2020年08月28日

生殺与奪の権



よく昔は六十になりゃ生き埋めにするとか、それから姥捨山へぶっちゃる(棄てる)とかいう。

一人息子が、年寄りをもってなくて(勿体なくて)、ぶっちゃれねえで、室(むろ)の中へ隠しといたって、そうしちゃオマンマ運んじゃくれ、大事にしておいたって。

そしたらところか、殿様に「灰の縄をなって出せ」って、ゆわれた(言われた)が、さあだれも灰の縄なんつものは、なえようもねえじゃい。

そうしたところが、息子が御飯持ってってやって、「殿様から灰の縄を出せっちゅうことをゆってきたけんど、灰の縄なんちゅ物出せねけんど、おっかさそういうこと知ってるかい」そうゆって、六十の上になるおばあさんに聞いただってなあ。

そうしたら、「灰の縄なって出さったらなら、ワラへ塩水うんと吹いといてなあ、そうしてそれから、縄になって、そうして一ぽ(一本)なったならば、それをたごんだやつをよーく干して、板の上せ結い付けて、そうして板の上で燃やせ」ってなあ。そうして板の上で燃やしたなら、ちゃんとたごんだいちりで、そっくり一ぽなって、殿様の前せ出したって。

そうしたら、殿様は、「だれもできねえに、こんな縄どうしてこせた」ってそういったから、「申し訳ねえが、こうゆで(可哀想で)、おっかさんぶっちゃらねえで、ムロの中へ入れておいて、聞いたなら、こうしろちゅから、そうして縄なってなあ、そうで出した」っていったら、

殿様は、「年寄りは大事にして、いつまでも生かしておけ」ってゆったって。

そういうわけで、それからはいつまでも生かしておくことになった、なんて、こう話したったけんど。

(浅川欽一著「信濃川上物語」から)

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「年寄りは大事にして、いつまでも生かしておけ」ただしお殿様=御国の役に立つ限りということで、生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分=権力者の思うままであることに変わりがない昔話ということである。百姓の生きるも死ぬも、その与奪の権利は年貢徴収権と共に知行制として領主に与えられていた(「生殺与奪の権」)。知行制の維持(土地の支配権)のためには、領主は、百姓は生かさず殺さず、死なない程度に働かせ年貢を納めさせた。ゆえに、年を取って働きの悪い者は死ぬしかなかった。姥捨、つまり棄老は民話として全国各地に存在する。

その話の顛末も二通りあるようだ。
・「役に立つなら生かしておこう」
・「親を捨てる非道さに子が気づく」

いずれも「生殺与奪の権」がお上にあることに変わりがない。経済合理上の人口抑制(間引き)は農民層の老人と赤子(嬰児・特に「めのこ」=女の子)を対象に姥捨・間引として存在していた。「おのこ=男の子」は殿上に奉仕するが、めのこはそうではないという、労働生産性=経済価値の有無で生きるか死ぬかが決まる層が大半であった時代を民話は語っているのだろう。

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”厚生労働省は26日までに、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けの見直しを検討することを決めた。現在は「指定感染症」となっており、危険度が5段階で2番目に高い「2類相当」。入院勧告ができるが、感染者数の増加に伴い医療機関の負担が重くなっている。このため多数を占める軽症や無症状の人は宿泊施設や自宅での療養とし、入院は高齢者や重症化リスクが高い人に絞ることなどが想定される。(中略)政府内には2類相当からインフルエンザ相当の5類への引き下げを容認する考えが出ている。”
(共同通信社報・2020年8月26日付)

”「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかっていうことは、真剣に議論する必要があると思います。こういう話多分、政治家怖くてできないと思うんですよ。『命の選別をするのか』とか言われるでしょ?命、選別しないとダメだと思いますよ。はっきり言いますけど。なんでかというと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなに良いこと言っていても、多分、現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて、順番として。これ順番として選択するんであればもちろん、その、高齢の方から逝ってもらうしかないです」(大西氏の動画より*現在は非公開)”
(志葉玲タイムス 2020年7月10日記事より引用)拙稿「命の選別」から

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新型コロナウイルスを指定感染症から外して、ただの風邪(インフルエンザ相当の5類)扱いとするらしい

ただの風邪として「入院は高齢者や重症化リスクが高い人に絞る」としながら、その入院・治療は3割自己負担(現状:新型コロナウイルスは感染症法に基く「指定感染症」扱い=感染した場合の治療費は公費負担となり、個人の負担はない)、とどの詰まり、二言目にも「経済」の市場原理を感染症なる非経済的領域に拡大適用し「高齢者や重症化リスクが高い人」を「淘汰」の側にまわすことになり兼ねない。ただの風邪扱いは、軽症や無症状の子供たち、若者たちに「適者生存」とばかりに弱者を淘汰する思想(選民意識)を蔓延らせることになる。

「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかって」といった、社会的弱者が死ぬことを「いたしかたない」とする思考は、「親を捨てる非道さに子が気づく」ことすらもさせない。

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日本国憲法は生存権について第25条、個人の尊重(尊厳)について第13条に規定を置いている。

日本国憲法第25条:
「第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

憲法第13条:
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

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官僚機構や政治家の胸三寸で決まる生殺与奪の権。我々一人一人に自ずとある生存権と尊厳を制限・剥奪し、それらを市場原理の思いのままにする新自由主義思想がコロナウイルス禍に乗じてこの国を支配しつつあるのではないかと危惧する。

生産性の低い企業の淘汰により産業の平均的な生産性が上昇しても、そこにもはや「人間」が存在する必要すらない人工知能(AI)が稼働する社会が見えてきた(拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念)。

「生存権」や「尊厳」を語り合うのはそれらを共有する人間同士であるのに、AIの将来は計算機が「数理的」に答えを出せば終わりで、「人間」が経済の資源(モノの数)でしか語られなくなる。「生産性」なる価値を声高に語る人ほど、生産性の低い企業があたかも社会悪であるかのように、そこで働く人間の尊厳までも軽んじる傾向がある。それでは家内労働に頼る伝統工芸などひとたまりもない。

「人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。」が真理だからこそ、我々一人一人は唯一無二の存在たり得、アイデンティティ(自己・自我意識)を保つことができる。「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」という諺にあるように多少経済的にムダがあろうと多様性の中にあなたも私も生かされているという暗黙知である。草履を作る人にも多様性なりのアイデンティティがある。

その非合理・非効率にこそアイデンティティを見つけた筈の人間(ゆえに人間たる)が、ムダの一つも許さぬ生産性(合理性・効率性)に奔放を得るのが新自由主義ということ。それではアイデンティティなど保たれようがない。経済の価値観に照らせば、芸術はモノの価値にもならないことにされ根絶やしになる。

そんなために我々は人間として生まれてきたわけではない。

(おわり)



posted by ihagee at 05:37| 政治

2020年07月11日

命の選別



”れいわ新選組から昨夏の参院選(比例)に立候補し、今後の国政選挙の立候補予定者でもある大西つねき氏の発言が炎上、党の代表でもある山本太郎氏にも批判が及ぶ状況となっている。大西氏の発言への対応を誤れば、「山本太郎」という政治家の基盤すらも揺るぎかねない。発端となったのは、大西氏が自身のYoutubeチャンネルの中での「命の選別」という発言。その核心部分を引用しよう。

「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかっていうことは、真剣に議論する必要があると思います。こういう話多分、政治家怖くてできないと思うんですよ。『命の選別をするのか』とか言われるでしょ?命、選別しないとダメだと思いますよ。はっきり言いますけど。なんでかというと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなに良いこと言っていても、多分、現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて、順番として。これ順番として選択するんであればもちろん、その、高齢の方から逝ってもらうしかないです」(大西氏の動画より*現在は非公開)”
(志葉玲タイムス 2020年7月10日記事より引用)

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「私は若者に集中治療を譲ります」。そう書かれたカードを見たスタッフは、老人を放置して若者を中へと運んでいった──。さて、あなたはこの老人になれますか?

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(大阪大学人間科学研究科未来共創センター招聘教授で現役医師(循環器科専門医)の石蔵文信氏(64)が高齢者向けに作成した「集中治療を譲る意志カード(譲〈ゆずる〉カード)」)

”「ICUやECMOが足りない日本で新型コロナの重症者がさらに増えると、現場の医療従事者は『命の選択』を迫られるかもしれません。激務の医療従事者に重い精神的負担を強いるのは酷なので、『高齢者が万が一の時、高度医療を若者に譲るという意志』を示すことができる『譲カード』を作成しました」(石蔵氏)”
(NEWS ポストセブン 2020年5月11日付記事から引用)

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「命の選別」は、社会的合意(総意)とすべきことなのか?

その「命の選別」、非常事態の際に、明らかに助かる可能性が低い人、軽症の人、という形で患者を重症度によっていくつかの段階に分け、治療の優先順位を決める「トリアージ」の観点なのか?それとも、そのような事態とは関係なく、経済的効率性の上から命を選別する観点なのか?後者は人種差別や障害者差別を理論的に正当化する優生学と親和性を持っている。

大西つねき氏が「命の選別」をすべきとする「現実問題」が前者、すなわち「トリアージ」にあると仮定しても生命の尊厳は個人になくてはならない(尊厳が個人にあるからこそ、「譲る」なる意思は個人が表示するもの=『譲カード』)。「トリアージ」の対象となる人が意思表示できない場合は少なくともその家族の同意がなければならない(たとえば、人工呼吸器や人工心肺を外し、命が助かる可能性のある人にその治療手段を譲るなど)。医師および社会・国家は個人の尊厳を侵してはならない。ゆえに「順番として」「高齢の方から逝ってもらうしかないです」の「しかないです」は生命の尊厳を個人から社会・国家が一方的に剥奪することに他ならない。「しかないです」にはその含みがある。またその「順番」は「高齢の方から」とは限らない。元々重い基礎疾患のある人、生まれつき障害を負っている人にも「順番」付けることもゆくゆくは許す考えではないのか?その順番付けを本人の意思とは関係なく政治が主導しその順番を国家や社会が決めることの怖さを大西氏は判っているのであろうか?

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"カトリック教会イエズス会のアメリカ人神父ジェイムズ・マーティン司祭はツイッターで、「(信者たちが自分のために買ってくれた)人工呼吸器を自分より若い患者に(知らない相手に)譲った72歳のベラルデッリ神父が、亡くなった」と書き、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」という新約聖書のヨハネによる福音書の言葉を引用していた。・・・ベラルデッリ神父に信者たちが人工呼吸器を寄付し、神父がこの呼吸器を若い患者に譲ったと伝えられ、BBCもこれを引用して報道した。しかし、カスニーゴ司教区でベラルデッリ神父の同僚だったジュゼッペ・フォレスティ氏は、神父が若者に呼吸器を譲ったという話は「フェイク」だとして、神父は基礎疾患のために重症化して亡くなったのだと述べた。また、カトリック・ニュース通信は、ベルガモ司教区のジュリオ・デッラヴィーテ事務局長が「寄付された人工呼吸器はない」と話したと伝えている。
(BBCニュース 2020年3月26日付記事より引用)

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「トリアージ」なる優先順位は社会的合意を形成し易い。ゆえに上述の「お年寄りが・・神父が・・」を主語にした「フェイク」ですら美談がましく流布する。「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」の愛を隣人(個人)から勝手に国家や社会に広げて「(御国のために)命を投げ出すほど大きい愛はない」などと聖書に書いてある筈もない。

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大西つねき氏が「命の選別」をすべきとする「現実問題」が後者、すなわち経済的効率性の上から命を選別する観点と仮定するのであれば、それは「人間を「尊厳(Würdeヴュルデ)」においてではなく、「価値(Wertヴェルト)」の優劣において理解する思想に繋がる。ナチス政権の「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てたホロコーストで代表される人種政策はこの優生学思想に基づく。

そして、人工知能(AI)が持て囃される今、「社会価値」を生み出す技術に重きを置くAIが結果としてこの優生学に行き着く可能性がある。すなわち、AIを中心とする産業技術の発展が技術的特異点(シンギュラリティ)に達すると、人間の尊厳(Würdeヴュルデ)はAIの下、産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」によって制限または否定され、生きる価値があるかどうか=「命の選別」と値踏みが当然とされ必然化される。「人間の尊厳」を「価値」よりもはるかに低位に置く時代が到来するかもしれない。経済的効率性の観点から生きる価値がない者をあらかじめ探して、いざとなれば「選別・排除」しても構わない(または「選別・排除」すべきである)、が最適解とする社会が形成されつつある。(拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念

何事も「価値(Wertヴェルト)」に判断を求める安倍総理、小池都知事の政治家としての言葉や行動の端々に、その通りの「選別・排除」思想を我々は看取する。

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AIでなくとも、わが国では旧優生保護法(現:母体保護法)の下、「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわない」という優生思想に基づき人工中絶が合法化された経緯がある(「姥捨」や「(♀嬰児の)間引き」など、生きていても経済的利益を生まない者を区別し排除することも止むなしとの社会的合意が近世日本にあった)。

「障害を理由にして胎児を中絶することは、いま生きている障害者の存在を否定することにつながる」は、その否定があってはならない、ゆえにその存在を我々国民の代表(国会議員)として国政の場に送り込んだ "れいわ新選組" の原点でもある。経済的効率性の上から人間の生死を決めてはならない、は "れいわ新選組" の結党の精神、そして「山本太郎」という政治家の基盤と私は理解するが、その精神なり基盤が今、同党の大西氏によって激しく揺り動かされている。

「トリアージ」に限ってのこととしても、それをきっかけとして、人間の尊厳が産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」によって優劣付けられ「命の選別」がその産業・経済(延いてはAI)の求めるところなどと、さも合理的かのようにサラッと理解してはならない。「高齢の方から」なる言い方はベラルデッリ神父の件のように(実際は「フェイク」)社会に美談として受け止められ易いが極めて危険な社会的合意形成を孕んでいる。大西つねき氏がいかなる考えの上で「現実問題として無理」と「命の選別」に社会的合意形成を図ろうとしているのか判らないが、それが政治主導の上意下達であれば、生命の尊厳は個人にはないという前提に立っているということになる。

憲法第13条:
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

この前提にも立っていないことになる。

産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」に照らす「人」に専ら(生きる)権利を認めようとするが、自民党憲法改正草案での憲法第13条である(拙稿「個人」か「人」か(憲法第13条))。

「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」

経済的効率性の上から人間の生死を決めてはならない、という "れいわ新選組" の結党の精神とは真逆の「個人」から「個」を奪い取り単なる「人」(無個性)として国家の「資源」扱いにし、その命も「価値(Wertヴェルト)」に照らした「選別」がされるべきであるという思想に立つのが自由民主党である。

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”生産性や効率性だけで「存在すべきかどうか?」の価値が決まるなら、そもそも人間など存在しない方がいいのだ。AI搭載のロボットとコンピューターを残し、すべての人類は消滅した方が良いことになるだろう。
人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。古代、中世はもちろん、つい百何十年か前なら、そんなことは皆わかり切っていた。というか、むしろ効率性で人間を測るという考え方の方が異端であったろう。人間に生産性や効率を当てはめるようになったのは、工場や国家の軍隊という近代的なシステムの発生と無関係ではないと思われる。もちろん、それまでも小規模な工房や王の軍隊などはあったが、労働者、一兵卒として個人が無名化され、無個性化された「資源」と見做されて、初めて生産性や効率性が問題になってくる。大西氏は経済アナリストとしては有能なのかもしれないが哲学がないようだ。だから経済的効率性が社会の基本のように見做されている現代の風潮が絶対的な真理ではなく「時代精神」に過ぎないことに気づかない。”(或るネット民のコメント)

ネットの良識は斯様に指摘する。「人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。」が真理だからこそ、我々一人一人は唯一無二の存在たり得、アイデンティティ(自己・自我意識)を保つことができる。「これがほかならぬ自分なのだ」と一人一人が言える世の中を希求することが政治の使命であっても、「これはほかならぬあなただ」と社会や国家が生産性や効率性の観点から誰かを値踏みし価値づけし剰えその命を選別(排除)することが政治の使命であってはならない。

(おわり)


posted by ihagee at 08:07| 政治

2020年06月10日

安倍総理、安倍政権がここまで苦しんでいるんです



北朝鮮による拉致被害者家族連絡会前会長の横田滋氏が亡くなった。

「そして私たち横田家のそばに長い間いた安倍総理には、本当に無念だとおっしゃっていただいています。私たちはこれからも安倍総理とともに解決を図っていきたいと思っています。国会においては、与党・野党の壁無く、もっと時間を割いて、具体的かつ迅速に解決のために行動して欲しいと思います。マスコミの皆さまにおかれましても、イデオロギーに関係なく、この問題を我が事として取り上げてほしいと思います。自分の子どもならどうしなければいけないか、ということを問い続けてほしいと思っています」(横田拓也氏)

「一番悪いのは北朝鮮ですが、問題が解決しないことに対して、ジャーナリストやメディアの方の中には、安倍総理は何をやっているんだ、というようなことをおっしゃる方もおられます。ここ2、3日目、北朝鮮問題は一丁目一番地だというのに、何も動いていないじゃないか、というような発言をメディアで目にしましたが、安倍総理、安倍政権が問題なのではなく、40年以上何もしてこなかった政治家や、北朝鮮が拉致なんてするはずないでしょと言ってきたメディアがあったから、安倍総理、安倍政権がここまで苦しんでいるんです。安倍総理、安倍政権は動いてくださっています。やっていない方が政権批判をするのは卑怯です。拉致問題に協力して、様々な覚悟で動いてきた方がおっしゃるならまだわかるが、ちょっと的を射ていない発言をするのはやめてほしいと思います。うちの母も、有本のお父さんも、飯塚代表もかなりのお年で健康も芳しくありません。これ以上同じことが起こらぬうちに、政権におかれては具体的な成果を出して欲しい。国内には敵も味方もありません。日本対北朝鮮、加害者対被害者の構図しかありません。これからも協力をお願いしたいと思います」(横田哲也氏)

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愛しい我が子を突然奪われた親の悲しみは如何許りか、その身になった者でなければ判らない。その人としての気持ちを遇らうつもりは毛頭ない。まだ生きているかもしれないと思えば、その探索に被害者家族が懸命となるは当然である。

ゆえに拉致被害者家族は拉致された家族の救出を政治権力に委ね、安倍政権は拉致問題解決を「北朝鮮問題の一丁目一番地」としてきた。

憲法の下、人権に軽重はないが「一丁目一番地」と政治的に拉致被害者の人権は他よりも重いとされてきた(拙稿「人の命の重さは、拉致被害者だけが重いのか?」)。しかしその被害者家族が解決を委ねた安倍政権に人権意識は希薄である。拉致問題は人権問題としてよりも北朝鮮問題(軍事・外交問題)全般と等値化され、政治イシュー化したからだ。次第に拉致問題が政治色を強めてきたのも、イシュー化する政治的価値(国内向け)が安倍政権にあるからとも言える。反面、戦前、日本の統治下にあった朝鮮から第二国民とは雖も多くの朝鮮人を拉致・徴用し、炭鉱等で重労働を課し少なからぬ者を死に追いやったことなどは、安倍政権にとって人権問題でも政治イシューでもない、カネ目である。カネで解決した(戦後補償した)から終わったとする(南朝鮮=現韓国)。

人権問題は本質的に終わりはないとするがゆえに、ドイツでは過去の時代の人権問題(人種差別)はその後の歴史認識(加害者としての原罪)と共にその問題の本質を理解する努力を現在そして未来に繋げようとしているが、安倍政権はそうではない。歴史を修正し人権問題そのものをカネ目で一切合切解決済みとする。カネ目ゆえに本質において加害者・被害者の間で理解が深まらない。

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「自分の子どもならどうしなければいけないか」と人権問題として意識を共有することを拉致被害者家族は我々に求めるが、「どうしなければいけないか」の結果、政治イシュー化を許したのは他ならぬ拉致被害者家族連絡会ではないか?政治家が少しでも距離を置くと拉致問題が世間の関心から薄れるのも、裏返せば、政治イシュー化し過ぎて、我々の思う市井の人権とは別の特恵される人権があるから関係ないのだと見放されているのかもしれない。

あまりに政治と距離を詰め過ぎたのである。ゆえに「やっていない方が政権批判をするのは卑怯です。(横田哲也氏)」という発言になる。

我々は拉致問題解決がならないから政権批判をしているのではない。拉致問題なる「一丁目一番地」を以って、ほかの物事を絡めて何かと内政の都合(=政権への求心力)に安倍政権が転換してきたこと(卑怯を言うのならこちらであろう)に対して批判しているのである。拉致問題が翻って、安倍政権の存在理由となり、脱法行為を含め何をやっても許されると内政の都合に体良く利用されていることに拉致被害者家族連絡会は気づかないのであろうか?

「外交は内政の延長」の反対の「内政は外交の延長」なる安倍政権なりの方程式はひたすら外交の成果を内政で強調することにある。その得意と自賛する外交はやってる感ばかりでさして実をもたらしていない。ゆえにこの方程式では相手から所詮内政の都合であろうと足元を見透かさればかりで、事実、拉致問題ばかりでなく、北方領土問題でも解決の端緒どころか交渉は膠着し前進どころか後退している。(拙稿「内政は外交の延長なのか?」)。

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”拉致問題一点から日朝交渉をすべきではないと。それは拉致問題以外のイシューの重要性とのバランスが取れなくなるからだ。安倍総理は拉致問題が「何よりもわれわれにとって大事な」と言う前は、日本に飛来するミサイルが最大の脅威・国難だと言っていた。いや、それ以前は、ホルムズ海峡の機雷だとか、リーマンショック級の経済危機のおそれだとか、が脅威・国難だと言っていた。安倍総理自身がその時々でバランスを失っている。それは安倍という政治家(および安倍政権)の立場がその時々で保てるか否かで、逆に物事の順番をつけていると考えた方が良いかもしれない。今は、それが拉致問題ということなのだろう。だから一貫していない。自己都合が透けてみえる。それを彼は「われわれ」と必ず言い換え、あたかも主語は「国民」であるとする。しかし、私も含め多くの国民は、軍事的脅威を取り除く外交こそ(話し合いを基調とする)喫緊に追求すべき外交であり、もたらされる和平こそ国益だと思っている。拉致問題とはその枝葉で解決されるべきことだ。”(拙稿「人の命の重さは、拉致被害者だけが重いのか?(続き)」)

その「一丁目一番地」が安倍政権の自己都合・自己保身と見透かされているから、その都合を共有しないトランプ米大統領からは「(拉致問題はシンゾーにとっての)プライベートな懸案」と突き放される。

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”私の義理の兄は東北帝大を卒業すると、満州国の官吏を養成する大同学院を卒業して、官吏になりました。幾つかの部署を経て、協和会の仕事をするようになりました。協和会は五族協和を実践すること、中国人の衛生思想の普及、学校教育、義務教育の充実と、当時、中国人の間で常習することの多かった阿片吸引の風習を、撲滅することが大きな仕事でした。そのため、中国系、韓国系の人たちの不満を聞くため、よく家内の実家である私の家に、これらの人たちを連れてきて、殆ど毎夜、酒を飲みながら相談にのっておりました。多分、外では話のし難いことがあったのでしょう。終戦の前に協和会の奉天支部長を勤めておりましたので、ソ連が侵攻してくると、早速逮捕され政治犯としてシベリアに八年も抑留されました。彼は帰国後、大阪で司法書士の事務所を開き、相談にきた在日韓国人や部落の人たちからは、一銭も金を取らなかったため、それが評判になり、姉の教師としての収入で、かろうじて生活するような有り様でした。岸信介が、熱河省で大量に阿片を栽培させて中国に売り、それを政治資金に使っていたことを知ったら、さぞ悔しがったことでしょう。”(父の手記から)

阿片撲滅を五族協和の「一丁目一番地」と信じ奉職する者を横目に、阿片を栽培させそれを自己の政治資金とし、A級戦犯被疑もなぜか不起訴無罪放免となって何事もなかったかのように戦後総理大臣になった男を尊敬するその孫の「一丁目一番地」に同じ自己都合・保身の政治的動機を疑わざるを得ない。

国際社会の市民の力・ネットワークよりも、我々の誰かを卑怯呼ばわりしてまで、政治権力そして安倍晋三なる人物を信じ、今尚、その権力・その者に依存する発言を続ける拉致被害者家族連絡会に違和感を覚える。「一丁目一番地」を以って、内政の都合(=政権への求心力)に転換することに与することがあってはならない。

その身勝手極まりない都合に「ここまで苦しんでいるんです」は我々国民である。


(おわり)




posted by ihagee at 19:00| 政治