2019年01月22日
「いっせいに傾斜」する・われわれ
司馬遼太郎が生前著作<坂の上の雲>について映像化を固辞したのは、小説の世界を仮想であっても置き換えたりすると、我々日本人は「いっせいに(現実に)傾斜」する「おそろしい民族」であると見抜いていたからだ。
拙稿『佐貫亦男氏「発想のモザイク」から』で触れたように、この点は「(ゆえに)大股で踏み出」し「顛倒する」結果となった。過去の歴史の示す通りである。「顛倒しても」それが「ゲイン」というコインの表裏であり、戦争(武力紛争)なる表面が(敗戦を経て)経済成長という裏面となるかも知れない。しかしそれが国民にとって多大な不幸を伴うものであることはやはり歴史が証明するところである。多大な不幸を思えば踏みとどまるべきことも、国民の福利とは別の利があるかに「大股で踏み出」して止まない。そう企んでいるとしか思えないのが安倍政権である。
「線を引いてここからが自分の土地、向こうがあちらの国、その結果、奪い合いをしてどっちが得したとか損したとか、そのために兵をあげてどうするとか、そういうものに血気盛んになられても困るんです」という司馬氏の言葉など一字たりとて安倍政権は理解していないだろう。
佐貫氏はわれわれ日本人の特性を微分回路的発想パターンにあると理数的に分析した。この発想パターンの断ち切れない因果のうちの、結果を期待してその原因を創出しようとすることは、現安倍政権の向かう方向性と一致する。中国・韓国との政治的対話の中断、嫌中・嫌韓世論の醸成、憲法第9条の政治的解釈と集団的自衛権の限定的武力行使など、昨今の政治そしてその政治に与するマスコミは、まさにゲイン(出力にかける増幅度)を大きくすることによる不安定性を意図しているようにも映る。
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『発想の原点が自己にないこと、時定数が小さいことは、ゲインの増幅の程度を国民一人一人が認識・判断できず、他者(為政者・集団意識・他国)にその度合いを渡してしまうことになる。まさに長いものに巻かれる・付和雷同である。そして歴史修正問題にみるように、微分回路的ゆえに、過去を簡単に断ち切り、時間を進ませる。そういう増幅を深く思慮することもなく為政者に許してしまうことになる。佐貫氏の言葉を借りると、「積分回路と微分回路は性格的に反対の傾向を持つ。すなわち、過去と未来、時間遅れと時間進みの差がある。」』(『発想のモザイク』から)
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『スマートフォンを四六時中撫で回して<選択>に勤しむことで、人間はどんどん頭脳を使わなくなる。ピクトグラムにばかり反応するデジタル時代の文盲が増え、他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化して白黒と<選択>する社会から、法秩序の連続性すら簡単に断ち切る首相が生まれるのである。斟酌論考の軌跡のない出所不明の怪文書的政治に「この道しかない」と彼は言うが、<綴るという行為>を示さずにその先に道を見る事も究めることもできないのである。』(<綴るという行為>)
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発想の原点が自己にないため、与えられたゲインの通り「いっせいに傾斜」する・われわれ。結果を期待してその原因を創出しようとするかに、ゲイン(出力にかける増幅度)を大きくすることによる不安定性を意図した政府の見解・マスコミの報道。「血気盛んになられても困るんです」とは正反対の世論の醸成。隣国への憎しみ・憎悪を徒らに煽って、優位観を見せびらかす着物を着込んで、それを心地よく思う人々は過去の時代(高度経済成長期〜バブル)の優位観に浸ったまま(又は憧れる)中高年・高齢者が多いという。<坂の上の雲>に著された前時代的レジームまで政治が明治百五十年などと習おうとするに至っては、アナクロニズムな復古主義の極地であろう。仮想は小説の中だけに留め決して現実化してはならないとその筆者が説いているにもかかわらず。
ピクトグラムにばかり反応するデジタル時代の文盲も増えた。皮膚感覚・条件反射的にポチッと<いいね>とクリックして済ませる<選択>にどんなに毎日励もうと真理に到達することはない。国交断絶・戦争・ガツンと一発喰らわせてやれ!に<いいね>と、やたら勇ましいが、その意味する先に到来する現実が判っていない。「日本って凄い・日本人って凄い」と自画自賛・夜郎自大に集団となって飾り立てるが、個に立ち帰れば「私(一人称)」で語れること(能力・実績)が少ない人々が増えている。
過去の成功体験に捕らわれたままの世代、ピクトグラムにばかり反応する社会、個に立ち帰れない人々に、呼応・相応するかに、安倍政権はオリンピックだ万博だと陳腐化したビジネスモデルを持ち込み、複雑な解もあっさりと二値化・単純化し、戦争世代が社会から消え去るのを待ち受けたかのように、その過去の時代を再現するかに個よりも国家の観念を尊ぶ風潮を作り上げる(家族主義の美風など)。
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『(安倍政権の家庭教育支援法案の)その背景には日本の復古的な家庭教育、そして「親学」がある。「親学」は、「家族が大事なんだ」という考え方でもある。私は個人主義だから個人が社会の単位だと思っていますが、しかし親学は“家族が社会の単位”という考え方です。個人であることよりも家族の一員、一族の一員であることが大事だという。この家族主義的考え方は、じつは、戦前の国体思想でもある。戦前の教育勅語で示されている考え方です。そして、そのベースには家父長制の家制度があった。そこでは親孝行こそ最大の美徳になる。家族なんだからという理屈ですべてを吸収してしまう。そして日本国は、大きな一つの家族だ。その本家の本家の総本家が天皇家で、辿れば天照大御神。すべての国民は天照大御神の子孫であり、天皇家の分家の分家の分家だ、みたいなね。こうして「孝」と「忠」が一本につながる。こういう家族国家観に基づく教育が安倍さんが進めたい道徳教育なんだろうと思います。』(前川喜平・前文科次官)
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だからか、憲法でも何でも複雑な問題ほど、過去から先人たちが積み上げた論考をバッサリと切り捨て、全く異なる次元のファクターを混ぜて二値的に単純化してしまう傾向が強い。そういう安直なショートカット(大股で踏み出す)をする際に決まって「未来志向」と言う。「未来志向」とは聞こえが良いが、つまりは過去の経緯を詳らかに調べ自ら考えぬく能力がこの政権にはない。北方領土問題も平和条約締結なる功名にはやるあまり、過去から先人たちが積み上げた論考をバッサリと切り捨て、勝手に単純化しようとしている。アベノミクスと経済施策にも自らの名を冠するように、その政治言行はおしなべて安倍晋三という人の異常なまでの功名心とセットになっている。そのアベノミクスも含めこの政権の経済施策はガラガラと音を立てて「顛倒」しつつある。
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「いっせいに傾斜」する・われわれ、ゆえに、「いっせいに傾斜」する世の中の気配に、一歩引いて自己の視点でものごとを考える必要がある、と私は思う。さもなければ、顛倒する。それが戦争となった歴史を振り返るべきである。
(おわり)
追記:
韓国海軍駆逐艦によるレーダー照射問題をめぐり日本側がレーダー情報の開示を求めた事を韓国国防省の報道官が「非常に無礼」と発言したことについて、「主権国家であるわが国に対し、責任ある韓国の人間が『無礼』などと言ったことは極めて不適切であり遺憾だ」と自衛隊トップの河野克俊統合幕僚長が反論した。
河野統幕長については、訪米して米軍幹部に「安倍政権は安保法制を夏までに成立させる」と約束していたという前科がある(2015年9月、日本共産党の仁比聡平参院議員が国会で暴露した内部文書にその事実が記載されていた)。
そして、今般の発言である。おそらく確信犯であろう。制服組幹部が米軍幹部に政治的約束をしたり、公の場で他国の高官を批判することは、悉く、文民統制に逸脱し直ちに懲罰されるべき行為である。安倍政権に何かと与する河野統幕長であれば、件のレーダー照射問題も韓国艦船に無用に近づき挑発した結果(相手を刺激し照射させることを狙った)とも勘ぐりたくもなる。「いっせいに傾斜」する・われわれ、をその通り、制服組の幹部が焚きつけているとすれば極めて恐ろしいことだ。その傾斜を安倍政権が利用する図式ならば尚のことである。
戦前の日本で軍部が暴走し、政府がそれを抑えきれずに戦争に突き進んだ教訓から文民統制が生まれたが、河野幕僚長の発言は文民統制の趣旨から著しく逸脱している。これを許す政府・官邸も全く文民統制の機能不全である。否、軍部の暴走を許す戦前の国体政治に戻ろうとするのが本当のところなのだろう。ガバナンスがいたるところでガラガラと音を立てて崩れて、一体この国はどうなってしまうんだろうか?
posted by ihagee at 03:15| エッセイ
2018年11月24日
「反博の塔(岡本太郎)」再び
(Taro Okamoto, Short cinematography)
(拙稿「9mmフィルムムービー・その2(Taro Okamoto, Short cinematography)」より)
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フランス・パリで11月23日開催された博覧会国際事務局(BIE)総会での投票で、2025年国際博覧会(万博)の開催地に大阪が選ばれた。
”たこ焼き店店長の谷真一さん(35)は「外国人観光客のさらなる増加を期待できる。名物を紹介したい」と期待。観光に訪れた埼玉県の大学1年の女性(19)は「東京五輪後は経済が落ち込み就職難になると思う。万博で経済が潤ってほしい」と話していた。”(共同通信・11月24日報)
「日本が関西が世界に認められたことが一番うれしい。きょうから2025年に向けた新しいスタートになる。おめでとうございました!(新井純大阪府副知事)」
”関西経済連合会の松下正幸副会長は「集まったかいがありました。事務局で2通も原稿を用意してくれた。これ(失敗した場合の原稿)はいりません!」と声を張り上げた。”
(共同通信・11月24日報)
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「技術は金になるが科学は金にならない。自然の法則を理解することは現実の役に立たないと,多くの日本人が考えている。ここから抜け出さないかぎり,日本に科学が根づくことはありえない。」(故 糸川英夫博士)
”「企業のニーズ」に基礎研究が潰される・・すぐには何の役にも立ちそうもないのが、基礎研究である。大学が、すぐ役に立つことを重視していたら、基礎研究は育たない。ところが日本では、基礎研究ができる予算がどんどん削られ、将来の企業を支えるべき科学的知見や新しい技術が生まれにくくなっている。その結果、「研究者になろう」という夢を若者から奪っている。 ”(古井貞煕 豊田工業大学シカゴ校 (TTIC) 学長)
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何を認められたというのだろうか?誰が浮かれ騒いでいるのだろうか?
観光だ経済だとハコモノ(土建屋)テーマパークでカネ儲けの算段が始まる。東の五輪に西の万博。共通するは理念なき狂騒。
科学(基礎科学)とその応用たる産業技術の区別さえなく、前者を蔑ろにし後者にカネの成る木を追い求める。先の万博(Expo '70)から半世紀経ってもこの有様。
否、「日本人は科学の成立と本質について誤解している。何か機械のようなもの、すなわち単に成果を上げ、無造作に別の場所に移して仕事させる機械のように考えている。科学の成長には一定の風土と環境が必要であり、生き物である(エルヴィン・フォン・ベルツ博士)」の明治9年から一世紀以上経ってもこの有様である。
「企業のニーズ」の万博の陰で、「生き物」たる科学の樹は枯れるばかりである。(拙稿『「科学の樹」のないこの国の暗愚』)
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「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。(岡本太郎)」(拙稿『「反博の塔(岡本太郎)」』)
科学万能・技術礼賛・未来志向の一億総予定調和だった先の万博(Expo '70)にあって、独り原始・古代の生命の逞しさを以って果敢に反抗した岡本。その通り、技術礼賛は原発事故を招来し、放射能なる原始(原子)のパンドラの箱を開けてしまった。科学も技術も太刀打ちできない。そう学習すれば、何を以って再び科学万能・技術礼賛・未来志向の一億総予定調和を繰り返そうというのだろうか?
(おわり)
posted by ihagee at 03:20| エッセイ
2017年11月18日
"20秒早く出発して謝罪" は美徳か?

"海外メディアが驚愕 ⇒ つくばエクスプレス、20秒早く出発して謝罪" なるネット記事。
"「史上でもっとも、過剰に反省された20秒だったのでは……」(ニューヨーク・タイムズ)
「日本の鉄道会社は、ニューヨークの乗客が決して聞くことがないであろう謝罪を出した」(ニューヨーク・ポスト)
「20秒早く出発しただけで謝罪する東京の鉄道会社は、日本の最高の美徳だ」(サンフランシスコのスタン・イーさん)
「日本の電車の乗ったことがある人は、この話の意味が分かるだろう。なぜかイギリスではあり得ないけどね」(ロンドンのアンディ・ヘイラーさん)"
この記事は日本人が書いたものだが、その意味はわからない。近頃マスコミが垂れ流す「日本って素晴らしい」なる自我自尊・夜郎自大ブームの一つなのか?それはそれとしていい加減にしてもらいたいが、始終この手の「謝罪」を車内放送で耳にする私にとってその意味は、この日本という社会の問題を反映していると思えてならない。その問題を知らない外国人から「美徳」などと褒められて気をよくすべきことではないのである。
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さて、この手の「謝罪」の意味をどう理解するか?
日本人なら思い当たる筈だ。つまり、"そう言う側もそう言わせる側も、根本の部分で思考が停止"している。何気に謝罪し謝罪されるが、それがなぜ謝罪に値するのかわからない。つまり「何気」が支配している。もっと真剣に考えるべきことについて実は何も意識や判断が及ばない・思考が及ばないのである。それは政治の世界で顕著だろう。原発事故や"もりかけ"問題、憲法改正やらアベノミクスなど、忖度やら空気やら「何気」が充満し、その意味することの本質を誰も語らないばかりか、責任の在り処が有耶無耶とされ、その立場にある者が説明責任を果たすこともない。国会で国民(野党)が質問することすら無駄とされる。思考停止を安倍政治は国民に求めているに他ならない。「国難」が叫ばれた時代に「個人の思考や判断を停止」することを前提とする、大政翼賛政治が行われたことは歴史が証明している。その先は戦争。安倍首相がしきりに「国難」を叫び、野党(国民)の質疑時間を削ろうとしていることと符合しているではないか。"20秒早く出発して謝罪" とは、危険なサインなのだ。大げさに思われるかもしれないが、我々の小さな思考や判断の停止や無意識が重なって、やがてそういう社会を前提とする大政翼賛政治や国体政治が現れる。

つまり「美徳」でもなんでもなく、 "20秒早く出発して謝罪" を「何気」に当たり前とする "思考停止・意識なき社会" がその手の謝罪に象徴されているだけなのだと理解した方が良い。それを何の違和感もなく受け止める我々と社会。「意味のない反省」は実は根の深い問題を孕んでいる。
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"最近、首都圏の鉄道で僅か数分の電車の遅延でも車内放送で「深くお詫びもうしあげます。まことに申し訳ございません。」などと最上級の詫びが入るようになったのもある意味でこの判断・思考停止だと思う。鉄道会社の言い分だと、数分遅延しただけでも大迷惑な乗客も中にはいるかもしれず、些細なことであっても一言丁重に車掌が乗客全員に謝ることがマニュアル化されているそうだ。乗客同士の喧嘩や痴漢が原因で運行に支障が出ても、鉄道会社はそれらマナー違反の乗客に代わって「深く詫びる」ことになっている。挙句は、本来は乗客のモラルに委ねるべき車内マナーや所作まで、一々放送しなくてはならないのである。乗客同士も互いに注意し合うことに関わりたくない意識もあるのだろう。そう言う側もそう言わせる側も、根本の部分で思考が停止して、先ずはマニュアルとして言う・言わせている、社会が見えてくる。ある首都圏の私鉄では駅や車内放送のマニュアル集が一昔前に比べて三倍の厚さになったそうだ。個々の判断や思考はやめて、ついついお互いの合点や合意を求めてしまうのである。"(拙稿「<音>から考える - プラスとマイナス」)
(おわり)
posted by ihagee at 08:40| エッセイ