2021年05月04日

テレビCM(国民投票法改正案)なるバンドワゴン










(「多湖輝人気作10冊セット」から、多湖輝著)

" 23日(1984年4月23日)午後、花見見物でにぎわう大阪の桜の名所、大阪造幣局「桜の通り抜け」近くで、リンゴ路上販売業者が電話をかけに行ったわずかのスキに、約2トン、八十箱のリンゴが通行人に次から次に持ち去られる”事件”があった。「試食していただいても結構です」の看板に、通行人が群集心理にかられ持ち去ったらしいが、青森から来た業者はあまりのモラルの低さにあ然とし、警察に被害届も出さず、しょんぼり引き揚げていった。” (1984年4月24日付河北新報夕刊9面)

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この「リンゴ事件」について「人は大勢の人が同じ行動をしているのを見ると、自分も同じ行動をとりたくなる心理がある」と多湖氏は「同調行動」を指摘している。

「試食していただいても結構です」の看板は明らかに「売り物前提の試食」であるにもかかわらず、みんなが手を伸ばしているから自分もと、業者の居ないスキに通行人が次々とリンゴを持ち去った”事件”であった。自分にとってはその行動が何を意味しているのか批判的思考を巡らせなくてはならないのに、大勢の人が共鳴する有様にその思考が働かなくなるのはこの「リンゴ事件」に限らない。

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オリンピックの聖火リレーは明らかに、大勢の人がオリンピック開催に共鳴することを目的とした政治的メッセージであり、開催機運への国民の雪だるま式取り込み(スノーボーリング)を期待している。

実際、その聖火リレーはその先頭をゆくデコ車共々「自分も同じ行動をとりたくなる心理」を利用し、あたかも感動や気持ちがあればオリンピックは成功裡に開催できるとばかりに国民の「同調行動」を促しているが、国民の多くは「同調行動」に陥っていない。多数の人々にとって良いことかのようにどんなに意義深げに聖火リレーを演出して見せても、コロナ禍にあって「私」にとっては良くないことかもしれないと、個々人が批判的思考を行っているからだ。

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(#チームコカコーラ)


時流に乗れ・勝ち馬に乗れ("Jumping on the bandwagon")とばかりに、リレーを先導するデコ車の上でウェイウェイと踊り狂い奇声を上げるものの、そのデコ車(バンドワゴン)の狂騒に国民は乗らず聖火リレーを冷めた目で見ている。

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ウエスト・ロング・ブランチにあるオールド・ファースト・メソジスト教会墓地に「聞いたことのない最も有名な男 the most famous man you've never heard of,」であるダン・ライス(Dan Rice)の謙虚な墓がある。アメリカで最初の道化師だった彼は、当時アメリカ大統領に立候補したザッカリー・テイラー(Zachary Taylor)の選挙活動を手伝いテイラーを12代アメリカ大統領にした。その選挙キャンペーンこそ、時流に乗れ・勝ち馬に乗れ("Jumping on the bandwagon")である。

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(Dan Rice)


ライスはかねてから大統領候補のザカリー・テイラーの友人であると主張していたが、彼の道化師としてのパフォーマンスを見たテイラーはダンを選挙運動に誘った。サーカス興行で使っている楽隊車(バンドワゴン)にテイラーを乗せてパレードしたライスが、"jump on the bandwagon "という言葉を生み出したと言われている。テイラーが当選した後、ライスは自分のことを「大統領の宮廷道化師」と呼ぶのが好きだった。

爾来、「時流に乗れ・勝ち馬に乗れ("Jumping on the bandwagon")」と叫びながら、賑々しく大通りを練り歩くことであたかも多数派を装えば「自分も同じ行動をとりたくなる心理」で我も我もと後を付き従い、結果、多数派となる同調行動を意味する言葉となり、また、アメリカの理論経済学者ハーヴェイ・ライベンシュタイン(Harvey Leibenstein)は、多くの人々が信じている、支持している、属している等の理由で、ある命題を真であると論証結論付けることを論理学上の誤謬の一種として「バンドワゴン効果」と呼んだ。

例:「ねえお父さん、スマートフォンを買ってよ、友達はみんな持ってるんだよ。」(みんな持っているから、私も買わなくてはならない)

誤謬:論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと。つまり、間違っていること。例示でいえば「私も買うべき」との論理はない。

その誤謬を前提とする認知バイアス(自分の思い込みや周囲の環境といった要因により、非合理的な判断をしてしまう心理現象)を惹起する政治手法は、ポピュリズムの政治と親和性が高い。つまり、特徴的なビジュアルや固定観念によってのみ判断する=ヒューリスティック(Heuristic)な「バンドワゴン効果」を群衆に期待する政治手法は、個々人の批判的思考や合理的判断といった長々としたプロセスをショートカットするのに最も効果的ということだ。時流や勝ち馬に立ち向かうことは、せいぜい不利であり、最悪の場合危険である可能性があることを心理的に知らしめることすらできる。

「私がある多数派を確信したとき、彼らはお互いに転がり落ちるようにして、バンドワゴンに乗った。“When I once became sure of one majority they tumbled over each other to get aboard the bandwagon”」(セオドア・ルーズベルト)

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聖火リレーには何故「バンドワゴン効果」が働かなかったのか?

聖火リレーがもし去年の今頃行われていればスノーボーリング効果で開催機運は多少なりとも高まり、結果としてオリンピックは開催されたかもしれない。しかし、開催が一年延期されたことによって、その間に個々人の批判的思考や合理的判断といったプロセスが可能となった。今更、聖火リレーとデコ車(バンドワゴン)を繰り出したところで国民の思考放棄は望めない。社会的シグナル(新型コロナウイルス感染拡大)に気付いてから最終決定(開催可否)までにしばらく時間がかかると、我々も批判的思考が可能になるということ。

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自民、公明両党は5日、憲法改正国民投票の利便性を高める国民投票法改正案について、立憲民主党から提示された修正要求を受け入れる方針を固めた。

国民投票法改正案は、2016年に改正された公職選挙法の内容を、憲法改正の手続きに関する国民投票にも適用するため、「共通投票所」の設置や「洋上投票」を可能にする、投票所に入ることができる子どもの範囲の拡大――等7項目を見直すものだが、国民投票法で定めるテレビCMのあり方に根本的な欠陥があるすなわち、テレビやネット広告の規制がなく、運動の資金量が国民の投票動向を左右する「バンドワゴン効果」を意図しているからだ。憲法改正に係る国民投票だけに、個々人の批判的思考や合理的判断といったプロセスを「時流に乗れ・勝ち馬に乗れ("Jumping on the bandwagon")」とばかりに囃し立てるテレビCMやネット広告によって、ショートカットしてはならない。

バンドワゴン効果の認知バイアス(自分の思い込みや周囲の環境といった要因により、非合理的な判断をしてしまう心理現象)=誤謬、を国民に期待し、憲法改正を発議する場所(機関)である憲法審査会を動かす「呼び水」にすることなど、本来あってはならないことだ。

CMやネット広告の資金を潤沢に調達できる自民党(政党交付金だけ見ても今年度だけで170億2100万円、加えて背後には政治献金団体の財界と最大の広告会社電通が存在する)にとって、喧々諤々の議論や論理ではなく、特徴的なビジュアルや固定観念に専ら依存する「同調行動」を群衆心理に期待するバンドワゴンはいくらでも繰り出すことができる。

”立憲民主党はCM規制について「施行後3年をめどに法制上の措置を講じる」ことを付則に加えるよう要求している。それで対応が十分に担保されるのか疑問だ。” (信濃毎日新聞社 2021年5月5日付記事引用)

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「リンゴ事件」では、事件の発生から3日後に「大阪の良識を取り戻そう・持ち帰ったリンゴの代金を支払うのも反省の証の一つです」と大阪新聞が紙面でキャンペーンを展開し、持ち去ったことを恥じた者などからいくばくかの金が行商人の元に返ってきた。

「施行後3年をめどに法制上の措置を講じる」が与野党(共産党除く)間の落とし所になりそうだが、3日ならぬ向こう3年の間に我々が批判的思考を巡らせることができなければ(国政選挙による政権交代)、自民党の思惑の通り「同調行動」を群衆心理に期待するバンドワゴンがテレビやネットに繰り出すことになる。

誤謬を国民が後になって気づき自らの不明(無思考)を恥じたところで、一旦改正された憲法は元には戻らない。「立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して非常措置をとる権限(白神弁護士)」を内閣総理大臣に集中させ、立憲主義に基づく統制(コントロール)およびその上で問われるべき政治家の責任を一切合切放棄する「緊急事態条項」が憲法に創設されれば、カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)を我々国民は取り出すことはできなくなる(拙稿「カギのかかった箱の中のカギ(憲法第21条)」)。

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ウェイウェイとがなり立てるデコ車まがいのテレビCMやネット広告が、結果として<立憲主義へのレッドカード><地獄の一丁目>と懸念されている「緊急事態条項」創設へのショートカットとなってはならない。

個々人の批判的思考や合理的判断といったプロセスが長かろうとも、政治はそのプロセスを尊重すべきである。命題に対する真は決して、道化師の発案したバンドワゴンキャンペーンからは導き出されない。

(おわり)

posted by ihagee at 09:56| 憲法

2021年05月03日

政治家の責任放棄=私権制限論



自由民主党「日本国憲法改正草案」の第98条に「緊急事態の宣言」第99条「緊急事態の宣言の効果」と題された条文(案)が存在する。所謂「緊急事態条項」である。その「緊急事態」の定義は「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態(法律に定めれば無限定))。「桜を見る会」で参加者枠の拡大解釈をもたらした「その他の法律で定める」との文言がここにも含まれており、 "狭義" どころか "無限定"な解釈をもたらす

”第九章緊急事態(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。”(自由民主党「日本国憲法改正草案」の第98条)

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自民党憲法改正草案の「緊急事態条項」は、戦前の緊急勅令の主体者(命令する者)を天皇から内閣総理大臣に置き換えるだけでなく、その戦前の緊急勅令よりも格段に権限を主体者に集中させる内容となっている。「その他の法律で定める緊急事態」とすることで、自然災害以外の事態にまで「緊急性」の範囲を広げられるなど、実質、政府に対して広範な権限を付与する全権委任(授権)法的性質を帯びているのが、この自民党憲法改正草案の「緊急事態条項」であると言える。自然災害以外の事態こそ、戦前の緊急勅令の目的であったことを忘れてはなるまい。法による統治を停止し全権を為政者に委任することが想定するのは戦争である。

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(弁護士・白神優理子氏執筆「憲法シリーズ@ 緊急事態条項でどうなる?」から引用)

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社会不安、社会危機を解消するため、個人の自由を大きく制限することがあると、国会の場で決定していくことが重要だ(吉村洋文・大阪府知事会見 / 2021年4月23日)」

” 吉村洋文・大阪府知事が新型コロナウイルスの感染拡大を抑制するために「個人の自由を制限する」法整備を求めるのに対し、泉房穂・明石市長は、こうした私権制限論に反対し「政治家の責任放棄だ」と批判しています。「自由か、安全か」の二者択一は古くから論議されてきましたが、新型コロナウイルスが国民に与える恐怖感は、ともすれば「安全」を重視するあまり「過度な自由制限」に傾く危険性をはらんでいます。” (ラジオ関西トピックス 2021年5月3日付記事引用 / 弁護士・藤本尚道氏)

" 「コントロールのない権力が、危機の常態化を理由として、内側から立憲主義をむしばんでいったり、立憲主義的な統制がやぶれていくということを過去の歴史上、繰り返してきた。緊急事態はたしかにあるが、すべての手段を正当化するわけではない。いかにして確実にコントロールできるのかが問題だ」(2016年5月2日付弁護士ドットコムニュース記事から引用 / 石川健治東京大学教授(憲法学))

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社会不安、社会危機を解消するため」。何を以って社会不安なのか社会危機なのか、それこそ法律に定めれば無限定になるその他の法律で定める緊急事態を含むからこそ、私権制限論から発する緊急事態条項創設(憲法)はその目的(「社会不安、社会危機を解消するため」)と手段が整合せず、その目的に隠された動機があると、我々は用心しなければならない(後述)。



吉村府知事の「個人の自由を大きく制限することがあると、国会の場で決定していくこと」は泉房穂・明石市長の言うように、府知事としての責任を放棄することに他ならない。

緊急事態条項は「立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止して非常措置をとる権限(白神弁護士)」を内閣総理大臣に集中させ、立憲主義に基づく統制(コントロール)およびその上で問われるべき政治家の責任を一切合切放棄することだからだ。

新型コロナウイルス感染拡大なる危機を常態化させたのは、第一に立憲主義に基づく統制(コントロール)の不全であり、その不全は責任逃れに終始し、積極的なスクリーニング検査や水際対策、ゲノム解析など、防疫上基本として当然すべきことをあれこれ理由をつけてしてこなかった政治の不作為(現行の法律の範囲内ですべき行為を積極的に行わない)に拠っている。

自らの不作為は棚に上げて、敢えて危機を常態化させ、私権が制限されないからこうなったのだ、と言う。「テロの脅威」「核兵器の脅威」などと、"外敵"と脅威を煽るだけ煽り、現行憲法は時代遅れ・邪魔だという空気を作り上げ、民主主義的な手続きを踏まずに集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈を行い、テロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)を成立させた「搦め手・裏口入学的な」安倍政権の手口をそのまま、菅政権・維新の会(吉村府知事)は踏襲しているのであろう。

「コロナの脅威」に対して「立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止」を釣り合わせようとするが(目的と手段)、その手段=「立憲的な憲法秩序(人権の保障と権力分立)を一時停止」にはコロナ要件以外の目的=その他の法律で定める緊急事態がぶら下がり、ゆえに、目的と手段が釣り合っていない。

「結局、本当の目的ではないからだ。災害対策は必要だが、目的と手段が整合していない。そこには、隠された動機があると考えるべきだ(石川健治東京大学教授)」

コロナ禍が終息しても、「隠された動機」に緊急事態条項は存在し続ける。

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”我が国は、新型コロナウィルスを封じ込めることができるか?我が国の憲法には緊急事態条項がなく、戒厳に近いこと(非常事態宣言)はできない。(中略)※ 誤解される方はいないと思うが、私が述べている戒厳は、「軍が三権を掌握する」という一般的な意味ではありません。自衛隊の指揮下に国家全体が入れという意味ではありません。狭義というか、いわゆる”行政戒厳”に近い。



改憲=緊急事態条項創設、ポチッと「いいね」でシェア?!
小坪しんやのHP〜行橋市議会議員 引用)

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「行政戒厳」は「行政国家化」、つまり、立法府である議会、司法府である裁判所に対して、行政府が相対的な優越性をもつ国家類型。立法国家、司法国家に対比して用いられる概念、に近い。「行政戒厳」は、権力の分立(三権分立と地方自治の双方で)の乏しさに由来している(「水戸黄門って先の中納言と先の副将軍とどっちなんですか?」。

司法国家であれば問われるべき「政治家の責任放棄」も、極度の行政国家ではもはや問われることはない。緊急事態条項は司法国家から行政国家への、すなわち、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという転回(革命)となる。

「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう。(小林節慶大名誉教授)」

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「わが国の現行憲法は、かつての行政裁判所制度を廃止し、行政訴訟事件も通常の司法裁判所に係属することとしたので、戦後日本は、法律学的意味においては、行政国家から司法国家に転換したといえる。しかし、政治学的意味における行政国家化の現象も顕著である。(三橋良士明氏)」

「極度に中央集権的であり、権力の分立も(三権分立と地方自治の双方で)乏しい。このため行政国家化する傾向が強い(非自由主義的民主主義)」

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今日は憲法記念日。コロナ禍に乗じて「国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう」私権制限論(緊急事態条項)が急速に頭をもたげ始めている。「政治家の責任放棄」の裏返しでもある。改憲=緊急事態条項創設、ポチッと「いいね」でシェア?!などしてはダメだ。

憲法すらまともに読んだことがない政治家(安倍前首相・菅首相)、憲法を尊重遵守しようとしない弁護士(吉村府知事)などが、憲法を解釈したり改正したりすることの恐ろしさを我々は認識しなければいけない。そんな政治家を推しそれでも良いとする人たちも同様に無教養の誹りを受けなければならない。

(おわり)



posted by ihagee at 06:18| 憲法

2021年04月29日

緊急事態条項への危険な試金石



まことに十二月八日、この日をかぎりとして、
「どうなるのか、どうするのか」が、ふきとんでしまひました。われわれの思考の中から、疑問符は最早全く消えてしまひました。今はただ、一切の人間思案をすてて、神命のままに、最後まで戦ひぬくことただ一つとなったのであります。(中略)神の御命なるがゆゑに、これを畏んだわれわれの態度は絶對信順であります。挺身奉公であります。これがもし人間の命令ならば、どうしても人間對等のことでありますから、なかなか、さうはまゐりません。今更、事新しく言ふまでもないことながら、わが國が世界のどこの國と戰つても、かならず勝つといふことは、その根本に、
「大日本は神國なり」
といふ事實が儼然として存在することを、何よりも先づ銘記すべきであります。
(「必勝日本」 中山爲信著・出版者: 天理時報社; 昭和17)

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「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く(神道政治連盟国会議員懇談会・森喜朗元首相発言)」

『「神の国」という表現については、特定の宗教について述べたものではなく、地域社会においてはその土地土地の山や川や海などの自然の中に人間を超えるものを見るという考えがあったとの趣旨で述べたものである。したがって、御指摘の森内閣総理大臣の発言の内容は、憲法の定める国民主権の原理と矛盾するものではない。(衆議院議員保坂展人君提出「神の国」発言と森内閣に関する質問に対する答弁書・2000年5月26日受領答弁第三一号)』

「新型コロナウイルスがどうであろうと、必ずやり抜く(自民党本部で開かれた党スポーツ立国調査会などの合同会議・森喜朗組織委会長(当時)/ 2021年2月2日)」

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1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍が米国ハワイ州オアフ島の真珠湾攻撃で戦い(太平洋戦争)の火蓋が切られた。その日を境として「われわれの思考の中から、疑問符は最早全く消え」「神の御命なるがゆゑに、これを畏んだわれわれの態度は絶對信順であります。挺身奉公」が始まったと「必勝日本」は記す。

2021年7月23日、2020東京オリンピック・パラリンピック競技大会が開催されれば、その日を境として「われわれの思考の中から、疑問符は最早全く消え」「神の御命なるがゆゑに、これを畏んだわれわれの態度は絶對信順であります。挺身奉公」が始まるのであろうか?憲法の定める国民主権の原理よりも、「人間を超えるもの」(=神命)に我々は畏むことになるのか。森氏の口癖たる「承知して戴く・わきまえて戴く・わきまえておられる」なる、原理(憲法)よりも道理(神の国)を心得よと、国民に忖度を促すことになるのか。

さすがにそう言ったカビの生えた復古主義(精神論)に与する程、我々も愚かではあるまい。そもそも、その精神論の単位となる家族が新自由主義経済下では崩壊している。いくら家族主義の美風を説こうが他方「自助」を要求するような現実社会で「家族の互助」など望むべくもないからだ。

そんな精神論よりも、むしろ、2021年7月23日が開催になろうと開催中止となろうと「コロナ制圧」をお為ごかしに国民主権に制約を加えようとする動きに「それも仕方ない」と我々が同調するか否かが、試されようとしている

つまり「緊急事態宣言を行ったところで、私権に制約を加えることができず実効性が上がらなかったわけです。今の憲法が悪いのです。」と、国会での緊急事態条項創設の議論に拍車がかかるのではないかと懸念する。

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「どうなるのか、どうするのか」の声が渦巻く今。「どうなるのか、どうするのか」さえ国民にメッセージを出せない菅政権の無為無策ぶりをむしろ逆手に取り、その声に応えるかにコロナ制圧をお為ごかしに緊急事態条項を含む憲法改正を虎視眈々と狙っているのは安倍晋三前首相であろう。「内閣独裁条項(緊急事態条項)」さえ手に入れれば再び首相の座に返り咲くのも夢ではないと本人は思っているに相違ない。「雨降って地固まる」の喩えではないが、「どうなるのか、どうするのか」という声が、オリンピック開催・コロナ感染拡大なる雨降りから強権発動の基盤を望む声に転じることがないよう願うばかりである。なぜなら、その条項はコロナに対してではなく国民主権に対して発動されコロナ要件がなくなろうとそれはずっと続くからだ(オリンピック開催の為に必要とされた「テロ等組織犯罪準備罪(共謀罪)」と同じ)。

新型コロナウィルスは恐ろしいほどに差別をしない。差別をするのは人間だ。(ハーバー・ビジネス・オンライン 2020年4月13日付記事から引用)」、ゆえに差別し合う人間の性(さが)を今こそ利用してやろうと考えているに違いない「こんな人たち」と国民に指を突き立てた安倍氏を忘れてはならない。

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火事場泥棒(IOCファミリー)にばかり目が行きがちだが、説教泥棒・憲法泥棒からも決して目を離してはならないということだ。

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「緊急事態に国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えていくべきか。そのことを憲法にどのように位置付けるかは、極めて重く大切な課題だ」と指摘。国会で緊急事態条項創設の是非を議論するよう求めた。(安倍晋三首相(当時)・憲法改正推進派の民間団体のオンライン集会発言/2020年5月2日付時事通信報)

「自民党の衛藤征士郎・憲法改正推進本部長は20日にあった同本部の会合で、同本部最高顧問に安倍晋三・前首相が就任したと明らかにした。衛藤氏が安倍氏と直接会って就任を要請し、安倍氏は「喜んで」と快諾したという。(朝日新聞デジタル・2021年4月20日付記事引用)

今年の5月3日(憲法記念日)に憲法改正推進本部最高顧問である安倍氏が何を発言するのだろうか?「どうなるのか、どうするのか」という我々の声はだからと言って、緊急事態条項創設の動機付けに利用されてはならない。(憲法)泥棒がせっせと縄を綯う前に、我々主権者たる国民は選挙を以ってそのような泥棒に(現行)憲法の縄をかけるしかない。「みっともない憲法」(安倍氏)などと憲法を悪しざまに云い、「私がそう思えば法」とばかりに法秩序の連続性を断ち切るような政治解釈を平然と行う嘘と泥棒ばかりの自公政権はもううんざりだ。

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(おわり)

posted by ihagee at 06:17| 憲法