2019年06月13日

ソ連邦崩壊に学ぶこと・統制経済と統計改竄



ソ連邦崩壊時(1991年)、連邦ロシア共和国を仕事先の一つとしていた私の職場でもその経済崩壊の混乱ぶりは今でも思い起こすことができる。取引先企業(国営)では従業員たちが勝手に書類や鍵を持ち出し、あたかもその正当な承継者かのように装ってドル建ての請求書を送りつけてきたものだ。

ソ連の経済体制の崩壊は数字でもすぐに西側に明らかになった。つまりソ連時代、国家統計として公表されていた数値はことごとく都合良く改竄されたものだと。

例えば、「工業生産が(1917年から1987年までの)70年間に330倍に増加し、国民所得が149倍になったことを裏付けるような計数はまったく存在しない。ところが、ほかならぬこうした数字がソ連邦国家統計委員会の統計年鑑記念号に載っている」(ロシア科学アカデミーのクードロフ博士「1991-1993年ロシア経済状況の統計と判断」(1994年1月))、「1928 年から 1985 年までにソ連の生産国民所得は 6.6 倍にしか伸びていないのに対し,公式統計ではこれまで何と 88.83倍であるとされていたから,そこには実に約 13 倍もの開きがある」(ハーニンとセリューニンの推計・福田 亘著「計画の大失敗」の体制論的考察より)、等々。

統計を改竄し実態よりもよく見せることが長年常套手段となっていたが、その改竄ぶりが予想を大幅に上回るとの推計結果が次々に出されたのは、独裁体制が弱体化してから(ゴルバチョフ)のことだった(グラスノスチ(情報公開))。

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経済統計の改竄はスターリン時代から始まった。

統計にたずさわる官僚の最初で最後の抵抗は、1925/26年の穀物・飼料バランスの統計値について、中央統計局局長(パーヴェル・イリイチ・ポポフ)がスターリンに宛てた書面かもしれない。ここでポポフは自らの立場を明らかにしている(全ソ連邦共産党第14回大会)。

統計はその時々に望まれる数字を与えることはできない。それは現実の客観的な研究のための資料を与えるものである。それは生活を反映する数字を与えるものである・・・ソビエトの統計は研究室を離れては機能しなく、その作業のやり方はその知識を得ようとするすべてのものに知られており、作業は大勢の統計家の共同作業の結果である・・・統一された方法、統一プログラム、統一作業計画、これがソビエトの統計の特徴であり、その資料の良質さの源泉はここにある。 それを嘘といって非難するものは、根拠なく嘘呼ばわりする前に、この方法とプログラムを読むなり理解するなりすべきであり・・・」

1926年の初めに,ポポフは中央統計局長の職を解任される。

(以上、Uロシア国家統計の150年,ロシア連邦国家統計の75年 『統計通報』誌1993年第5号 〔佐藤智秋訳〕)

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金融庁審議会が6月3日に発表した「高齢社会における資産形成・管理」の報告書で、「老後20〜30年で最大2千万円の不足額が発生する」など、年金だけで生活することが厳しい実情が明かされた。その内容に各方面から批判の声が殺到していたが、報告書をまとめるよう諮問した麻生金融担当相がその受け取りを拒否するという事態に発展した。さらに、12日、記者から予算委員会での集中審議について問われた自民党の森山国対委員長は「この報告書はもうないわけですから。なくなっているわけですから。予算委員会にはなじまないと思います」と、一度発表した報告書の存在を黙殺し、報告書に係る予算委員会集中審議は今後行わない方針を示した。

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「統計はその時々に望まれる数字を与えることはできない。それは現実の客観的な研究のための資料を与えるものである。それは生活を反映する数字を与えるものである・・・それを嘘といって非難するものは、根拠なく嘘呼ばわりする前に、この方法とプログラムを読むなり理解するなりすべきであり・・・」(前述)

「(報告書は)冒頭の一部、目を通した。全体を読んでるわけでない。」(麻生金融担当相)

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ポポフのスターリンに宛てた手紙の最後。
「あなたの義務は、その同じ高い演壇から私の手紙を発表するか、あなたの主張は現実に一致しないということを言明することであり」

スターリンはポポフの手紙を無視し、以後歴代政権は統計改竄を続け、遂にソ連邦は崩壊した。歴史は教えてくれる。

安倍政権下の経済を浜矩子同志社大学教授は「統制経済」と評する。上述の話に沿えば、レーニンのゴエルロ・プラン(計画経済)はスターリン時代に「統制経済」に変化した。

「あれは計画経済ではなく、統制経済、切符配給制度」(経済学者・ネムチーノフ)

都合の良い数字ばかりがやたらと並ぶあたり、安倍政権には数字を自在に操るテクノクラート(技術官僚)が付いているのだろう。彼らを従える最高指導者はフルシチョフとブレジネフを除いて全て文系というところも自民党歴代総裁・総理大臣に共通し、テクノクラート・テクノクラシーの台頭・政策決定への影響力の大きさは、安倍政権と官僚の関係と相似する。

「一般にテクノクラートと生活者は、極めて異なった視角から問題をみているように思われる。テクノクラートは、諸々の利害の全体の考量と調整を自己の課題とし、それゆえ政策の『体系的整合性』の必要性を強調し、すべての利害・要求を『部分的』なものとみなし、これらを『全体的』文脈のなかで相対化する。」「これに対して被害者住民たちは、自己自身が直接的・具体的に感受する切実な利害・要求を行動の原点におき、それゆえ自己のかけがえのない要求の正当性を主張し、その実現にむかって努力する。」

「過去の防衛(軍事)関係の技術官僚は、その暴走により科学技術の競争のための場として、戦争を選択することがあり・・」

辺野古の米軍基地問題、イージス・アショア配備問題等々、生活者とは全く異なった視角、そして防衛産業と自衛隊の関係は我が国の武器産業の国際競争力強化に突き進んでいる。安倍政権は2014年4月、戦後の平和国家日本が堅持してきた「武器輸出3原則」を47年ぶりに全面的に見直しした「防衛装備移転3原則」を閣議決定した。「武器」を「防衛装備」と言い換え、「輸出」を「移転」と言い張ることで、それまで原則禁止していた武器輸出を解禁した。武器輸出を解禁するということは、日本が世界の紛争当事国となるリスクが避けられない。(Litera 2016年9月3日付記事引用)

和平の仲裁者として表向き中東外交を展開する安倍総理だが、ユーロサカリ(世界最大の武器見本市・パリ)では三菱重工や日立製作所など日本企業12社を集めた日本ブースで武田防衛副大臣(当時)が小銃の引き金に指をかけ銃口を人に向けていた(2014年6月16日)。紛争地を求め武器を売り込みやがては紛争当事国となって「戦争を選択することがあり・・」は現実味を帯びている。



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「統制経済」に話を戻す。
「統制経済」とは、
国民経済の内部または国民相互間の個々の市場的経済活動に一般的な規制ないし干渉を与えて統制すること。民間団体などによる自主統制もあるが,主体は主として国家で,この場合,一般には,財政政策,金融政策などによる間接的な介入は含まず,生産,消費,輸出入価格などに対する直接的な制限のみを意味している。代表的なものは戦時中における価格,消費,配給などの統制である。日本でも第2次世界大戦中生産力の増強と需給の調整を目的とした経済統制が行われたが,各種の企業に対し許可制をしき,商業活動の多くは公共機関,または統制組合により行われたため,多くの中小商業者が転廃業し,営業自由の原則は大いにそこなわれた。

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統制経済に統計改竄が必要だった。その挙句がソ連邦崩壊。この図式は安倍政権下の我が国に当てはまるのではないだろうか?「その時々に望まれる数字」ばかりを並べ、国民の主張ではない「わたくし(安倍総理)の主張」ばかりを掲げ、官製相場で実体経済を歪め・・、公文書は棄てる・隠す・黒塗りすると、旧ソ連邦並の統制ぶり。グラスノスチ(情報公開)で全てが明らかになるのはいつなのだろうか?暗澹たる気分である。

(おわり)

追記:
金融庁が作成した「報告書」。国民個人の金融資産(貯蓄)を投資(相場)に誘導する目的で書かれた。年金制度の崩壊(厚労省自身認識している現実)を国民に突きつけることでこの流れを勢いづかせたかったのだろう。株価吊り上げの為に日銀は年金基金を国内株式市場に投入しアベノミクスの統計数字を「作り出してきた」。その基金が足らなくなったからと今度は国民の貯蓄に手を伸ばし鉄火場に我々の将来を投げ込もうとしている。「報告書」は「年金で老後の生活をある程度賄うことができる」という政府見解と相違すると自民。しかし、貯蓄から投資へというアベノミクスの原理にこの報告書は全く齟齬していない。年金制度に個人投資なる「自己責任」を持ち込み、制度保証の責任から政府が逃れようとする姿勢がはっきり現れている。カジノ(賭博)をアベノミクスの成長戦略の一つなどと言うところからして「生活者とは全く異なった視角」。ゆえに年金を投資の問題にすり替え、責任まで国民に押し付けることができるわけである。国家の威信に関わる原発事故ですら防曝を目的とした法律(チェルノブイリ法)を作り風下の住人の命を守ろうとした旧ソ連政府。渋々であろうと威信よりも最後は「生活を反映する数字」を取った(グラスノスチ)。かたや、威信の為には数字をいじり、事故原発周辺に住民を帰還させ、国民の生命・財産をリスクに晒す我が国の政府。冷酷非情なのはどちらだろうか?
posted by ihagee at 19:12| 政治

2019年06月06日

「憂患」考



「憂患に生き安楽に死す」(無敵國外患者、國恒亡、然後知生於憂患而死於安楽 / 孟子-告子下[15])

松下政経塾・レポート「日本人の意識と安全(江口元気/卒塾生)」で引用され、「対抗する国や外国からの脅威がない場合にはしぜん安逸にながれて、遂には必ず滅亡するものである。国家にせよ、個人にせよ、憂患の中にあってこそはじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招くということがよくわかるのである。」と括られている。

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「対抗する国や外国からの脅威がない場合」、日本人の内なる意識は「平和慣れしてしまって」「安寧にながれ」る傾向があり、それでは日本国が存続することはできないと言う。この脅威とは「対抗する国や外国からの」軍事的脅威である。

正常性バイアス、同調性バイアス、同化性バイアスの三つのバイアスが我々日本人に顕著であり、これらが「慣れ」を助長し脅威に鈍することになるという。

災害、犯罪、疫痢についてはそうかもしれない。だからと言って「対抗する国や外国からの脅威」を「憂患に生き」で論じることについては一考を要する。

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戦争を以てしか脅威に立ち向かえなかった歴史の悪しき教訓から戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認から成る平和主義が憲法に規定されている。ゆえに「対抗する国や外国からの脅威」が潜在しても憲法の少なくとも戦争放棄の理念は貫き通し、戦後74年間、我が国は他国と戦火を交えることがなかった。戦争こそ国家ばかりか人間にとっての最大のリスクと過去の歴史から学んだからこそ、我々の先人たち(特に戦中世代)は戦争を以てしか脅威に立ち向かえなかった過去の轍は二度と踏むまいと決意し、話し合いを基調とする外交努力を営々と重ねてきた。すなわち「対抗する国や外国からの脅威」を最小化すべく外交力を最大化することを憲法の平和主義は政治に求めている。

戦争に戦う平和主義を放棄し、戦争で戦う武力主義を肯定する「普通の国」になることは至って簡単である。戦争に戦うがゆえに話し合うことよりも、戦争で戦う(危機を招来する)ことも前提で軍備を行うことの方が至って簡単だ。言語による交渉力は不要で、カネと技術とヒト(命)を投下し「対抗する国や外国からの脅威」と常に軍事で脅かし見かけでも拮抗させていれば良いからだ。核武装はその最たる備えである。北の首領の国がこれを率先している。

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戦中世代が社会から消え、この国の戦後外交の意義を正しく理解できない者が政治の中枢に居座っている。彼らは、平和主義を「平和慣れしてしまって」「安寧にながれ」ると、平成の時代感に当てて過去に追い遣ろうとしている。平和主義を貫くために尽くした先人たちの途方もない外交努力を彼らは知らないし(先の天皇はこの努力をされた)、その力量や技量を備えようともしない。保守の本分は外交にあり、話し合うことが正常を保つことだと心得ていた筈だ。ところが、いつの間にかその本分を忘れ、その努力や技量がないことを棚に上げて、「平和」があたかも所与かのように「慣れ」とか「安寧」と言って退ける。

政治家や官僚の外交力の劣化が著しい。いや、彼らを上に置く我々もめっきり思考力が衰えているのかもしれない。政治や行政の不祥事・不法行為は後を絶たないばかりか、何ら反省することもなく、寧ろ我々国民のバイアスを悪用し「慣れ」を助長し本来であれば国家の危機であることまで自覚させないようにマスコミを総動員して「慣れ」させるよう仕向けている。その最たるが原発事故である。食べて応援、笑えば取り憑かない、深く考えない方が気が楽だと仕向ける。

「対抗する国や外国からの脅威」=外患を煽るだけ煽って、内憂に目を向けさせない。個よりも、民族や国家にアイデンティティを託さなければ不安でならない人々が増大している。結婚はおろか一年後の自分さえ判らない非正規労働の人々たちに、どう自分に自信を持てと言うのだろうか?非正規労働も労働選択の自由などと嘯いて、働かせる側の論理に与する政治が自分に自信が持てなくなった人々を増産し、ヘイトまがいの嫌韓・反中の言行に駆り立て(ナチスがユダヤ人を排斥したと同じ差別主義である)、他方「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と夜郎自大なアイデンティティで洗脳し、政治に無関心にさせれば、政治権力はなおさらフリーハンドとなる。

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憂患の中にあってこそはじめて生き抜くことができ、安楽にふければ必ず死を招く(「憂患に生き安楽に死す」)と孟子は説き、松下政経塾では「対抗する国や外国からの脅威」に照らして意義を見出している。

他方、悪が己に差し向けた「わずらい」が憂患であり、己がこれに臨むのであれば軽く受け苦痛(いたみ)を減じ、他人に現れるなら寛大に処すべきである、と内村鑑三は「塵埃(ちり)と梁木(うつばり)」(大正3年5月10日『聖書之研究』166号)で説いている。自分の欠点は塵のように小さくとも、これを梁木(うつばり)のように大きなものとして見、他人の過失は梁木(うつばり)のように大きくてもこれを塵のように小さなものとして見るべきで、自己は厳密に責め、他人を責めるは寛大であるべきとする。他人を議する(裁く)やり方で自己も議せられ、他人を量(はか)るやり方で自己も量られる・・と。

聖書研究から導かれた言葉であるが、「対抗する国や外国からの脅威」を憂患とし「梁木(うつばり)のように大きく」他人を議したり量ったりすれば、同じように自己も議され量られるということである。悪がそう差し向け、その通り、戦争という人が人を殺め合う行いに行きつくのである。

戦国時代の儒学者の教えから学ぶは戦(いくさ)の「梁木(うつばり)」の理であり、草莽崛起(吉田松陰)、奇兵隊(高杉晋作)、巡り巡って、「戦争するしかないじゃないですか」(丸山穂高)となる。「梁木(うつばり)」の理で「戦争」と言ったところで、「人を殺すしかないじゃないですか」と同じことである。その上「おっぱいを揉みたい」とか言ったそうだが、人を殺しついでに性的欲求も満たす。戦争・戦場ならそれらは全てOKと丸山議員の頭の中では整理がついているのだろう。それが彼なりの正常バイアスならば、先の戦争で従軍慰安婦など存在しないなどとその口が言えるか?

むべなるかな。その丸山議員は松下政経塾出身。憂患に生きようが塗炭の苦しみに喘いだ、それどころか、憂患に生きれば生きるほど、その相手から「梁木(うつばり)」の理で原爆を落とされ虫けらのように市民が殺された過去すら知らないようだ。他人を議する(裁く)やり方で自己も議せられ、他人を量(はか)るやり方で自己も量られる・・。

ゆえに、「憂患に生き安楽に死す」を「対抗する国や外国からの脅威」に当て、遠くない将来に「戦争するしかないじゃないですか」が正常バイアスとなることこそ、人間としての危機であると言いたい。そう意識するかしないかは人間としての己があるかないかである。日本人とか日本国ではなく、人間とは何かが今問われているのである。

(おわり)

posted by ihagee at 18:07| 政治

2019年05月27日

誑惑なる美しい調和



今の元号、英語にすると「beautiful harmony(美しい調和)」だそうだ。しかし、この元号はその漢字の青白い佇まいからして「令」を以て「和衷協同」すべし(拙稿『「れいわ・澪和」と書く』)、その「和」とは平和の「和」などではなく、国家と国民の間の釣り合い(和)の意味だろう。

平和の「和」とは、戦争をやめて平静になること(和平)意味し、戦争放棄を憲法で誓ったわが国に於いては戦後74年に亘って続く平静な状況を意味している。先の元号「平成」はその意味を退位した天皇と共に象徴していたのかもしれない。

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しかし、昨今の国会議員の戦争発言や、専守防衛と言いながら先制攻撃用兵器や空母の増強を図る政府の防衛大綱からは、平静になるとは反対の方向に結束して突き進む政治思想が見え隠れしている。結束=ファシズムゆえに民主であっては困るのだろう。経済産業界の新自由主義を標榜しても民主主義は「混乱・悪夢」と「民主党時代」と重ね合わせて唾棄するところなど、ひと昔前の自由民主党でもない。

つまり、自(俺様)党となって、国民は由らしむべし(従え)とばかりに、理由や根拠など一々国民に説明することなどどうでも良いからとにかく一方的に法律を作って国民に守らせればよいという政治原理が働くようになった。曰く「民は由らしむべし,知らしむべからず」である。ゆえに現政権の下、字面は「民は由らしむべし,知らしむべからず」通りの元号となった。後付けでさも美しげな解釈を加えようと、漢字は我々に正しくその本来の意味を「知らしむ」のである。「令」は「神意に・ひざまずく人」の 会意以外の何ものでもない(「令」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習 - OK辞典)。

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首相に個人的に親近感を抱く人々に共通する人物評は「人たらし(ひとたらし)」である。「人たらし」とは相手の心を掴む術に長けているということ(夫人も)。芸人の取り巻きが多いのもその「人たらし」ぶりで共感し合うところがあるからだ(拙稿「芸人」)。半面、政治的に(個人的にも)嫌悪感を抱く人々にとってはそれは「人誑し(ひとたらし)」である。

「誑」は誑(たぶら)かす、つまり、嘘を言ったり誤魔化したりして人を騙すこと。「誑」は仏教の煩悩の一つで、「欺瞞。自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を得ようとして、様々なはかりごとを心に秘めて、自分が徳のある人物であると見せかける偽りの心である。」(wikipediaより)

「人たらし」から「人誑し」へと首相夫妻への人物評を一転させたのは籠池夫妻ということになる。

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「今だけ・カネだけ・自分だけ」と自分たち(一部階層)だけの利益を得ようとし、何事でもしゃしゃり出て名聞を求めようとし、「はかりごと」は「民に知らしむべからず」とばかりに秘密交渉に徹する姿を見せつけられては、少なからぬ国民が抱く人物評は「人誑し(ひとたらし)」だろう。

得意と自認する外交は「人たらし」全開で、個人的関係と国家の関係があたかもイコールだと勘違いしているようだ。トランプ米大統領はそのプラグマティズムゆえに「人誑し」を堂々と行うゆえ、自ら「人たらし」である必要がない。

トランプ氏をポピュリズム(無定見)の旗手のように錯覚してはならないだろう。彼はそのビジネスマンとしての資質からもその政治信条はプラグマティズムに立脚している。因果の論理的整合がなければはっきり「ノー」と言い、あれば周りが反対しようが「イエス」と言うだろう。「多数が良いとするのが良い」という無定見さに陥らない。翻って我が国の首相は「この道」しかないと<果>しか言わない。因たることはどうでも良いのだろう。アベノミクスにみるように、その<果>が逃げ水のように遠ざかるのも過去との連続性に立って<因>を見究めようとしないからである。過去から積み上げてきた歴史観の継続性をスパッと断絶し<因>を頑なに見ない姿勢にある。政権に都合する輿論(「この道」)を官邸内で醸成し、政権側にべったり与させたマスコミを使ってそれを増幅拡散し、いつの間にか見かけ上(ネット上)の世論にする術まで身につけている。その世論を自製する術こそ新しいが、その本質は従来型の「ポピュリズム」の政治家である(拙稿「プラグマティズムとポピュリズム(トランプ氏考)」)。

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プラグマティズムとポピュリズム、しかし、この二人の共通点は、普段、誑(たぶら)かすことばかりしているうちに自らの心までも誑(たぶら)かすからこそ、何の躊躇いもなく嘘を付くことができるようになったことだ。

その誑(たぶら)しには安易に惑わされないのが米国の多様な国民性である。ファクトチェックや政権批判が公然とマスメディアで展開される。他方、我が国は、誑(たぶら)しに大いに惑わされる国民性である。我々の関心を政治に向けさせないことを目的として、意図的に愚民化させるという政策=「民に知らしむべからず」にマスメディアは大いに貢献し、我々はすっかり誑惑されてしまっている。

「人誑し」が「人たらし」にしか見えない愚かな人々が増えてきた。「美しい調和」などと英訳される元号の下で。

(おわり)

posted by ihagee at 18:17| 政治