2017年09月01日

「24時間」のバラエティで弄ばれた「94年」の意味




1923年に建てられた銚子電鉄・本銚子駅(千葉県銚子市)の築94年の駅舎が、「24時間テレビ 愛は地球を救う」(日本テレビ系)の企画でリフォームされた。「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」なる企画で、タレントのヒロミが番組の放送中に駅舎の「生改装」を行った。「崩れそうで怖い」「電気もついていない」といった地元・清水小学校の生徒たちが今回のリフォームをテレビ局に依頼し、ヒロミが24時間という早業でリフォームにチャンレンジするというバラエティ企画である。

ネットニュースでは『24時間テレビで「築94年」駅舎リフォーム 地元大喜びなのに...鉄オタ「元に戻せ」』と題しこのリフォームに、鉄オタから反対する声が上がっていると伝える。その駅を使う人の立場になればリフォームに反対するのはおかしい等々、鉄オタの身勝手さを指摘する声が大半である。

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地元の人々にとって元の駅舎は単に「オンボロ」な存在で、ヒロミは得意とするリフォームの業を披露でき、且つ駅舎が新しくなってそれなりに利便性が上がった。リフォームした駅舎は明るくキレイ。煉瓦風タイルで化粧するなどレトロチックで、清水小学校の生徒たちの手製の小洒落たステンドグラスが飾られ、これが生徒たちにとっては夏休みの宿題の答えとなった。ポチッと「イイネ!」とクリックしたことだろう。しかしその答えは大人、それもバラエティ番組が与えた形となった。24時間テレビ枠だから「愛」やら「感動」といった演出もそれなりに入っていたようだ。

この番組を後日、動画投稿サイトでみた。そしてリフォーム前後の駅舎の写真を見比べ番組の企画趣旨を知って「?」と思った。とは言っても私は鉄オタではない。

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この本銚子駅は単式ホーム1面1線を有する無人駅。典型的なローカル線の鄙びた駅で開業は1923年(大正12年)というから今年で94年。駅舎の築年数も同じだそうだ。私の父も同じ頃に生まれ90年生きた。父がそうであったように、少なくとも昭和という時代は丸ごとこの駅を中心に経過したことになる。





戦争を経験し国土の復興に生涯を捧げた父であったから、自ら経験した時代の重みを仲間と共有し且つ後の世代に伝えようと満州時代の新京第一中学校同窓生に声掛けし文集を編纂するなど、晩年まで筆を置くことがなかった。
(拙稿「新京第一中学校と父(第6期生)」)

昭和を丸ごと生きた世代はもう殆どこの世の中に残っていないが、時代の重みは文章となって残り、その綴りから連綿と途切れることなく今に続く歴史の流れをあらためて知ることができる。彼らが経験した歴史や価値観とはこうして私を含め後の世代に継がれていくのだろう。

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駅舎とて同じだと思う。「オンボロ」分のほぼ一世紀分の記憶は、この駅舎を日常にしていた人々の間で共有されている筈だ。駅舎を中心にその時代ごとに多くの出来事や物語がある。地元の人々のアルバムの中にその時代ごとの駅舎が写りこんでいることだろう。父がそうだったように駅舎にもレーゾンデートルがあり、それが何であったのか綴って残す必要があったと思う。ところが、94年という重さも、バラエティ番組の絵作りにあっては「オンボロ」の一言で済ませ「イイネ」の一瞬に置き換える。軽薄に過ぎないだろうか?

24時間という枠と予算の範囲内で「まあだいたいそんな感じのデザインでしょ」、と大人の割り切りや、ポチッと「イイネ」とピクトグラム的に反応しておしまいにしてよかったのか?

今回の番組企画について言えば、年寄りの手や顔の皺を見て、その苦労を偲ぶと同じように、「オンボロ」分のほぼ一世紀分のレーゾンデートルが駅舎自体にもまたその駅舎を日常としてきた人々の中にもあることを、清水小学校の生徒たちに教えることこそ大人の役割ではなかったのか?ヒロミはその大人の代表としているわけだが、その場の勢いを大事にするばかり物事を単純化し(オンボロ=リフォーム)、本物とフェイク(バッドセンス)のすり替わりをサラッと許容するところなど、持ち前のヤンキー感覚をヒロミが発揮しているようにしか私には思えなかった。つまり子どもの感覚に近い大人に見える。リフォームの早業を披露する対象物としてしか築94年の駅舎を子どもたちに見せなかったこと、皺を汚い・見苦しいといって、はいキレイになりましたとビフォー・アフター演出のバラエティ番組で終わらせて良いものなのか?子どもたちを前に、大人たちが94年間のビフォーを「オンボロ」の一言の下、24時間で片してしまうことへの「?」である。

ちなみに、ビフォー・アフターのリフォームバラエティ番組は高視聴率だが、匠の工夫の結果も数年後には狭く雑然とした生活環境に戻ってしまうことも多いと聞く。匠にとってひらめきに近い合理性は住み手の住まいへの長年の意識と必ずしも整合しないからなのだろう。この番組はテレビ局の大道具係的発想を元にしているように思える。住家をドラマセットに置き換えると理解し易い。演出家のプロットでは、匠が様々な仕掛け(私には忍者屋敷のからくりのようなバッドセンスに思える)を施し、そのあまりの思いがけなさに住人が狂喜することが想定されている。24時間テレビと同じく、「愛」や「感動」が約束されたホームドラマとしてその場の絵になるが、愛着を持って住み続けられるのかなどその先は演出家も匠も知る所ではない。

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リフォームではなく、安全を確保する程度の修繕の範囲で皺は皺として残すことが、過去からの歴史を受け継ぎ整合性を保つことだと思う。ビフォーも残して綴り方を途切れさせない努力はバラエティとは別次元の課題だと思う。

整合性を保つための修繕として、根室本線の幾寅駅(いくとらえき)の駅舎(無人駅)の例がある。1933年(昭和8年)、先代駅舎が焼失してしまった後に建てられた駅舎だが、後年、外壁が新建材で覆われるなど新築風の建物に味気なく改修されたが、映画・鉄道員(ぽっぽや)の撮影に使われることになって、時代を戻す(皺=整合性を取り戻す)改修が行われた。映画の舞台となったことを別としても、その地域の過去からの歴史が象徴化し整合性を保って風景に溶け込んでいる。将来、廃線となって駅舎が本来の機能を果さなくなっても、おそらく地域の文化財として残そうと努力する人々が現れることだろう。自ら綴ってみせることは逆に人々から綴られる対象となる。この駅舎の立居に思い出して自分史を綴る人もいるだろうし、その歴史を知ろうとする人も現れるだろう。ここに本当の意味がある。

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しかし、幾寅駅の例は稀であって、公共施設であればたいていは「オンボロ=リフォーム OR 壊して建て直す」、となる。

「オンボロ」呼ばわりして壊してしまった国立競技場がそれだが、多くの人々が今なお、「オンボロ」の一言で片づけてしまったことに割り切れない気持ちでいる。円谷幸吉や市川昆ばかりでなく多くの人々にとってモニュメンタルな競技場をわずか数週間のお祭りの為に壊すことへのやるせなさだ。改修に留めて時代の足跡を消さないで欲しかった。

週末には子どもたちの歓声に沸いていた上野こども遊園地もそうだ。動物園入口に近いこともあって客足が途切れず良心的なチケットで薄利ながらも黒字経営を続けてきた。ところが、オリンピックに向けて国際都市の顔となる場所に「オンボロ」な遊具を晒すのはみっともないとか、より経済効果の高い土地活用が必要との理由から、都からの要請で閉園を余儀なくされ、跡地にはどこにでもあるようなチェーンのコーヒーショップができる。終戦直後から70年、親子三代に亘ってこの遊園地に想い出を共有してきた人々にとっての整合性などどうでも良いことなのだろうか。

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(閉園した後の上野こども遊園地・Rolleiflex SL66撮影)


「新たなレガシーを!」は小池都知事の口癖だが、時代を経て初めてレガシーとなるものを最初からレガシーと呼ぶこと自体おかしな言葉遣いだが、裏返せば「今までのレガシーは捨てましょう!」と聞こえる。2020年オリンピックでアスリートの足もとの邪魔になるからと、100年の樹齢を誇る街路樹も「古いレガシーは捨てましょう!」とばかりに伐採の運命にある。その中には関東大震災からの復興を祈念して市民からの浄財を基に植えられた樹木もあるという。ここでも時代の整合性が蔑ろにされている。

オリンピックに向けて、整合性や必然性の片鱗もない建物に作り替え、皺のない整形美人的な景観に東京の中心部はなりつつある。十年前の景色すら忘却の彼方に追い遣るに再開発側は余念がない。(拙稿『「五輪」という破壊』)

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まとめ:
以上、本銚子駅の「オンボロ」駅舎にそこまで大げさに斜に構えて語らずとも、と読者は思われたかもしれない。

しかし、この件は、歴史を振り返らず、過去から先人たちが積み上げてきた論理との整合性を面倒だとバッサリと切り捨てて「未来志向」と言い換えたり、その場感のポチッと「イイネ」に論点を二極単純化し、稚拙な喩え話やピクトグラム的(ポンチ絵的)説明で一切論理を語らず且つ綴ってみせない、いまどきの政治とどこか背景的に重なるところがある。(拙稿「<綴るという行為>」)

戦禍で瓦礫と灰燼に帰してしまった街並みを可能な限り復元することに精魂を傾けるドイツ人に、上述のような「イイネ」的能天気さの「未来志向」などないだろう。過去に目を閉ざさない証として、過去との整合を取り戻す努力をする。街並みを元に戻しつつ歴史は都合良く修正しない。(拙稿「百代の過客」)

“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”(ヴァイツゼッガー)の言葉は重い。国は違えども、同じ整合性は我々にも強く問われることである。

どんなに小さなことであろうと時代の記憶を弄ばす、先ずはしっかりとその長さ分の何かを学び取る努力をすべきと思う。ヤンキー的な思いつきでサラッと片してしまえばそれでオシマイだからだ。

(おわり)


posted by ihagee at 18:52| エッセイ

2017年08月29日

<音>から考える - プラスとマイナス



哲学者怒る「日本の公共空間はうるさすぎだ」との記事を目にした。
『私(中島 義道氏)はこのことをかつて「優しさの暴力」と呼んで、そうした単行本も書きましたが、わずかの賛同者は得られましたが、「日本人を目覚めさせる」ことはできなかった。放送を流す側も聞く側も「善意」と確信しているのですから、それをなくすのは大変なことなのです。』

・・・だそうだ。

社会生活上の自己のモラル(意識)の管理まで他者に安易に預けてしまう<意識なきシステム>が楽だとする社会(拙稿「<意識なきシステム>で「世界一」となる国」)が背景にある。この<意識なきシステム>がいかに国際社会で特異(通用しない)であるかという点と、<サウンドスケープ>という考え方を説明した方が良いと思う。

以下、ブログ記事を再掲したい。

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東北復興支援と言いながらなぜか東京再開発(復興)。建設資源(ヒト・モノ・カネ)は東京に一局集中。「東京への影響はない(竹田五輪招致委員会会長)」なる言葉の通り、未だ仮設住宅の被災地を尻目に3/11の被災地を踏み台にした都会人の横暴としか私の目には映らない。

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そんな<東京復興需要>に浮き足立った東京。国際都市をやたらアピールする。そんな国際化?の中で在日外国人や外国人観光客に「日本がいかに素晴らしいか・凄いか」を言わせるテレビ番組が氾濫し、その自画自賛・夜郎自大ぶりには辟易する。相手の文化や歴史・価値観などお構いなしである。

ところが、訪日外国人(特に欧米人)がほとんど異口同音に言うのが「日本人は静かなのに、なぜ公共交通機関はああも騒々しいのか?」である。特に、首都圏の電車・プラットホーム・構内の音は異常に感じるらしい。

私自身もそう思う。私の子どもの頃は今みたいに騒々しくなかった。とくに発車メロディやら車内の注意放送の多さ・音の大きさは冷静に考えれば異常である。都営地下鉄は昔ながらに程々なのに、東京メトロは特に酷い。音の洪水である。

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「あぁ違う国に来たのだな」と最初に思うのは、その訪れた先の鉄道を利用するときかもしれない。

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(フランクフルト中央駅・1984年 / 筆者撮影)

欧州の鉄道、たとえばドイツの場合、ミュンヘン国際空港からミュンヘン市内まではS-バーンという鉄道で向かうのであるが、プラットホームも車両の中も我が国ではおなじみのあの<音>がない。


(ハンブルクのS-Bahn・静かだ)

 
<音>とは駅構内や車内での定型的な案内放送のことである。ドイツではそれらは録音されたもので短く且つ繰り返しがない。例えば、プラットホームでは<Bitte einsteigen, Türen schließen! ビッテ アインシュタイゲン、テューレン シュリーセン>「お乗りください。扉が閉まります。」、車内では "Die nächste Haltestelle ist Isartor. ディー ネヒステ ハルテシュテレ イスト イザールトア"「次の停車駅はイザールトア。」と僅か数秒で復唱しない。そして、列車は駅に到着し、たまに車掌がホイッスルを鳴らしたりホームで<ポン>と短く発車のチャイムが鳴ったりすることがあるが、たいていは乗降が終わるとさしたる合図もなくスルスルと走り出すのである。S-バーンなど中近距離路線では事故や重大な遅延以外で車掌が車内放送をすることもあまりない。市内のU-バーン(地下鉄)も同様である。そしてどちらにも我々が普段目にしているようなフラップドア式の<自動改札機>は存在しない。ドイツでは乗車券を買ったら乗客自身の手でガチャンと券売機横の機械に通して日時などを打刻するが、自動改札機とは当地ではこの機械のことを指す。従って、乗車券を買わなくとも、打刻せずとも、乗り込むことができる(抜き打ちの車内検札で捕まれば多額のペナルティを課されることになるが)。
 
案内を聞き逃したらどうしてくれると、我が国なら乗客が車掌に詰め寄るところだが、ドイツでは隣にいる乗客に訊けば良いだけの話である。乗車券を買って打刻して乗るのが大多数の当たり前なので、それが当たり前でない少数の人々の為にわざわざフラップドア式のゲートを設置したりしないだけの話である。

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ミュンヘン市内のU-バーン(地下鉄)に至っては、行き先の異なる2系統の列車が同じホームに発着したりするので、駅や車内の案内放送の少なさはお年寄りや身障者にとっては不便だろうと我々は思うが、ドイツでは周囲の人々が手を差し伸べるのが社会生活の常識となっている(移民を多く受け入れるドイツではもはや常識ではなくなりつつあるが)。放送がなかったとか、説明が足りないと駅員や車掌に詰め寄る前に、先ずはその場にいる人々で解決するというハンザ精神なのかもしれない。私も過去何回かのドイツの鉄道旅行では隣の人に助けられたし、逆に見ず知らずの年寄りに手を貸して乗り降りを手伝ったりしたものである。
 
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ドイツでは公共施設やオフィスでは必要最小限の照明が相場であって、駅の構内も例外ではなく我々日本人にとって薄暗く感じる。<音>の無さと薄暗さは、常に頭上から案内ばかりか注意やお願いなどが降るように鳴っていて、どこもかしこもコンビニの照明のように明るいことが生活環境の一部となっている日本人にとっては、冷たく寂しく感じるのである。これが「あぁ違う国に来たのだな」、と思わせるのだろう。
 
執拗なまでの駅放送・車内放送やフラップドアの自動改札機など、他者や機械に行動規範(モラル)や判断を委ねることにさして疑問を覚えさせないオートパイロットモードで、電車の中で居眠りをしていても無事目的地にたどりつく日本人にとって、このひんやりと突き放されるような感じはいきなりマニュアルモードに切り替わることと言ったらわかりやすいかもしれない。
 
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ドイツの話に戻るが、車内放送が少ないからといって誰もが降りそびれるわけでもないし、フラップドア式のゲートがないからといって誰もが薩摩の守(ただのり)をするわけではないだろう。日本人もドイツに行けばその通り郷に従っている筈である。従って、我が国でもドイツと同じように音なしゲートなしでも構わない筈だが、だからといってその通りにして個の判断や行動規範(モラル)がまともに尊重・信用されることに我々日本人は大いにたじろぐのである。たとえば、明日からいきなり駅間の車内放送が一言だけで入構のゲートが取り払われて、「あなたを信用していますから」と鉄道会社に言われたら、「居眠りしたら聞き逃す。案内を繰り返してくれ。」とか、「ズルするかもしれないからゲートを設置してくれ。」と言うのが我々日本人であろう。
 
つまり、個の行動規範(モラル)や判断が尊重・信用されること、裏返せば、各自で主体的に判断しその結果責任を負うことについては、面倒だ・嫌だ・というのが我々の共通する思いなのかもしれない。フラップドアのゲートの例でいえば、個々のモラルや意識に担保されるべきことを機械といった意識なきシステムに簡単に負わせてしまう。それがあたかも賢い解決の仕方だと合点してしまう。レールに沿って仕分けされる商品のように思考や判断を停止したまま会社にたどり着けるシステムに毎日身を委ねているのである。
 
最近、首都圏の鉄道で僅か数分の電車の遅延でも車内放送で「深くお詫びもうしあげます。まことに申し訳ございません。」などと最上級の詫びが入るようになったのもある意味でこの判断・思考停止だと思う。鉄道会社の言い分だと、数分遅延しただけでも大迷惑な乗客も中にはいるかもしれず、些細なことであっても一言丁重に車掌が乗客全員に謝ることがマニュアル化されているそうだ。乗客同士の喧嘩や痴漢が原因で運行に支障が出ても、鉄道会社はそれらマナー違反の乗客に代わって「深く詫びる」ことになっている。挙句は、本来は乗客のモラルに委ねるべき車内マナーや所作まで、一々放送しなくてはならないのである。乗客同士も互いに注意し合うことに関わりたくない意識もあるのだろう。そう言う側もそう言わせる側も、根本の部分で思考が停止して、先ずはマニュアルとして言う・言わせている、社会が見えてくる。ある首都圏の私鉄では駅や車内放送のマニュアル集が一昔前に比べて三倍の厚さになったそうだ。個々の判断や思考はやめて、ついついお互いの合点や合意を求めてしまうのである。

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<些細なことでも謝れれば悪い気はしないし、そういうのは日本人同士の気遣いだから>とする人が大半かもしれない。しかし、このような社会生活上の小さな判断・思考停止が習慣的に積み上がると、根本の部分の思考が停止した合意前提のムラ社会ができあがる。原発(ムラ)然りである。
 
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さて話を逆に向けてみるが、ある雑誌の調査によると、日本に訪れた欧米人にとって「あぁ違う国に来たのだな」と最初に思うのは<発車メロディ>を耳にするときだそうだ。
 
首都圏の鉄道で駅ごとにそれも上り下りで別々に電車やホームのドアが閉まる時にプラットホームで鳴るあの電子音楽のことである。

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同様の案内は車内で英語を伴って自動放送され(有楽町線の自動放送は太く響く女声で且つ音量が大)、車掌(ワンマン運転の場合は運転手)が復唱し、注意やお願いお詫びの言葉がさらに付け加わる。通勤時間帯の「女性専用車両」の案内は該当車両(最後尾車両)だけでなく全車両に「ご協力をお願いします」と執拗にアナウンスされるが該当車両以外の乗客には何を協力されているのか意味がわからない。

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<発車メロディ>とは「鉄道駅において乗降中の利用者に列車が発車することを伝える音楽あるいはそのシステム(wikipedia)」との定義である。そもそもの目的は「乗降中の利用者に列車が発車することを伝える」ことであって、従来からあった<発車ベル・チャイム・ブザー>がその目的を果たしていたと思っていたら、いつの間にか<メロディ>に代わっている。地方ではその土地に因む民謡や歌謡曲が採用されていることからも地域振興の目的があると理解できるが、東京メトロなど首都圏の鉄道駅での<発車メロディ>はそのようなご当地ものでもなく、多くは作曲家の手によるオリジナル作品なのだそうだ。
 
従って、首都圏の鉄道の<発車メロディ>の<メロディ>である理由は、各鉄道会社の説明を総合すると、ベルやブザーは乗客にストレスを与えるがメロディはそのストレスを和らげる、メロディがあれば乗客は乗降の時間を推しはかることができる(メロディが終わる迄に乗り降りすれば良いとわかる)、駅に親しみを持ってもらうことや場を和ませること、メロディから駅や上下線の区別がつくことなどだそうで、耳に心地良く乗客に乗降する動作を促すような音節やメリハリや長さが要件とのこと。どうやら、ベルやブザーといった単純な信号の方が耳につかずに良いと思うのは私を含めてマイノリティーなのかもしれない。
 
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欧米では鉄道駅、それも乗客が乗り降りするプラットホームで音楽を鳴らすことはまずありえない。ニューヨークの地下鉄でも様々なジャンルのミュージシャンが交通局の許可を得てパフォーマンスをしているが、プラットホームでは保守安全上の観点から原則、認めていない筈だ。
 
乗降の為に<メロディ>が鉄道システム上、必要だなどと露程も思っていない欧米人が、東京を訪れて耳にする<発車メロディ>はその意味でカルチャーショックのようである。パフォーマーへの許可どころか当局が率先してそれもプラットホームでのべつ幕なし鳴らしていること、上り下りで別々の<メロディ>が重なり合ってカオス状態で鳴り響く中を気にするそぶりもなく乗り降りする乗客を見て<weirdウィアード>と彼らはツィートするのであろう。
 
<メロディ>でありながら誰も聴き入らないが、さりとて無視するわけでもない。<環境音楽>のアーティストであれば、大いに創造力を掻き立てられる景色かもしれないし、安倍首相の言う<クールジャパン>をそこから額面通り受け取ってくれる欧米人も中にはいるかもしれない。しかし、所詮は<ジャラパゴス>であり、欧米諸国の鉄道システムとは何ら互換性を持ちえないものだと思う。
 
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映画の世界ではこの<発車メロディ>は邪魔にしかならないだろう。まして演歌の世界ではそれは今も昔も<ベル>でなければサマにならないのである。メガネをかけかえれば、やはり異質な景色に映るのである。
 
ドラマ<七人の刑事 終着駅の女>でも上野駅の16番線ホームに転がる死体の背後でジリリリと鳴る駅のベルの実録音がちょっとした演出となっているし、NHKのドラマ<駅>でも佐藤慶が小林千登勢と絡むシーンも同じくベルが効果的に鳴る上野駅だと記憶している。ベルだから台詞や動作に過度に被らないわけだし、
♪白い夜霧の あかりに濡れて/別れせつない プラットホーム/ベルが鳴る ベルが鳴る/さらばと告げて 手を振る君は/赤いランプの 終列車♪、と<ベルが鳴る/さらばと告げて>だから春日八郎の<赤いランプの終列車>は絵になるのである。
 
ちなみに上野駅では今でも発車ベルである(一部の番線では<発車メロディ>採用)。そのベルに集団就職で降り立ったことを思いだす<ああ上野駅>世代からの要望あってのことだそうだが、上野がターミナルでなくなった今、いずれ全て<発車メロディ>になることだろう。
 
駅という人と人がすれ違う場ゆえに、ベル以上はおせっかい。と私は思うのだが・・
話がいささかくどくなった。
 
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鉄道駅の<発車メロディ>が「乗降中の利用者に列車が発車することを伝える」を目的とするシステムであれば、横断歩道にも<メロディ>や<擬音>を用いたシステムがある。
 
それは、視覚障害用の横断歩道<音響装置付信号機>のことであり、<メロディ>や<擬音>の目的は「視覚障害者が安全に道路を横断できるよう歩行者用青信号を音響により知らせること(警察庁)」である。
 
<音響装置付信号機>にはメロディ式と擬音式があって、メロディ式は童謡の<通りゃんせ>がお馴染みであるが、都心部を中心にメロディ式から<カッコー>や<ピヨ>なる擬音式に代わりつつある。この擬音式では、一方向から誘導音「ピヨ」(または「カッコー」)が、逆方向から「ピヨピヨ」(または「カカコー」)が交互に鳴る異種鳴き交わし方式が主流となりつつあると言う。音の出どころと鳴き交わしによって、方向(音源定位)とタイミングを視覚障害者に効果的に知らせるシステムとのことで、たいていの横断歩道には視覚障害者用の誘導用ブロックが敷設されているので、ブロックとこの誘導音によって安全が担保されているということらしい。
 
さて、視覚障害者にとって鉄道駅の<発車メロディ>はどうであろうか?
視覚障害者のネット上の意見は少ないが、駅や上下線の別を<メロディ>の別で認識できる点では助かっているようである。<発車メロディ>よりも、誘導用ブロックと最近設置が進んでいるホームドアや階段位置を示す<ピンポーン>と鳴る音サイン、点字の案内標識などがシステムとして重要なことは言うまでもない。
 
自身の足音や白杖の地面を打つ音が周囲に物に当たって反射する音を聞いて周囲の環境を認知することの多い視覚障害者にとって、<発車メロディ>は上述のように駅や上下線の区別に役に立つかもしれないが、それ以外の聴覚上の認知を妨げる要因にならないかと心配する。杖の音が拾えないとか、音サインを聞きそびれるといったことである。

先般、視覚障害者がホーム下に落下して電車にはねられて死亡する痛ましい事故があった。ホームの構造やホームドアの設置有無と併せて<サウンドスケープ>についても見直す必要があるのではないか?

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<音>と<環境>のかかわりを考察する社会科学分野を<サウンドスケープ>と呼ぶそうだ。
その分野からすると、視覚障害者にとってはまさに<音>は意味世界そのものであり、そのような障害者にとっての必須な音と不必要な音との切り分けの点から都市空間をデザインする試みにおいて、我が国は欧米からかなり立ち遅れていると指摘されている。ここでの<音>は視覚障害者にとっては命にかかわることであり、健常者にとって<発車メロディ>が音づくり(プラスのデザイン)であっても、視覚障害者の側に立てば、それは音の規制(マイナスのデザイン)に照らしてみるべきことなのかもしれないという、互いの対極に立った考え方である。
 
ドイツの鉄道駅や車内の音のデザインはこの意味でマイナスのデザインを基調とするものかもしれない。
 
<クールジャパン>なるカルチャーでデザインしていては、<音>を介した人間と環境との関係性という社会生活における根本命題には到達しないであろう。<クールジャパン>の範疇では、いつまでたっても、隣駅が<鉄腕アトム>ならばこちらはどんな楽しい<発車メロディ>にしようか?である。
 
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<音>から考える事例をもう一つ。
 
ニュース番組はその報道の性格上、制作者の主観を極力排し、事実の描写をその目的としなくてはならない筈である。ところが、民放テレビ各局においては定時のニュース番組で演出を映像に加える傾向が強くなっている。その演出の際たるものが、映像の本質とは無関係な<音(BGM)>の付加である。
 
なぜ、<音(BGM)>を加えるのか?ニュース番組であっても視聴率の為にはバラエティ化・エンターテイメント化が必要でありその演出手法として入れているという説と、<音(BGM)>を加えることによって映像にある意味の印象操作を施しているという説があるが、いずれにせよ、映像の本質とは無関係な<音(BGM)>の付加に変わりない。
 
BSチャンネルでBBCやZDFなどの海外放送局のニュース番組と比較すると差は明らかである。それらにおいて映像と関係のない<音(BGM)>は一切加えられていない。天気予報ですらそうである。ついでに言うとアナウンサーの品格までもが違って見える。おかしな<音(BGM)>がなければそう印象付けられるのである。
 
BBCやZDFなどの海外放送局のニュース番組においても、音のデザインはマイナスのデザインを基調とするものなのだろう。
 
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<笑点>で先日、三遊亭圓楽が「欧米に比べて駅の案内うるさ過ぎませんかね〜」と持ち上げたが然りである。圓楽はたまに社会問題をそれとなく噺のくすぐりに使うが、<音>一つをとっても社会生活においてはプラマイ(±)の思考が及ぶ社会であってほしいものである。
 
ドイツを旅行して鉄道駅の<音>の違いに気付くのであれば、或いは、BSの海外放送局のニュース番組の<音>の違いをじっと見つめれば、その背後に考えのある社会が見えてくるのではないだろうか?

(おわり)
posted by ihagee at 19:57| エッセイ

2017年08月07日

「軍人として非常なる損害(白瀬矗)」が北方領土問題の元



安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領が長門市で会談し北方領土での共同経済活動に向けた協議の開始を合意したことは記憶に新しい(2016年12月15日)。民間を含めた日本側の対露経済協力は総額3000億円規模となる。

ところが、先月ロシアは北方領土に国内法に従って経済特区(先行発展地域)を設け第三国の企業進出への道を開く方針に転じてしまった(北方領土を管轄するトルトネフ極東連邦管区大統領全権が同特区指定を政府に提案する旨を発表している)。

このことは、北方領土、即ち、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々について、ロシアが自国の法律に基づいて事業を行うように日本側に圧力をかけ始めたと理解すべきだろう。北方領土について、ロシアは主権を1mmたりとて譲らないばかりか、軍事的にも経済的にも実効支配を強める姿勢に、先の合意の日本側の意義が大いに問われている。

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明治政府による開拓事業(黒田開拓使)から歴史を辿れば、樺太千島交換条約発効後(1875年)はクリル諸島を千島国に入れ、ウルップ島からシュムシュ島までのすべての島が日本領となり、海軍大尉郡司成忠が「報效義会」を組織し(1893)、占守島開発と周辺海域の警備に当たり、さらに日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で北緯50度以南の南樺太が日本の領土となったが、太平洋戦争で日本が敗れサンフランシスコ平和条約で日本は「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する(第2条)」に従う立場になったが、同条約に当時のソ連は調印していないことと、千島列島に北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)が歴史的に含まれておらず(歴史的に日本以外の他国の領土になったことがない)、その千島列島の「放棄」後に帰属する国がどこかも決まっておらず、条約上、対露関係では「放棄していない」わが国の立場が、北方領土問題となっている。

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黒田開拓使とは、ロシア帝国の覇権が及びつつあった樺太に危機感を覚えた明治政府は明治3年(1870)に黒田清隆(旧薩摩藩士)を開拓使次官として設置した使節で、対露沿岸交易の可能性を探りつつ経済圏を拡大しようとする政治的野心が企図されていた(拙稿「横山松三郎と或る函館商人」)。

この開拓使が呼び水となって、日本人の漁業者が沿海州、カムチャッカ東海岸に資源(主に鮭・蟹)を求めて北方へ進出することになる。明治20年代になるとロシア側は外国人の海面漁業の規制を緩めた為、さらに日本からの漁業者の沿海州への進出に繋がった。

カムチャッカ沖に志を固めた者たちについて「一抹の航跡(函館・筑紫丸(ちくしまる))」で綴った。その者の一人であった曾祖父(明治元年生まれ)が残した手記に「郡司成忠」の名がある。

以下、手記を抜粋する。

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「26才のとき、札幌でイギリス人の経営するアルコール醸造所を引き受けて経営していました折、国策で課税が大きくなり採算がとれず閉業しました。27才のとき、函館のイギリス人ハウルが経営する田中鑛山の用度課長に就任して入山しましたが、31才で退山しました。

32才のとき、イギリス人デンビー氏経営の樺太漁業に従事しました。三井物産会社と、代議士牧口義方、福山の山本昇右エ門、越後の大島重太郎、伊勢四日市の九鬼紋七、北海道江差の永瀧松太郎氏の五氏の出資で、ロシア領ニコライエフスク即ち黒竜江の鮭の漁業に従事することになったのである。

投網五統で行う鮭漁は六千尾を以て百石といいましたが、この年の漁獲は大漁で一万数千石となり、更に幸いなことに、この年の鮭市場は高騰したため、各出資者への配当は実に十三割になりました。

翌年、また大々的に準備しているとき、ロシア官憲から日本型角網は乱獲の為、今後漁業は禁止するとの命が出てしまいました。

33才のときは、規模を小さくしてニコライエフスクに漁業に出ました。

34才のとき、ウラジオストックのロシア人と共同出資で日露漁業事務所を設置し、カムチャッカ西海岸百マイル南北の地点に投網五カ所の許可を受けました。

汽船二艘に漁夫二百五十人と漁具を満載し、その総帥となって五月に出発しました。カムチャッカの首都ペトロパロースク港に入港し、諸般の手続を終え、一週間停泊してから漁場に回航しました。

カムパコーハを根拠地とし、その前後五十(日本)里の間に網五統を建て、大きな漁獲がありました。捕った得物を塩蔵とし積取船二艘に満載して帰国させました。

その後の獲物約六千石と漁夫二百五十名を乗せてペトロパロースクから回航中のことです。占守島沖で難航し沈没する憂目にあってしまいました。

占守島に居た郡司成忠海軍大尉に助けられて上陸し待機していました。

郡司氏は報效義会で石川丸、報效丸、占守丸の三艘の帆船があり、漁夫はこの三艘に分乗しました。私は七十人の漁夫と一緒に石川丸に乗りました。十五日余りで北海道厚岸港に入港、上陸して釧路を廻り、日本輸船会社の汽船で十月末函館に帰り着きました。」

(引用終わり)

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引用にあるのは、曾祖父にとって自分史のほんの数ページ分に過ぎない。

物心ついて間もなく父母に死に別れ、10代にして意を決し家を飛び出て、神戸一の鰻屋(江戸孝)の配達夫から、洋品雑貨食料品製造業の菅谷善司方での丁稚奉公を経て、横浜居留地三十番にあったフランス人の商館レビュー商会に雇われ、夜は羽衣町の大塚法律学校に通って法律と英語を学び(親友に後に横浜貿易新聞を発行して横浜の名士となる恩田栄次郎がいる)、函館に活動の場を移した菅谷善司に付いて函館に移るという前史があり(拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)、天津の日本租界から日本が日露戦争で占領した営口に渡り、政商となって営口の市街建設に取り組み、南満州鉄道会社の指定請負人に指定されて大連でいくつもの会社を起業経営し40代から28年間に亘って大連・新京の市街地設計を企画し(大連郊外土地株式会社専務取締役)、学校を経営し(双葉学院院長など)、輸入自動車の販売を取扱い(大連スミス自動車株式会社社長)、その間もキリスト組合教会の執事、大連区長や市会議員を務め、西勝造氏の西式健康法を資金面から支えるばかりか(西銘会会長)満州での西氏講演旅行を企画挙行し(拙稿「跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ」「一枚の舌と二個の耳」)、敗戦とともにあらかた資産を失いながらも頭脳明晰に百歳近くまで矍鑠とした生活を送った後史がある。

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出資の内外を問わず、機を見るに敏であり、一つの成功体験に囚われず、常に新たな事業にリスクを恐れずチャレンジする気宇の大きさ逞しさは明治人に多かれ少なかれ共通する気質だろう。そういう気質を許すだけのチャンスに恵まれた時代でもあった。

イギリス人ハウルはデンビーと商売上の取引があったので、曾祖父は鑛山から漁場に移る伝手があったのだろう。漁場の先には、すでに多大な犠牲を払いながらも千島拓殖事業(第二次)を報效義会と共に行っていた郡司成忠がいた。日露戦争は講和条約(ポーツマス条約)でこの地域の日本の領土を広げる結果となったが、それが却って実効支配を緩めることとなって、占守島の拓殖事業も郡司の死後は日本人一家族だけとなって、太平洋戦争での敗戦後のソ連進駐に伴い島を離れざるを得ず、拓殖なる実効支配を目的にしていた報效義会はここに完全消滅した。

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日本人漁夫の活躍が、格段に優れた漁法(投網五統)や保存法(塩蔵技術)で帝政ロシアにとってすぐに脅威となったと同じく、第二次千島拓殖時の報效義会が占守島で築き上げた経済生活圏は、魚肉の缶詰工場や鍛工場が建設され、幌延島には分村が作られ、会員も増加していき、1903年(明治36年)には、占守島の定住者は170人(男100人、女70人)にまで膨らむなど、拓殖の成果を上げつつあった。

歴史の過去に「もし」はあり得ないが、中国東北部に中国人と同化して骨を埋める覚悟で内地から殖民としてやってきた人々の後から、政治軍事的な実効支配を狙って安倍首相の祖父やら神国の軍隊がゾロゾロと入ってこなければ、ブラジル移民(日系ブラジル人)のような関係(日系中国人)のまま、今日まで当初の理念としての「五族協和」が続いていたかもしれない。大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家(満州国)なぞ目指すこともなかった筈だ。そんな独立国家など作ったばかりに、敗戦という政治軍事上の落とし前で、全てが無になってしまった。

「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」についても同様で、報效義会的に民間主導でアイヌ人や樺太の原住民(ニブフなど)と協和する経済生活圏を着実に広げていけば、今日の北方領土問題はなかっただろう。

「矗は軍人として非常なる損害を蒙るに至った」と政治軍事的に実効支配すべきだと、郡司を批難した白瀬矗を代表する意見が、郡司の拓殖なる民間主導の実効支配を阻害し、逆に政治軍事的イシューとして白黒付けやすくなり、挙句サンフランシスコ平和条約で片づけられてしまうこととなった。

「住んでいるから、生活しているから、原住民と同化共存しているから」と事実上の実効支配を言えたのは当初日本の側であったのに、今ではロシアの側の言い分となっている。

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難船沈没した船から曾祖父らを助けてくれたのは、郡司の報效義会であった。報效義会は占守島沖で遭難した船がどの国の船であろうと救助することを使命としていたようだ。民間であればできることも、政治や軍事が絡んでいたらどうであろうか?

あらためて、北方領土問題について、一旦、事実上の実効支配を許してしまえば、いかに解決が困難になるか、そのきっかけはロシアにあるのではなく、日本側(大日本主義に取り憑かれた政治家・軍部)が作ったのかもしれない。その大日本主義の系譜に日本会議とそれに連なる安倍政権がある(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。

(おわり)



posted by ihagee at 18:08| エッセイ