2017年03月17日

「AI本格稼動社会」への大いなる懸念





日本経済新聞主催の講演会「第2回AIシンポジウム AI本格稼動社会へ 〜課題解決型の先進モデル国家を目指して」に参加してみた(会場:品川グランドホール・2017年3月9日13:30〜17:05)。

AI(Artificial Intelligence)つまり、人工知能は「人間の知的活動をコンピュータ化した技術であり、実世界=ヒト、モノ、環境から社会価値を生み出す技術(協賛企業NECの定義)」だそうだ。

理化学研究所革新知能統合研究センター長 杉山将氏の基調講演、協賛企業のNECデータサイエンス研究所所長 山田昭雄氏の講演を拝聴した。

杉山氏は基礎理論(機械学習理論)を中心に、山田氏は応用技術についてそれぞれアウトラインを明晰な語り口で話されていた。

私も技術職の端くれなので講演の内容が理解できないわけではない。「AI本格稼動社会」というものが到来することは確実だろう。

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人間を含め生物が日々活動するための原動力は食物といった物質である。仙人でない限り霞を食べて生きていくことはできない。つまり「生理的代謝」を必要としており、体内の組織や器官は協働して代謝を行っている。

寝覚めは体の組織や器官はまだ半分眠った状態なので、代謝活動は低いが、目も覚めて昼間になると代謝量は増大し、夜になるとそれは低下し眠りに就くと基礎代謝だけの状態になる。このサイクルはおおよそ太陽の入りと出に連動して、昼と夜がセットとなったバイオリズムは古代人も現代人も大差はない。

この代謝量の変化に見合った食事の取り方や活動(仕事)の仕方が日々健康に暮らすための基本となる。人間は冬眠する動物ではないので熊のように基礎代謝だけで数か月生き延びることはできない。

毎日、決まった時間活動(仕事)し、摂食・同化・排泄といった物質代謝をしなければならない。

つまり、決まった時間なりの量の活動(仕事)と物質代謝が前提で生きているわけである。その前提は「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」という諺にあるように歴史的に社会が担保してきたとも言えるだろう。多少経済的にムダがあろうと多様性の中にあなたも私も生かされているという暗黙知である。そこそこの代謝レベルに誰もが満足していれば、結果として多様性は維持されるがゆえに誰もが生かされるという循環系である。中山間地の高齢者ばかりのコミュニティはそういう閉鎖された循環系の名残でもある。都会のあからさまな市場原理など持ち込んだら途端に崩壊してしまう互助なのかもしれない。

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街角の靴磨きなどほとんど目にしなくなった職種だが、戦後間もない頃は身だしなみの為というよりも勤労少年に僅かばかりでも労働報酬を与えるために、わざわざ靴を磨いてもらった大人も多かったに違いない。経済的に言えば、自分で磨けば済む。磨かなくても社会生活に支障はなかった筈だが、これが持ちつ持たれつの日常的な社会生活だった。

コンビニで買えば済むようなヨーグルトを我が家では昔ながらに牛乳配達から買っているが、これも家族経営の零細なコミュニティを支援する意味がある。

「AI本格稼動社会」で生み出される社会価値の中にはこのような「初めから仕事有き」という歴史的な暗黙知は除外されているようだ。なにごとにも経済的合理性の最適解が機械的に導き出され、AIを使い倒せる側に回らない限り生きていけない社会が到来するのかもしれない。それは芥川の「蜘蛛の糸」のように後から後から続いて昇ってきた者たちの重みに耐えきれずに千切れてしまうか細さかもしれない。



技術的特異点(シンギュラリティ)とはまさにこの「蜘蛛の糸」のことであろう。産業技術の発展が技術的特異点(シンギュラリティ)に達してしまう畏れは現実化しつつある。


(図には「人類」とあるが、私は「人間の尊厳」と理解している)

産業技術的に可能なことであっても、社会倫理に照らして敢えて踏みとどまる必要は原発事故で我々が学んだ教訓でもある。科学者はその学究心ゆえに踏みとどまるべき境界を超えてしまうことがある。安倍政権肝いりの革新知能総合研究(AIP)センターでは上述の理化学研究所革新知能統合研究センターが主導的役割を果たしているようだが、AIの「社会的影響」の分析の観点が「人工知能の倫理を数理的に解決」にある点、大いに気がかりである。「人工知能の倫理を数理的に解決」ではなく諮るべきは人間社会が営々として積み上げてきた社会倫理であり、その分析に関わるべきは、当の科学者でもAI(人工知能)でもなく、人文系・社会学系や宗教系といった「人間の尊厳」と向かい合って研究する人々であって欲しいものだ。AIムラの中で「数理的に解決」して済むような問題ではない。メルケル首相が脱原発是非を諮問した相手も産業界とは一線を画した人々であったことを思い出す。

つまり、AI(人工知能)の対極に何を置いてバランスを量るのかが問題なのである。その天秤にかけるべき錘すら技術的特異点(シンギュラリティ)では無くなってしまうのであれば、その特異点に到達する手前で踏みとどまる理性は人間の側に要求されている。

産業技術という、科学技術が企業活動のインセンティブに貢献する姿は日進月歩の先端技術開発を使命としているが、その開発の方向性や利用の仕方によっては、生態系を含む地球環境にその経済効果を上回る重大な障害を招来する危険性もあることは認識すべきことであろう。

国からお墨付きがあれば、AIなどの先端技術は企業活動における資金調達の糧となるため、悪意に利用しようとする者も現れる。そして一旦市場に出てしまえば環境評価は困難な上に回収することはできない。機械学習のAIが技術的特異点に達して自律的に学習をするようになれば、一企業の利益に任せた開発スタンスを超えるばかりか人智まで超える可能性もある。トロッコ問題(トロリー問題)という倫理学上の命題さえ予想もつかない答えを出すかもしれない。たとえば、オイルが撒き散らされた路上に、自動運転のクルマがスリップせざるを得ないスピードで進入してきたとする。そしてスリップする。前方にはたくさんの子どもたちがいて事故は避けられない。子どもたちを避けてハンドルを操作すれば崖下に車は転落する。乗員の安全をAIが計算すれば子どもたちは轢き殺されることになる。



乗員が犠牲になるようなAIを自動車メーカーが採用するだろうか?ここに、クライアントファーストなる企業活動が倫理上の矛盾を引き起こす。AIがなければ、乗員が主体的に判断して自らを犠牲にしても子どもたちの命を救うという選択肢が社会倫理というものである。AIを使いこなす側の人間の価値観をAIが学習選択すれば、人減らしの為の最適解をAIが導き出す可能性は否定できない(ナチスが採用したような人種政策の元となった優生学の復活をAIは最適解として示唆するかもしれない)。優生学では「人間を「尊厳(Würdeヴュルデ)」においてではなく、「価値(Wertヴェルト)」の優劣において理解する思想」であり倫理的問題から現在ではタブーとされている。しかし「社会価値」を生み出す技術に重きを置くAIがこの優生学に行き着く可能性である。そして「社会価値」の天秤に我々を吊るして、個人の「尊厳」を奪いにかかる政権があればなおさらのことである(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。収束の見通し一つつかない原発事故(その現状は明確にシンギュラリティーを示している)すら「アンダーコントロール」と言葉で片付けて実害すら認めない(人間の尊厳の否定)といったことを平気で行う政権の肝入りの国家戦略が「AI本格稼動社会」であれば尚更、その行き先に不安を覚えざるを得ない。

すでに植物の世界では、人間にとって都合のよい(人間の経済価値以外には存在を許されない)植物としてバイオテクノロジーではF1種が産業技術となり市場化されている。そのF1種を人間にも適用せよとAIが指図しそれに従う社会は考えるだに恐ろしい。そうあってはならない。「雑草という名の草は無い」と、御所の生い茂った草を刈り取った侍従を戒めたのは先の天皇である。名もない草にもその草なりの存在理由があり、人間の意図や都合に合わないからと<雑>と呼んで、根絶やしにしてはならないとする戒めである。名もない草一本の生態系においての価値までAIが考えるのだろうか?否、否定する方が経済合理性に与した「社会的価値」に適っているだろう。

「尊厳」を考えるはAIでなく一人一人の人間の内心でありそれを共有する人間主体の社会であり人間同士の対話である。計算機が「数理的に解決」すべきことでない筈だ。

このように社会倫理上の命題一つすら置き去りのままで、「AI本格稼動社会」に踏み出そうしている。だからこそ、AIを開発する側の人間に任せきりにせず、人文系・社会学系や宗教系といった人々が「AI本格稼動社会」への一定の歯止めとなる必要があると私は考える。

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これはAIに限ったことではなく、先端産業技術たるカーボン・ナノ粒子にも言える。ナノ粒子は極めて微小であることから、人体の血液脳関門さえも通過し生体内の代謝に影響を与えることが懸念されている。環境(水、大気、土壌など)に放散された場合の影響、食物連鎖による生態系全体への影響等、未知の部分が多く、ナノ粒子の特性や挙動が時間の経過と共に(特に環境中に放出された後に)、どのように変化するのかは、一旦、環境に拡散してしまった後では見極めることは困難(回収も困難)。またナノ粒子の環境へのリスク評価(有害性評価、暴露評価)に向けた研究は細々と大学等で行われているだけで、技術は次々と市場化されている。

ワンチュク国王やムヒカさんが言うように「足りるを知る」低代謝社会モデルを世界に先駆けて示すべきは、少子高齢化で世界のトップに位置する我が国の本当の課題ではないだろうか?過酷な原発事故を経験しておきながら尚も原発神話を止めようとしないわが国。そして次なる神話がAIでありカーボン・ナノ粒子なのか?社会倫理の不在が問われている。その不在の最たるが安倍政権でありその政策理念であることも。

半音調律を上げ続けるかの市場技術に、その受容者たる生身の人間が悲鳴を上げる限界点は遠からず訪れることだろう(拙稿「半音下げへの期待」)。我々が求めるべき解をAI(人工知能)に問わずとも、神様はある動物にそっと託している。それが「ナマケモノ」なのかもしれない(ナマケモノ倶楽部)。理化学研究所が「ナマケモノ」をその観点から研究する日は来るのだろうか?

(おわり)

追記:
森友学園に絡む政官疑惑。「自動忖度機」という言葉は言い得て妙である。誰一人「覚えていない・記憶にない」としながらも国有地の破格な払い下げが行われるというシステム。忖度するように仕組まれた「意識なきシステム」が政財官に跋扈していたということ。自動改札機など日常生活で「意識なきシステム」は「スマート」だと勘違いする国民性が「自動忖度機」を許してきたのだろう。

2016リオ・オリンピック・パラリンピック大会関連施設(Tokyo2020 JAPAN HOUSE)で大活躍したと報道されていた( NECの「ウォークスルー顔認証システム」)について、NECデータサイエンス研究所所長 山田昭雄氏は講演の中で「スマート」な成功例として紹介していたが、人間相互の信頼を理念とする五輪憲章と、センサに信頼を預けるこのシステムと彼のアタマの中でどのように整合しているのか訊きたくなる(拙稿「<意識なきシステム>で「世界一」となる国」)。AIに人間の意識を何もかも委ねてはならない。人間の意識をどこまでも通わせようとする努力を惜しむような社会になってはならない。
posted by ihagee at 19:01| エッセイ

2017年02月26日

梓(あずさ)とサクラ

塚本幼稚園・森友学園に関する様々な疑惑が噴出している。
安倍総理大臣とその妻とこの学園との関わり方がその疑惑の中心でもある。

保守の会会長 松山昭彦氏がそのブログ「さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」でこの疑惑に真っ向から反論しているようだ。『桜の花びらの「日本人よ誇りを持とう」』というブログである。

<桜の花びら=日本人よ、誇りを持とう>、この図式について私なりの見解をエッセイにまとめていたので、以下に再度掲載したい。

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「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
(生きては還るまいと予め決心したから、鬼籍に入る我らの名をここに書き留めるのである。(通釈))

南北朝時代の武将、楠木正行(くすのき まさつら)が吉野の如意輪堂の壁板に記した辞世の句である。『正行が摂津で北朝軍を破った翌年の正平二年(1347)十二月、(足利)尊氏は高師直・師泰ら諸将を派遣、軍兵六万が淀川の両岸に充満した。決戦を前に、正行は弟正時・和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参上、後村上天皇より「朕汝を以て股肱とす。慎んで命を全うすべし」との仰せを頂いた。その後後醍醐天皇の御廟に参り、如意輪堂の壁板に各自の名を記して、その奥にこの歌を書き付けたという。(「 やまとうた」より引用)』

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歌に詠まれた「梓(あずさ)弓」は、梓の木から作られた弓で、その梓はミズメザクラ(水目桜)のことだそうだ。この句が詠まれたのは千本桜の名所吉野山の中腹にある 如意輪寺の本堂(如意輪堂)である。「一目千本」と称されるこの山のサクラはシロヤマザクラを中心としている。

我々が上野辺りの花見で親しんでいるソメイヨシノは「ヨシノ」を名乗っているが、江戸(染井村=現:駒込・後述)で人工作出(クローン)された園芸用品種であって、自生するヤマザクラとは異なる。

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(黒目川のソメイヨシノ - Rolleiflex SL66, Carl Zeiss Planar 120mm, Kodak Ektar 100)

従って「ヨシノ」は売り名に過ぎない。ソメイヨシノが広まったのは明治の初め頃からとされている。旧幕府軍と新政府軍との間の戦争で荒廃した上野の山や戦死した官軍兵士を祀った社(靖国神社)に率先して植えられ、次第に地方に広まっていった。

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「梓(あずさ)弓」の句に立ち返ると、ヤマザクラの名所(吉野)に梓=ミズメザクラの弓ということで、句に詠まれた決心と散り際が同じサクラ同士ゆえに重ねて思い浮かびそうだが、ミズメザクラはサクラではなくカバノキ科の植物。樹皮や材観がサクラと似ているのでサクラと呼ばれているだけである。カバノキ科は○○カンバと呼ばれることが多い(ダケカンバなど)。そして、肝心の花はサクラとは似つかない趣なので本来ならミズメカンバと呼ぶ方が相応しいが、なぜか「ミズメザクラ」なのである。


(ミズメザクラ)


(ヤマザクラ)

いずれにせよ、明治維新期に小楠公の「梓(あずさ)弓」は誠忠の志を表す句として、また楠木一族は明治維新の尊王思想を照らす模範として大いに賞揚されたようである。

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そして時代が下って、江戸時代・国文学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み桜に 物の哀れなる日本文化の美意識や価値観を見出したとされている。多分にそれは後人によって政治的に解釈され、ヤマザクラに象徴性を持たせ国花の如く紋章や名前に付け軍人の行動規範や総国民の価値観に適用し始めたのは、大正時代である。桜の図柄としてはその象徴性ゆえに園芸品種のソメイヨシノではなく、ヤマザクラが用いられることが多かったようだ。


(特攻機「桜花』)

山中の様々な木々に混ざって清楚且つ奥ゆかしいヤマザクラの佇まいを宣長は日本人の精神の象徴の一つとして詠んだ迄で、大正時代になって、清楚・奥ゆかしさとは真逆のこれぞとばかりに爛漫と咲くが如くのナショナリズムの発揚に宣長のヤマザクラを借用したというのが本当のところだろう。散るを不吉として江戸時代までサクラを家紋とする武家は少ない(細川氏は桜紋であったが、「物好きの紋」と呼ばれていたそうだ)。咲き続けるサクラよりも散り急ぐサクラに価値転換をしたのも大正時代からである。

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散った桜の花びらが水面を覆い尽くす風情を「花筏(はないかだ)」と呼ぶ。


(花筏)

淀んだ川であろうと芥の漂う沼であろうと「花筏」は美しく覆い隠す。そんなサクラを以て「死んで花実が咲く」が如く死の臭いを糊塗する意味を軍部に与え、総国民を戦争遂行の為に動員した政治(翼賛体制)があったことを我々は忘れがちである。

元部下(加藤大介)から「けど艦長、これでもし日本が勝ってたら、どうなってますかね。」と問われて「・・・けど、負けてよかったじゃないか。」と応える元艦長(笠 智衆)(小津安二郎「秋刀魚の味」)を思い出した。

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ミズメザクラに代表されるカバノキ科は、山火事の後に最初に自生する程の強い生命力を持っていることから「生命力」を表す樹木として知られている。

梓(あずさ)が皇太子徳仁親王の御印であることから、それはミズメザクラと解する人がいるようだが、実際はノウゼンカズラ科のキササゲとのこと。ミズメザクラで弓を作れば小楠公の武器となる。しかし、硬くてしなりがないキササゲでは弓は作れない。キササゲは古くから叛木に用いた。本を出版することを「上梓(じょうし)」と言うのもこの由来である。


(キササゲ)

文字を刻む・書物を著す=梓(キササゲ)が皇太子殿下の御印であることは実に相応しい。キササゲには弓となる尊王思想や誠忠の志の花実はつかない。そして、美智子皇后の御印はカバノキ科の白樺で花ことばは「知恵のある人、温順」。

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他方、日本の伝統文化の復興と保持を目指し 日本人本来の「心」を取り戻すべく設立された日本最初の歴史文化衛星放送局「 日本文化チャンネル桜」は草莽崛起を掲げる在野の民衆( 在野の民衆?)だそうだ。しかし崛起の対象たる権力=安倍晋三内閣と思想的親和性が高い。日本人本来の「心」を「桜」にまたも復古(大正時代)・象徴し「花筏」を浮かべようとしているのかもしれない。

死の臭いを桜の花の美しさで糊塗するいつか通った道にまた戻る日があってはならない。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。(中略)おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。(「桜の樹の下には」昭和3年 / 梶井基次郎)」

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ソメイヨシノは一般に寿命は60年と言われている。千鳥ヶ淵や上野公園のソメイヨシノも花つきが悪いものは樹齢が寿命に達しつつある。人工作出(クローン)ゆえに、同種では自然交配・自生しない。従って、ソメイヨシノの群落では老木は切り倒して新しい樹に植え替えなければならない。

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(浅草隅田川公園のソメイヨシノ - Rolleiflex SL66, 拡大鏡レンズ, Fuji-pro 160 NS)

明治の初め、上野の山の戦争の痕に植えたソメイヨシノの多くはその寿命を全うすることなく太平洋戦争下の空襲で失われ( 駒込地区の例)、その後、同じ場所に新たに植えたソメイヨシノの樹齢分、我が国は不戦を保っている。不戦の誓いの証であり続けるならば、もはや美しく咲く必要はない。

爛漫と見事であらねばならないとばかりに策を弄し『日本人本来の「心」を取り戻す』象徴を持たせてはならない。

「心」を取り戻したければ、山野にひっそりと自生するヤマザクラに出会うだけで十分である。策も糊塗するものもない存在こそ「心」が問うべきであろう。そう宣長は詠ったに違いない。

(おわり)
posted by ihagee at 08:47| エッセイ

2017年01月27日

「たまに思い出してくれればいい」


いささか旧聞に属するが、オンライン動画配信サービスHuluのテレビCMでポリゴンと合成音声の<淀川長治>を観た人は多いのではないだろうか。Huluによると「映画界のレジェンド 淀川長治さんが蘇る!生前の生声とCGで完全再現」とのことだった。



淀長さんの生前の実際の声の素片をデジタルサンプリングし、当人の発声の変化や抑揚などと併せてライブラリー化し、そこから音声素片を接続・加工する技術(ボーカロイド)を用いているようだ。
「権利者の許諾を得ている」とHuluは言明している。著作物としての映像や音声については放送事業者に著作隣接権が与えられているのでその許諾の範囲ということだろう。声の素片にしてしまえば、原著作物の創作的部分に当たらなくなり元の著作権が及ばない。それをボーカロイドしCGを用い<淀川長治>に似せたキャラで甦らせることは著作権上の「翻案権」に当たりそうだが、声の素片なる<ロンダリング>経れば「著作物を翻訳・変形し」に当たらないのだろう。もちろん、淀長さんの映像や音声といった原著作物の存在を前提としているが、独立したパロディの領域に属すると解されるということだろう。

あれは所詮パロディであって淀長さんに再会できて「好評」とする人もいれば、CGのキャラクターが亡くなった人になり代わって物言うことへの疑問も多い。「淀川氏の死後に公開された映画をさも本人が褒めたかのように演出している。淀川さんは精魂傾けて映画を評論した。彼の業績に対する敬意を感じない。私の中にある淀川さんの思い出を悪用しないで欲しい。」といった厳しい意見もある(「 CGでよみがえった淀川長治さんのCMに“好評”とはちょっと違うご意見」)。

淀長さんが亡くなったのは1998年。しかし「蘇った」淀長さんはHulu上で配信された2012年制作のスタローン主演「エクスペンダブルズ2」を推したりしている。上述の技術があればそんなことも蘇った<淀川長治さん>にやらせることできる。

「私の中にある淀川さん」については同感だ。それは私にとっては雑誌「映画の友」で健筆を奮っていた頃の淀長さんであり、リスナーからの質問に立て板に水の如く熱弁したラジオでの淀長さんであって(「淀川長治ラジオ名画劇場」)、見かけのキャラだけを他人が好き勝手に利用することについては「敬意を感じない」とする側である。

いずれにせよHuluは淀長さんの著名性に由来する財産的価値(集客力・顧客吸引力)を期待しているのだから、その経済的価値は本来「パブリシティ権(パブリシティ価値)」(後述)であろう。

この辺りは「死者にパブリシティ権があるのか」という問題に関わってくる。「パブリシティ権」を「人格権」として捉えるのであれば(裁判例)、死亡と共に「人格」が消滅し「パブリシティ権」も消滅する。しかし、上述の「敬意を感じさせない」といった捉え方からも死者(有名人)に対する名誉侵害の蓋然性はあるのだから、「人格権」とは別に「パブリシティ権」が保護されても然るべきと私は思う。憲法で定められた「表現の自由」との均衡も図られねばならないだろう。

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ところで最新の技術を用いれば、生前の淀長さんの実際の映像(著作物)から素片をマッピングしてリアルなCGにすることもできるだろうが、声とは違って二次元・三次元的映像素片(声と違って、映像はそもそも素片にならない)のマッピングは著作権法上の「翻案権」に当たる可能性がある。ポリゴンCGに留めている理由もここにあるのだろう。

ハリウッド映画では俳優の顔を三次元的映像で取り込みアーカイブ化(記録保存)し、当人が亡くなっても容姿の似た他の俳優の顔にマッピングし動作ごと全身をCGで「甦らせる」ことができるようだ。実際にそのようにして制作された映画もある(「ワイルド・スピード」で撮影中に亡くなったポール・ウォーカーが代役の体を用いて「蘇った」例など)

しかし、あくまでもこれは「撮影中に亡くなり、その作品を代役で完成させる」範疇であって、全く別の場面で蘇らせることについては、米国では認められている「(死者の)パブリシティ権」で考慮されるマターだろう。

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昨年来ピコ太郎の寸芸が世界中でブレークしている。
その余勢を駆ってか、国民的大歌手・三波春夫がそのPPAPを歌い出した。もちろん三波さんはすでに故人なので歌っているのは、当人のボーカロイドである<ハルオロイド・ミナミ>である。



巷ではなかなかの好評のようだが、この<ハルオロイド・ミナミ>についても私はそんな好評とは違う意見である。

三波さんは生前、歌い手の音楽著作権について腐心していた。同氏の著作「歌藝の天地: 歌謡曲の源流を辿る」でこう綴っている。
『この一人芝居は印象的であったのだが、最後の幕切れのときに、私は「おやっ?」と思った。私の古い歌がその芝居に使われていたのである。(中略)私の歌が一か月も芝居のなかで使われていることを知らなかったのである。もちろん、歌は歌手の喉から出た瞬間から社会の共有財産となるものだから、どこで使われてもよいのだが、(中略)歌手の労働(歌唱権と言うべきもの)を、隣接権の場で認めて戴きたいと・・・』

歌手の労働(歌唱権と言うべきもの)自体に何ら権利が認められていないことに腐心をしていた三波さんを思えば、本来、三波さんの歌藝を若い歌い手に継がせ、そういう特別な技を身につけた者の権利が認められるように社会に働きかけることが何よりも故人に敬意を払うことではないだろうか。

<ハルオロイド・ミナミ>を三波クリエイツのHPでは、『本物の「三波春夫」の歌藝の宣伝マン』と謳っている。『三波春夫をご存知ない世代の方々にも三波春夫を知って頂き、ハルオロイドの音声で、創りたい歌の世界をどんどん生み出して頂きたい!』とある。

「歌藝」の「藝」とは、草木に実際に手を添えて土に植える意味である。それがたとえ宣伝マンとしても、音声合成技術の賜物<ハルオロイド・ミナミ>なるボーカロイドで良い筈はなかろう。本人の音声を素片にし、継ぎはぎして何が生み出されるというのだろうか。ボーカロイドは技術であってもそれが「藝」となることは決してない。いくら送り手が<ハルオロイド・ミナミ>は宣伝マンであって、本物の三波春夫を知ってもらいたいのだ、などと言ったところで、<ハルオロイド・ミナミ>なるバーチャリティは独り歩きし世の中に膾炙されつつある。「すごい技術だ。本物を超えた。ヒップホップでも何でも歌わせてみたい。東京五輪では初音ミクと競演だ」など。

それが一生涯をかけ三波が遺そうとした「歌藝」への解釈なのか?大いに疑問である。

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その初音ミク。私は良く知らない。実在する声優の声を素片にした元からバーチャルなキャラクターで、キャラクター画像に合わせてボーカロイドによって誰もが歌わせることができるそうだ。2018年日仏友好160周年の日本博で「現代日本文化を世界に発信する」としてその代表として安倍総理大臣は「初音ミク」を推している。つまり、バーチャルアイドルが現代日本文化を背負うということらしい。



初音ミクは技術的にはバーチャル・インストルメントであり「楽器」の範疇なのに、ユーザはミクを「鳴らす」とか「使う」とか言わず、「歌わせる」とあたかも人格があるかのように扱う。

何事も世界から注目を浴びたい安倍総理ならば、法律を変えて電子楽器「初音ミク」に人格を持たせることも考えかねない。ミクのファンなら諸手を挙げて歓迎するだろう。バーチャリティとリアリティの見境を曖昧にする社会は、新憲法草案で自民党が狙っているように現行憲法で定められている絶対無二の「個人」を集合としての「人」にスルりと変えて、一億総○○などと括りあげることを許す。

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「個人」とはこれ以上分けることができない単位を意味し、リアリティ(現実)に唯一無二に自ずと存在する(絶対性)。

他方、「人」集団や社会を前提とした(集団や社会あっての)単位のバーチャリティ(仮想)である。自ずとは存在し得ない(相対性)。

詳しくは拙稿「「個人」か「人」か(憲法第13条)

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そんな十羽ひとからげにされた若者たちがスマホ片手にミクを追っかけて、気が付いたら鉄砲を担がされそこが戦場だったなどということにもなりかねないのである。

「仮にこうなったら」と世界観を決め、さもそれが現実かのように我々に思いこませるのが現政権である。ホルムズ海峡の機雷の脅威という話が、いつの間にかテロ予防対策と称して人間の内心を照準にした「テロ等準備罪」(実質は共謀罪)の成立がなければ東京五輪は開催できないと言い出す。東京五輪開催は国際公約であって反故にできないから、従って「テロ等準備罪」の成立は必須である・・といった思い込ませ方である。

人間の内心を探るよりも、テロの格好の標的となる原発の再稼働停止こそ現実的な対策であろう。

「人は死んだら蘇りますか?」に「蘇ります」と信じさせるのがバーチャリティの最たるもの。そのバーチャリティを象徴する機関が靖国であり続けている。七生報国とばかりに死者すら親元に返さずにこの社に呼び戻す。命の蘇りを興すのが「みそぎ」であり、その「みそぎ」なる言葉を多用し何度でも蘇りを果すのが政治家でもある。彼らが一般国民よりも先に戦場で死ぬことはない。そして戦争で勝ち負けがつくという彼らの前時代的な観念こそバーチャリティであって、核ミサイルのボタン一つで世界が終わるリアリティの前には何の意味も為さない。つまり、外交努力で核のない世界を日本が率先してこそ最大の国防となる。

今度戦うときは負けないといった戦争をし直すための「蘇り」の社に安倍総理が拝礼する限りは、「蘇らない=生き返らないからこそ、命=現実を大切にしましょう」「戦争をしないで済む外交努力をしましょう」とはならないだろう。

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名優・神山繁さんが亡くなった。「たまに思い出してくれればいい。亡くなったら、ただのカルシウムだよ。葬式無用 戒名不要」と言残したそうだ。

リアリティを地でいくとはこういうことだろう。生きていてこそ価値とは、彼の従軍経験から導き出された人生訓なのかもしれない。そしてその通り長命し大いに人生を謳歌した。

淀長さんも三波さんも「たまに思い出してくれればいい」と思っていたに違いない。

(おわり)
posted by ihagee at 18:35| エッセイ