鉄腕アトムに「うそをつきロボット」という話があるそうだ。
それは、
《うそばかりをつくロボット。 しかしそれはガン患者の母親の看病をさせようと思ったある科学者が病名を明かさせないようにするための苦肉の策だった。アトムに言われてやはり嘘はよくないと再び改造をする。そこで火事になってしまい、ロボットがそれを知らせに走るが普段うそをついていたロボットゆえに誰もその事を信じない。 そればかりか彼を皆で叩き壊してしまう。 火事はアトムの活躍で事無きを得る。そして自分を看病してくれたロボットのゆくえを問う母親にアトムは「ここにいる」と嘘をつくのだった。》
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NHKスペシャル「廃炉への道2016・核燃料デブリ迫られる決断」で「福島第一原子力発電所でメルトダウンした3つの原子炉を同時に「廃炉」にするスケジュール決定(即ち、デブリをどう取り出すか)の大方針を決めるまであと1年。決断の時が迫っている。」と締めくくる。
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そもそも、どこにあるかもわからないデブリ、まとまって存在しているかもわからず、地中深くコロイド状に散らばっているかもしれない超高放射線核物質を取り出すことなど真面目に考えたら「不可能」である。
おそらく「アンダーコントロール」とこの国の自称最高責任者が国際社会に宣言した手前、現場は「可能」と言い続けるしかないのだろう。
炉心真下に決死の作業でトンネルを掘り、コンクリートを流し込んで溶融した核燃料の地中へのメルトアウトを辛うじて食い止めたチェルノブイリ事故原発ですら、たった一基の石棺を維持する(現状維持)だけでも数百年のオーダーで技術的困難が待ち受けているというのに、ダダ漏れの福島事故原発三基にその先の「廃炉」の技術を語ることなど到底「できない」話である。
技術的課題というものは、事故発生時にすでに消滅したことに我々は素直に向き合うしかない。「技術的に解決できる」と言ってあたかも技術的課題があるかのように繕うことは嘘を言い続けることに他ならない。技術的課題というありもしない課題と共にその未来永劫果たせない責任を将来世代につけ送りすることに他ならない。その先には「嘆きの壁」ならぬどん詰まり(投了)が待ち受けているだけである。将来とてつもない被害となっても当事者の世代の責任にならないようにただひたすら嘘をついて時間を稼いでいるのである。嘘と時間稼ぎは今に始まったことではない。過去の公害病(水俣病など)・薬害事件(薬害エイズ)などこの国では枚挙に遑がない。
そのように嘘をつかれて、後々どれだけ多くの人々が苦しむことになるのか我々は痛いほど知っている筈である。事実が判明した時点で直ちに防護的措置を講じていれば被害は広がらなかった筈である。
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事故原発に由来する放射性物質の環境への曝露による被曝の実態はチェルノブイリ事故原発では「100万人以上の死亡者」と報告されている(2009年にニューヨーク科学アカデミーから出版された『チェルノブイリ大惨事、人と環境に与える影響』)。
チェルノブイリ事故の場合、放射性物質の環境への曝露は専ら爆発時(一基)の大気中へのものであったが、福島事故原発の場合は地中・地位水脈へ間断なく漏れ出している(三基)ことは判っている。つまり我々の生活も含む環境系に完全に事故原発とその膨大な放射性物質(2011年8月時点ですでにセシウム137だけでも広島型原爆の168個分が大気中に放出されその22%が陸地に降り積もったことが判っている)が取り込まれてしまっている。
そんな状況で「(廃炉への)技術」をさもあるかの如く語ったり「笑っていれば放射能は憑りつかない」とか言って「夢や希望」をばら撒くことは、嘘をつき続ける「うそつきロボット」でしかない。
嘘で誤魔化せない・笑うに笑えない程の過酷な現実しか、原子力発電所の事故は示していない。それが「核=原子力」の正体である。人間の気持ちなど寸分も斟酌することなく放射性物質は勝手に挙動し数万年の半減期という人類の時間のスケールを超えて汚染は続く。「心のケア」とか「風評」とか人間の側の心の持ちようでどうにかなる相手でもない。
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アトムの話では嘘をつかないように改造されたロボットは人々によって叩き壊されてしまう。しかしそのロボットは「火事」という現実を知らせていた。
嘘をつき続け、技術的に廃炉が可能かのように見せかけつつ事故原発周辺に人々を呼び戻して生活させるということは、アトムの話の「ここにいる」と同じ人間の気持ちを利用して「ここ」で事故原発が与える放射線の影響を受け入れさせることでしかない。
アトムに出てくるような一人のガン患者の話ではなく、数万人単位の人々への嘘がその先数千人単位の被曝による死をそうと悟られずに黙認することは犯罪に等しい。正直にモノを言う人々が嘘をつき続ける人々によって「風評被害を広めた」と叩き壊されるのも同じである。
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事故原発に対してありもしない技術課題にかかわる時間があるなら、被曝の事実を直視・確認し補償と放射線防護にこそ全力を振り向けるべきであろう。嘘をついて後者を等閑にしてはならない。
かの冷酷非情・人権蹂躙の代名詞だった旧ソ連邦ですら、事故後5年でチェルノブイリ法を制定し、原発事故と放射線被曝を国家の宿痾(治らない病)と位置付け、放射線防護措置と補償をいかに行うか等、社会倫理的に原発事故に向き合うことを最大の課題としたのである。
わが国では、「福島の影響は及ばない」と不都合に蓋をするばかりか、事故原発を廃炉技術のメッカにすべきなどと嘘の上に虚飾を重ねて、その成果がこれも嘘に塗れた2020東京五輪というのだから目も当てられない。
事故原発をこの国の宿痾(治らない病)と位置付け、あたかも治療下にあるかの如くの「アンダーコントロール」なる嘘とその上に重ねる国家的虚飾にこそ終止符を打つべきである。
即ち、現状維持できるかどうかも危いという認識を国際社会に示し(「アンダーコントロール」で招致した五輪は返上)、せめて環境への放射性物質の放出を少しでも食い止める為の知見を国際社会に求めるのが筋であろう。食品や水・土壌の中に含まれる放射能の総量(ベクレル)の許容摂取基準値についても、ウクライナの基準値を参考に可能な限り低い値に近づけるように食品流通段階での綿密な検査(aI(Tl)シンチレーションスペクトロメータ及びシンチレーションサーベイメータ)と放射線防護の為の意識を高める必要がある。「そんなことをしていたら手間や時間がかかって仕方ない」、「サンプル検査とはいえ常に一定量がミンチにされたらもう使えない」などと、生産者側・流通側の都合を優先しておざなりにベルトコンベヤ式のイメージングベースの測定器で粗く検査をすることなど論外である。誤魔化して済む話ではない。ウクライナではどんなに手間と時間がかかろうと、シンチレーションで検査を行う。流通側の都合や経済性を天秤にかけることをしない。
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息を吐くが如く嘘をつくというロボットならぬ、自称この国の「最高責任者」の国家的虚飾のツケを払うのは我々国民であれば、一刻も早く嘘と虚飾をやめさせなければならない。「アベノミクス」も然りである。
(おわり)
2016年05月30日
いつまでも「うそつきロボット」で良いのか(原発事故なる国家の宿痾(治らない病))
posted by ihagee at 18:25| 原発
2016年05月01日
国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」
ミハイル・マリコ博士(ベラルーシ科学アカデミー)
「核事故の歴史は関係者が事故を小さく見せようと放射線防護を軽視し、悲劇が繰り返された歴史です。」

(Exakta RTL1000 / Carl Zeiss Flektogon 2.8 / 35, Ilford Delta 400)
「指定廃棄物で新ルール、環境省 <濃度下回れば一般ごみに>
環境省は28日、東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物に関し、放射性セシウム濃度が1キログラム当たり8千ベクレル超の基準を下回った場合は指定を解除し、一般ごみと同様の処分を認める新ルールを正式決定した。解除は国と自治体が協議して決める。解除後の処分費用は指定廃棄物と同様、国が負担する。放射性物質汚染対処特別措置法の省令を改正し、同日付で施行した。(共同通信・電子版4月28日報)」
軽視(過小化)とは原発事故後の放射線防護における<関係者>の態度である。<関係者>とは事故を起こした原発側(加害者)に立ってひたすら核事故を小さく見せようとする者である。環境省の立場とはそんなものなのだろう。東芝や三菱自動車の例を見るまでもなく、官民あげて不都合の粉飾が今の日本を表している。
原発事故前には原子炉等規制法に基づくクリアランス基準(100Bq/kg)がある。原発事故後にこれが食品汚染の新基準値セシウム合計100Bq/kg(2012年4月1日から施行)にすり替わった。口に入れるものと(後者)がガレキや原発内の廃材(前者)と同じ値にされてしまった。東電の敷地内では今でも「1キロあたりの放射性セシウムが100Bq以下のゴミもドラム缶に入れて厳重に管理し、搬出後もコンクリートや土で外に漏れ出さないようにしている。(柏崎刈羽原発)」である。
今回の省令ではその80倍(8000Bq/kg)まで<一般ゴミ>と同様の処分で良いとなった。原子炉等規制法に基づくクリアランス基準(100Bq/kg)は当てはまらないと環境省は言う。クリアランス基準の100Bq/kgは原子力発電所の解体等により発生するコンクリートや金属を想定し、日常生活を営む場所で様々な方法で再利用されたとしても安全な基準であって、<一般ゴミ>は再利用されないから制度趣旨が違うので比較にならないと環境省は言う。クリアランス基準でいうところの放射性廃棄物は焼却・埋め立て処分などできない。だから、先ずそんなクリアランス基準は制度趣旨が異なり当てはまらないので放射性廃棄物でもない、だから、一般ゴミであり、焼却・埋め立て処分ができると話を持っていく。官僚の論法である。
再利用されないという点で論点のすり替えがある。その主語は人間と決めてかかっている。しかし、先年の東日本豪雨での大洪水、そして今も続く熊本・大分を中心とする地殻変動・地震などを主語にすれば、日常生活を営む場所に焼却・埋め立てした処理廃棄物が流出・移動することぐらい想定の内である。ガラスで固化するなどもせずに灰にして埋めたモノなど簡単に土や水に混ざって環境に<再利用>される。想定できることも敢えて想定しないという前提で誤りはないとする官僚の無謬性である。地下520m(フィンランドのオンカロ)や1mSv/年(チェルノブイリ法)が何の為にあるのか知っているのに知らないフリをする。それらが当てはまらないという前提(嘘)から、地表や20mSv/年間でも構わないとする。
重大事項を形ばかりに民意を聞いて省令の改正でさらっと変えてしまう。連休を控え世間の関心がよそにある時期を狙ってである。放射線防護に対する環境省の軽視(過小化)の態度が見え透いている。
財政・経済・環境において本当はズタズタボロボロの日本を粉飾・虚飾して見せなければならないのだろう。『原発は国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』(城南信用金庫の前理事長・吉原毅氏)の言葉にあるように、その代表格が原発であり原発事故である。「粉飾決算」がこの国の代名詞であってはならない。
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放射性物質汚染対処特別措置法の省令改正・資料








(おわり)
「核事故の歴史は関係者が事故を小さく見せようと放射線防護を軽視し、悲劇が繰り返された歴史です。」

(Exakta RTL1000 / Carl Zeiss Flektogon 2.8 / 35, Ilford Delta 400)
「指定廃棄物で新ルール、環境省 <濃度下回れば一般ごみに>
環境省は28日、東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物に関し、放射性セシウム濃度が1キログラム当たり8千ベクレル超の基準を下回った場合は指定を解除し、一般ごみと同様の処分を認める新ルールを正式決定した。解除は国と自治体が協議して決める。解除後の処分費用は指定廃棄物と同様、国が負担する。放射性物質汚染対処特別措置法の省令を改正し、同日付で施行した。(共同通信・電子版4月28日報)」
軽視(過小化)とは原発事故後の放射線防護における<関係者>の態度である。<関係者>とは事故を起こした原発側(加害者)に立ってひたすら核事故を小さく見せようとする者である。環境省の立場とはそんなものなのだろう。東芝や三菱自動車の例を見るまでもなく、官民あげて不都合の粉飾が今の日本を表している。
原発事故前には原子炉等規制法に基づくクリアランス基準(100Bq/kg)がある。原発事故後にこれが食品汚染の新基準値セシウム合計100Bq/kg(2012年4月1日から施行)にすり替わった。口に入れるものと(後者)がガレキや原発内の廃材(前者)と同じ値にされてしまった。東電の敷地内では今でも「1キロあたりの放射性セシウムが100Bq以下のゴミもドラム缶に入れて厳重に管理し、搬出後もコンクリートや土で外に漏れ出さないようにしている。(柏崎刈羽原発)」である。
今回の省令ではその80倍(8000Bq/kg)まで<一般ゴミ>と同様の処分で良いとなった。原子炉等規制法に基づくクリアランス基準(100Bq/kg)は当てはまらないと環境省は言う。クリアランス基準の100Bq/kgは原子力発電所の解体等により発生するコンクリートや金属を想定し、日常生活を営む場所で様々な方法で再利用されたとしても安全な基準であって、<一般ゴミ>は再利用されないから制度趣旨が違うので比較にならないと環境省は言う。クリアランス基準でいうところの放射性廃棄物は焼却・埋め立て処分などできない。だから、先ずそんなクリアランス基準は制度趣旨が異なり当てはまらないので放射性廃棄物でもない、だから、一般ゴミであり、焼却・埋め立て処分ができると話を持っていく。官僚の論法である。
再利用されないという点で論点のすり替えがある。その主語は人間と決めてかかっている。しかし、先年の東日本豪雨での大洪水、そして今も続く熊本・大分を中心とする地殻変動・地震などを主語にすれば、日常生活を営む場所に焼却・埋め立てした処理廃棄物が流出・移動することぐらい想定の内である。ガラスで固化するなどもせずに灰にして埋めたモノなど簡単に土や水に混ざって環境に<再利用>される。想定できることも敢えて想定しないという前提で誤りはないとする官僚の無謬性である。地下520m(フィンランドのオンカロ)や1mSv/年(チェルノブイリ法)が何の為にあるのか知っているのに知らないフリをする。それらが当てはまらないという前提(嘘)から、地表や20mSv/年間でも構わないとする。
重大事項を形ばかりに民意を聞いて省令の改正でさらっと変えてしまう。連休を控え世間の関心がよそにある時期を狙ってである。放射線防護に対する環境省の軽視(過小化)の態度が見え透いている。
財政・経済・環境において本当はズタズタボロボロの日本を粉飾・虚飾して見せなければならないのだろう。『原発は国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』(城南信用金庫の前理事長・吉原毅氏)の言葉にあるように、その代表格が原発であり原発事故である。「粉飾決算」がこの国の代名詞であってはならない。
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放射性物質汚染対処特別措置法の省令改正・資料








(おわり)
posted by ihagee at 08:57| 原発
2016年04月19日
「運命でかたづける国民性」
「運命でかたづける国民性」と先日のブログで述べた。
自然災害の範疇であれば、社会的に許容せざるを得ないリスクというものも存在するだろう。火山・地震・活断層・台風など。しかしそれらを「運命」とあっさりと住民に諦めさせるならそもそも政治も行政も要らない。運・不運でかたづけるなら神仏の世界である。
自然災害ではなく、人間社会の範疇でのリスクというものも存在する。中には許容せざるを得ないリスクもある。それらは社会生活上許容の範囲にあり管理できるリスクである。自動車に乗れば事故に遭遇するリスクもある。喫煙すればガンになるリスクもある。それらは個人レベルでも用心すれば回避できるリスクである。
原発が管理できないリスクを抱えていたことは、先の福島の原発事故で明白となった。そのリスクは社会生活上許容できる範囲をはるかに超えている。ドイツでは社会倫理上の問題と捉え、脱原発に決した。
日本では福島の原発事故に遭いながら、その原発をあたかも自然災害の範疇の「リスク」や人間社会の範疇の「リスク」と同じ扱いで受け入れろと言う人々もいる。しかし個人レベルで用心すれば回避できるリスクなどでは到底ない。いったん事故を起こせば人智を超えて数百年のオーダーで将来世代に負の連鎖を残す。自然災害の範疇なら神仏かもしれないが、原発を置いたのも迎えたのも人間である。なのに、原発には常に安全なる「神話」がついてまわる。あたかも神仏がいるかの如く神聖不可侵なのである。「神話」の下で人間社会の「リスク」が神仏世界の「運命」にスルリと化ける。「運命」なら仕方ないと。信じるしかないと。それは、神風が吹くと為政者が国民を洗脳した挙句「命の尊さまで、運命でかたづける国民性が、特攻隊を作り、隊員は文句も言わず死んでいったのである。」と同じである。原発再稼働とは人間社会が神や仏を騙って(神話)作り出した奇天烈な運命論であり神風思想であり盲信である。しかしいざとなって犠牲になるは常に一般庶民である。最高責任者と自認壮語する者ほど、真っ先に責任を放棄して逃げ回る。満州の地で棄民の憂き目に遭い命からがら本土に逃れた父は岸信介をそう評していた。A級戦犯以前に同胞を裏切り見捨てた原罪についてである。その孫が逃げない訳がないだろう。
しかし、原発を置いたのも迎えたのも人間である。神仏ではないし「運命」でもない。仕方ないものなどでもないし、それで過酷に死ぬことはあっても決して神風など吹かない。信じるにも値しない。つまり、ドイツで考えたと同じく、ひとえにこれは人間社会における社会倫理の問題である。メルケル首相は社会倫理を経済の天秤にかけなかった。社会倫理とは相対ではなく彼らにとって絶対規範なのである。日本ではその絶対的な観点がごそっと欠落し、奇天烈な運命論・神風思想が跋扈している。
石原良純氏には社会倫理の問題ということがわかっていないようである。原発も「運命でかたづける」つもりなのかもしれない。東日本大震災に「天罰」と言い放った親にしてその子である。地震も火山も原発事故も一緒こたに「運命でかたづけ」られてはたまらない。「収束」という言葉のない原発事故は火山や台風などと同列のトラブル(「ワン・オブ・トラブル」)で済まないことすらわかっていないようだ。
追記:
人間の所業を神に奉り上げて崇め、絶対権力化するが原発である。町工場が法律に反して廃液を河川に流せばその責任者は法律で罰せられる。その工場は社会から放逐される。ところが、原発は大事故を起こして膨大な国土を汚染しようがそこで暮らす人々やコミュニティを破壊しようが法に問われない。一般社会の法の下での産業事故ではなく、あたかも神の所業による「運命」として受け入れるように、神の代理人にでもなったつもりの政治家・経済人・マスコミ・官僚が我々を恫喝する。「死の街」「死の灰」と素直に眼前の有様を口にする者を罰し、「笑っていたら放射能は来ない」とか「原発なければ江戸時代」と宣う。地震や火山ですら「原発は安全」と地の神、山の神になったかの如くご託宣である。仕事と暮らしを守るのが経済であり政治であり行政であるのに、彼らはそれらを破壊することに何のためらいもない。将来世代の財布からごっそりカネどころか国土まで奪い取って「今さえ良ければ」がこのご利益の神様に仕える連中の行動規範である。
東日本大震災以来、相次ぐ地震・洪水など天変地異で日本のいたるところ仮設住宅、そして溶け落ちた核燃料の在り処さえわからない事故原発、その周辺には破れて草が生え出した放射性廃棄物のフレコンバックが野ざらしにされているのを横目に、「東京には影響は及ばない」「アンダーコントロール」と首都大開発と利権に血道をあげ、そんな不遜な動機の東京五輪である。
「おもてなし」とかで海外からの観光客が増えた。寺社仏閣を訪れる人々も多い。そんな中で「靖国神社の神様は?」と問われて、「軍人です」と答えると欧米からの観光客は一様に驚く。ロシアの人は「レーニン廟みたいなもんかね?」と言う。畏怖・信仰の対象が軍人なのである。いや、神になったのだから軍神なのである。平和主義国家と言いつつ軍神を裏で崇める。先進諸国にそんな国はない。ロシアですらレーニンは埋葬すべきだとの世論が今や大半になった。
死者まで神に仕立てて、七生報国とばかりに政治的に使う。その社に首相が仕え行動原理がそこにある限り、神がかったこの国の底気味の悪さは、ある種神がかった首相と同じく、やはり国際社会では共有されないのである。「二度と過ちは繰り返しませんから」と核は廃絶と叫ぶのに国は被曝者とは言わず被爆者と言わせ、核を原子力と言い換えさせる。原子力に言い換えて人々の命や暮らしを供えものとして捧げ「過ちなどありません」と詭弁を弄してこれを守る。原発にもどうやら靖国と同じ七生報国の神がいるようだ。
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石原良純 原発の巨大地震対策をめぐり玉川徹氏と対立(livedoor NEWS)
18日放送の「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)で、石原良純が、原発の安全対策をめぐって玉川徹氏と激論を交わす場面があった。
番組では、京都大学防災研究所教授の橋本学氏が、過去に日本で起きた地震を解説し、今後地震が発生する危険性が高い地域について論じていた。
この話を聞いていた石原は「心配するのはあたりまえなんだけど」と前置きして、「過度に反応するかって…僕らはここで暮らしていくしかないわけなんで」と異議を挟んだ。
コメンテーターの玉川氏は「個人個人だったら、自分たちで備えましょうって話だし」「あんまり過度に心配してもって話もあるけども」と石原の意見を一部肯定する。
しかし玉川氏は、愛媛県伊方町の伊方原発が、活断層の近くに位置することを指摘し、「(地震が)来ないって前提でやるのか、来るって前提でやるのか。全然話が違うんです」と警鐘を鳴らした。
すると石原は、壊滅的な被害を出すとされる箱根山の巨大噴火を例に出し、「それを考えて暮らしていくんですか?」と、過度に未来の災害を意識することを否定する。
さらに石原は「10万年に1回の(箱根山の)巨大噴火が起こったら原発どころの騒ぎじゃないですよ。原発もワン・オブ・トラブルになりますよ」と独自の見解を述べた。
この意見に、玉川氏は「そうですか?だって住めなくなっちゃうじゃないですか。何十年って住めないって地域が現れてるじゃないですか。福島に」と声を荒げて反論していた。
(おわり)
自然災害の範疇であれば、社会的に許容せざるを得ないリスクというものも存在するだろう。火山・地震・活断層・台風など。しかしそれらを「運命」とあっさりと住民に諦めさせるならそもそも政治も行政も要らない。運・不運でかたづけるなら神仏の世界である。
自然災害ではなく、人間社会の範疇でのリスクというものも存在する。中には許容せざるを得ないリスクもある。それらは社会生活上許容の範囲にあり管理できるリスクである。自動車に乗れば事故に遭遇するリスクもある。喫煙すればガンになるリスクもある。それらは個人レベルでも用心すれば回避できるリスクである。
原発が管理できないリスクを抱えていたことは、先の福島の原発事故で明白となった。そのリスクは社会生活上許容できる範囲をはるかに超えている。ドイツでは社会倫理上の問題と捉え、脱原発に決した。
日本では福島の原発事故に遭いながら、その原発をあたかも自然災害の範疇の「リスク」や人間社会の範疇の「リスク」と同じ扱いで受け入れろと言う人々もいる。しかし個人レベルで用心すれば回避できるリスクなどでは到底ない。いったん事故を起こせば人智を超えて数百年のオーダーで将来世代に負の連鎖を残す。自然災害の範疇なら神仏かもしれないが、原発を置いたのも迎えたのも人間である。なのに、原発には常に安全なる「神話」がついてまわる。あたかも神仏がいるかの如く神聖不可侵なのである。「神話」の下で人間社会の「リスク」が神仏世界の「運命」にスルリと化ける。「運命」なら仕方ないと。信じるしかないと。それは、神風が吹くと為政者が国民を洗脳した挙句「命の尊さまで、運命でかたづける国民性が、特攻隊を作り、隊員は文句も言わず死んでいったのである。」と同じである。原発再稼働とは人間社会が神や仏を騙って(神話)作り出した奇天烈な運命論であり神風思想であり盲信である。しかしいざとなって犠牲になるは常に一般庶民である。最高責任者と自認壮語する者ほど、真っ先に責任を放棄して逃げ回る。満州の地で棄民の憂き目に遭い命からがら本土に逃れた父は岸信介をそう評していた。A級戦犯以前に同胞を裏切り見捨てた原罪についてである。その孫が逃げない訳がないだろう。
しかし、原発を置いたのも迎えたのも人間である。神仏ではないし「運命」でもない。仕方ないものなどでもないし、それで過酷に死ぬことはあっても決して神風など吹かない。信じるにも値しない。つまり、ドイツで考えたと同じく、ひとえにこれは人間社会における社会倫理の問題である。メルケル首相は社会倫理を経済の天秤にかけなかった。社会倫理とは相対ではなく彼らにとって絶対規範なのである。日本ではその絶対的な観点がごそっと欠落し、奇天烈な運命論・神風思想が跋扈している。
石原良純氏には社会倫理の問題ということがわかっていないようである。原発も「運命でかたづける」つもりなのかもしれない。東日本大震災に「天罰」と言い放った親にしてその子である。地震も火山も原発事故も一緒こたに「運命でかたづけ」られてはたまらない。「収束」という言葉のない原発事故は火山や台風などと同列のトラブル(「ワン・オブ・トラブル」)で済まないことすらわかっていないようだ。
追記:
人間の所業を神に奉り上げて崇め、絶対権力化するが原発である。町工場が法律に反して廃液を河川に流せばその責任者は法律で罰せられる。その工場は社会から放逐される。ところが、原発は大事故を起こして膨大な国土を汚染しようがそこで暮らす人々やコミュニティを破壊しようが法に問われない。一般社会の法の下での産業事故ではなく、あたかも神の所業による「運命」として受け入れるように、神の代理人にでもなったつもりの政治家・経済人・マスコミ・官僚が我々を恫喝する。「死の街」「死の灰」と素直に眼前の有様を口にする者を罰し、「笑っていたら放射能は来ない」とか「原発なければ江戸時代」と宣う。地震や火山ですら「原発は安全」と地の神、山の神になったかの如くご託宣である。仕事と暮らしを守るのが経済であり政治であり行政であるのに、彼らはそれらを破壊することに何のためらいもない。将来世代の財布からごっそりカネどころか国土まで奪い取って「今さえ良ければ」がこのご利益の神様に仕える連中の行動規範である。
東日本大震災以来、相次ぐ地震・洪水など天変地異で日本のいたるところ仮設住宅、そして溶け落ちた核燃料の在り処さえわからない事故原発、その周辺には破れて草が生え出した放射性廃棄物のフレコンバックが野ざらしにされているのを横目に、「東京には影響は及ばない」「アンダーコントロール」と首都大開発と利権に血道をあげ、そんな不遜な動機の東京五輪である。
「おもてなし」とかで海外からの観光客が増えた。寺社仏閣を訪れる人々も多い。そんな中で「靖国神社の神様は?」と問われて、「軍人です」と答えると欧米からの観光客は一様に驚く。ロシアの人は「レーニン廟みたいなもんかね?」と言う。畏怖・信仰の対象が軍人なのである。いや、神になったのだから軍神なのである。平和主義国家と言いつつ軍神を裏で崇める。先進諸国にそんな国はない。ロシアですらレーニンは埋葬すべきだとの世論が今や大半になった。
死者まで神に仕立てて、七生報国とばかりに政治的に使う。その社に首相が仕え行動原理がそこにある限り、神がかったこの国の底気味の悪さは、ある種神がかった首相と同じく、やはり国際社会では共有されないのである。「二度と過ちは繰り返しませんから」と核は廃絶と叫ぶのに国は被曝者とは言わず被爆者と言わせ、核を原子力と言い換えさせる。原子力に言い換えて人々の命や暮らしを供えものとして捧げ「過ちなどありません」と詭弁を弄してこれを守る。原発にもどうやら靖国と同じ七生報国の神がいるようだ。
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石原良純 原発の巨大地震対策をめぐり玉川徹氏と対立(livedoor NEWS)
18日放送の「羽鳥慎一モーニングショー」(テレビ朝日系)で、石原良純が、原発の安全対策をめぐって玉川徹氏と激論を交わす場面があった。
番組では、京都大学防災研究所教授の橋本学氏が、過去に日本で起きた地震を解説し、今後地震が発生する危険性が高い地域について論じていた。
この話を聞いていた石原は「心配するのはあたりまえなんだけど」と前置きして、「過度に反応するかって…僕らはここで暮らしていくしかないわけなんで」と異議を挟んだ。
コメンテーターの玉川氏は「個人個人だったら、自分たちで備えましょうって話だし」「あんまり過度に心配してもって話もあるけども」と石原の意見を一部肯定する。
しかし玉川氏は、愛媛県伊方町の伊方原発が、活断層の近くに位置することを指摘し、「(地震が)来ないって前提でやるのか、来るって前提でやるのか。全然話が違うんです」と警鐘を鳴らした。
すると石原は、壊滅的な被害を出すとされる箱根山の巨大噴火を例に出し、「それを考えて暮らしていくんですか?」と、過度に未来の災害を意識することを否定する。
さらに石原は「10万年に1回の(箱根山の)巨大噴火が起こったら原発どころの騒ぎじゃないですよ。原発もワン・オブ・トラブルになりますよ」と独自の見解を述べた。
この意見に、玉川氏は「そうですか?だって住めなくなっちゃうじゃないですか。何十年って住めないって地域が現れてるじゃないですか。福島に」と声を荒げて反論していた。
(おわり)
posted by ihagee at 03:16| 原発