2017年05月11日

"「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです" はやめたほうがいい



「日本のエリートがこっそり読んでいる秘伝のメルマガ(北野幸伯)」とやらを「エリート」になった気分で「こっそり」読んだ。以下がその「秘伝」の一部である。

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この9条1項について、日本人が知っておいた方がいい事実があります。まず、「戦争放棄」「平和主義」は、「世界唯一ではない」。

日本には、「世界で唯一の平和憲法」と主張する人がたくさんいます。それで、憲法9条を、「世界遺産に!」とか、「ノーベル平和賞に!」などという人までいる。

しかし、実をいうと、「平和主義憲法」は、「特殊なこと」ではありません。憲法学者・西修先生の調査によると、何らかの「平和主義条項」が憲法にある国は、124か国(1989年時点)。日本と同じように「国際紛争解決の手段としての戦争を放棄する」としている国々は、アゼルバイジャン、エクアドル、ハンガリー、イタリア、ウズベキスタン、カザフスタン、フィリピンの7か国。というわけで、日本国民も政治家の皆さんも、「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです。

(引用終わり)

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参照していると思われる「西修先生の調査」も読んでみた。う〜ん。

いやいや、わが国の「平和主義憲法」はされど「特殊なこと」である。なぜなら、例示の国々は「軍隊」を擁し「国際紛争解決の手段として」武力を選択し「平和主義条項」があろうが実質的に建前・形骸化しているが、わが国は未だそうでないからだ。北野氏のように「特殊なことでない」と喧伝する人々は「知っていてはよくない事実」すなわち「あっても建前・形骸化している」という事実を書かないだけ。それを隠して「ほら、あるじゃないかどこにも」なるうわべの論に我々は騙されてはならない。

アゼルバイジャンはアルメニアとナゴルノ・カラバフ戦争(昨年も市民を巻き込んだ銃撃戦があった)、エクアドル「軍」はコロンビアとの間で「軍事衝突の危機」を招き(2008年の「アンデス危機」)、ハンガリーとイタリアは湾岸戦争時、多国籍軍にそれぞれ「軍隊」を「派兵」し参戦している。ウズベキスタンは「軍隊」を保有しロシアとの間の相互防衛条約の下「軍事協力(ロシアと反テロ共同軍事演習など)」を行い、キルギス、アフガニスタンなどと国境付近で軍事衝突の危機を招いている。カザフスタンは中央アジアで唯一イラク戦争に「軍隊」を「派兵」し、米国主導のテロ報復軍事作戦に参加表明をするなど国外での「軍事協力」の姿勢を示している。フィリピンは「戦争以外の軍事作戦Military Operations Other Than War(MOOTW)」に「軍隊」を「派兵」しておりその活動の幅に特に制限を設けていない。わが国も自衛隊をMOOTWに「派遣」しているが、「軍隊」としての活動、たとえば「訓練業務」へは「軍隊」と憲法で定義されない自衛隊は参加していないといった活動の制限がある。即ち、フィリピンは「平和主義条項」が憲法にあっても「軍隊」としての活動は許されるが、日本は許されないという明確な違いがある。

すなわち、憲法に「平和主義条項」があろうが日本以外のこれら7か国は、軍隊を擁し軍隊としての活動を行っており、「国際紛争を解決する手段として」「武力による威嚇又は武力の行使」を「放棄」せず、「戦力」を保持し「交戦権」を認めている。憲法に「平和主義条項」があろうが実質的に建前・形骸化しているのである。

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国際社会でなぜわが国の憲法第9条が「平和主義憲法」の典型として常に挙げられるかは、その法律の実効性を形骸化させることなく、世界で唯一頑なに守っている(堅持している)からに他ならない。「平和主義憲法」を改憲派は「金科玉条の如く扱うべきでない」と言うが、裏返せば「人が絶対的なよりどころとして守るべき規則や法律」として憲法第9条があり続けてきたことを改憲派は自ら認めているのである。したがって、憲法に「平和主義条項」があっても金科玉条になっていない=形骸化・建前だけになっている(立憲主義にない)国々を引き合いに出して「ほら、あるじゃないかどこにも」と言うこと自体が矛盾しているのである。同じ土俵に日本国憲法第9条はないからである。

憲法に「平和主義条項」があっても「金科玉条」をやめた7か国は国際社会において「平和主義」の引き合いに出されないわけであり、ゆえに我々がそれらの国の「平和主義条項」の存在を知らないのも当然である。

『日本国民も政治家の皆さんも、「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです』こそ、「平和主義憲法などは形骸化・建前であって良い」と憲法を政治的に相対化し貶めることに他ならない。「みっともない憲法」なる言い方(安倍首相)も同じ相対化の上の貶めであり、最高法規たる憲法に縛られるべき国家の立憲主義を危うくすることであり、「集団的自衛権の行使容認」という憲法の政治解釈(「憲法に縛られるべきでない」(安倍首相))」なる縛られるべき国家の暴走となっている。

「あまりに粗末にされ、軽んじられている憲法がかわいそうで仕方ない(小林節慶応大学名誉教授)」の言葉にあるように、「ほら、あるじゃないかどこにも」と安易な比較をして軽んじてはならない。したがって、その程度の比較しか示していない北野氏の『日本国民も政治家の皆さんも、「日本国憲法自慢」はやめた方がいいです』こそ、やめた方がよい。わが国が戦争なる武力を手段とする国際紛争への解決をしなかった歴史的事実は憲法第9条の存在を除いては説明し難いことであり、憲法第9条の金科玉条(我々の先輩が粗末にせず軽んじてこなかったこと)こそ、大いに自慢すべきことである。それを「誇るほどのものではない」と貶めるだけ貶めて、「政治解釈できる」だの「みっともないから改憲すべき」だの言うのは裏口入学的卑怯と言うものである。

金科玉条ぶり(立憲主義)を「自慢すべきこと」と先ずは認めた上で、それでも尚改憲すべきか否かを論じるべきだろう。少なくとも真っ当な改憲論者ならそう言う筈だ。卑怯はいけない。

(おわり)

posted by ihagee at 18:45| 憲法

2017年05月09日

「'ヒト'という'種'の一員として」の戦争放棄(憲法第9条)



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(アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)・バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞))

戦場の実相というものを経験していない世代が大半となった。その経験していない世代が政治を主導し、日本国憲法第9条により行使できないとのこれまでの政府解釈を「集団的自衛権を限定的に行使できる」と変更した(2014年7月1日閣議決定での憲法解釈の変更)。

「紛争中の外国から避難する邦人を乗せた米輸送艦を自衛隊が守れるようにする(安倍内閣総理大臣)」「(原油輸送ルートの)中東ペルシア湾のホルムズ海峡で機雷除去(菅官房長官)」等々、内閣官房から種々解釈変更の動機付けが行われたことは記憶に新しい。

そして昨今の北朝鮮情勢についても脅威が増大したとし、安全保障関連法に基づき海上自衛隊のヘリコプター搭載型の護衛艦「いずも」によるアメリカ軍の補給艦防護(米艦防護)任務を開始している。

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現政権の想定する脅威とは、安倍総理自ら隣家の火事の喩え話で説明を済ませるような局地的且つ鎮定することが可能な次元に留まっている。

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つまり、紛争・戦争とは「局地的」なものという前時代的固定観念のままであり、勝者/敗者・善悪の二元論や核兵器によるパワーバランスといった均衡論も米ソ冷戦時代以来の古びた相対観念であり、現政権の唱える脅威は常にその範疇に都合よく収まっている。

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1955年の<ラッセル=アインシュタイン宣言>で予見されていた脅威、即ち、「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」こそ、現在の脅威の実相ではないだろうか。核ミサイルのボタンが一度押されてしまえば、核の報復を止めるだけの確信の一つも政治家は持ち合わせていないのである。

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核ミサイルが飛び交う戦場がコントロール可能である筈がない。原発が標的にされれば「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」はより現実のものとなる。

同宣言では「きびしく、恐ろしく、そして避けることのできない問題がある −即ち、私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか? −戦争を廃絶することはあまりにも困難であるという理由で、人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。」とある。つまり、我々に突きつけられている究極の命題はアインシュタインの時代から「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」の二者択一であり、その「人類に絶滅をもたらす」「最悪の結果」は現実となりつつある。

戦争を始めたら最後、勝者も敗者も存在せずただ人類という種がその他の地球上の生態系全てを道連れにして絶滅するという「戦争なる脅威」を我々は認識しなくてはならないだろう(戦争で標的となる「原発なる内なる脅威」も同様)。「戦争で戦う」(参戦)ではなく「戦争に戦う」(不戦)という認識がなければならない。

<ラッセル=アインシュタイン宣言>では「人類が戦争を放棄する」選択肢を挙げている。「特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、即ち、'ヒト'という'種'の一員として」戦争を放棄するという意味である。換言すれば、「特定の国民や大陸や信条の一員」の立場でいる限り戦争は放棄できないということだろう。安倍晋三氏を含め政治家というものは悲しいかな「特定の国民や大陸や信条の一員」でしかない。

憲法第9条に掲げる平和主義を絵空事の理念と笑ったり嘲る人がいるが、「'ヒト'という'種'の一員として」戦争放棄(戦力不保持・交戦権否認)を選択したものと理解すれば、1955年の<ラッセル=アインシュタイン宣言>の命題への「面と向かった」答えではなかろうか。すなわち、1947年に幣原喜重郎が発案し(1928年のケロッグ・ブリリアント協定(不戦条約)が下敷きかもしれないが、米国側からの発案・起案という説(「みっともない」と改憲派が唱える根拠)は否定されている)<ラッセル=アインシュタイン宣言>で命題化される以前に戦争放棄を選択していたとは、驚くべき先見であり誇るべきことである。幣原喜重郎という人が一人の政治家つまり「特定の国民や大陸や信条の一員」という狭量な立場から脱却し、「'ヒト'という'種'の一員として」として人類の存続への責任を憲法第9条で明確にしたと私は考える。それが戦場の実相を肌身で知った者の開明であると信じる(拙稿「憲法記念日・素晴らしい狂人」)。

戦争をするよりも、しないと誓うことがどれだけ重い責任を果たすことであるか、我々はしっかり認識しなくてはならないその重責を世界で唯一憲法第9条にて課されている我々は「'ヒト'という'種'の一員として」大いに誇りとすべきである。もし、サルやクジラといったヒト以外の種目が我々と言葉を交わせたら、彼らにとっての種の存続からも憲法第9条の戦争放棄は当然だと言うことだろう。

ところが、<ラッセル=アインシュタイン宣言>で示された選択肢、「私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?」の二者択一の前者に加担する方向で安倍政権は憲法を政治解釈し且つ改憲を目論んでいる。憲法に縛られるべき立場を逆転し憲法を縛りにかかり憲法第9条を形骸化しようとしている。

「'ヒト'という'種'の一員として」の責任にまで立ち返れば、「人類に絶滅をもたらす戦争」を放棄すると誓う憲法第9条こそが、戦争を防ぐ唯一の砦であることが判ろうものだ。政治的イデオロギーや宗教・民族といった立場では「テロとの戦い」といった善悪や勝者・敗者の構図に捉われたままで戦争放棄を選択できないだろうが、「'ヒト'という'種'の一員として」「人類に絶滅をもたらす戦争」と大局的に捉えれば、戦争放棄に反論する理由はなくなる。その大局的見地からすれば戦争とは取り返しのつかない生態系破壊でしかなく、政治的イデオロギーや宗教・民族は文明もろとも失われ、勝者を想定した戦争の大義すら意味を為さない。石原慎太郎氏は「座して死を待つ敗北主義」と憲法第9条の戦争放棄を激しく非難し交戦権を主張したが、そんな「敗北は受け入れない」とする戦争の大義すら「人類に絶滅をもたらす戦争」にあっては当然ながら無意味である。

アインシュタインは「第三次世界大戦でどのような兵器が使われるのか私は知らない。だが、第四次世界大戦は石と棍棒によって戦われるだろう。」という言葉を残し、次に世界大戦が起きれば文明の崩壊は免れ得ないと警鐘を鳴らしている。戦争を前提とした武装・武力行使そして改憲こそ文明の崩壊に手を貸すことに他ならない。「'ヒト'という'種'」は幸いにして互いに言葉を交わし対話する能力が備わっているのだから、その能力を担保し最大限発揮することこそ本来の政治であり外交であり、その能力が著しく劣化して良い筈がない

人と人が対話し交渉し調整する能力が、残念ながらわが国では著しく劣化しつつある。一部のメディアが煽動する嫌韓・嫌中意識に乗じ「日本国って素晴らしい・日本人は優秀だ」といった自画自賛・夜郎自大を繰り返すうち、他者との相対ではなく自らを冷静に分析する能力が衰え、「'ヒト'という'種'」という大局に拠った考え方すらできなくなりつつある。その劣化の象徴が安倍政権であろう

(おわり)


posted by ihagee at 19:00| 憲法

2017年05月03日

<家族主義の美風と大政翼賛>(自民党憲法改正草案第24条第1項)





5月3日は憲法記念日。
『共同通信社は29日、憲法施行70年を前に郵送方式で実施した世論調査の結果をまとめた。日本が戦後、海外で武力行使しなかった理由について、戦争放棄や戦力の不保持を定めた「憲法9条があったからだ」とする回答は75%に上った。9条の存在とは「関係ない」は23%だった。9条改正を巡っては必要49%、必要ない47%で拮抗した。安倍晋三首相の下での改憲に51%が反対し、賛成は45%だった。(中略)家族の互助を憲法上の義務として盛り込むことには81%が「必要ない」とした。(東京新聞電子版2017年4月30日) 』

憲法改正是非について世論は拮抗しつつも(設問の内容が不明だが)、現行憲法第9条の歴史的役割について肯定的に評価する声は圧倒的に多いようだ。70年間、わが国が海外で武力行使をしなかったという事実は、憲法第9条を除いて説明することは不可能だろう。

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大多数が「必要ない」と回答した「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」については、神戸新聞NEXT(2017年4月30日)が『憲法で「家族」規定必要?自民草案に疑問の声』という記事を掲載している。「家族」「互助」「義務」を憲法に盛り込むことについて、「なぜ?」といった唐突感が一般的な受け止めかもしれない。「必要でない」理由は何かとはっきりとは言えないが何となく嫌な感じがするという程度の「なぜ?」なのだろう。その程度の認識でいると、家族主義が<美風>であるとイメージ操作されると我々は途端に受け入れてしまう危険性がある。これは「共謀罪」では拒否反応を示しても、「テロ等準備罪」と枕詞があれば簡単に納得してしまう民意の低さ・脆弱さと同じことで、我々はもっと真剣に賢くなければならないと思う。

「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」については、「家族や地域に責任が投げ返されている。『自助』を強調する流れは既に始まっており、24条改憲草案と軌を一にしている」といった意見のように国は社会保障の責任を家族に押し付けようとしているという解釈や、「家族が助け合うというのは、個人的には私も賛成でございます。しかしそれは道徳であって、道徳を憲法の中に持ち込むべきではないと思います(2013年6月13日衆院憲法審査会での河野太郎衆院議員発言)」といった解釈があるが、

私は以下に記すようにそれらとは異なった見方をしている

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自民党が2012年にまとめた憲法改正草案の第24条に家族の互助を義務とする内容の第1項が新設されている。

その第1項は、
“家族は社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない”

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家族の互助を憲法上の義務として盛り込むことについては、同じく草案の第13条に盛り込まれている「個人」の否定(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)と合わせて考える必要がある。なぜなら現行憲法の理念の核心は「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え(小林節慶大名誉教授)」であり、その考えが凝縮されている憲法第13条を見直し且つ家族の互助を憲法上の義務として盛り込むのが改正草案だからである。

個人として尊重される(現行憲法第13条)」を「人として尊重される(改正草案第13条)」と改めることによって、国民は「絶対的に尊重される」から国家との関係で「相対的に尊重される」とする。これは現行憲法の理念の核心の否定であるばかりでなく、「家族」を国家(「社会」に擬制している)と相対して存在する単位とし、その単位の互助(家族の構成員同士の互助だけでなく、異なる家族同士の互助も含むとも解釈される=後述)を「なければならない」と義務化しようとするのが憲法改正草案の第24条第1項であれば、「国家が人の人格的生存を侵すのは国家の誤作動。国家が人権に対していくらでも条件をつけることができてしまう(小林節慶大名誉教授)」<国家主義>への大転回であることに気付かなければならないだろう。

憲法改正草案の第24条第1項の家族の互助を義務とする内容には、「国を維持するためには自分に何ができるか」に基づいて<家族>を単位として国のために何ができるかを<義務>として課す考え方(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員『私達の基本的な考え方』)がその底に横たわっているということである。



これは、憲法によって本来縛られるべきが「国家」であり「国家権力」であるのに、その憲法を改悪して、「国家」「国家権力」が「個人」の生存する権利を縛るという大転回(革命)を企てていることに他ならないだろう。「国家=国体・政体」という<国家主義的>図式があからさまになる。

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その図式は過去の暗い歴史の一点に明々白々と存在しており、我々はあらためてその図式を学習しなければならない。

例えば、

大阪朝日新聞「家族制度と選挙権」という社説(昭和15年12月7日)には、
『わが国特有の家族制度を尊重する建前から、大政に万人が翼賛する単位を家とし家長を通じて万民翼賛の臣道をつくすという主旨であり、その限りにおいて何人も異論をはさみ得ざるところであろう。(中略)すなわちわが国伝統の家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かすのは、主旨において何人も異論を挟み得ざるところとして、これによって種々派生する問題に対し、あらかじめ十分の用意と準備を必要とする点を強調するのである。』



戦前(戦時下)の家族制度・家族主義についての公論が述べられている。「わが国伝統の家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かす」ことが主旨であるということだ。これは上述の「国を維持するためには自分に何ができるか」(自民党憲法改正草案起草者・片山さつき議員)にある<家族>を単位として国(「社会」と擬制している)のために何ができるかを<義務>として課す憲法改正草案の第24条第1項の内容と極めて符号するものだ。

<国家主義><国体・政体>とその為の<家族主義の美風>が、いかなる結果を招いたのかは歴史が示す通りであり、戦後敢えて憲法に「家族の互助を義務として盛り込むこと」をしなかったのは、その過去の反省の上に立つからである。

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<家族の互助>が一つの家族の中の構成員同士の互助を越え隣同士の互助を表向きに、「万人」が翼賛するための国民統制のためにつくられた地域組織が<隣組>であり、

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国民動員体制の中核組織<大政翼賛会>であり、天下・全世界を一つの家のように解釈する思想が<八紘一宇>(自民の三原じゅん子議員が参議院予算員会において質疑とは無関係に「八紘一宇は日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べたことは記憶に新しい)



であった歴史を知れば、憲法改正草案第24条第1項の「家族の互助を憲法上の義務として盛り込むこと」は「大政に万人が翼賛する単位」としての<家族>をその目的に据えているのではないかと疑ってかかる必要がある。その<家族>に課される義務の最たるは<戦争>協力であれば、戦争放棄や戦力の不保持を謳う憲法第9条は邪魔だという理屈になる。

嫌韓・嫌中の偏執的ともいえる政治的スタンスから外交的努力の一つもせず、"外敵"と脅威を煽るだけ煽り、「テロの脅威」「核兵器の脅威」から憲法第9条は時代遅れ・邪魔だという空気を作り上げることに安倍政権は余念がない。

憲法改正推進を訴える超党派議連会合に出席した安倍首相は「憲法改正へ歴史的一歩踏み出す」と述べたそうだが、国民(立法府たる国会)が主体的に発動するならともあれ、行政府の長に過ぎない内閣総理大臣が率先して改憲を民意を得た政策の如く発表すること自体、三権分立無視の憲法違反(本人は自民党総裁として自党の政策綱領として言っているつもりだろうが・・)。憲法に縛られるべき者が憲法を縛りにかかる逆転に我々は余りに寛容に過ぎるのではないか?「歴史的」といいながら過去の「歴史」を勝手に忘れてしまう首相に憲法を語る資格は全くない。

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(「戦争に負ける」と言っただけで隣組に密告され治安維持法違反で父は3度も警察へ・作家 半藤一利氏(86歳)「過去は常に現在とつながっていて、断ち切れるものではない。歴史はうるさいからといって勝手に忘れてしまってすむ話ではない。」)

官邸がメディアを総動員し勝手に忘れるように世論を誘導(捏造)すれば、「家族主義の美風を大政翼賛の部面に生かす」こともいずれ公論となり、「国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」と、万人はまたも簡単に騙されることになるかもしれない。

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「家族の互助」をあたかも「美風」のように吹聴すれば、多くの人々は、それ自体は「良いことだ」とその風になびくことだろう。安倍政権・自民党はこの手の輿論づくりはとても周到だ。

その言葉の裏に「大政に万人が翼賛する単位を家」とすることまで「私達の基本的な考え方」と言い出しかねない自民党憲法改正草案起草者が存在することを忘れてはならない。

そして「これによって種々派生する問題に対し、あらかじめ十分の用意と準備を必要とする点」の通り、「特定秘密保護法」、「テロ等準備罪(実質、共謀罪)」を含む「組織犯罪処罰法改正案」、「緊急事態条項」などで万人の耳目ばかりか口も塞ぎ手足も縛る準備が着々と進められ、その進捗を如実に表すかの如く、報道の自由度ランキングは安倍政権下では歯止めなく落下している。これが安倍首相の理想とする「美しい国」なのだそうだ。

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「一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(伊丹万作「戦争責任者の問題」)」

(おわり)

posted by ihagee at 05:53| 憲法