず、敬神の念・祭祀の禮は我が国民道徳の根抵なり」「大日本は神国なり、民族祖先の神霊を祭祀するの国なり」「神宮大麻を拝受するのは、吾等国民が、天祖天照大御神に対して奉げる絶対的至誠の披瀝を擅にせんとする所以のものであるから、宗教宗派の如何に拘わらず、拝受すべきものである」「至誠の淵源は、実に、天祖に対して捧げる絶對的崇拝に在ること」等々。

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この書物が刊行された大正5年は教養主義・民主主義が社会全般に浸透し始めた大正デモクラシーの揺籃期にあって、当山はその「変節」しつつある世相に危機感を抱き、かかる書物を著したようだ。精神的自由(内心の自由・個人の自由な意思決定と活動)が社会の中で広まり、書物を介して西欧を鏡とする教養主義・民主主義の跳梁を許せば、神々との交流(スピリチュアルな行為や思考)から国民が疎遠となって(「敬神崇祖の至誠の蔭翳」)、魔が入り込み天祖に対する国民の至誠が蔑ろとなることへの危機感のようだが、その救済が神宮大麻にあると当山は結論し、国民性の発露=崇拝の至誠の披瀝であり、その至誠こそ人事百般の総てを支配する我国特種の国民性の本源であると説く。

昭恵氏は「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」と言う。
大麻と日本の神事との深い関係の淵源を『神宮大麻と国民性』で知らずとも、スピリチュアルな友人関係から耳知識として理解する中で、神々との交流(スピリチュアルな行為や思考)に興味が沸き、スピリチュアルな指導で「修身(国民道徳・国家道徳)」を実践教育している森友学園・塚本幼稚園を知ることで、神道の神札(大麻)を祀り上げることによって「修身(国民道徳・国家道徳)」を国民全体に涵養することが『日本を取り戻す』ことであると信じるようになったと思われる。

大麻栽培に肩入れするのはその植物としての有用性というよりも、その精神主義的な神秘性に強く魅かれた彼女なりの象徴化であると思う。

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「『日本を取り戻す』ことは『大麻を取り戻す』こと」は、以下の意味で安倍晋三首相も共有する考えであろう。

すなわち、「『大麻を取り戻す』こと」は、日本の神事と関係では「崇拝の至誠こそ人事百般の総てを支配する我国特種の国民性の本源(当山)」の脈絡での「至誠」であり、「至誠」は安倍首相座右の銘だからだ。

「至誠」は孟子の「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」言葉であり、「誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない」の意で、吉田松陰が好んだことで知られている。

安倍晋三首相の座右の銘「至誠」は彼の尊敬する吉田松陰譲りであるとともに、「敬神崇祖の至誠」は神道政治連盟(後述)と深く共有しさらに昭恵夫人のスピリチュアルな活動とも共鳴し合っている(その先に森友学園問題がある)、と私は考えている。

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「敬神崇祖の至誠」が国民性の本源とみなす精神主義は過去の歴史において「日本主義の旗の下にキリスト教の最消化/学園再建に彼ら起つ京都御所を拝し感激に泣く同志社大学かくて更生せり」と賛美を残している。その精神主義の旗は曰く「日本主義」(正確には「大日本主義」)である。

「大日本主義」の譜代に吉田松陰がおり、その軍力と拡張主義が、ここで言う「日本主義」であり、国民利益の増幅を図り内政や個人の利益を重んじる「小日本主義(小国主義)」と対向する考えであった。言うまでもなくその「日本主義」の旗の下、大東亜共栄圏と列強諸国からの亜細亜諸国の開放たる美名の下で武力による拡張主義の道に突き進んでいった。

集団的自衛権による武力行使、武器輸出三原則の形骸化や憲法第9条改正を目的とした改憲など、過去の歴史と照合し「日本主義」の譜代に安倍晋三氏が名を連ねていると我々は見なくてはならない。そして「日本主義」と「敬神崇祖の至誠」は親和性が高い。靖国神社はその親和性の確たる象徴である。そこで安倍晋三首相が「敬神崇祖の至誠」と崇めるのは天照大御神でも天皇陛下でもなく「日本主義」なる大義でありそれに殉じた軍神である。我々が一般の神社と違う不気味さを靖国に感じるのもムリはない。天皇陛下も天照大御神も寄りつかない特殊な目的の神社だからである。

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実際、安倍政権になってから世の中「日本主義」の賛美に溢れかえっているようだ。テレビをつければ「日本って凄い・日本人って素晴らしい・日本人に生まれて良かった」と、個人よりも大なるものへの賛美が連日繰り返され、その気分に巻かれない者の方がおかしいと言わんばかりである。「我国特種の国民性」を強調するために中国や韓国を見下しそれらの国に対する嫌悪感を増長させることは、安倍政権の政治手法の一つにもなっている。「非国民」「売国奴」「土人」といった一昔前なら口にするだけでもその者の品性が疑われる言葉を若者たちが日常会話で使うようになったのも考えてみれば恐ろしいことである。そういって他者を差別しても構わない空気が「日本主義」の賛美は含んでいる。

自ら卑下するよりもたとえ自画自賛であっても誇らしくすることの方が気分は良いものだ。その限りにおいて、我々も「イイネ!」と脊髄反射的に呼応すれば良いだけで、知性も教養も必要としない。親を大事にとの手本が教育勅語であっても「崇拝の至誠」は素晴らしいからいいじゃないかと、精神主義に簡単に納得してしまう国民を大増産している。

そういう知性も教養も必要としない無思考な「至誠」と「日本主義」は表裏の関係にある。

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日本主義の旗の下、国家至上主義と言論弾圧が頭を擡げ始めた時代に、
長谷川如是閑は「資本主義・帝国主義・日本主義」(『経済往来』1932年7月1日)の中で、
「二十世紀の日本主義の内容は依然として、原始的「神国」説の文字通りの伝承である」、「千年来発展のない、すなわち歴史を持たない思想は、これを思想と呼ぶべきものでは」ないと喝破している。

すなわち、日本主義とは、伝承であり思想と呼ぶべきものでないことは、それに激しく抗った先人の知性がすでに結論を下した通りであるが、原始的「神国」説はなぜか命脈を保ち続け、安倍政権になって復活し、それと合わせて国家至上主義と言論弾圧が頭を擡げ始めている。歴史は繰返すとは言うが、あまりに我々は歴史に無関心に過ぎるのではないだろうか?

この原始的「神国」説が今も政治教義として息づいていることは「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>からも明らかであり、その神道政治連盟国会議員懇談会の現会長が安倍晋三氏である。

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過去の時代のグロテスクな精神主義に阿るばかりか、忌まわしい歴史の忠実なる再現者としてその「神国」とやらから「宿命の子」として安倍首相が遣わされたのだとすれば、夫人共々我々は一刻も早く国政の場から排除しなければならない。

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(おわり)


posted by ihagee at 20:10| 政治

2017年08月02日

「俺がルールブックだ」はもうお断り



地上波のゴールデンタイムからプロ野球中継枠が消えて久しい。

巨人戦すら実況中継はホームの読売テレビでも扱わなくなった。アンチ巨人派であろうとジャイアンツ一軍登録選手の名前ぐらい概ね諳んじていたのは昔のこと、オロナミンCの宣伝に彼らが登場しなくなったのも巨人の顔というものがいつの間にかなくなったからだろう。今では三丁目の夕日風のCMで昔語りの飲み物になって「元気ハツラツ」はどこへやら。

代わって、本場のベースボール(MLB=メジャーリーグベースボール)の話題は尽きない。衛星実況放送もなかった1980年代、「メジャーリーグ通」で知られたパンチョ伊東(伊東一雄)さんがベースボールの啓蒙を兼ねてビデオ撮りの試合を熱心にアテレコで解説していたのを思い出したがあの時代と今では隔世の感がある。ドラフト会議の実況中継に茶の間が一喜一憂した思い出も、伊東氏へのその名司会ぶりとともに遠い過去となり、プロ野球よりもMLBがテレビの視聴率を稼ぐ時代となった。

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V9時代の巨人軍にヤクルト監督として戦った野村克也氏がその監督就任1年目(1990年)の対巨人開幕戦についてこう回想している。

『開幕前に「巨人戦は相手が10人いると思った方がいい」と何人もの監督経験者から聞いていた。要は、審判が巨人贔屓という意味。それを痛感した試合だった。2点リードの8回裏、1死二塁で篠塚和典の打球がライトポール際に飛んだ。このシーズンから審判が6人制から4人制になったが、一塁の塁審が右手を回すんだよ。ビジター三塁側ベンチの俺の座る場所からは、ライトポールがよく見えた。フェンスギリギリでポールの外側に飛び込む、明らかなファウルだった。それを審判は「ポールを巻いた」と言い張るわけ。本当に相手は10人いると確信したね。これで同点となり、延長14回裏に押し出しサヨナラで負け。開幕で躓いたこのシーズンは5位だったよ。』(2017年3月26日付NEWSポストセブン)

複数の審判の実名を挙げ巨人贔屓をしているものがいると公言したのは「俺がルールブックだ」の語録と共に名物球審として知られていた二出川延明氏である。野村氏とも少なからぬ因縁がある。

「気持ちが入ってないからボールだ」と判定した二出川氏に捕手として猛抗議したのが現役時代(南海ホークス)の野村氏だった。「俺がルールブックだ」の二出川氏の前に、ルールブック上の抗議などさぞやムダなことだったのだろう。

「写真が間違っている」も二出川語録で、本塁クロスプレーでのアウトの宣告も、翌日の新聞の写真から捕手がランナーにタッチしていないことが明らかになった。このミスジャッジをセリーグ会長から指摘されるや、二出川氏は新聞の写真を一瞥し「会長、これは写真が間違っているんです」と平然と言い放ったとされる。

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ルールブックがあっても審判が「俺がルールブックだ」と尻をまくったらどうなるだろうか?野村氏のように理詰めで抗議したところで判定が覆らないのなら、ルールブックなんかよりも、次からは審判に贔屓してもらえるようにプレーするかもしれない。「新人の君に教えといてやる。プロの投手にとってど真ん中はボールなんだ」と二出川氏は当時ルーキーだった稲尾和久氏に説教したとされるが、このような越権行為さえも選手は飲んでしまうし、巨人贔屓の審判がいるならば勝ち馬に乗らんばかりに巨人軍に入ろうと思う者もいたかもしれない。火の無いところに忖度なる煙は立たない。その火こそ「俺がルールブックだ」と誇示する者の存在である。

「写真が間違っている」と一蹴できた時代から詳細な映像でストライクゾーンを誰も追視できるようになった(古くはノムラ・スコープ)、そして、WBCなど国際試合の機会が増え選手が従うルールブックは一つであっても実際の運用に解釈の幅があってその解釈が審判の主観に委ねられているのであれば、ストライクゾーンなどの判定で公平性は担保できない時代になった。ベースボールの世界では「俺がルールブックだ」と言うような審判は国際的に通用しない。

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このような時代の流れを受けてMLBでは各審判員のジャッジを可能な限り均一化をすること目的として(ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコールをするべき)、2001年度シーズンより「審判に情報を提供するシステム」、つまりクエステック・システム(QuesTec System)を導入している。このシステムは球審の判断の事後チェックに用いられている。イチローも「球審自身がゲーム後にチェックするだけなら良いと思う。それによってジャッジの精度が上がるなら望ましいことだ」とこのシステムの運用を肯定的に評価しているようだ。

審判員の主観や感情に判定を委ねず、可能な限り客観的に「ルールブック」に立ち返ろうとする動きはプレーの公平性を担保する上では重要なことである。「俺」なる人が治める試合よりもルールブックに従おうとする試合に、観客はフェアプレーを期待し選手は邪念なくスキルを磨くことができる。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」などは二出川氏の時代に許されたことであって、現役のプロ野球の審判員がいまどき公言したら大問題となるだろう。判定やプレーの公正さを担保することができなければ、再び<黒い霧>にプロ野球の存立が脅かされるだろう。

しかし、「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と公言して当たり前が昨今の日米の政権である。

「俺がルールブックだ」の如く「私がそう思えばそれが法律(解釈改憲)」と憲法さえも軽んじ、「写真が間違っている」の如く「総理のご意向」とはっきり記載のある記録文書を「怪文書」と一蹴し、「指摘は一切当たらない」と国民を代表する野党の主張に耳を貸さない。「新人の君に教えといてやる」の如く、行政府の長に過ぎない内閣総理大臣の立場で憲法を変えよと立法府に越権的な介入をする。政権の方針に物言わぬ官僚ばかりを集めるために人事決定権をちらつかせ(内閣人事局)、政権から贔屓してもらえるようにプレーすることを官僚に求める。国会の正面切った野党からの質問も全て「印象操作・レッテル貼り」なる「ボール球」扱いにしてまともに答えようともしない。「ルールブック通りのストライクゾーンに従ったコール」など一度としてこの政権では聞いたことがない。ルールブックに従って相手と同じ土俵に立つことをしない。言葉の意味を巧みにずらす変則球のみならず「(前川氏への)人格攻撃」などボールにまで小細工をして、ルールブック通りならば本来罷免や退場(総辞職)となるべきところを、「こんな人たちには負けない」と自国民に向かって感情剥き出しの滅茶苦茶な政権運営を続けているのである。法治主義を等閑にしてトモダチ的人治に過度に傾斜し議会主義すら省略する(参院法務委員会での法案採決を省略して本会議で「中間報告」を行い「共謀罪」を強行採決した)。籠池氏は葬り加計氏は助けるのも贔屓筋かそうでないかという安倍氏個人の勝手な距離感でしかない。

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このような政権の暴走を監視する為のクエステック・システム(QuesTec System)を国民の側は持つべきところを(例えば、憲法裁判所)、逆に政権側が国民の言論を監視する為のシステム(共謀罪)を成立させてしまった。野球で喩えれば、どの観客が球審のコールに野次を飛ばしたのか観客に混じった警備員がそっと球審に伝え、その観客は「この人たち」扱いで退場処分(拘束・逮捕)とするシステムにさしずめなることだろう。

国会記者クラブの政治部記者たちの中で、一人果敢に官房長官に歯に衣着せぬ質問を浴びせた東京新聞社会部の女性記者を「あんな奴を二度と会見場に入れるな!これはクラブの総意だからな!」と同新聞のキャップに怒鳴り込んだ読売新聞の官邸キャップは言ってみれば、その警備員に当たるだろう。国民の側に立って官邸を監視すべきウォッチドッグが官邸の飼い犬になって国民の知る権利に噛み付けばもはやジャーナリズムを名乗る資格はない。産経新聞も読売と同様、官邸の下足番となって、執拗に件の女性記者をその紙面で誹謗中傷している。

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「俺がルールブックだ」「写真が間違っている」と安倍首相と同じくトモダチ・身内重用の人治主義で強引に政権を運営してきたトランプ大統領に対して、連邦議会は行政監視の役割をしっかりと果たしているように見える。財政面(予算審議)と人事面(連邦職員の人事承認)そして弾劾という手段は大統領の暴走への歯止めとなっているようだ。トランプという「俺さま」存在が却って、議会にとっては行政監視の実効性を高める機会に、マスメディアにとっては言論の自由の意味を再確認する機会になっているのは興味深い。大統領報道官に対して丁々発止で質問を浴びせかける記者の一人として、ホワイトハウスの下足番を買って出る者はいない。

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(まさに丁々発止)


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(予定調和の指名制)


それらに比して、行政監視の実効性を次々と削ぎ落とすばかりか、議会手続すら省略し、言論や表現・集会の自由に箍を嵌めるなど国民監視の実効性を着々と高め、マスメディアを懐柔して行政側の提灯持ちにさせているのが安倍政権である。安倍首相自身の過ぎた人治主義は饗応関係ばかりのトモダチ以外に知力を得ることができず、内閣改造を行おうにも人材が払底する結果となっている。その貧する最たるものが首相自身であると認めれば内閣総辞職なるべきところを改造で済ますとは全く噴飯ものである。まさに貧すれば鈍し悪手は悪手を呼び嘘の上に嘘を塗り重ねる始末になっている。

安倍首相に対して「退場」と我々国民ははっきりジャッジしコールしなければならない。
「ルールブック通りのストライクゾーン」にアベノミクスを含む安倍政権の諸政策が投じられたか否かを我々国民が総括すべき時期にある。ならば、6年間の独善専横的な政権運営での国民への背信(虚飾・粉飾)が白日の下に晒されることだろう。

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プロ野球も政治も「俺がルールブックだ」はもうお断りである。そんな時代ではない。

(おわり)

posted by ihagee at 17:48| 政治