2015年12月02日

ミラー修復(ハセガワの<フィニッシュシリーズ・ミラーシート>利用)

Exaktaのカメラ群にExactaと銘板のあるモデル(Kine-Exakta)が存在することは、Exaktaのマニアなら知っているかもしれない。その由来については先のブログ記事で綴った。

そのKine-Exacaが手元にある。ロシアのeBayを通じて手にいれたもので、1945年から1947年までに当時のソ連への賠償目的で製造された約16,920台の中の一台となる。賠償目的とはいっても、当時のソ連ではドイツの工業製品は依然として高級品であって、一般のプロレタリアートが手にするような品ではなかった。そのおかげで、このカメラも粗末に扱われずに済んだようだ。レンズはCarl Zeiss JenaのTersser f3.5/50mm である。戦災を免れたレンズストックから作ったのだろう。布製のフォーカルプレーンにピンホールやリンクはなく、レンズも鏡筒のヘリコロイドに少し抵抗があるが、玉には黴や傷などなくまずまずである。全速でシャッターは開閉するがスピードは1/250以上は怪しい。スピード・テスターを入手する予定なので、実際に計測してみるつもりである。レザーのカメラケースは縫い糸が崩壊して天井と底が抜けかけていたが、木工ボンドで綺麗に修復することができた。

ファインダーはアイレベルではなくウエストレベルで、後年のVarexの仕様とは異なり取り外しができない。スクリーンを覗くと何とも暗い。レンズ自体が暗いのでf値の小さなレンズに取り換えてみたが同じである。レフレックス・ミラー(表面反射鏡)をみると汚れていた。そこで綿棒の先に無水アルコールを付けて軽くミラーの表面を拭ってみたのが悪かった。経年劣化した銀蒸着面にアルコールが厳禁であることを忘れていた。途端に鏡面が白化し銀が浮いてその一部が剥がれ落ちた。迂闊が元でファインダーとして機能しなくなってしまった。

kineexakta1.jpeg
(ダメージを与えてしまったミラー)

非をカメラに詫びるとともにミラーを修復する手立てを考えた。勿論、きちんと専門業者に頼んでミラーを交換してもらうのが常道であるが、前々から気になっていたあるモノを使ってみることにした。そのモノとはハセガワの<フィニッシュシリーズ・ミラーシート>である。この用途は工作模型の外装(スキン)であり、リアリティを追求するために金属を薄膜(25μ)の上に積層させたフィルムとなっている。金箔のように対象物の微少な凹凸に追随する薄さと伸縮性を持っており、平滑な面に貼ると表面はまさに鏡面になる。とは言っても銀ではないので、分光特性や反射率については落ちる。しかし、この25μの極薄性はレフレックス・ミラーの修復材としては好適である。

kineexakta2.jpeg

25μゆえに、普通のはさみでは刃がフィルムを噛んでしまってうまく切断できない。鋭角刃のデザインナイフを用いる。先の尖ったピンセットで台紙からフィルムを剥離し慎重にミラーに当てて、綿棒の先を用いて空気を押し出しながら密着させる。フィルムの裏面には粘着剤が施してあるが初期弱粘性なので初めの数回は貼り直しが可能である。

ダメージを与えてしまったミラーを上述のフィルムを当てて修復した。結果は以下の通りである。

kineexakta4.jpeg
(修復後、スクリーンは明るく対象物を映すようになった)

スクリーンは明るく対象物を映しており、その像に歪みや反射ムラなどはない。「レフレックス(reflex)」の機能はちゃんと果たしている。ミラーを使って測光する機構はこの古いカメラにはないので、その程度のレフレックスで良いのである。そして25μの極薄フィルムゆえ、フォーカシングもミラーアップも影響はないだろう。先ずは成功である。その必要がある方は自己責任の限りにおいてお試しあれ。数百円の投資である。

(おわり)
posted by ihagee at 18:19| Kine-Exakta

2015年11月16日

なぜEXACTAだったのか(戦後編)

”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”と題するPeter Longdenの著作物(2008年に英国 The Exakta Circleによる私家版)はihageeの歴史(1912-1987)を政治社会的背景に照らして考証する内容である。

kineexakta3.jpeg
(”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”)

Peter Longdenは第八章(1945-1949、再出発)において、”c”綴りを含むKine-Exaktaの戦後登場について多くのページを割き、Ihageeの再出発におけるそれらカメラに課せられた重責と、果たした役割について述べている。

1945年5月8日、第二次世界大戦が終わった。廃墟と化したドレスデンはソ連の占領統治下に置かれた。Ihageeの創業者Johan Steenbergenは1942年に米国に亡命していたが、戦前ドイツにおける彼の企業家・資本家の経験を鑑みた母国オランダ政府は、彼に働きかけ1946年、バーデン・バーデンを本拠とするオランダ軍の占領統治機関に招き入れたのである。これを足掛かりにソ連統治下のドレスデンに戻ってIhageeの再興をと願っていたSteenbergenはソ連側にその旨を幾度となく嘆願したが、ソ連は遂にそれを認めなかった(想いを断ち切れなかったSteenbergenは1959年に西独フランクフルトにIhagee Westを立ち上げ、商標権侵害承知で1966年にExakta Realを製造販売したが失敗に終わる)。

「ドレスデンのカメラ産業は灰燼に帰した。市内の工場の八割が使用不能の戦禍に見舞われたとHummelは見積もっているが、Ihageeの工場のあったStriesen地区は少々事情が違っていたようである。ここでの連合軍による空爆は主に焼夷弾に拠るものだったので、通りの破壊は免れた。多くの工場が火災にあったが、消防士によって最悪の被害は食い止められた。

kineexakta5.jpeg
(戦禍を被ったSchandauer通りのIhagee工場)

(中略)生き延びたIhageeの労働者たちが機械類と材料を救い出し、Blasewitzer通りに借り受けたビルで製造を再開したのである。(中略) Ihageeは依然オランダ資本であった故に、他のドレスデンの会社とは異なり、ソ連占領統治下に独立して事業を継続していた。(中略)簡単な日用品の製造は1945年6月にこの転居先の工場で開始されたが、すぐにKine-Exaktaの製造に切り替えられた。店舗から回収された部品と新たに製造した部品を用い、Heidenauのダイカストメーカーがボディの鋳造供給再開にこぎ着けた。1945年の暮れまでに320台のKine-Exaktaが製造された。収入を得たかった従業員は割り当てクーポンと引き換えに新たに製造したカメラを引き渡し、50台余りが現金で赤軍の関係者に売られた。(中略)Schandauer通りにあった工場は倒壊し全ての記録と資料が失われ、それ以前のIhagee製品の明細書も技術図面も最早存在しない状況で再出発は不可能であった、とHummelは回想している。1945年5月中旬よりKine-Exaktaの基本図の作成が開始された。(中略)このタスクはOtto Helfrichtが主導した。彼は1925年7月からのIhageeの生え抜きで、Nüchterleinの設計チーム(1930年)の当初メンバーでこのカメラについて精通していた。」

ドイツは戦後賠償の一つとして、ヒトラー時代のドイツの財産権のソ連軍事当局者への引き渡し命令が1945年10月30日に発行された(Order No. 124)。特許権・商標権といった知的財産権についても戦後賠償としてソ連軍事当局者へ引き渡された為、フェドやキエフといったソ連の兵廠で製造されたLeicaやContaxのレプリカの「正当性」はこの命令が根拠となっていた。

「カメラとアクセサリーの供出が賠償の一つとなった。(中略)同様の要求はドレスデン、イエナのZeiss Ikonにもあり、Contaxの製造は、カメラボディ、レンズ、設備から技術図面、道具などと共に全てキエフに移された。(中略)戦後賠償として製造するKine-Exaktaの台数に関して、ソ連軍事当局者との交渉は1945年の秋、ベルリンで始まった。他の企業と同様に、必要な道具や材料はソ連側から供給され、費用はザクセン州政府が負担することになった。(中略)1946年1月3日、Ihageeは戦後賠償プログラムの一つとして20,000台のKine-Exaktaの製造を受注した。当時の会社報に“これは会社とフィナンスの再生にとってより健全な礎となる”とある。
Kine-Exaktaによる賠償は1949年まで続いた。この期間、ソ連邦へのKine-Exaktaの輸出が年々増加した。そしてその一部が西側に輸出された。(中略)1945年に370台であったKine-Exaktaの生産台数は1946年には4,500台になり1947年には12,000台を超えた。(中略)この期間に製造されたカメラは、Kine-Exaktaのみである。戦前のモデルと基本的に同じ構造であるが、細部に於いては変更箇所がある。ボディトリムはクロームではなく鏡面研磨された金属である。スローガバナーは1/10秒の代わりに1/5秒となり、スロー側のダイヤルはフライス加工の端部に加工溝がなくなった。ストラップ留も変更された。その他の変更点としては、カメラの背面の革に押されていたIhageeのロゴがなくなり、一部が西側に輸出されることを想定して”Made in Germany“が底面の革に押されている。カメラ収集家にとっては大切なことだが、賠償として製造されたモデルの銘板には”Exacta”と彫られている。”c”綴りのExaktaの存在は西側では全ての事実が判るまで、長らく謎であった。賠償モデルが最終的にどこに行ったのかIhageeが追いやすくするために”c”綴りのExaktaにしたというのが真相である。この期間にトータルで35,821台のカメラが製造され、そのうちの約16,920台が賠償目的で供給された(これらが全て”c”綴りのExaktaと想定される)。」

この時期の”c”綴りのKine-Exaktaの現存品は戦前モデルと比較すればカメラ・コレクションとしての稀少性は低いかもしれない。しかし、”c”綴りを含むKine-Exaktaにはその一台一台に、ソ連占領統治下、西側資本の民営会社という微妙な立ち位置にあって戦後賠償という重荷を負わされ、開発当初に関わった設計者が再び白紙から図面を描き直し製造されたという歴史が刻まれているのである。35,821台が元に、1950-1960年代のExaktaの成功とIhageeの繁栄があったのだろう。たかがカメラと云うなかれ、何とも感慨深い話だと思う。(おわり)
posted by ihagee at 18:26| Kine-Exakta

なぜEXACTAだったのか(戦前編)

先日、Ebayを通じてKine-Exaktaを購入した。佐貫亦男氏の著作に度々登場する歴史的なExaktaである。しかし、佐貫氏のものと異なり私の Kine-Exaktaは戦後の一時期に製造されたものである。そして、その銘板はExaktaではなくExactaである。ここに語るべき歴史があるので、戦前と戦後の二編に分けて綴ってみたい。

kineexakta2.jpeg
(私の所有するKine-Exakta)

Exaktaのカメラ群にExactaと銘板のあるモデル(Kine-Exakta)が存在することは、Exaktaのマニアなら知っているかもしれない。しかし、なぜExactaなのかその理由を知っている人は少ないだろう。”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”と題するPeter Longdenの著作物(2008年に英国 The Exakta Circleによる私家版)はIhageeの歴史(1912-1987)を政治社会的背景に照らして考証する内容である。

kineexakta3.jpeg
(”IHAGEE-THE MEN AND THE CAMERAS”)

その第六章(1933-38、歴史的カメラの誕生)、74-77頁に以下記載がある(抜粋・抄訳)。

「1936年はIhageeにとって記念すべき年であった。3月、Nüchterlein(註:Karl Nüchterlein。1923年にIhageeに入社しExaktaの開発・設計に従事)のプロジェクトが実を結び、ライプツィヒの展示会にサンプルの展示が可能になった。そのカメラはパーフォレーション付のシネ・フィルム(35mm映画フィルム)を使用したので、”Kine-Exakta”と命名された。既存のVP(ヴェスト・ポケット)カメラ(所謂「ベスト」)は混同を防ぐ為、”Standard Exakta”と呼ばれるようになった。(中略)最初のKine-Exaktaの主たる際立った特徴はファインダーフードに設けられた円形の拡大レンズにあった。AguilaとRouah(註: Clement Aguila、Michel Rouah。彼らによってExaktaの型番による体系化が図られた)は、これをv.1とした。1936年4月にこのカメラは製造番号を以て製造が開始された。その後、円形レンズではフォーカシング・スクリーンを十分捉えることができないとのユーザの指摘を受け、1936年12月に四角のものに交換され前述の問題は改良された(v.2)。(中略)

kineexakta4.jpeg
(1934年、SchandauerのIhagee工場)

1937年にKine-Exaktaの輸出が始まった。見習いの精密工作機械工としてRichard HummelがIhageeに加わった年でもある。(中略)Hummelの回想によると、NüchterleinはKine-Exaktaの改良に余念なく、いかなる改良も既存のモデルにフィードバックすべしとの考えであった。Ihageeのカスタマーサービスはその通り、古いモデルを改修した。その費用は少額であった。この措置の仕方は、オリジナル状態のカメラの台数を激減させることになり、後年、カメラ収集家にとって問題を引き起こしたのである。(中略)カメラの筐体を丸ごと最新の型のものに交換したのに、元の製造番号のままといった例が存在するのである。(中略)
1937年、フラッシュ孔を設けたKine-Exakta v.3.1が登場した。AguilaとRouahの分類によるとV.3.2となるこれらカメラの名前は”c”で綴られ”Exacta”であった。Exakta BとNight Exaktaにはそのような”c”綴りの例が存在したこともあり、東独の社会主義体制が終わる前は諸説その理由が取り沙汰されていたが、フランス、ポルトガルと米国向けに製造されたExaktaに”c”綴りのものが存在し、内Kine-Exaktaは500台余り製造された旨を、1993年Richard Hummel が確認している。」

この時期の”c”綴りのKine-Exaktaの現存品はその稀少性ゆえ高額で好事家の間でトレードされているようである。”c”綴りにした理由は輸出製品のトレーサビリティの為であり、仕向け先のその当時の反独感情を考慮してドイツ綴りの”k”を”c”に改めたのではないようである。”c”綴りのKine-Exakta v.3.1については上述の通りである。

<なぜEXACTAだったのか(戦後編)に続く>
posted by ihagee at 18:10| Kine-Exakta