2018年04月08日

100,000年後の安全



100,000年、地下深くに隠して忘れ去ることなのか。
永久に手をつけずにおいてもらえると信じることなのか。

人智の物差しを超えた100,000年なる先を語ること、

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(100,000年の長さに比べれば、人類の歴史などほんの一瞬に過ぎない)


将来世代(ほぼ未来永劫)に「悲しげな微笑み」しかおくれない。大いなる懐疑・不確実性の上に「(願わくば)幸運を!」と言うのが精一杯の矛盾律を原子力は抱えている。フィンランド国で生じた放射性廃棄物の埋葬だけで精一杯のオンカロ。その小さな穴倉一つにも地球規模の懐疑と不確実性を抱えなくてはならない。20〜30万トンと推定される地球上の放射性廃棄物についてオンカロは答えを出すものではない。

そして、この矛盾律は100,000年後まで解消されることはない。これは一体科学なのだろうか?それでも経済合理性やら科学を原子力発電に主張していて良いのだろうか?



(パリ国際環境映画祭グランプリ受賞・ドキュメンタリー映画「100000年後の安全」)

原子力発電に賛成であろうとなかろうと、少なくとも、すでに生じてしまっている放射性廃棄物について
「どうあるべきか」について、少なくともその恩恵を受けた世代は思考を停止してはならないのだろう。そして、これから新たに生じさせないと政治は決断すべき時にきている。

放射性廃棄物を地上処理しようとしたり、笑っていたら取り憑かれない・近寄りなさい・仲良く共存しなさいと、国民に「アンダーコントロール」の旗を振らせ、「この国は神の国であるぞ(日本会議)」と精神主義で打ち勝ちなさいと宣う我が国の政府。経済成長も終わったのに尚も発展途上国並みのエネルギー代謝が必要と原発を発電のベースロードに据える経産省。放射性廃棄物やら原発の片付けは将来世代の課題=義務と言い放つ政治家・財界人。「今さえ良ければ」と権利ばかり独占し義務の一つも率先して果たそうとしない彼らが憲法改正を以って国民に義務を垂れる資格の一つもないだろう。

放射性廃棄物について懐疑も不確実性も官僚や政治家の口先三寸で無くなる我が国の政府。フィンランド政府のできる限りの誠実さの足元にも及ばない、それどころか開き直って『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』に政官財が結託し邁進する我が国である。ピカドン・レベル7でも懲りない国民性とは一体何なのか?

(おわり)

posted by ihagee at 11:10| 原発

2017年12月18日

中村敦夫氏「原発はやってはいけない」


中村敦夫と言えば、木枯らし紋次郎を思い浮かべる人も多いだろう。

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私も彼の時代劇をリアルタイムにテレビで観ていた世代ではあるが、この人の存在により刮目したのは俳優としてではなかった。

ホーネッカー書記長の下、東独が健在だった頃(1980年代初め)、西ベルリンから彼なりの視点で東をレポートしたテレビドキュメンタリー(民放)を観て、この人の見識の広さ深さに驚いた覚えがある。壁で生き別れになった家族の話、壁越しにみる東ベルリンの建物の西側に向いた窓がどれも塞がれて何も見えないが室内のテレビアンテナはしっかりと西側に向いていることや、シュタージ(秘密警察)についてもこのレポートで私は初めて知った。東の社会の矛盾がいずれ増大し遠からず壁が内部から崩壊することまで見えていたのかもしれない。私も前後して東西冷戦只中の西ベルリンを訪れ彼のレポートを自らの目と耳で追認したものだった。

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(1984年西側からみたブランデンブルク門・筆者撮影)


そして、拙稿(『「リニア中央新幹線」が「オンカロ」になる日』)でも触れたが、大深度法案が参議院を通過したのは原発問題など一般に語られることもなかった2000年5月19日。特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律案の通過は同年5月31日とほぼ同時だった。当時議員をしていた同氏は高レベル放射性廃棄物の地層処分に反対する集会で「とんでもねえよ。俺が反対したのは、この二つの法律がセットになったらやばいと考えたからなんだ」「このままでは、私たち住民は核に怯えて暮らすことになります」と言ったとされる。原発事故が起きるなどと誰も思わなかった頃、すでに中村氏は原発問題、それもトイレのないマンションと言われてのちに我々も知ることになる核廃棄物の処理場に関して、すでに見識を備えていたということだ。驚くべき洞察力である。

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さて、「この二つの法律がセットになったらやばいと考えた」、まさにそのセットとなる巨大事業がリニア中央新幹線ではないかと指摘する声は多い。私もその指摘は必ずしも穿ってはいないと考える。原発技術を海外に輸出し続け、その代償として輸出先の核のゴミを引き取ると安倍首相はトップセールスしているらしいが、国内の核のゴミですら置き場に困り、最終処分場も決まっていない現状でなぜ彼がそういう安請け合いができるのか不思議でならなかった。リニア新幹線の長大且つ大深度のトンネルはその置き場に将来代替される可能性を指摘する声である。

原発が国策なら、リニア中央新幹線はJR東海の民間事業の体裁を繕ってはいるが、実質は国策に近い。つまり、安倍首相が財政投融資の活用でリニア中央新幹線の東京―大阪間の開業を当初の2045年から最大8年の前倒しを目指すとし、政府は3兆円の財政投融資を出している。そして官民合わせて“5年で30兆円の資金を財政投融資する”という話まで聞こえてくる。2013年9月にJR東海の山田佳臣社長(当時)は記者会見で「(リニアは)絶対にペイしない」と公言。国土交通省も「リニアはどこまでいっても赤字です」と市民団体との交渉で語ったという。つまり、建設する前から赤字必至の事業となることが明白である。

リニア(旅客)では赤字。では何の為にリニア中央新幹線なる巨大事業を安倍政権は進めようとしているのか?そう我々は疑いの目を向けなくてはならない。折しも建設事業体ゼネコン大手4社が独禁法違反の疑いで司直の捜査が入った。超難工事が想定される巨大プロジェクトを実際に請け負えるのは事実上これらの会社以外にはないのだから、民間企業同士の談合(話し合い)には寛容であるべきとの、法の正義を蔑ろにする意見も巷に溢れているが(加計学園もそうだが安倍政権肝いりの数々の事業では法の正義は悉く蔑ろにされている)、将来、国民の税金が充てがわれる可能性が高い負債事業であれば、尚のこと、ここで建設是非・要否の原点に立ち返るべきではないか?

赤字必至の事業とわかっていながら(JR東海も国交省もすでに認めている)、なぜ安倍政権はその事業を推し進めようとするのか?安倍首相は国民に明確に説明しなければならない。

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中村敦夫氏に話を戻すが、彼の経済観は経済学者シューマッハーの思想に培われているようだ(以下の動画にあるように)。
経済的にモノに満ち溢れている我が国。ムダとわかっていても作り続ける=経済活動というこの国のあり方自体が原発なる大いなるムダに目を瞑るばかりか、新幹線よりも僅か数分早いだけ(乗り換えの時間を含めたら在来の新幹線の方が余程早いとの指摘もある)のリニアなる壮大なムダをまた経済だと言い続けて止まない古い経済観に憑かれている。生活必需品が耐久消費財であった時代を今の若者は知らないだろう。家電は修理して使う時代があった。修理・交換を前提とした製品やサービスが存在していた。その修理の為に町々に電器店(電器店の主人は修理する技能・資格があった)があった時代。何十年も黒電話が鎮座していた時代。それで少しも不自由しなかった時代があった。その頃のプロダクツの頑丈さはいまどきのペラペラのプラスチックの安普請とは大違いだ。ムダに消費しない社会があったからこそ、ムダにさせない(良心)為の商品設計・構造がなされていたのだろう。

ところが、アメリカ流の軽薄短小・使い捨てなる消費経済にいつの間にか我々は取り込まれ、消費・廃棄=善というマインドが消費する側にできてしまった。大阪万博の前後、マクドナルドをはじめとするファストフードが日本に進出して私が最初に驚いたことは、何度でも使えそうな立派な包装材が使い捨てであったこと。「えっ、これみんな捨てちゃうの?」という感覚であった。捨てるということに言いようのない罪悪感を感じたものだ。しかし、高度成長期になって、気づけば使い捨ては当たり前となり、さらに使い捨て=合理的=清潔という図式になっていた。

使い捨てを前提とする消費だからこそ、浪費との見境すら消費者はつかなくなった。生産者・作り手の側が率先して使い捨てや浪費・無精を消費者に促す。「これもう古いし新しく買った方がお得ですよ・各人が持っていた方がいいですよ・喋っただけで動きますよ・動かなくても何でもやってくれますよ」と。「教えてグーグル」なるAIスピーカなどは私に言わせれば、子供に無精を促すだけの噴飯ものである(子供を使ったCMは醜い)。現実世界を肌身で体感学習すべき子供に最初から仮想世界を提供して一体何を大人たちは目論んでいるのだろうか?これでは益々人間は無精・無能・無意識になっていく。話した際から個人の情報があらかたグーグルにビックデータとして獲られていることすら消費者は知らない。

そして原発にいたってはその産業廃棄物(毒)を後始末できない・片付けることすらできない。瞬間の灯火(今享楽)の為に数百年・数万年単位の未来という時間を平気で質に入れる。そんな電気を堂々と売る電力事業者。到底まともな経済活動とは言えない。その電気をムダに使うための道具でしかないスマートフォン。指先の暇つぶしは結果として原発を必要とする論理と繋がることも消費者は意識していない。

そしてこの国の有様。心身は壮年を過ぎて老人となりかかっているのにも関わらず、カンフル剤を打ちまくって全速力でダッシュし、発展途上国並みの高代謝社会をこれからも続けようとする。そうでなければならないと我が国の政治も経済も強迫観念に取り憑かれた感がある。これではいつ突然死してもおかしくない。世界的資源の収奪競争=グローバリゼーション(果ては戦争)はまさにその強迫観念の現れでしかない。

拙稿「百代の過客」で触れたように思想家・柄谷行人氏は「日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました(つまり、スモール・イズ・ビューティフル、ローカライゼーション)。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています(グローバリゼーション)。」(『週刊読書人』2011年6月17日号)と言う。

これが正論だろう。現世代が蓄えたストックを現世代が全て使い尽くしてしまうばかりか、将来世代の懐にまで無心する、アベノミクスなるムダ打ち且つ今さえよければ後は野となれ山となれ的食い散らかし(負の遺産)政策は直ちにやめて、今あるストック(正の遺産)を将来世代にまでしっかり引き継がせる為の低代謝社会に我が国の体質を変えていくしかない。ムダ喰いをせずこれ以上負債を背負わないことである。華やかさも派手さもないだろうが、質実に慎ましく生きていく国家がこの世界に一つぐらいあっても良いだろう。先進国の中でその先鞭をつけるに最もふさわしい国が我が国であるとワンチュク国王もムヒカ・ウルグアイ元大統領もその事を言いにわざわざ来日している。さらに、ワンチュク国王が提唱する国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という、国民総生産 (Gross National Product, GNP) や国内総生産 (GDP)とは全く異なるベクトルは大いに傾聴に値する。しかし、我が国の政治家・経済人の一人として、彼らの言説を気に留める者はおらず、また、GNHを口にする者もいない。嘆かわしい限りだ。

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以上の点について、中村敦夫氏は動画(以下)にてわかりやすく述べている。視聴をお薦めしたい。



(おわり)

posted by ihagee at 19:42| 原発

2017年08月28日

原発事故がもたらす過酷な時代を生きるには




東京電力福島第一原子力発電所の大量の放射性物質の漏洩を伴う原子力事故は国際原子力事象評価尺度でチェルノブイリ事故と同等の最悪のレベル7に位置付けられている。

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(3号機の水素爆発・海外では核爆発と専門家は分析している)


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そのチェルノブイリ事故(1986年)から31年が経過した。事故原発があるベラルーシでの政情不安、ベラルーシに国境を接するウクライナでの紛争など、この事故が直接・間接的に周辺地域の不安定化の地政学的要因になり続けている。ソ連邦の崩壊のトリガーもこの事故であると言われている。原発事故由来の放射性物質が環境の一部に組み込まれ人間を含め生態系全てに将来に亘って影響し続けることも疫学などの学術調査によって明らかにされてきた。

原発そのものについては、事故は幸いにも一基のみであり(4号機)、事故直後の当局の決死の作業(多くの人命が失われた)によって地上地下で外界から遮断(石棺化)し、地下水脈を介しての環境への放射性物質の持続的漏洩は食い止められ、原子炉爆発で当初に飛散した放射性物質(広島原発約20個分相当分)に汚染が留まっている。しかし、石棺という閉じ込めは未来永劫(人類の物差しからみて)続けなくてはならない。

人間の生活圏については、事故から5年後に、ウクライナでは「チェルノブイリ法」を制定し、年間被ばく線量が5ミリシーベルト以上の地域は「強制移住区域」、1〜5ミリシーベルトの地域は「移住選択区域」として住民に移住の権利が与えられた。移住を選んだ住民に対して国は、移住先での雇用と住居を提供、引越し費用や移住によって失う財産の補償も行った。移住しなかった住民にも非汚染食料の配給、無料検診、薬の無料化、一定期間の非汚染地への「保養」などを定めて、住民の健康と生活を守ることに努めている。

人間の生活圏を汚染源から可能な限り遠ざける<防曝>のスタンスは、政情不安となろうと内戦が勃発しようと為政者は変えようとしていないようだ。

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翻って、安倍首相の「アンダーコントロール」の一言は内外に向けたあからさまな印象操作だった。つまり、わが国の事故はチェルノブイリのそれとは全く違うと政治的に嘘をつき装うことにあった。「実害」を前提とする<防曝>のスタンスは取らず、「除染」「帰還」でわが国民は汚染に立ち向かえると国際社会に宣言した。「今この瞬間にも福島の青空の下、子どもたちはサッカーボールを蹴りながら、復興と未来を見つめている(安倍首相)」と「青空」ありき、子どもたちに<防曝>の選択肢すら与えない言葉はあまりに酷過ぎる。

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その通り、日本政府はチェルノブイリ事故から敢えて何も学ぼうとせず、さして何事もなかったかのように平常を保つことに終始している。「実害」は国内向けには禁語にしてその大半は「風評被害(根も葉もない噂)」と言い包める。他方、お友だち作戦で被曝したと主張する米兵には裁判の経緯によっては「実害」を認め巨額な賠償金に応じようとしているのだから(東電が払えなければ国民の税金が充てられるだろう)、安倍首相にとっていざとなって守るべき国民とは自国民のことではない。日米安全保障条約の真に意味するところである。

チェルノブイリ事故から学んで住民の健康と生活を守るようなことでもすればその対策にかかる経費は膨大となる上、「実害」を一つでも認めれば「安全・安心」なる日本のブランドイメージに傷がつき、経済活動の阻害要因としかならないと思っているのだろうか。平常心の天秤に吊るされた錘が2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会なのだろう。

環境に漏洩した放射性物質に政治的思惑を忖度する心などある筈もなく物性に基づく勝手気ままな挙動は一つとして「アンダーコントロール」でなく、ホットスポットやパーティクルになって我々の生活圏に潜在し動き回っている。そればかりか、8000ベクレル/kg以下の汚染土の公共事業への利用や、その焼却処理(フィルターなど何の役にも立たない)、地下とはいえども我々の生活圏下に高濃度放射性廃棄物の地下処分の検討を国が推し進めている。まるで放射性物質にとって手足が伸ばせ居心地の良い生活圏を広げるようなものだ。
(拙稿『国家ぐるみの壮大な「粉飾決算」』)

政治家も官僚も御用学者も、彼らの生きている間だけ問題が起きなければ後は知ったことではないのだろう。ばら撒いて将来管理できなくなろうと、その頃にはこの世にいないから知ったことではない開き直りとも取れる。
(拙稿『いつまでも「うそつきロボット」で良いのか(原発事故なる国家の宿痾(治らない病)続き)』)

「痛みを分かつ」は心情的に国民に膾炙され易いが、こと原発事故に限れば「痛んだ所に抑え込む」しかないのである。つまり<防曝>のスタンスに立って年間被ばく線量が5ミリシーベルト以上の地域は人間の生活圏から遠ざけ(=人間がその地域から立ち退き)、その意味で棄地となった土地を国が収用管理することしかない。具体的には事故原発を中心として福島県太平洋側沿岸地域をその土地とし放射性廃棄物の集中管理処分場にする政治的決意が求められる。

原発由来の核のゴミを全土に分散管理し続けるのは現実的に不可能な上、自然災害などで予測不能に漏洩すればそれこそ日本中が副次的な放射能汚染の脅威に晒されることになる。特に地下水脈が至るところに走る日本では、どんなに深く埋めても廃棄物が水に触れて放射性物質が環境に漏洩する可能性が高い。地下水脈が汚染されれば人間の生活圏は根こそぎ奪われることになる。

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それでも「痛みを分かつ」ことをこの国は国民に求めるのであれば、誰かが喩えたように「トイレのないマンションに住むようなもの」となる。原発は今後次々と再稼働するだろうが、現状破綻状態の核燃料サイクルが回り出しても、廃炉や事故原発由来の処理しきれない放射性廃棄物は山積みとなって我々の生活圏で計画的に埋められたり燃やされたりすることは間違いない。

そうなれば各人が「痛み」の在処を知って可能な限り回避行動を取るしかないだろう。その手立ての一つは各人が線量計(ドシメータ)を携帯し長時間の積算の被曝量を把握すること(外部被曝)。

自治体がスポット的(点状)に観測するのではなく、各人が行動する範囲で線状且つ経時的に被曝量を把握し(いつ・どこで・どれだけ被曝したか)、次に汚染場所(特にホットスポット)を自主的に回避する行動に繋げることができる。

ただし、線量がμのレベルを超えてmSv/hの場所であれば直ちに退避行動を行う必要があり、その場合はブザーで知らせるなど警報器の役割もなければいけない。通常の線量計はγ線0.01〜9.99μSv/hが計測レンジなので、小数点以上二桁以上の数値が表示される計測器であって欲しい。

ゲルマニウム半導体検出器が原則の食品の放射能検査だが(ベクレルを単位とする内部被曝)、個人レベルで行う場合はその代替評価法として、表面近くの空間線量率を計測することになる。シンチレータでは表面のα線とβ線は計測不可能で、GM管(ガイガーミュラー計数管)でマイカ窓(α線検出)のある計測器が必要。

詳しくは「放射線測定器の種類と一覧」サイト参照。

国産の計測器で手軽(且つ安価)に入手できるものはシンチレータ。GM管(ガイガーミュラー計数管)であれば、チェルノブイリ事故以来実績のあるウクライナ製が手頃かもしれない。

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私事だが2011年の原発事故の数日後に都内で金属臭の空気を吸って(吸うというよりも金属を舐めた感じがした)、以前テレビで観た3Mの原発事故のドキュメンタリー番組での同様の証言を思い出しこれは大変だと、直ちにeBayを通じて放射線測定器を購入した。

購入した測定器は旧ソ連製(ウクライナ製)のMASTER 1。開発・製造されたのは1986年というからチェルノブイリ事故の申し子。外見はひどく安っぽく見えるがGM管で一分当たりのγ線を積算して平均値を液晶に示してくれる。早速、地震と液状化で被災した後復旧したばかりの東京ディズニーシーに持ち込んで計測した。ベンチなど測定したが平均して0.35μSv/hの値だった。

その後、同じく旧ソ連製(ウクライナ製)のGM管が二本装備されマイカ窓のある箱型の測定器やら、元は軍事用で民生に転用されたカナダ製の測定器(RD 108DB)を購入したりした。後者はγ線測定器だが単位がr/hなので、針が一つ振れるだけで(1r/h)で10mSv/hに相当し、普通に過ごして1年間に浴びる放射線量を15分足らずで浴びる計算となる。原発事故や核戦争を想定した測定器。針が振り切れるのを見ることになれば死を覚悟しなければならないだろう。

最近の製品としてはSOEKS Ecotester(ウクライナ製)を使っていたが、乾電池の液漏れでプリント基板が溶け使用できなくなった。旧ソ連製はすべて半田付け配線で頑丈だったのに、新しい製品ほど作りがチャチなようだ。

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ドシメータとしても、警報器としてもまた食品検査としても、それなりに用を果す計測器は高価で個人に手が出る代物ではない。しかし、ロシアのベンチャー企業の製品でこれら要件を概ね満たした比較的安価な測定器が販売されている。

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ドシメータとしてはcsv形式でパソコンに時間軸で線量をグラフ化してくれるし、閾値を超えた線量を検出すれば即座にブザーで警報し、鉛の裏蓋を外して食品表面に密着させればα、β線を検出してくれるようだ。両線種の検出に威力を発揮するパンケーキ型GMが内蔵されている。β線も過不足なく検出できるところからもしかしたらGM管も備わっているのかもしれない(追記:GM管は追加されておらずCPUがアルゴリズムで算出しているようだ)。

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(使用例・デイスプレイは英語に表示切り替え可能)




(チェルノブイリ事故原発周辺での使用例)


近々購入して使ってみようと思う。

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放射線測定器など原発事故以前であれば、鉱物コレクターなどニッチな人々の需要しかなかったのに、事故後、急速にコモディティ化し私を含め少なからぬ人々によって日常的に使われるようになった。放射線測定器が日常生活にあること自体が異常なことだが、現実を数値として見、我が身の安全を他人任せにしない意識はかえって育まれたのではないかと思う。信ずるものは救われるとされてきた原発の安全神話が崩壊した今、同じ神話に再び騙されないようにと、放射線測定器は我々の意識を覚醒させる役目も帯びてきたようだ。

(おわり)

posted by ihagee at 18:20| 原発