2019年05月18日

「領土」とは何?(続き)



立憲民主など野党は17日、北方領土を戦争で取り返すことの是非に言及し、日本維新の会を除名された丸山穂高衆院議員に対する辞職勧告決議案を衆院に提出した。(共同通信・2019/5/17報)

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「領土」とは何か?について拠って立つところの違いは大きい。「領土」を憲法で論じることはこのように侵略・支配を正当化するが(ロシアのクリミア侵攻にみられるように)、武力に拠る危険な考えでもある。もし、我が国もロシアと同じく憲法を改正し、9条の平和主義を捨て「領土」条項を入れて憲法で論じることになれば、解決は話し合いではなく軍事的紛争に拠ることになるだろう。どちらが戦いに勝つかである。その決め方がいかに不幸な結果になるかは、クリミア危機が示す通りである。(拙稿『「領土」とは何?』)

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丸山議員の発言(特に「戦争しないとどうしようもなくないですか」)は確信犯的である。その確たる信念の元に自民党憲法改正草案の「領土」条項があるのだろう。(第9条の3)

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現日本国憲法に「領土」条項は存在しない。「領土」を憲法で論じることはせず、外交が決着した国際法に委ねる問題としているからである。しかし、自民党憲法改正草案には「領土」条項が新設されている。

「領土」を憲法で論じることは、領土権=土地の支配と共に人民を支配し、生存圏・経済的支配、選民支配という戦前の「大東亜共栄圏」思想(大日本主義)と繋がり、五族協和・共存共栄の大義の下、武力による周辺諸国の支配、即ち、軍事覇権(戦争)に至った戦前のレジームに容易に回帰する虞があるから、そうさせない為に日本国憲法に敢えて「領土」条項は存在しないのである。

『奪回防衛実効支配』(高須克弥氏)とは何を指しているのかは言わずとわかることだ。「僕は『戦争』って単語は使ってません。」はこの人だけでなく、「領土」条項を新設しようとしている自民党の言い分でもある。しかし、実質は軍事覇権(戦争)に至った戦前のレジームの焼き直しである。

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他方、ロシアは「領土」を憲法で論じる。領土権=土地の支配と共に人民を支配し、生存圏・経済的支配、選民支配がその憲法上の「領土」として論じられるのであるから、領土権としてそれらの支配は着々と進められてきた。だからと言って、我が国も「領土」を憲法で論じることになれば、軍事力での鍔競合い、その先には戦争しかない。「力のあるほうが勝つ」と装うことの先には核武装しかない。

丸山議員は、このスキームにおいて呉越同舟たる自公維の裏切りに憤っているのかもしれない。

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「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういうものに血気盛んになられても困るんです」(「坂の上の雲」について・司馬遼太郎)

この呉越同舟、全く困った愚連である。

(おわり)

posted by ihagee at 07:35| 憲法

2019年05月04日

きつね物語



霊験あらたかな薬でそうなったのか、キツネ憑きのこの国の自称最高責任者は今やキツネの友達としか話をしない。そして遂に精神にも異状をきたし「狐憑きにかかるものは、狐のおらざるに常に目に狐の形を見、耳に狐の声を聞き(中略)狐憑きは、狐の夢を実現するものと心得てよろしい。」(井上円了「迷信解」より)

どうやら、世間も同じキツネに見え反対の声まで賛成の声に聞こえるらしい。油揚げで手懐けたキツネの友達を使って、あたかもキツネの見方が公論かの如く、テレビ、新聞、ネットを駆使して輿論(よろん)化するが、公論たる論考・論証もない為、言葉で論理だって説明することができない。

キツネ憑きにキツネにされる我々一般庶民。数多の犠牲の上にようやく得た戦争放棄という尊い使命を帯びた憲法である。その使命の重みをキツネ憑きにヒョイと油揚げをさらわれるように取られて良いものなのだろうか。
(以上、拙稿『キツネ憑きの話(「戦争に戦う」が「戦争で戦う」になる)』)

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キツネの憑き物を落とす法を世界で唯一持つ国が日本である。しかし、今年の5月3日が現憲法下最後の祝日となる可能性がある。残念ながら新元号の下、多くの人々はキツネになりつつある。改元の先に狐の嫁入りならぬオリンピックが控えている。

画家 富山妙子氏の「きつね物語」で描かれるキツネ。よく見たまえ、これが憑かれた者の姿なんだよ。97歳の原風景。父の心に焼きついた風景。同じ旧満州国大連の育ち。

<父の手記>

最も民族差別をしたのは日本から来た軍人でした。私が中学の低学年であった時、目の前で馬車に乗ってきた将校が、料金を払わずに馬車から下りました。中国人である車夫は馬車から遠ざかる将校の肩に手を掛けて、料金を払えと迫りました。件の将校は振り向くと「貴様は帝国軍人を侮辱する気か」といきなり日本刀を引き抜いて、袈裟がけに車夫に斬りつけました。車夫の頚動脈からは血が吹き出て、そのまま倒れました。将校は悠然と倒れている車夫の着物で刀を拭き、何事も無かったように立ち去りました。私は悔しさと、恥ずかしい気持ちで、体が震え、涙を止めることが出来ませんでした。これは平時、首都である新京の町の真ん中で起こったことです。勿論このことは新聞の何処にも出ませんでした。その将校が、車夫には家に妻や子供がいることなど、想像すら出来なかったのでしょう。彼には中国人が人間ではなく、犬や猫に見えていたに違いありません。(拙稿「殴ったことを忘れても、殴られたことは忘れないのが人間」)




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「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。・・・ まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」(拙稿『<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)』)

(おわり)

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(五輪は違法ライセンス・IOCバッハ会長への手紙=公開書面原文写し)

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(五輪は違法ライセンス・IOCバッハ会長への手紙=公開書面邦訳)

posted by ihagee at 08:46| 憲法

2019年04月05日

「れいわ・澪和」と書く



弁護士・白神優理子(しらがゆりこ)さんの執筆した「憲法シリーズ@ 緊急事態条項でどうなる?」をネットで目にした。

全国労働組合総連合(全労連)編集部から執筆を委託されたコラム記事のようだが、とても判りやすく「緊急事態条項でどうなる?」のかが書かれているので一読をお勧めしたい。

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自由民主党「日本国憲法改正草案」の第98条に「緊急事態の宣言」第99条「緊急事態の宣言の効果」と題された条文(案)が存在する。所謂「緊急事態条項」である。

大日本帝国憲法第8条第1項に存在していた「緊急勅令」と至極相似している。

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(「憲法シリーズ@ 緊急事態条項でどうなる?」から引用)

「勅令」とは帝国議会閉会中に「緊急の必要がある」場合に法律に代わって、勅令=天皇が発する命令のこと。戦前、「緊急勅令」は頻繁に発せられた。

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(『勅令第548号』財産税法の施行)

つまり「緊急勅令」を始終必要とした時代があったということ。国家の体制保持(国体護持)が最優先とされ、そのためには人権(個の尊厳)は制限されて然るべきという時代だった。その最終遂行手段は戦争である

そして、今再び、かつての「緊急勅令」を必要と自民党は考えている。その必要の先にあるものは過去の時代が示す通りである。

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現日本国憲法は国会が国の唯一の立法機関であると定め、法律は国会の議決を経なければ制定することができず、従って、法律に代わって天皇が「命令(勅令)」したり、内閣総理大臣が「宣言を発する」ことは認められない。

自民党憲法改正草案の「緊急事態条項」は、戦前の緊急勅令の主体者(命令する者)を天皇から内閣総理大臣に置き換えるだけでなく、その戦前の緊急勅令よりも格段に権限を主体者に集中させる内容となっている。「その他の法律で定める緊急事態」とすることで、自然災害以外の事態にまで「緊急性」の範囲を広げられるなど、実質、政府に対して広範な権限を付与する全権委任(授権)法的性質を帯びているのが、この自民党憲法改正草案の「緊急事態条項」であると言える。

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「平時の統治機構をもってしては対処できない非常事態において、国家権力が国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して非常措置をとる権限」(同上コラムから引用)は、明らかに現憲法の第13条で保証されている「個人の尊重(尊厳)、幸福追求権及び公共の福祉」と反することであり、従って、自民党憲法改正草案では第13条の自ずとある「個人の尊重」を否定し、国家との相対関係にあって初めて「人」としての尊重と、国家と国民の関係の大転換を企てようとしている。この辺り、実に周到に「緊急事態条項」と整合を図っている。(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)

天賦人権賦与説を否定し、憲法に縛られるべきではないと憲法に縛られるべき内閣総理大臣が公言し、法治よりも人治を重んじるこの国にあって、立憲的な憲法秩序の停止こそが国家の権限の最大化、その先には国家の存立のためには個人の犠牲も厭わない専制政体が立ち現れつつある(拙稿『<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)』)。

政治権力が特定の人物または特定の集団に集中すること、その通り、安倍政権が存在している。

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緊急事態条項の命令の「令」を以て「和衷協同」すべしが、来るべき時代「令和」であってはならない。「一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」などと元号を以て時まで君主のように私物化し憧れるは「令」を以て「和衷協同」だった過去の時代ならば、それは「令和」と共に時が逆走することに他ならない。

「朕我が臣民は即ち祖宗の忠良なる臣民の子孫なるを回想し、其の朕が意を奉体し、朕が事を奨順し、相与に和衷協同し、益々我が帝国の光栄を中外に宣揚し、祖宗の遺業を永久に鞏固ならしむるの希望を同じくし此負担を分つに堪うることを疑わざるなり」(明治天皇帝国憲法を発布勅語より)

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「わたしが国家」などと象徴天皇に代わって君民一家の主を自認する安倍晋三内閣総理大臣であるから、その在任期間に件の憲法改正を果し「令」を以て「和衷協同」すべしと人権(個の尊厳)を制限してでも護るべき国体を「令和」に重ね見ているのかもしれない。そうならば、もはや天皇在位の元号ではなく専制政治の年号である

社会生活で「令和」と書かざるを得ない場面では「れいわ」と敢えて書くことにしようと思う。漢字の書けない子が「れいわ」と書くのと同じく書けないことにして。

平仮名にすると押し付けがましくなくむしろ温かみを覚える。私なりに漢字に戻せば「澪和(れいわ」。都市水運の研究をライフワークとされる徳仁親王には「澪(みお)」の方が相応しい。人々の生活が行き交う水路、その標べは澪標(みおつくし)。人々が立てた木標。

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(拙稿「常滑・1962年ごろ」から)

そして「身を尽くし」と愛する人を思う心は、小倉百人一首の20番目の和歌に「わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(元良親王の)」と詠まれている。漢詩の孫引きたる万葉集よりもこの方が良い。

現代語訳:「 (あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。いっそのこと、あの難波にあるみおつくしという名前のように、この身を捨ててもお会いしたいと思っています。」と、情が深い。

「人を敬い,また人を愛するということは、非常に大切なことではないかと思います。(徳仁親王)」と、他者を「愛する」ことができるという主体としての私であって欲しいと願いを託して名付けたその子は愛子内親王。(拙稿「愛子と愛国」)。その他者を「愛する」ことができる国・国民と意味を託した元号であって欲しかった。憲法が高らかに謳っている平和主義を以て、内外を問わずすべての人を平等に愛することができる私・日本国であることを願いたい。

ここにあの者が口にする「しきしまの 大和心のをゝしさ」といった「われに愛せ・敬え」と相手を組み伏せる偏狭なナショナリズムの禍々しさは欠片もない。

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情の薄い、そして「…でありたい」などと、主権者たる国民の意を勝手に奉体する不届者にこの「身を尽くし」たくなる人と人の関係などわかるはずもなかろう。

(おわり)
posted by ihagee at 21:03| 憲法