2015年11月17日

百代の過客

我が家の時計は全てゼンマイ式時計である。そのうち墺独の柱時計は2台あるが、いずれも100年選手、元気に時を刻み続けている。これを作った職人の技といい、その設計の下で何の不具合もなく今日迄時を刻む製品。メンテナンスさえ施せば、ずっと使える。そして時計としての基本的機能を保ち続ける。この時計の前で、歴史が流れてきたのだと思うと感慨深い。第一次大戦もナチスも第二次大戦も全てこの時計が経験しているのである。まさに百代の過客である。


(Gustav Becker)


(Badenia Lucca)

私の祖父の代までは、居間の柱に時計が掛かり、その時計のねじを巻くのがその家の主人の日課であった。時計の下、三丁目の夕日のようなさり気ない生活があったはずである。

思想家の柄谷行人氏は
「日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。」(『週刊読書人』2011年6月17日号)
と言う。

高度経済成長期を通じて「使い捨て」に我々は抵抗を感じなくなってきたように思う。「無駄なもの」であっても企業がアレコレと付加価値をつけて売る。もし「無駄でないもの」なら最初から消費者の求める価値がその製品にあるということになる。つまりは生活必需品である。そういう製品をメーカーは作りたがらない。黒電話は生活必需品であったが、スマートフォンが同じ必需品であるかは甚だ疑問である。「電話をする」という基本に価値を置くとすれば、携帯電話やスマートフォンは欠陥商品ということになる。3/11の大震災の際に最もつながらなかったのが携帯電話・スマートフォンであり、最もつながったのがダイヤル回線の昔ながらの黒電話であった。電話線から供給される電力を利用しているため、停電が起きても電話線と電話局さえ無事なら通話ができるのである。

携帯電話で言えば、「私は電話とメールだけできれば結構です。インターネットができるようなタッチパネルも不要でボタン式の従来のモデルで十分です。」と言ったところで、そういう価値観をメーカーは認めない。あくまでも、ユーザよりも企業の都合なのである。そして低成長どころか経済・社会が後退局面にある現在、この「無駄」を「消費」として甘受する経済成長期の感覚から我々は未だ抜け切れていない。「使い捨て」なる過去の時代の流儀に消費者もそしてメーカーもどっぷり浸かったままの感がある。

換言するとライフタイムの短い「使い捨て」の運命にある製品を企業が作り続けなければ、企業は市場から資金を調達できないのであろう。もし、10年間ずっと使い続けられる前述のような携帯電話をドコモが作れば、10年目を迎えることなくドコモが倒産してしまう。そういうトレードオフ(二律背反)の関係にあるのかもしれない。この世界での製品サイクルは今や1年と言われる。社会・経済全体でライフスタイルを抜本から見直さない限り、一企業がそのスタンスを変えることは難しいだろう。

モノにおいての「短サイクル」ぶりは上述の如くである。
そして、「住」において、我が国は先進諸国と比較して圧倒的に「短サイクル」と言われる。世界有数の地震国という建物にとっては好ましくない地政学的条件ではあるが、核家族化が進んだ我が国においてそのサイクルは約30年と言われている。つまり、代々同じ住居に住み続けるよりも、家族・世代毎に新居を購入することが特に都市圏では通常であるからだ。百年を単位に古い住居をメンテナンスしながら代々住み続ける欧米諸国のライフスタイルと随分と異なる。

町並みや建物が社会資本(ストック)であり、たとえ戦争で全て瓦礫になっても、その瓦礫をパズルのように組み上げて見事に昔の町並みを甦らせるドイツはその確たる見本である。連合軍の絨毯爆撃により中心部が廃墟になったドレスデンで、瓦礫の山となった聖母教会の瓦礫を一つとして処分せず、いつの日かその瓦礫で教会を元通りにすると決意したドイツ人が、その決意の通り、2005年に見事に昔の姿のまま復元したことは記憶に新しい。

住居や町並みを資産(ストック)として受け継ごうとするそれらの国と、土地とその上の経済活動に価値があり、上物や町並みに価値を認めようとしない我が国。国立競技場という歴史的施設、そして、関東大震災からの復興を祈念して市民の浄財で植樹された神宮外苑の銀杏並木、これらの社会資本(ストック)さえ、東京復興なる経済活動の下、新たな国立競技場建設の為に壊してしまう、その価値観である。

メンテナンスさえ施せば百年は悠に動く時計。それを作り上げた職人。そしてその時計を代々受け継いできた主人たち。その想いに応えて動き続ける時計。モノに命が宿るということである。その命を子々孫々受け継ぐことにみる価値観である。翻って、経済のためなら(今さえ良ければと)ストックを次々と薪のように焼べるこの国の首相が「国家百年の計」を口にする。「ソロモンの栄華も一本の百合の花に如かない」ではないが、古時計一つにも如かない百年の計ではないか。そう思わざるを得ない。
posted by ihagee at 19:36| ゼンマイ時計