2017年07月13日

新京第一中学校と父(第6期生)



監督・脚本:松島哲也、原作:田原和夫、主演:田中泯、夏八木勲の映画「ソ連国境15歳の夏」は2015年8月に劇場公開された。



敗戦色が濃厚となっていた昭和20年5月28日、旧満州の新京(現中国東北部・長春市)にあった旧制新京第一中学校からソ満国境の東寧報国農場に動員された学徒(当時:中学3年生=15歳)126人がソ連の侵攻に遭遇し必死の逃避行をした史実に拠っている(同農場には新京一中から動員された学徒とは別に14歳から17歳まで140名余の農場隊員がいたがその多くは非業な死を遂げたとされている)。動員された時点で国境に友軍は存在しないにも拘わらず、なぜ青少年を動員したのか?列車は不通となり、国境線の戦闘が終ったあと中学生たちは広大な大陸を歩いて新京まで帰ることになるが、伝染病と餓え、寒気、そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪の下、彼らは70余日の避難行をし、乞食姿の幽鬼の有様で新京へ辿り着くものの、4人が途中で亡くなったとされる。

その新京第一中学校の第6期生に私の父がいた(1943年同校卒)。4期下の後輩たちが上述の学徒動員に駆り出されたことになる。

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(新京第一中学校入学・右=父)


新京第一中学校は優秀な教師陣を揃え満州でトップクラスの学舎であった。父の3期下にはその後、英文学(シェークスピア)の大家となられた小田島雄志氏がいた。

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第6期生(1938年入学〜1943年卒業)、即ち、大正13年〜14年生まれは、昭和という時代を丸ごと人生としている世代でもある。その多くが社会の第一線を退いた頃、父が幹事となって学友および当時存命であった恩師と連絡を取り合って、卒業40周年(1983年)、50周年(1993年)及び60周年(2003年)の節目毎に6期会の記念文集を発行した。いずれも100頁程の小冊子である。父は退職後パソコンを能くしたので50、60周年のテキストの打ち込み・編集も受け持った。

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寄稿された文章は、内地に引き揚げた後の職歴や現況を綴ったものも多く、新京や中学時代の想い出に傾斜した内容ばかりでない点は興味深い。10年を経る毎に文集末尾に掲載の物故者名は増え逆に連絡用の住所録は薄くなり、父も重い病を得て70周年(2013年)の寄稿・編集に加わることなく、2015年の春に鬼籍に入った。母もその後を追うようにして3か月後に旅立った。

文集は遺品として今、私の手元にある。

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「朝に紅顔あって世路に誇れども 暮に白骨となって郊原に朽ちぬ(朝有紅顔誇世路)」と人生の儚さや無常を私なりに思うばかりであるが、寄稿文を「老人は夢を見、若者は幻を見る」と聖書の一節(ヨエル書第三第一節)で締めくくった方がいた。

神様の思し召しに従って人生を充実させ旅立つことを夢に見るのは老人である。父も母もそうであったろう。その啓示を知らずに俗世の支配者に幻を追わされて犠牲になるのはもっぱら若者だ。五族協和や王道楽土といった理念が最後は幻に化けて青少年までも死地に追いやったのである。

それらの理念に共鳴し中国の人々と同化し大陸に骨を埋める覚悟で渡満した人々の後から、理念を阿漕に用いようと政治家や軍人がやってくれば、初めはどんなに高尚な理念も一夜にして幻に変る。そしてあとからやってきた政治家・軍人は卑怯にもソ連兵から彼らを守ることなく一目散に逃げていた。

ソ連侵攻に先だって、軍及び政府関係の日本人家族だけが特別編成の列車で新京を離れたとされている。軍人及び政府関係者たちは明白な「棄民」を行った(映画では別のテーマ=原発事故被災者と重なっている)。軍中央も政府も、承知していた。「お友だち」だけが優遇されるのは今に始まったことではない。取り残されたのが東寧報国農場の隊員・学徒である。私の父は軍隊に召集されこそしなかったが、ソ連兵の略奪に遭い命からがら身一つで内地に引き揚げた。市民よりも先に一目散に逃げた政治家(岸信介)の孫が安倍晋三首相であり、「この道しかない」などとまたぞろ理念と称して祖父と同じく幻を若者に見せているのである。遺影の向こうから父がそう私に告げているようでならない。

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映画「ソ連国境15歳の夏」の中では、中国人として骨を埋める覚悟をした村長(田中泯演ずる元動員学徒の一人)が登場する。理念を幻にしないばかりか、残留孤児の養父養母と同様、被害者が加害者を助けるシーンはこの映画のハイライトとなっている。なお、この映画は名優・夏八木勲の遺作ともなった。

戦後70年の安倍談話「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の出典は殴られた者(周恩来)が殴った者(日本国民)に与えた赦しの言葉に他ならない(日中国交樹立時)。

忘れ難き歳月」という冊子は、日中国交樹立に関わった両国の政治家の決意が綴られている。岸信介・佐藤栄作については日中関係改善に極めて否定的な立場でしか綴られていない。そして「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない(安倍首相)」の言葉は、周恩来首相(当時)の言葉がその出自であることが判る(同書73頁〜74頁)。安倍首相はこともあろうか日中和平を絶対前提として賠償請求権を放棄した上に唇を噛み締めながらも周首相が述べた「殴られた者」からの赦しの言葉を主客を逆さに解釈し韓国との従軍慰安婦問題で勝手に流用し、さらに「靖国」に代表される嫌中の前提で用いたことまで、この冊子に照らすとわかる(第一次安倍政権で日中関係改善に努力しておきながら、変心したかの如く第二次・第三次安倍政権は中国との間に緊張関係を作ることに全精力をつぎ込むあたりも含めて)。

日中和平・友好を誓うがゆえに「殴られた者」が我々に与えた言葉、そして「殴った者」からは決して出ようもない言葉を、我々、殴った者がその言葉をわが物のように手前勝手に用いてはならない筈なのに、安倍首相、即ち、殴った者の孫が赦しの主体を挿げ替えて勝手に用いる。その傲慢且つ偏狭さは、この映画のハイライトに照らせば一層のこと炙り出される。父が存命であれば「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」なる安倍首相の戯言にどれほど憤ったことだろう。

(おわり)



posted by ihagee at 18:56| エッセイ

2017年04月21日

「チェキ」の横恋慕





富士フィルムの「写るんです」が誕生して30周年を迎えたのは去年だった。フィルム毎にカメラが付いているという逆転の発想は今なお斬新であるとともに現役のフィルムカメラとして地味ながら根強い人気がある。デジカメやスマホなどデジタル端末の画像データの扱いに四苦八苦するお年寄りには、写してカメラ毎プリントに出せるシステムは大変重宝なのだろう。そしてネガフィルムという現物(オリジナル)が手元にあるという安心感は代えがたいそうだ。それは、祖父の代のフィルムから今もプリントができるというモノとしての確実さが証明している。2011年の東北地方太平洋沖地震でも津波に流され塩水に浸かったネガやプリントといった現物から家族の思い出が復元されている(「富士フィルムの写真救済プロジェクト」)。



それとは対照的に被災したパソコンやデジタル端末から画像をレスキューすることは難しかったようだ。このことからも、経年や災害・事故にアナログ媒体は強いと実感する。メモリー上のモノに非ざる電気にはこの強さがない。

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「写るんです」と同じくニッチな人気があるフィルムカメラに富士フィルムの「チェキ」がある。フィルムを使うトイカメラのブームや、スマートフォンで撮った写真を加工してシェアできるSNS「Instagram」の登場と時期的に重なったこともあって、インスタント写真システムならではのキッチュさはカラフルな筐体共々若者に受けているようだ。ポラロイドがこの分野から消えインスタント写真は今や富士フィルムの独壇場である。「チェキの販売台数、ついにデジカメを逆転へアジアや欧米で人気が拡大・300万台の販売計画」と伝えられて久しい。



その「チェキ」用のインスタントフィルムを使ったモバイルプリンターが「スマホdeチェキ」で、スマホのデジタル写真をワイヤレスでプリンターに送信し、インスタントフィルム上に有機EL(発光ダイオード)で露光し同時にプリントアウト(現像)という仕組みだ。



フィルム自体は現像液をセットしたアナログフィルムだが、「チェキ」ではレンズからの外光をフィルム面に当てて現像する(アナログ・プリント)のに対して、「スマホdeチェキ」は最初からデジタルデータの色情報を3色(RGB)の点に置き換え有機ELで露光するので外光を使わないデジタル・プリントということになる。

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「写るんです」は、カメラ店に頼んでプリントをする段ではネガフィルムの情報をデジタルデータ化した上でのデジタル・プリントとなるので、ネガに光を当てて印画紙に露光する昔ながらの銀塩写真プリント(アナログ・プリント)ではない。引伸ばし機を使って自家焼きするマニアを除けば、アナログ・プリントと言えるのは今や「チェキ」だけとなっている。レンズを通しての自然光が情報の全てだから、失敗もするし(二重露光を除いて)撮り直しもできないが、ときに思いも寄らない写真ができたりもする。その不確実さが創造性を掻き立てるアナログ的魅力となって「チェキ」は若者の感性に応えているようだ。世界でたった一枚というオリジナリティは、オリジナルとは何なのかわからなくなりつつあるデジタル写真とは反対の方向性だろう。

著作権の観点からはこんな指摘もある
「従来は写真家がフィルムさえ確保しておけば、作品が無断で利用される事態をある程度予防することができた。しかし、写真がデジタル化された場合、データさえあれば写真はいくらでも複製・加工でき、無断利用も容易になってしまう。しかも、委託する側がデジタル化を希望するのは、上述のとおり、複製・加工が簡便だからからである。その背景には写真を一つの作品としてではなく、単なる素材として捉える考えがある。容易さに加えて、そのようなメンタリティーからも、委託する側は無断利用に陥りやすいのである。(中略)デジタル先進国のアメリカでも、デジタル技術で制作された映画をアセットとして管理する際には、あえてフィルムを使用するアナログ方式が採られている。これは、フィルムの褐色や損傷がデジタル技術で容易に復元できることもあって、安全性に問題のあるデジタル方式を避けた結果といわれている。写真についても、委託者が保管・管理を希望する場合にはアナログ方式(フィルム)を選択し、デジタル情報は廃棄するか、回収して写真家が自ら管理することが望ましい。」(「デジタル時代―浮き彫りになる写真著作権問題」(桑野雄一郎 弁護士)から抜粋)

デジタル写真の利便性が却って災いして著作権上問題となる場面が多いが、現物主義のアナログ写真では予防可能という不可思議さは、拙稿「紙は最強なり」で述べた通りだ。

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さて、その「チェキ」にハイブリッドインスタントカメラ「instax SQUARE SQ10」なる新商品が加わった(実勢価格3万円程度)。

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このSQ10は従来からある「スマホdeチェキ」のプリンターにデジタルカメラ(デジタルイメージセンサー)を載せたもので実質はプリンター付デジタルカメラだが、インスタントフィルムを用いる点が富士フィルムに言わせると「ハイブリッド」であり、他者製品との差別化らしい。しかし、露光は「スマホdeチェキ」と同じく外光を直接使わないデジタル・プリントなので従来の「チェキ」のアナログ的魅力であったアナログ・プリント部分は無くなってしまっている。LCDモニター、メモリーや編集機能があることから、最初からイメージング可能で何枚も同じ写真がプリントアウトできる点、インスタントフィルムを用いる以外は組み合わせの上での目新しさはないと思う。



SQ10専用のインスタントフィルムはスクエアフォーマットフィルム「instax SQUARE Film」でその名前の通り、62mm×62mmのプリント画面サイズの「ましかくプリント」という点が唯一の目新しさかもしれない(参照:拙稿「ましかくプリント」)。なお、SQ10に採用されているイメージセンサー(撮影素子)は主に携帯電話やスマートフォンに使われるセンサーと同じ1/4型(4.00mm×3.00mm(12.00平方mm))のCMOSのようだ。富士フィルムの最高級・中判ミラーレスデジタルカメラ「GFX50S」に搭載されているような中判サイズ43.8×32.9mm(有効画素数5140万画素)の大型CMOSセンサーではない。従って、クオリティー的にはSNS「Instagram」に応じたレベルで価格相当の妥協をしている。

若者には斬新に受け止められているスクエアフォーマットも、アナログ・120フィルム(有効画面サイズ56mm×56mm)ではすでに百年余の歴史がある。フィルムの粒子を単純にデジタル画素数に換算するのは条件が違い過ぎて難しいが、デジタルフィルムスキャナー(商用ドラムスキャナー)で120フィルムをスキャンする際に経験的に要求される画素数が5000万画素以上と知られている(スキャナーのスペックが許すのであれば1億画素とも言われている)ようなので、最新の大型CMOSセンサーで扱う以上のリアルな情報をすでに百年以上前に先人たちはフィルムという技術で得ていたことになる。基板上に配列した受光素子(フォトダイオード)よりも、所望感度に応じてフィルムに積層し得る銀粒子であれば当然といえば当然の話だろう。

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(120フィルム作例:Rolleiflex SL66 with TTL meter finder / filmed by Carl Zeiss S-Planar 1:5.6 f=120mm,
Kodak TRI-X 400)

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実物を手にせず感想を述べるのは良くないのかもしれないが、アナログ的魅力がSQ10から一掃されて何が魅力として残るのか気になるところである。

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アナログフィルムがアナログたる所以は「現像」にあるが、その「現像」を誰もが気軽に楽しめるようになればアナログ的魅力を更に開拓できるかもしれない。潜像が顕像となるプロセスの体験は新鮮である上、増感・減感などの次第で結果が大きく変わるという趣味性はマニアを除けば未だ知られていないと言える。従来、「現像」のプロセスはそれなりに大がかりで素人が始めるに当たって敷居が高かったが、フィルムを使うトイカメラのブームは「現像」にまでその関心が及び、トイ的解決方法を最近以下の商品が示して話題となっている。

LAB-BOXなるワンボックスの現像システムがそれである。



昼光の下、フィルムの引き出しから現像までの一連の処理が一つの箱の中で行える画期的な商品だそうだ。



35mmパトローネフィルムと120mmフィルム(モノクローム・カラーのいずれも可)に対応している。今流行のクラウドファンディングでの企画で残念ながら今年の3月末で一旦ファンディングの受付は終了した。当初の目標額を大幅に超える資金が集まったようなので、いずれ一般に商品化されて買えるようになるかもしれない。

ついでにアナログ・プリントにも同様にトイ的解決を期待したいところだ。その暁にはデジタルへの横恋慕は不要となることだろう。

(おわり)

posted by ihagee at 19:33| エッセイ

2017年03月30日

「跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ」



大阪市営地下鉄の民営化が決まったそうだ。



同地下鉄は1933年に開業し(梅田-天王寺間)、公営地下鉄としては日本最古。すでに民営化している東京メトロ銀座線(浅草-上野間)が我が国の地下鉄道では最古(1927年開業)となる。



これら最古の地下鉄建設工事にあたって、技術面で先駆的役割を果たした人物が実質的に「(日本の)地下鉄の父」なのだろう。

早川徳次が「(日本の)地下鉄の父」と紹介されることが多いが、彼は実業家であって技術屋ではないので上述の意味での「父」ではない。さりとて「(日本の)土木工学の父」である古市公威がその人かと言えば、学者であっても現場技師ではないのでこれも違う。

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かの西式健康法(西医学)を確立した西勝造が「その人」である(拙稿「一枚の舌と二個の耳」)。

わが国における「(実践的)健康法の父」が、それ以前に「地下鉄の父」と呼ばれる存在であることを知る人は少ないだろう。

西式健康法を編み出す前、西勝造は土木技師であった。工学の研究のため大正時代にコロンビア大学に留学し、土木技術だけでなく欧米の都市交通についても見聞見識を深め、帰朝後は東京市技師として地下鉄道工事の現場で当時として最新の工法を紹介し、また自らも工法を編み出しては現場に適用したまさに地下鉄道工事の技術的先駆者であった。

彼の横に掘る(トンネル)技術は地下鉄道工事に遺憾なく発揮されたばかりでなく、建築物の基礎工事(建築物の重量を地中の支持層に伝達する役目を担う杭を地中深く施工する杭工)で縦に深く掘られる穴にも応用され、ウェスト(西)ウエルと呼ばれる深礎工法が完成した。鋼製波板とリング枠で土留めを行いながらコンクリートを打設し杭を形成するこの工法は今も受け継がれている。

「深礎工法の父」は木田保造ということになっているが(木田が「深礎工法」を発案したということになっているが)、この木田にトンネル技術を応用することを示唆したのが西勝造なので、本当の「父」は西なのかもしれない。

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西が土木技師として大成していく過程に、山本唯三郎がいたことも興味深い。西は山本が支配人をする松昌洋行の技師でもあった(福岡三池炭鉱・第三坑長)。この山本は朝鮮大陸でアムール虎を狩りその肉を渋沢栄一など財界の大物たちに食わせた破天荒さで「虎大尽」と世間で呼ばれた一大奇矯人であった。



しかし、第一次世界大戦後の大恐慌であっという間に財を失い松昌洋行が傾いたことが、福岡の鉱山技師から東京市の地下鉄道技師に転身させる結果となったのだから、西にとっては災い転じて福を与えた恩人なのかもしれない。

技師としての構造力学的視点を土塊から人間の生身の身体に移すという西の気宇の大きさは、虎さえも調理して喰らってしまうような山本から多少なりとも影響を受けたのかそれはわからないが、山本と同じく気宇壮大な人であった合気道の創始者植芝盛平とも西は親交があったそうだから明治人同士相通じる気性なのだろう。



その植芝翁の合気道を健康法の一部に取り入れたともされるが、「病気には健康法で対処できるが、暴力には健康法だけでは足りない」と、西は彼らから虎を狩ったり暴漢を駆逐するような力技は学ばなかったようである。

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私の父方の曾祖父は医者も匙を投げ危篤状態の実娘を触手療法で見事に治した西勝造に感銘し、同氏の経済的なパトロンとなり西銘会の会長を務めた程の篤い信奉者であった。

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西式健康法を生涯実践した甲斐があったのか白寿近くまで長生し、生まれたばかりの私を膝に抱くその姿が写真に残っている。

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「跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ」とは植物学者 牧野富太郎のことば(「赭鞭一撻」より)だが、土木から人類の健康へと跋渉の労を厭わず、それぞれにおいて後世に名を残す一大事業を成し遂げた西はやはり「天才」なのだろう。



「跋渉の労を厭わず」の一つが地下鉄道工事となり、別の一つが西式健康法となって成果した。

西式健康法で思い出したが、私の母方の曾祖父は晩年<中村霊道>という精神的医術を信奉していた。この医術の創始者である中村春吉はわが国の冒険家の先駆(「自転車による世界一周無銭旅行(明治35年)」)として知られ、インドでは「食料を失って餓死寸前のところ、襲ってきたクロヒョウを撲殺しその肉で飢えをしのいだ」などと「五賃征伐将軍」という異名を持っていた快男児である。



この精神的医術は廃れてしまったが、中村もある意味において「跋渉の労を厭わず」を実践した人なのだろう。

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さて、今は「跋渉の労」を厭う「ネット民」ばかりとなって、「ポチッとイイネ」で世界の実相がわかったつもりでいるバーチャリティは(拙稿「<綴るという行為>」)、人と人が直接触れ合い影響し合う世の中が厭わしいとばかりに、ビッグデータやら人工知能(AI)に頼る社会をどんどんと推し進めていくだろう(拙稿『「AI本格稼動社会」への大いなる懸念』)。

「跋渉の労」が報われる時代はもうめぐって来ないかもしれない。これでは夢も希望もなくなるわけである。

(おわり)


posted by ihagee at 18:17| エッセイ