1923年に建てられた銚子電鉄・本銚子駅(千葉県銚子市)の築94年の駅舎が、「24時間テレビ 愛は地球を救う」(日本テレビ系)の企画でリフォームされた。「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」なる企画で、タレントのヒロミが番組の放送中に駅舎の「生改装」を行った。「崩れそうで怖い」「電気もついていない」といった地元・清水小学校の生徒たちが今回のリフォームをテレビ局に依頼し、ヒロミが24時間という早業でリフォームにチャンレンジするというバラエティ企画である。
ネットニュースでは『24時間テレビで「築94年」駅舎リフォーム 地元大喜びなのに...鉄オタ「元に戻せ」』と題しこのリフォームに、鉄オタから反対する声が上がっていると伝える。その駅を使う人の立場になればリフォームに反対するのはおかしい等々、鉄オタの身勝手さを指摘する声が大半である。
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地元の人々にとって元の駅舎は単に「オンボロ」な存在で、ヒロミは得意とするリフォームの業を披露でき、且つ駅舎が新しくなってそれなりに利便性が上がった。リフォームした駅舎は明るくキレイ。煉瓦風タイルで化粧するなどレトロチックで、清水小学校の生徒たちの手製の小洒落たステンドグラスが飾られ、これが生徒たちにとっては夏休みの宿題の答えとなった。ポチッと「イイネ!」とクリックしたことだろう。しかしその答えは大人、それもバラエティ番組が与えた形となった。24時間テレビ枠だから「愛」やら「感動」といった演出もそれなりに入っていたようだ。
この番組を後日、動画投稿サイトでみた。そしてリフォーム前後の駅舎の写真を見比べ番組の企画趣旨を知って「?」と思った。とは言っても私は鉄オタではない。
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この本銚子駅は単式ホーム1面1線を有する無人駅。典型的なローカル線の鄙びた駅で開業は1923年(大正12年)というから今年で94年。駅舎の築年数も同じだそうだ。私の父も同じ頃に生まれ90年生きた。父がそうであったように、少なくとも昭和という時代は丸ごとこの駅を中心に経過したことになる。
戦争を経験し国土の復興に生涯を捧げた父であったから、自ら経験した時代の重みを仲間と共有し且つ後の世代に伝えようと満州時代の新京第一中学校同窓生に声掛けし文集を編纂するなど、晩年まで筆を置くことがなかった。
(拙稿「新京第一中学校と父(第6期生)」)
昭和を丸ごと生きた世代はもう殆どこの世の中に残っていないが、時代の重みは文章となって残り、その綴りから連綿と途切れることなく今に続く歴史の流れをあらためて知ることができる。彼らが経験した歴史や価値観とはこうして私を含め後の世代に継がれていくのだろう。
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駅舎とて同じだと思う。「オンボロ」分のほぼ一世紀分の記憶は、この駅舎を日常にしていた人々の間で共有されている筈だ。駅舎を中心にその時代ごとに多くの出来事や物語がある。地元の人々のアルバムの中にその時代ごとの駅舎が写りこんでいることだろう。父がそうだったように駅舎にもレーゾンデートルがあり、それが何であったのか綴って残す必要があったと思う。ところが、94年という重さも、バラエティ番組の絵作りにあっては「オンボロ」の一言で済ませ「イイネ」の一瞬に置き換える。軽薄に過ぎないだろうか?
24時間という枠と予算の範囲内で「まあだいたいそんな感じのデザインでしょ」、と大人の割り切りや、ポチッと「イイネ」とピクトグラム的に反応しておしまいにしてよかったのか?
今回の番組企画について言えば、年寄りの手や顔の皺を見て、その苦労を偲ぶと同じように、「オンボロ」分のほぼ一世紀分のレーゾンデートルが駅舎自体にもまたその駅舎を日常としてきた人々の中にもあることを、清水小学校の生徒たちに教えることこそ大人の役割ではなかったのか?ヒロミはその大人の代表としているわけだが、その場の勢いを大事にするばかり物事を単純化し(オンボロ=リフォーム)、本物とフェイク(バッドセンス)のすり替わりをサラッと許容するところなど、持ち前のヤンキー感覚をヒロミが発揮しているようにしか私には思えなかった。つまり子どもの感覚に近い大人に見える。リフォームの早業を披露する対象物としてしか築94年の駅舎を子どもたちに見せなかったこと、皺を汚い・見苦しいといって、はいキレイになりましたとビフォー・アフター演出のバラエティ番組で終わらせて良いものなのか?子どもたちを前に、大人たちが94年間のビフォーを「オンボロ」の一言の下、24時間で片してしまうことへの「?」である。
ちなみに、ビフォー・アフターのリフォームバラエティ番組は高視聴率だが、匠の工夫の結果も数年後には狭く雑然とした生活環境に戻ってしまうことも多いと聞く。匠にとってひらめきに近い合理性は住み手の住まいへの長年の意識と必ずしも整合しないからなのだろう。この番組はテレビ局の大道具係的発想を元にしているように思える。住家をドラマセットに置き換えると理解し易い。演出家のプロットでは、匠が様々な仕掛け(私には忍者屋敷のからくりのようなバッドセンスに思える)を施し、そのあまりの思いがけなさに住人が狂喜することが想定されている。24時間テレビと同じく、「愛」や「感動」が約束されたホームドラマとしてその場の絵になるが、愛着を持って住み続けられるのかなどその先は演出家も匠も知る所ではない。
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リフォームではなく、安全を確保する程度の修繕の範囲で皺は皺として残すことが、過去からの歴史を受け継ぎ整合性を保つことだと思う。ビフォーも残して綴り方を途切れさせない努力はバラエティとは別次元の課題だと思う。
整合性を保つための修繕として、根室本線の幾寅駅(いくとらえき)の駅舎(無人駅)の例がある。1933年(昭和8年)、先代駅舎が焼失してしまった後に建てられた駅舎だが、後年、外壁が新建材で覆われるなど新築風の建物に味気なく改修されたが、映画・鉄道員(ぽっぽや)の撮影に使われることになって、時代を戻す(皺=整合性を取り戻す)改修が行われた。映画の舞台となったことを別としても、その地域の過去からの歴史が象徴化し整合性を保って風景に溶け込んでいる。将来、廃線となって駅舎が本来の機能を果さなくなっても、おそらく地域の文化財として残そうと努力する人々が現れることだろう。自ら綴ってみせることは逆に人々から綴られる対象となる。この駅舎の立居に思い出して自分史を綴る人もいるだろうし、その歴史を知ろうとする人も現れるだろう。ここに本当の意味がある。
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しかし、幾寅駅の例は稀であって、公共施設であればたいていは「オンボロ=リフォーム OR 壊して建て直す」、となる。
「オンボロ」呼ばわりして壊してしまった国立競技場がそれだが、多くの人々が今なお、「オンボロ」の一言で片づけてしまったことに割り切れない気持ちでいる。円谷幸吉や市川昆ばかりでなく多くの人々にとってモニュメンタルな競技場をわずか数週間のお祭りの為に壊すことへのやるせなさだ。改修に留めて時代の足跡を消さないで欲しかった。
週末には子どもたちの歓声に沸いていた上野こども遊園地もそうだ。動物園入口に近いこともあって客足が途切れず良心的なチケットで薄利ながらも黒字経営を続けてきた。ところが、オリンピックに向けて国際都市の顔となる場所に「オンボロ」な遊具を晒すのはみっともないとか、より経済効果の高い土地活用が必要との理由から、都からの要請で閉園を余儀なくされ、跡地にはどこにでもあるようなチェーンのコーヒーショップができる。終戦直後から70年、親子三代に亘ってこの遊園地に想い出を共有してきた人々にとっての整合性などどうでも良いことなのだろうか。


(閉園した後の上野こども遊園地・Rolleiflex SL66撮影)
「新たなレガシーを!」は小池都知事の口癖だが、時代を経て初めてレガシーとなるものを最初からレガシーと呼ぶこと自体おかしな言葉遣いだが、裏返せば「今までのレガシーは捨てましょう!」と聞こえる。2020年オリンピックでアスリートの足もとの邪魔になるからと、100年の樹齢を誇る街路樹も「古いレガシーは捨てましょう!」とばかりに伐採の運命にある。その中には関東大震災からの復興を祈念して市民からの浄財を基に植えられた樹木もあるという。ここでも時代の整合性が蔑ろにされている。
オリンピックに向けて、整合性や必然性の片鱗もない建物に作り替え、皺のない整形美人的な景観に東京の中心部はなりつつある。十年前の景色すら忘却の彼方に追い遣るに再開発側は余念がない。(拙稿『「五輪」という破壊』)
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まとめ:
以上、本銚子駅の「オンボロ」駅舎にそこまで大げさに斜に構えて語らずとも、と読者は思われたかもしれない。
しかし、この件は、歴史を振り返らず、過去から先人たちが積み上げてきた論理との整合性を面倒だとバッサリと切り捨てて「未来志向」と言い換えたり、その場感のポチッと「イイネ」に論点を二極単純化し、稚拙な喩え話やピクトグラム的(ポンチ絵的)説明で一切論理を語らず且つ綴ってみせない、いまどきの政治とどこか背景的に重なるところがある。(拙稿「<綴るという行為>」)
戦禍で瓦礫と灰燼に帰してしまった街並みを可能な限り復元することに精魂を傾けるドイツ人に、上述のような「イイネ」的能天気さの「未来志向」などないだろう。過去に目を閉ざさない証として、過去との整合を取り戻す努力をする。街並みを元に戻しつつ歴史は都合良く修正しない。(拙稿「百代の過客」)
“過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる”(ヴァイツゼッガー)の言葉は重い。国は違えども、同じ整合性は我々にも強く問われることである。
どんなに小さなことであろうと時代の記憶を弄ばす、先ずはしっかりとその長さ分の何かを学び取る努力をすべきと思う。ヤンキー的な思いつきでサラッと片してしまえばそれでオシマイだからだ。
(おわり)