2019年09月06日

チュッチェフとカポネ



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”安倍首相は、その後の国際会議でのスピーチで、プーチン大統領らを前にロシアの詩人であり外交官だった人物によるロシア国内で有名な言葉を引用し、次のように述べた。

「『ロシアは頭ではわからない。並の尺度では測れない。何しろいろいろ特別ゆえ。ただ信じる、それがロシアとの付き合い形だ』(会場拍手)。この有名な詩のロシアを日本に置き換えて見てください(会場笑)」

安倍首相はこのように述べ、日本もロシアを信じるから、ロシアも日本のことを信じて両国の協力を進めようと強調した。そして「その先に平和条約締結がある。未来を生きる人々をこれ以上もう待たせてはならない。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」と呼びかけた。”

産経新聞報:ロシア極東ウラジオストクで開催された東方経済フォーラム全体会合で演説での安倍首相の言葉(2019年9月5日)

帝政ロシア時代の詩人フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフの言葉Фёдор Иванович Тютчев)を借りたようだ。

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しかしそんな詩人の言葉を打ち消すかに、ロシアの各通信社は以下伝える。

「そのような親切な言葉に加えて、1920年代と1930年代に生まれたような言葉もある。優しい言葉に銃を添えれば、優しい言葉だけよりも多くを得ることができるということだ。(You can get more of what you want with a kind word and a gun than you can with just a kind word.)」(同日の日露首脳会談でプーチン露大統領はマフィアの帝王アル・カポネの言葉を引用した。)

このカポネの言葉の引用について、日本はどのメディアも伝えていない。

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“不可侵条約があるにもかかわらず独ソ戦が始まり、同様の条約を結ぶ日本国であれば、ソ聯がわが満州国に攻め込まない保証はないのではないでしょうか、などとエトワスに誰かが交わった。途端「お前たちは信念が足らん!」と一喝。黒板に信不及と大書し、授業に代え長々説教を始めた。(中略)講義ノートを書棚から引っ張り出し頁を手繰り信不及を鉛筆で真っ黒に撲った。軍司令部の敷地から連日朦々と立ち昇っていた煙が止み兵営からひとけが失せ程なくして、ラヂオの前に姿勢を正し終戦の聖勅を奉戴するも、日本人はいない。信念が足らぬと信じて残ったのは一旗組だけじゃないか、先生を嘘つきと呼べる自分がいる。”
(小説「おしばな」より)

「信不及」の顛末は「おしばな」に綴った通り。「信不及」とばかりに残った者は棄てられ(私の父や祖父がその体現者)、そう説いた者ほど一目散と逃げた史実に照らせば、「(日本は)信じるのみ」を「信不及」と、「日ソ不可侵条約」を「日露平和条約」と、小説の先生を安倍首相と、置き換えてみたくもなる。

“玄関の戸口を銃座で打ち付ける音が響く。腕に幾つも時計を巻き付け肩から自動小銃をぶら下げ腋に掻い込んだ汗と脂が混ざった饐えた臭いのダワイに囲まれた。”
(小説「おしばな」より)

ロシアの為政者が歴史的に我々に教えてきたのはチュッチェフのような机の上のアフォリズムなどではなく、カポネのような壁を背にしたプラグマティズムである。父も祖父も「(日本は)信じるのみ」に騙され「頭でロシアは分からない」だけが最後にそのロシア(ソ連)によって分からされた。

“触覚をのばすことでしか知り得ないかの如く、叩き、蹴り、破り、壊す。”
(小説「おしばな」より)

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“皆さんにはぜひ、プーチン大統領と私は、幾度も幾度も、食事をともにしたので、皆さんが言う「塩1プード分、一緒に食べた」仲なんだと、ご理解いただく必要があります。(中略)「信」は、人と人の間で生まれ、人と人をつなぎます。“(安倍首相)

どれだけ会ってどれほど一緒に食事を共にしようと、それが27回に亘る「親切な言葉」の繰り返しでしかなく、その言葉の裏で対米隷属的な姿勢(軍事面)を誇示する安倍首相を前にプーチン大統領はスミス&ウェッソンを抜いてみせたことになる。「頭でロシアは分からない」ことを分からせようとしているのかもしれない。

27回で「塩1プード分」どころか、会うたびに「塩1プード分、食べさせられる」アメリカが日本の本願(誓願)である限りはそうだろう。「私は、幾度も幾度も、食事をともにしたので」と、得意の鮨友関係を披露すればするだけ空しい。平和条約締結が我が使命と逸り、長門の温泉に招き友情を深めようとしたところで、湯に浸かることもなく料理をさして誉めることもなく、そのもてなしに画した安倍首相の功名心をプーチン露大統領は見抜いていたのだと思う。「君は歴史を知らないようだから(教えてやろう)」と、東京に戻ってからの記者会見の席で産経新聞の阿比留記者に向けた苛立ちがそれを如実に表していた。その滔々と語らなくてはならない歴史に長門の温泉旅館は何の関係もなかったわけである。

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自ら座禅を組むという安倍首相なら、「信」とは自家求心であって、相手にその信を求めることではないという禅の思想が「信不及」であり、その意味での「信」を「(日本は)信じるのみ」なる言葉に重ねて理解していても良さそうなもの。少なくとも「(日本は)信じるのみ」などと発言する限りは。

遡れば、日ソ不可侵条約が破られ北方の島々が奪われ、どんなに裏切られ袖にされようと、胸を開き腹を割ってまでも「信じるのみ」とロシアには接するが、他方、1965年の請求権協定に違反したことを以て、全く信がないと隣国を完膚なきまで叩く。「日韓間の真の問題は信頼(河野外相)」と言うのであれば、不可侵条約を一方破棄し領土まで奪ったロシア(当時のソ連)に対しては「日露間の真の問題は信頼」とさらに強く言わなければならない。しかし、「(日本は)信じるのみ」がロシアへの言葉。この違いは何か?

「信」の意味が安倍首相の頭の中では相手に応じて自家撞着している。「信」ならぬは安倍首相自身なのだろう。プーチン露大統領はそう見ているに違いない。

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「親切な言葉」の一つでもかけるべき相手はすぐ隣にいる。過去にせよ人権に関わる問題(従軍慰安婦・徴用工など)であれば、国際社会(人類)はただちに共有する。不名誉だからとわれわれが一方的に問題を過少化したり等閑にすることは許されない。国家間でたとえ政治決着していても人権は別(個人の賠償請求権は存在する)。一人であろうとその人にとってはかけがえのない人権。その人権が過去に脅かされたのであれば、脅かした側が赦しを請いその罪を贖うは人として当然(人倫)。数の多寡ではない(小池都知事は関東大震災下で虐殺された朝鮮人の数が正確でないとして、今年も追悼文を送らなかったが、一体何人だったら虐殺でないとでも言いたいのだろうか?)。言われなくとも行う心こそ自家求心の「信」であろう。

「信」を安倍首相がことさらに言うのなら、ゆえに外交の優先順位を誤ってはならないと私は思う。

(おわり)


posted by ihagee at 18:47| 政治

2019年07月13日

自由主義・民主主義



「国のあり方を決める権利は国民が持っている」からその国民が国のあり方を決めることができるとなる(選挙)。他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従って一票を投じることが、個々の国民の自由意思の表明ということになる。

他方、この国は国際社会に於いて「自由主義経済」の旗手だそうだ。「自由主義」はもっぱら「資本主義」に語られ、その「自由」は政治民主主義と紐つけられ解釈される。その「自由」は「危害原理(他者に危害を加えない)」にのみ制限される。

「自由主義」は経済や国家である以前に、個人の意思や本性に存在していれば、経済や国家にその「自由」を演繹しても構わないかもしれない。個人が「大人」であれば可能だろう。その「大人」の意思の総意を民主主義というなら、民主主義の上に資本主義を重ねることができる。

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個人が「子供」だったらどうだろうか?「子供」はわがままである。他者に危害を加えることによって自己都合を押し通すこともある。そのわがままを「自由」とは言わない。

他者に危害を加えることを良しとする風潮。それは積極的でなくとも消極的に「無視」したり「遠ざけたり」、「隠したり」「騙したり」「嘘をついたり」することが今の社会に蔓延している(陰湿ないじめに近い)。



(新聞社も国会議員も「子供化」)

子供の「自由」の上に資本主義が胡座をかくためには、「自由」は経済的自由主義や政治的イデオロギーの内に留めおき、決して個人の独立した思想の上にあってはならない(それらの「自由」を個人に帰納させる=強者はさらなる自由を求め、弱者は平等を叫ぶ「新自由主義」)。そのために集団的意識が必要とされる。日本古来の伝統や国粋ばかりを吹聴鼓舞し、国際社会に於いて日本の存在を神聖視する、危うさを含んだ幼い思考である(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。その幼さは過去の歴史に於いて「(大)日本主義」となって立ち現れた。東亜の諸民族の帝国主義からの解放と言いながら、その上から目線は同様にそれらの人々の「日本化(同化)」でしかなかった。

「自由主義の埒外へ一歩でも踏み出した宗教意識は、やがて日本主義の埒内に収容される」(戸坂潤)となる。

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個人の独立した思想よりも集団の意識が再び今の日本を支配しつつある。個人の思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)を倒置し、国家によって侵され支配される個人の内心を是とする意識はまさに「日本主義の埒内に収容される」ことである(共謀罪)。その「日本主義」は科学的考証に値する思想と言うべきものではなく、

”「国史」の日本主義的「認識」でしかない。だから結局、一切の日本主義は淘汰され統一されて、〔絶対〕主義にまで帰着しなければならず、又現にそうなりつつあるのである。(戸坂潤)”

「国史」の日本主義的「認識」は科学的「史学」さえ歪曲し「国論」として罷り通るようになる。日本の歴史を書いたとする『日本国紀』(百田尚樹)が「史学」と何らの接点も持たない所以である。しかし、そういった細かな日本主義は今や「日本国って凄い・日本人って素晴らしい」と呪文のようにメディアによってばら撒かれ、それらは束ねられると(大)日本主義的「認識」には十分になり得る。そんな「認識」程度に政治が動くゆえ「(大)日本主義」の徒花がまたその花芽を脹らましつつある。

「認識」は論理でも思想・哲学でもなく、子供のわがままや自己愛であって良い。「国のあり方を決める権利は国民が持っている」のその権利に縛られるべき為政者が逆にあり方を決め、国民を縛りにかかって、思想なき認識(私事)はやがて、絶対主義・独裁に陥るのである。「わたくしがそう思えば憲法」「恥ずかしい憲法」などと憲法すらその(私事)下に置く。

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自らの思想が国家によって制限されないこと(憲法第19条「内心の自由」)に「危害原理」を当てて制限しようとする国家とは一体何なのだろうか?「修身(国民道徳・国家道徳)」を国民全体に涵養することが『日本を取り戻す』(教育勅語の復権)などと、個人と国家の関係を転倒させようとする者に「棄権」を以って、フリーハンドを持たせてはならない。個人の内心の覚醒を阻み、覚醒自体に「恥を知れ」と一蹴する者は八紘一宇なる幼さを含んだ危うい思考を振りまいている。それが徒花で終わったことを歴史に学ぼうとしない。その「恥」の「恥」たるが何かも知らない者が、恥部を晒したままの裸の王様と共にテレビに映し出される。

古色蒼然とした日本主義的「認識」に巻かれることなく、憲法に保証された内心の自由に従って一票を投じることでしか「民主主義」は達成できない。「こんな人たち」と国民に指をさす子供が「棄権」によって選ばれて良い筈がない。

大人ならば自己の良心に従って必ず投票されたし。

(おわり)

posted by ihagee at 07:28| 政治

2019年07月06日

並ぶべきはどちらか?



第25回参院選の選挙活動が始まった。
まだ二日しか経っていないというのに、共同通信をはじめ朝日、毎日などマスコミ各社は参院選序盤情勢を報道している。

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(毎日新聞 2019/7/6 朝刊第一面)

なんと「自公が改選議席の過半数を上回る勢い」だそうだ。有権者にとってまだ選挙候補の顔ぶれも定かでなく、ましてそれぞれの候補の訴えも演説も知らないのになぜか情勢判断を真っ先に行うマスコミ。何なのだろうか?

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「みんなあっちに行くようですよ。」と行列の先頭に賑やかな楽団がいるかに思わせて「多勢はこちら・勝ち馬はこっち」と人心を誘導する。いわゆる「バンドワゴン効果」をマスコミは狙っているのだろうか?

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情報弱者たる高齢者層と今しか自分の視点が持てない若者たちはこの流れにヨロヨロと乗ってしまう。



選挙前、こう約束していた筈なのに、そうと思って一票を投じたらあっさりと嘘をつかれてしまった。

この行列の先では自家撞着は当たり前のようだ。



昨日も・・



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地元(朝霞)には、飯時になると行列して賑わう店がある。与党がマスコミを使って自らに忖度させ仕立てているかの行列に比べればちっぽけなものだ。行列の先に「みんなに忖度!」とピンクのポスターが貼ってあった(先週)。こっちはしっかり仕事をし、行列する人々に嘘をつかない。ゆえにちっぽけながらも行列が絶えない。

我々庶民が並ぶべきはこっちだろう。




(おわり)




posted by ihagee at 18:06| 政治