2022年10月02日

国葬儀は安倍氏を英霊として靖国に合祀する儀式なのか?



安倍氏の国葬で自衛隊の音楽隊が演奏した曲の名を見て戦慄を覚えた。黙祷の際に演奏された曲は「國の鎮め」。明治時代に作られた軍歌で、その歌詞はこうだ。「國の鎮めの御社と斎き祀らふ神霊今日の祭りの賑ひを天翔けりても御覧せ治まる御世を護りませ」。御社とは靖国神社や護国神社のこと。これは明らかに国家神道の歌だ。国の機関が行う行事でこのような曲を演奏することは憲法20条3項の政教分離原則に違反している。<東京新聞日曜版(2022年10月2日付)「本音のコラム(前川喜平氏)」から引用>


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我々が知る神社とは天照大神を祀る神社である(神明神社)。教典や具体的な教えも開祖もない八百万の神(やおよろず)に対する日本人の古くからの心情の社でもある。八百万の神とは山の神様、田んぼの神様、などと何か絶対的(らしき)ものに対して畏怖し畏敬すること。しかし、その畏怖畏敬も裏返せば木こりやお百姓の暮らし(利益)のためであって、至極現世利益・ご都合主義的なもの。事実、神主が地鎮祭をするのも、その土地を神に捧げるためではなく、その土地で人間が無事利益を受けられることを願うためのもので、原発にすら神棚を作ることになる。極めて手前勝手でいい加減な神らしきものへの信仰である(仏教はこの点で異なる)。そんなご都合主義的な八百万の神がいつしか神道となり神社となり、戦争に天照は不要と代りに軍人を神と崇める靖国となった。

(戦前の)旧憲法のもとでは、政府は神社を国家の祭祀であるとし、神職には他の宗教と異なる特権的地位を認めた。すなわち、神社神道はもっぱら祭祀を行うものであり、また国民倫理ないし道徳であるから宗教ではないとする建前を取り、他のいかなる宗教を信じていても神社を尊崇、表敬することが国民の義務であるとしていた。こうして神社神道は国教的地位を保持し、国家神道は、いわゆる軍国主義の精神的基礎ともなった。(・・・)靖国神社の歴史と実態をみると、同神社は、もともと招魂社と称し、のちに「靖国神社」と改称し、別格官幣社とされ、戦後、政府の所管を離れたが、幕末、明治維新以降の戦争の戦没者等を「みたま」を「靖国」の神として祀っている「宗教施設」である。旧憲法のもとで、靖国神社は国難に殉じた戦没者のうち国家によって選ばれたものを「英霊」として合祀した宗教的施設であると同時に、陸海軍省の管轄におかれ軍隊の士気を鼓舞する軍事的色彩の濃い施設であり、国民はその宗教・思想・信条にかかわらずその参拝を事実上強制されたのである。(「靖国神社問題に関する基本的見解」社団法人 自由人権協会から抜粋)


カルト(仏: secte、英: cult)は、元来は「儀礼・祭祀」の意味を表す、批判的なニュアンスを持たない宗教用語であったが、現在では反社会的な集団や組織を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し、信仰を利用して犯罪行為をするような反社会的な集団や組織を指して使用される。(wikipedia 「カルト」より)


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前川氏は「國の鎮め」に政教分離原則違反を、また、その「國」に戦前の國體思想を見ている。その見解は歴史に照らすと実に正しい。

「國の鎮め」は靖国神社参拝等に用いる軍歌である。その靖国に國體思想は象徴・具現化されている。その軍歌を敢えて国葬儀の黙祷に使ったとは、安倍氏を国難に殉じた者のうち国家によって選ばれた「英霊・祭神」として靖国に合祀したということか?

国の行事(国葬儀)としたことは、黙祷を要求しようとしまいと国民を傅(かしず)かせたことに他ならない。国民の承知・不承知にかかわりなく、その国民を國體(絶対的なもの)の前に傅せることこそが、安倍氏への最上の褒辞と国葬儀を強行した岸田内閣および自由民主党または背後の思想結社(日本会議・神道政治連盟)が内心考えていたとしても不思議ではない。

「令」という字は会意として「人がひざまずいて神意を聞く事を意味し」、そこから「命ずる・いいつける」を意味するようになった。法ではなく人に遵う「令和」を天皇に奏上したのは安倍首相(当時)だった(拙稿:なぜ元号なのか?)。


この原始的「神国」説が今も政治教義として息づいていることは「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」<森喜朗元首相の神の国発言>からも明らかであり、その神道政治連盟国会議員懇談会は「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と謳い、自民党を中心に国会議員283名が参加し、その一人が安倍晋三氏である。(拙稿:安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの


その國體思想・国家神道は国民主権を基調とする戦後憲法とは真っ向から対立する戦前の臣民思想である。

今回、合祀を奏請されます祭神は、約二万柱でありまして、いずれも満洲事変、支那事変において、赫々(かくかく)たる武勲を立て、御国に殉ぜられた方々であります。大祭参列のため、上京せられるる、これら祭神のご遺族は約四万人に達し、今までにない多数に上るのでありまして、しかも、その大部分は童幼(どうよう)婦女子であります。時局がら交通その他各方面で、一般の方々の不自由は、重々承知いたしておるところでありますが、これらご遺族の心情を察せられまして、在京間は申すに及ばず、旅行中も皆様のご協力、ご援助により、何かとご便宜をはかられまして、滞りなく、参拝を終えることが、できますことをお願いいたします。」(靖国神社 臨時大祭近し 東京【148-02】【昭和18(1943)/04/上旬】【♪陸軍ラッパ国の鎮め】


全く同様に「國の鎮め」と共に安倍元首相も同じく祭神として靖国に合祀されたことになるのか?

何が反社会勢力なのか、反社会団体なのか、まず定義がほしい。それに該当する団体や企業はどことどこなのか国会議員や地方議員、国民のみなさまにも周知してほしい。そういうことをやらないと、根本的な解決にならないというのが正直な私の率直な意見だ。(旧統一教会と)関連団体や、やっている行事が全部悪だと言うならば、根拠をきっちりと明らかにしないと。一方、高いものを売りつけられたり、自分の所得でとても払えないような寄付を要求されたり、ここには歯止めをかけないといけない。他の宗教団体も含めて。(高市早苗・経済安保担当相(発言録)/ 2022年9月29日付朝日新聞 DIGITAL記事から引用)


少なくとも今はっきり言えることは、違憲であり国民の大半が国事としての挙行に反対し議会制民主主義の然るべき手続や承認を得ずして内閣府の決定のみで強行された安倍国葬儀に「反社会」がはっきりと現れているということだ。

憲法によって決別した筈の國體思想(臣民思想)・国家神道の復活を目論む者こそ、「憲法に縛られない」とか「憲法という新興宗教」などと普段から言っている反社会勢力・団体である。高市議員のみならず、岸田政権・自由民主党に「あなたたちのことだ!」と国民ははっきり示さなくてはならない。

因みに「(国家)神道」はカルトとして海外では紹介されることが多い(”Shinto Cult”)。そのカルトぶりを安倍国葬儀で自演しておきながら、それは誰でしょう?などと言い放つ。さすがカルト教団と極めて親和性が高い政党だけのことはある。

(おわり)

追記:
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

菅義偉元首相が弔辞で引用した山縣有朋の歌である。
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安倍晋三元首相はその山縣を信奉していた。山縣の以下の政治思想は安倍政治にそのまま体現されていたと言って良いだろう。

@ 超然主義(内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという立場)⇨国会に諮らず閣議決定で決める。
A 憲法に縛られない(「議会が八釜しく言ふなら憲法を中止しても遣らねばならぬ」)⇨大権よる憲法停止(緊急事態条項創設を含む憲法改正)、行政府の長が改憲発議の権限を持つかの発言
B 官僚支配(官吏任用制度)⇨内閣人事局を用いた官邸による幹部人事権支配
C 政党内閣制否定(天皇統治という國體の建前堅持し、政治の当事者としての能力を失うよう政党を腰の立たないほど叩きつけようとした)⇨行政府の長たる安倍首相が、立法府の議員の質問を「意味のない質問」と一蹴、「悪夢の民主党」等々、誹毀。
D 國體思想(國體ノ精華とその象徴たる靖国神社)⇨「國體」を「(戦前回帰の)国柄」と言い換え、「共謀罪」関連法案成立(国家権力強化)、天賦人権に基づく規定の全面的見直し(自民党の日本国憲法改正草案)、教育勅語の復権(拙稿:我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について))等々。
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司馬遼太郎は『坂の上の雲』や『花神』などの作品で山縣を「模倣者、金銭欲の権化」「はらわたの巻き方の複雑な男」「国家的規模の迷信家」と評した。
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菅義偉元首相がそんな山縣の詠嘆調の時代錯誤な歌を安倍に捧げたのもある意味当を得ているとも言える。菅元首相の弔辞に感動したと言う人にある意味私は感動する。
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九段・靖国・山縣・「國の鎮め」と復古主義の不気味な空気が充満した安倍国葬儀であった。その先、その通りのカルトな「国柄」にならぬことを望むばかりである。また、今の憲法はそのような国柄に殉じたあまたの「戦死者の遺言」であることを我々は重々心して、「人を悼むこと」と「国に傅(かしず)くこと」の区別はつけるべきである。






posted by ihagee at 15:15| 憲法

2022年09月28日

これ以上国民の分断に手を貸してはならない



安倍国葬儀強行は国民の分断というけれど、行列をなして菊の花を手向ける人々こそ分断を促すひとたち。

憲法の下にこそ国民の統合はあるのに、その憲法を生前散々悪様にした者のためのそのまた違憲の儀礼に恭しく首を垂れるひとたち。

人を悼む気持ちとあなたたちは口を揃えるが、その気持ちの在処を法で示そうとしない儀礼になぜ出向くのだろうか。

国の政治を行う大もとの力は国民全体にあると憲法が謳っていることを、あなたたち一人一人は忘れ、その力を憲法に縛られないという人々に貸そうとしている。

日本をよい国にし、私たちの生活を明るくするためには、何よりもわれわれ国民一人一人が、憲法はあるなりにそれを尊重しなければならない。

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「1946年11月3日 曇
新憲法の発布日である。家々の軒先に日章旗が掲げてあるのが珍しく思われる。何年ぶりかだと云う気がする。
何処となく生気が満ちて来たとも云う感じだ。食糧事情も大いに影響しているのであろうが。三時半の汽車で芦屋へ帰る。父より半紙の初取引の端書が来た。こっちは何とか頑張りますからご安心下さいとある。一寸悲しい。来年は六十と云う。あの八・一五が無ければ自動車で往復していた重役さんであるのに。あれ程行きたいと思っていた学校も亦考え直して見た。(父の日誌)」


<日本は戦力を放棄する。もう二度と戦争をしない、と書かれている。なぜこんなにやさしい言葉で、一人一人の人間に愛情を注げる憲法が生まれたのか。感動したというより、未知のものを見た驚きがありました。兵学校の2、3期上は戦地に赴き、無残に死んでいった。この憲法は、戦争で死んだ人たちの遺言に思えたのです>(2018年8月14日付毎日新聞夕刊/俳優の鈴木瑞穂氏)


『戦争は兵隊の目で見る。将校ではない。政治は国民の目で見る。この信条はすべて戦争体験に根ざしているんだね。』終戦から9ヶ月後、復員する船中で、新憲法の草案を新聞で読んだ。仲間と抱き合って泣いた。「二度と戦争をしないことを宣言した世界で唯一の憲法だ。」生涯の「原点」を戦争体験の中で身に刻んだのだ。(日本経団連の元専務理事 品川正治氏)


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父も含め、その「原点」を「戦争体験の中で身に刻んだ」人々はこの世を去った。その人々に代わって、それを知らない人々がまた愚かにもあの階段を登り始めている。

立憲主義的な統制が破れていくことに手を貸し歩みを進めている。その破れ、国民の分断こそ、立憲主義へのレッドカード、<地獄の一丁目>と懸念されている「緊急事態条項」を招き入れることだ。

(おわり)





posted by ihagee at 02:16| 憲法

2022年09月27日

あなたたち一人一人が憲法を壊している


紀尾井町から九段までびっしりと人の行列。誰もが白菊を抱えている。いうまでもなく、安倍国葬儀に花を手向けようとする人々である。

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(あなたたち一人一人の情動が憲法を壊している。)


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人の死を悼む気持ちは理解する。また、国葬(儀)に値する人か否かは横に置いて、憲法に明確に違反し議会制民主主義の手続を踏まない儀式を良しとするは全く別のことである

国葬(儀)であるのなら、法によって人々の感情の声を聞くべきである。ところが、現実は情動によって法が全く蔑ろにされている。

情動の積み重ねが、法治主義よりも人治主義に過度に傾斜した政権(安倍)を支え、「憲法に縛られることはない・私がそう解釈すれば法律である」とその者に言わせることになる。

♪ 誰も知らない 心のささやきを
花びらに添えて あなたに贈りましょう

安倍晋三氏にではなく、
その長期7年政権の間に無惨に傷だらけになった憲法に自省を込めて。

拙稿:
そもそも「百万本のバラ」なのか?
憲法という新興宗教(稲田朋美衆議院議員・自民)

(おわり)

posted by ihagee at 17:37| 憲法