2024年01月08日

巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)



「百万ドルの夜景」そんな言葉があった。

イルミネーションに縁取られた煌びやかな夜景のことで、ハリウッド映画辺りに言葉の所以があるのかと思っていたら、昭和20年代に「六甲山から見た神戸の電灯の電気代」に絡めて電力会社が考え出したキャッチコピーらしい。そして「百万ドル」なる価値基準は「百万ドルトリオ」(ハイフェッツ・ルビンシュタイン・フォイアマン)からの転用のようだ。本国(米国)でもそう彼らは総称され、私の祖父の時代、ベートーヴェンの大公トリオの音盤は「百万ドルトリオ」か「カザルストリオ」(カザルス・コルトー・ティボー)と相場が決まっていた。

日本三大夜景なるものもあって、「函館山から見る函館市の夜景」「六甲山(摩耶山)・掬星台から見る神戸市・阪神間・大阪の夜景」「稲佐山から見る長崎市の夜景」がその三つとなっている。

----

その一つ「函館山から見る函館市の夜景」は昼間でもその景色の明媚さは比類ない。海辺が陸に抱きこまれた函館の港はその形から巴(ともゑ)湾、そして風順なことから綱不知(つなしらず)の港とも呼ばれている。巴は函館の市章でもある。

Emblem_of_Hakodate,_Hokkaido.svg.png


新鮮な魚介類が水揚げされ、それを目当てに多くの観光客が訪れるが、その海の幸に供する地元の清酒がない。北の誉酒造(小樽)、國稀酒造(増毛)、男山(旭川)、福司酒造(釧路)など、北海道には少なからず清酒の蔵元が存在する。が、函館には蔵元がないのである。

これでは画竜点睛を欠くとばかりに、北海道新幹線開業を記念し、青森弘前の六花酒造が、函館の酒米(吟風)を白山山系の水で仕込んだ純米大吟醸清酒「巴桜」を発売した。巴は函館、桜は弘前城に由来する。

県外の蔵元ではあるが、ようやく函館に「地酒が戻ってきた」と喜ぶ声が多い。

----

その昔(明治時代)、函館にも清酒の蔵元が二十数軒あった。そのことを覚えている人はもういないかもしれない。

「丸善菅谷商店」がその筆頭であった。その主、菅谷善司(安政2〔1855〕〜. 明治41〔1908〕)は明治期の「北門名家誌」に載る名士であった。

s1.png


----

菅谷はラムネ製造販売から事業を始めた。

ラムネ(つまり、炭酸入りレモネード)に日本人が最初に出会ったのは、米国ペリー提督浦賀来航の折(1853年・嘉永6年)と伝えられている。キュウリ壜のコルク栓を開ける際の炭酸の放つ音に驚き、幕府の役人たちは思わず刀の鍔に手をかけたとかの逸話もあるようだ。

「明治元(1868)年に築地居住地が開かれると、入船町軽子町畔に蓮昌泰という中国人がラムネ屋を開店している。同じ年、横浜ではイギリス人ノースレーが機械、ビン、香料、炭酸などを輸入してラムネの製造販売をしている。(『図説明治事物起源事典』 湯本豪一/著 柏書房 1996年)」

横浜や神戸あたりでは、舶来のラムネが出回っていたようだ。明治十年代にコレラが大流行すると、「瓦斯を含有した飲料水を飲むと恐るべきコレラ病にかかることなし(東京毎日新聞)」と喧伝されたこともあって、ラムネは庶民の間でも飲まれるようになった。

----

函館実業界の大立者・渡邉熊四郎が購入した舶来のラムネの製造機械を用いて、金森ラムネ製造所の名義を以て、明治23年、菅谷は日本人として初めてラムネの製造に成功した。金森は渡邉の屋号で、函館の観光名所「金森赤レンガ倉庫」のその元は渡邉が明治時代に開業した金森洋物店である。

菅谷は日本人として最初にラムネを製造した人物となる。

菅谷のラムネは函館の港に停泊中の軍艦から注文を受けて生産し大いに儲け、それを資金として菅谷は谷地頭に洋酒製造所を建てたようである。

ラムネ製造はその後石垣隈太郎が続いたが、石垣もラムネでの儲けを元手に北洋漁業・海運業に転じた(石垣が函館ラムネ界の先覚者とされている)。

----

函館山の裾には「谷地頭(やちがしら)」という地域がある。水が溜まってジメジメとした沼地を「谷地」、虚ろな眼(まなこ)の様に見える沼の穴のことを「谷地眼(やちまなこ)」と言う。その沼を明治11年(1878年)の函館大火後の整備事業として埋め立て人が住みはじめたのが「谷地頭」である。併せて温泉も掘り当て、温泉地でもある。

新開地であった谷地頭に明治23年、菅谷は洋酒(再製葡萄酒)製造所を建てた。

「北門名家誌・1894年・魁文舎刊」の記載に拠ると、

「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され、酒も同様で日本酒を捨てて舶来の洋酒を嗜む時世となったが、菅谷善司はこの時世を見抜いて、洋酒醸造を志すべく郷里(千葉)から京阪の商界を歴遊し、渡米して洋酒醸造の法を研究・伝習して明治22年2月15日に帰国した。
横浜に洋酒醸造所を設け、輸入洋酒の勢いを殺いだ。
明治23年函館・谷地頭に洋酒製造所を設け広く販売に従事した。
世人の好評を得て、兎印薬用葡萄酒、兎印薬用ブランデー、鷲印香鼠葡萄酒、菊水白酒、菊水焼酎薬用焼酎等で、賞揚せられたのも、海外で勉強研究した効果である。(原文は文語体)」

ということらしい。

輸入葡萄酒はそのままでは当時の庶民の味覚の嗜好に合わなかったのだろう。「香鼠葡萄酒(こうざんぶどうしゅ)」は輸入葡萄酒に蜂蜜や砂糖で甘味をつけハーブで風味を高めた再製葡萄酒である。この「香鼠葡萄酒」の日本で最初に製造したのは 神谷傳兵衛のようだ(1886(明治19)年「蜂印香竄葡萄酒」)。

「香竄(こうざん)」は神谷傳兵衛の父の俳句の雅号から由来しているので、菅谷の鷲印香鼠葡萄酒は神谷のそれを真似たものかもしれない。

「香鼠」や「薬用」といった再製に飽きたらず洋酒醸造の道一筋にワインやウィスキーを究めた神谷やマッサン(竹鶴政孝)とは異なり、菅谷は手広く事業を行っていたようだ。丸善菅谷商店の広告の見出しがそれを表している。

s2.png


「銘酒醸造販売・洋酒缶詰各種・札幌ビール特約店・輸出品各種・雑貨類、そして日本酒醸造元」

神谷傳兵衛がフランス人に、マッサンがスコットランドで学んだように、渡米し酒の醸造を学んだ菅谷であるから英語は堪能だったようだ。その英語を菅谷から伝授されたのが私の曾祖父である。

----

私が生まれた時、明治元年生まれの曾祖父は健在で94才の腕に抱かれた当時の写真が残っている。

スキャン 27.jpeg


政商として満州(大連)で成功した資産家であり、明治人らしく気骨稜々たる人生を歩んだようだ。そして筆まめなこともあって自分史について克明な記録を残していた(曽祖父についてはさらに「一枚の舌と二個の耳」で触れている)。

その記録の中に菅谷が登場する。

----

「私は変なことを言いますが、私を16〜7才のころから面倒をしていただいた人で菅谷善司という人があります。この人は子供がないので私を子にするつもりでおられたので、その人のおかげで英語も話せるようになって、横浜商館に入れる基礎ができました。」

「私は18才のとき、横浜に行き居留地三十番館サミュエル・レビュー商会に入社したのです。この会社は米商であったが輸入する物は時計から食料品、飲料品なぞなんでも各国の物が輸入されて帽子からシャツ類まで諸雑貨があったのです。それを日本人の商人に売るために、初めは取引人という名前で日本人が横浜に店を構えて中継ぎをしていましたが、後には私共が東京に行き商人と売り買いすることになってきたのです。それから外国よりなんでも輸入してくるようになって外国品は需要が高まりそれと西洋文明を見習うために多くの人が舶来ものを好むようになって、その売れ行きは日に日に高まってくるのです。ちょうどその当時役者・川上音二郎が俗謡で唄ったようになったのです。」

「相州の「秦野」という土地は煙草の葉が産出するので、それを私がレビュー商会に在勤中、買い出しに行ったが、横浜からわらじ履きで通ったものであります。聞くところで、葉巻の煙草の中に巻き込むと質が良いので、外国人は好むとかで、大きな貿易品となって輸出されたのです。」

----

「国産たばこに印税を課した為に輸入たばこが出回り、国富が害され」ることに憤り、舶来品に負けない国産品を作ろうと思い立ったことが、菅谷が事業家を志すきっかけであった。曾祖父も菅谷から強い影響を受けたことだろう。秦野の煙草の葉の話もどこか重なるところがある。

----

さて、明治23年函館・谷地頭に洋酒(再製葡萄酒)製造所「丸善菅谷商店(社屋は地蔵町)」が建てられた。

明治29年には音羽町に酒造場(清酒)が建てられ(職工13名)、明治37年には谷地頭に第二酒造場(焼酎)が建てられた(職工4名)。 明治38年の函館の清酒・焼酎の製造量・製造額に於いて、丸善菅谷は同業他社を抜いて筆頭の地位だったようだ。

谷地眼の土地ゆえに水に恵まれているように思えるが、鉄分が多い硬水で酒の仕込み水としては使えなかった。函館近郊の大沼で有名な七飯から水を取り寄せたようである(後に焼酎の酒造場は七飯に移る)。また、酒米も道外に求めたようだ。低廉な酒には安価で品質が安定した越後や佐渡の米を、上等な酒には兵庫県氷土群の天穂(山田穂?)を取り寄せて使った。

酒造場(蔵元)のみ函館とはいえ、函館の清酒であることに変わりなく、丸善菅谷の醸した「北遊」「菅ノ井」「巴港一」は、北海道十一州清酒品評会で一等賞を受領した函館を代表する銘酒であった。

----

上述の三種に加え「北正宗」「丸善正宗」「鍔正宗」「五陵正宗」も好評を得、菅谷は北海全道清酒品評会の副会長に就任した。

清酒の評判を受けて、青柳町の醸造庫は年々その数を増す程、醸造業は繁盛した。しかし、国内にばかり営業するのは菅谷の志ではなかったようだ。商業会議所議員としてロシア領沿岸に度々調査に赴くなど、菅谷はロシア沿岸、そして朝鮮(元山津)にまで営業の場を求めた。明治40年「丸善菅谷商店」は「丸善菅谷合名会社」となり、これからという時に菅谷は死んだ(明治41〔1908〕)。53才であった。

----

明治45年4月12日、函館は大火に見舞われた。火元は音羽町で、その音羽町にあった丸善菅谷合名会社の清酒酒造場は焼失した。函館市本町に清酒酒造場を建て直し、七飯村酒造場の焼酎とともに、道内一円及び樺太を販路に酒類・食料品の販売業を続けた。

しかし、醸造業界にあって、清酒・焼酎共に石数に応じた生産調整が行われるようになり、造石高の元々少ない丸善菅谷合名会社は、経営基盤の強化が必要となり、昭和12年に札幌燒酎株式會社に吸収合併された(札幌の日本清酒も合併)。

その前年、昭和天皇の本道行幸を記念して丸善菅谷合名会社は七飯の酒造場から「君萬歳」と銘じた焼酎を販売していた。

丸善菅谷合名会社の代表銘酒「五陵正宗」とこの由緒ある「君萬歳」が、札幌燒酎株式會社に引き継がれたようである。

2.jpeg


1 (1).jpeg

(1955年積丹美国)


1.jpeg

(1957年花祭り・積丹美国)


----

「五陵正宗」はしばらく本町の酒造場で製造されていたようだが、昭和30年代にその本町に丸井デパートが十字街から移ることになり、酒造場は閉鎖され「五陵正宗」も消え、「丸善菅谷商店」に始まる函館の銘酒の系図はここに終焉した。

S4-thumbnail2.png


----

曾祖父は菅谷善司をこう綴っている。


「その恩人である人が私が大連にいるとき死なれる前、病院でしばらく居てくれと言われたのだが、その時は大連で私は事業上おることのできないので、惜しき別れをしてそれきりでありましたが、その人が日蓮宗、俗に云うカタボッケと云う信仰者であって、身延山に遺骨を納めてありました。私は位牌堂に赴いて拝礼しているとき、何万という位牌があるのに、その菅谷善司氏の位牌が目に入り、住職に頼み手に取ってみますと、確かに本人の位牌でありますので私は不思議に思っておりましたのですが、今日、私はブリストル先生のサイエンスを研究しておりますが、これは私の信念の魔力が働いていると信じますと、こんな風になるものだと信じまして、昔のことを思い出して嬉しくなりますのです。」

----

曾祖父の信念の魔力が死に目に合えなかった恩人の位牌を引き寄せた。

「五陵正宗」の現身かのように「巴桜」に働いたのは、もしかしたら菅谷の思い残した信念の魔力なのかもしれない。

魂の形に見える巴(ともゑ)の力なのだろう。巴(ともゑ)湾なる函館の持つ魔力なのかもしれない。

以上、写真一部更新の上再掲載しました。

(おわり)

追記(2024年1月10日):
上川大雪酒造(北海道上川町)が1月17日、函館に新設した酒蔵「五稜乃蔵(ごりょうのくら)」(函館市亀尾町)で、初出荷を控えた新酒のラベル貼り作業を報道陣に公開した。五稜乃蔵は、同社が上川町「緑丘(りょっきゅう)蔵」、帯広市「碧雲(へきうん)蔵」に続く道内3つ目の酒蔵として旧亀尾小中学校跡地に建設。木造2階建ての建物に1500リットルの醸造タンク8基を備える小規模な酒蔵で、昨年11月に完成した。総杜氏の川端真治さんが指揮を執り、道産の酒米と地元の水を使った「手作りの酒」を少量ずつ醸す。函館市内に酒蔵ができるのは、「五稜正宗(ごりょうまさむね)」の銘柄を地元の酒蔵から引き継いだ日本清酒(札幌市)が本町にあった工場を閉鎖した1967(昭和42)年以来54年ぶり。(函館経済新聞 2022年1月17日記事から引用)

posted by ihagee at 13:45| エッセイ

2021年02月28日

お子様ランチはお好き?



お子様ランチ、というものについて子どもの頃食べた記憶があまりない。あれが食べたい・これが欲しいと子どもが好き勝手に親にせがんでせしめる今とは違って親に絶対的な決定権があった時代だったから、きっとお子様ランチは私の父母の眼鏡には適っていなかったのだろう。他方、祖父祖母が歓心を買おうとこの決定権を孫に委ねるのは今も昔も同じなので、食べたとしてもそういう場面だったのかもしれない。



(お子様ランチの原型 / wikipediaより)


「1930年12月1日に、東京府東京市日本橋にあった三越の食堂部主任であった安藤太郎が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し発売した」(wikipediaより)とあるから、お子様ランチの歴史は古い。

お子様ランチ、の必須アイテムは今も昔も旗であり、その旗は日の丸でなければきまりが悪い。旗日のあの晴れ晴れとした目出度さやウキウキとした気分を小さくともその旗が演出している。子どもが嫌がったり食べるに面倒がる食材は使わず、基本的に甘く食べやすく調理されているから皿に盛られるランチそのものは今も昔もさほど変わっていない。

「子供連れの家族を狙った客寄せの意味が大きく、多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、多くの場合採算割れする」(wikipedia)から、お子様ランチは「お子様」と呼んでいながら、それを提供する側からすれば子どもを顧客にする目的はない。

----

さて、お子様ランチは英語で表現すると "Kid's Meal"又は"Kid's Menu"(キッズセット)となる。その意味する食べ物は上述の「お子様ランチ」とは別の系に属する。すなわち、ハンバーガー、チキンナゲットと付け合わせに、ソフトドリンクとカラフルな玩具をつけてバーガーシェフ(Burger Chef)が1973年に発売した子ども向けセットがその言葉の起源ということらしい。マクドナルドのハッピーセットはその系にある。

ファスト(fast)フードはその由来、つまり多民族国家であるアメリカで民族や宗教間の食文化の枠を超えて受け入れ可能な共通項を安価で手間がかからず・短時間(fast)で調理し提供するファストフード企業が子どもを重要な顧客に据えて開発した商品である点で「お子様ランチ」とは目的を異にする。

「人間は12歳までに食べてきたものを一生食べ続ける」(日本マクドナルドの創業者、藤田田氏)

そもそも採算性を期待しない「お子様ランチ」にはこのような目的は課せられていない。

----

「一生食べ続ける」と潜在意識から支配するファストフード産業は、ゆえにグローバリズムの見境のない覇権主義に例えられる。これは、「夢と魔法の王国」、「ミッキーと会える場所」といったディズニー商法をアメリカの文化帝国主義の覇権に例えることと同じだろう。ミッキーはアメリカの正義・希望・理想のアイコンであるから、2023年に満了すると言われているミッキーマウスの著作権はアメリカにとっては国家的危難に他ならず、ミッキーの為なら法律まで変えるかの著作権延長法(ソニー・ボノ著作権延長法)は「ミッキーマウス延命法」と揶揄されている。

----

ハンバーガーを人間の味覚に刷り込むことで一生涯顧客になるに違いない、というサブリミナルな思想は「お子様ランチ」にはない。「お子様ランチ」に設けられている年齢制限(概ね12才まで)はむしろ子どもの味覚から「卒業」させることを意味している。

子どもにとって味覚や食感は発達段階の感覚器官の働きの一つだから、食する物質に応じての認識は甘いとか辛いとか柔らかいとか硬いといった単純さばかりだが、成長につれてより複雑な知覚心理的な認識に置き換わる。好物を腹いっぱい食べたいという満腹感(食欲)よりも、どう食に向き合うのかといった生き方にも関わるマインド(意識)が芽生え、高次に発展すれば食に対する文化的価値観にもなる。山葵のツンとする辛味は味蕾ではなく脳が喜びと理解するそうだから高次な発展がなければただの痛感でしかないだろう。

その発展段階での主体は個人の能動的な意識であり、ハンバーガーを一生食べ続けるといった他者から刷り込まれた意識ではない。

----

お子様ランチはその年齢制限から、他者から味覚を刷り込まれる意識になる前に無事「卒業」となるが、日本の社会全体を見回すとそうとは言えない場合の方が多い。

物心ついた頃からスマートフォンを四六時中撫で回して選択に勤しみ、ピクトグラムにばかり反応し他者の意見に耳を傾けることもなく、複雑なことも二元論的に単純化して白黒とポチッと選択するデジタル社会は年齢制限なきお子様ランチだろう。己の意識をあまり必要としない社会生活(拙稿:<意識なきシステム>で「世界一」となる国)がデジタル社会の背景にさらにある。

----

子ども時分の単なる満腹感(食欲)から成長するにつれ食に対する文化的価値観に発展する経緯は、子どもが字を覚えそれがやがて綴り方になる経緯と似ている。

文字を<綴るという行為>は書写・書道として後天的に学ぶ。単に文字の書き順を学び覚えるだけでなく、紙の上での文字の配置・収まりを考えなくてはならない。筆にあって書き損じは一から書き直すことになるのでそれらを先に考えてから筆を紙に置かなければならない。

子どもが字を覚えそれがやがて綴り方になるのも、文字というピクトグラムから「卒業」して筆順における連続的な軌跡から思考や論理を学ぶことでもある(<綴るという行為>)。

綴るという行為自体はペンと紙から、キーボードとディスプレイになっても保たれてきた。私もそういうつもりでブログに自分なりの思考を綴っているが、この<さくらのブログ>のプロバイダーである<さくらインターネット>から2021年3月2日を以ってブログの新規アカウントの作成受付を終了する旨の通知があった。

SNSやインスタグラムのような検索行動主体(情報を手繰る)がメディアの主流となって、ブログなるデジタル時代の<綴る>手段が終わりを迎えているのだろうか?

----

新聞・通信社が配信するニュースのほか、映像、雑誌や個人の書き手が執筆する記事など多種多様なニュースを掲載していると言うYahooニュースは、誰も毎日確認していることだろう。

しかし、特に国内ニュースの括りを同じYahooニュースの海外ニュースの括りと比較すると、その国内ニュースはなんともザワザワとしている

そのザワザワさは何だろうか?電車の中吊り広告にあるような週刊誌の煽情的な見出しの羅列と覗き見趣味が合わさったような落ち着きのなさと言ったら良いのか、<綴るという行為>を見出すことができない程、論理の一貫した連続性がその記事からわざと読み取れないような怪文書が集まっているように感じられてならない。

素性や出所がわからないよう活字の切り貼りで世間を騒がせては喜ぶような怪文書は昔は誘拐犯や過激派の独壇場であったが、今は芸能人や識者と呼ばれる人たちの独壇場となって、浅い思考で複雑なこともサラッと皮膚感覚で済ませるような記事がYahooニュース(特に国内ニュース)を占めている。記事の選択と括り方にYahoo側の作為が働いていることは間違いないが(特に酷いのは "乗りものならぬ「乗りものニュース」")、SNSに毛が生えた程度の個人の意見記事をさも公論かに時事に混ぜることはやめてもらいたい。さらに記事毎のコメント欄も不要である。コメント欄は尚のこと怪文書の餌やり場になっている。そういうことこそ行いたければ個人のブログで行うべきことである。

海外(国際)ニュースの括りではさすがに活字の切り貼りも苦労するのか怪文書は少なくザワザワさがない。Googleニュース(日本版)にも多少ザワザワさはあるがYahooニュース程ではなく、ましてや言語・地域を海外に設定して Google Newsを見れば違いは一目瞭然である。

----

SNSやインスタグラムといったメディア、それらに毛が生えた程度の芸能人や識者と呼ばれる人たちの怪文書的記事は子どもの歓心を呼ぶような旗や玩具で飾り立てられたお子様ランチやハッピーセットに見える。そのお子様ランチやハッピーセットに大人たちが集まる景色がYahooニュース(特に国内ニュース)にある。共感同調は元より炎上してもお子様たる読者から歓心を最大に得たことになるからステージでうるさ方を向こうに芸を披露するよりも芸能人にはこれ程までに容易いことはないだろう。

もし、意見をぶつけ合いたいのなら旗の大きさや玩具の派手さで競うのでははく、大人らしくディベート(debate)を行うべきで、<綴るという行為>はそういう場にこそ要求される大人の嗜みであろう。

(おわり)

追記:
テレビ・ラジオの報道番組での面白づく本位のバラエティ化が活字メディアにも及んでいるということ。
新聞記事では、政治、経済、社会、文化など各分野の問題を筆者の思想、感情からとらえて論評する記事は「コラム(囲み記事)」として「時事報道」や「時事問題に関する論説」と分ける(新聞業界)。
新聞記事の体裁に馴れた目でYahooニュース(特に国内ニュース)を眺めてザワザワとした感に捉われるのはこの仕分けがない為だろう。軽口程度の「コラム」を囲みなく時事報道に混ぜ込むことで一定のバイアスをかける手法はテレビ・ラジオのバラエティ化した報道番組(例:田崎史郎氏)での常套で、新聞判型の一つであるタブロイドの虚実織り交ぜた扇情的な報道スタイルはまさにそうだが、これがYahooニュース(特に国内ニュース)でのニュースの括り方ともなっている。
posted by ihagee at 13:12| エッセイ

2020年01月13日

和文タイプと特許技術翻訳



”当時、私の職場では、和文タイプに従事する者(全員女性)はその高度な専門技能を以て他から一目も二目も置かれていた。大きなタイプライターの筐体のアームを上下左右に動かしてはガッチャンガッチャンと活字を拾う作業の手早さに程々感心したものである。少なくとも職場内では代替不能な業務ゆえに絶対的な立場にいた。

職場に日本語ワープロが導入されるようになり、浄書がタイプからプリントに置き換わるにつれて和文タイプ業務は従事する人とともに職場から消えていった。”


和文タイプライター wikipediaより引用)

----

以上、拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念(続き)から引用。

和文タイプ業務がタイプ代(印書代)など営利をもたらす事業であった時代は、ワープロ・パソコンの普及に伴い終わった。そして、AI(人工知能)の時代。その特殊且つ人の能力に依存する業務ゆえ無くならないとされてきた特許技術翻訳(特許業界に於ける営利事業)がAI翻訳に代替されつつある(未だ超えられない "壁" がAI翻訳にはあるがいずれ克服されるだろう)。

技術資料の翻訳が営利事業(=売り物)でなく内部コストでしかない製薬メーカーなどは、内部コスト圧縮の目的に適うとしてAI翻訳の導入に積極的だと聞く(「グラクソ・スミスクライン社と製薬業向けAI翻訳の共同開発を開始」)。特許業界にとってクライアントとなる製薬メーカーが技術翻訳をそう見ているということは、当然メーカーはそのコスト意識を特許業界に問うことになる。それは、かつてのタイプ代(印書代)と同様、費用請求に値しない業務という見方である。

また、我々が普段それとなく用いているグーグル翻訳(AIを中心とする)は、従来、商品として市場価値を有していた多言語間の翻訳(技術翻訳も包括する)サービス供給基盤を翻訳業者から奪い、翻訳のコモディティ化(ジェネリック化)を促進させている。こうなると翻訳業者・翻訳者間の差別化は価格競争一方となる。実質0円のグーグル翻訳にマニュアル(人間)翻訳としての差別化は品質(訳精度)に係るが、その品質と市場価格が比例していることが前提のAIを想定していない昨日のビジネスモデルの「安かろう悪かろう」的常識が、AI前提の社会では「安かろう良かろう」と非比例になりつつある。

----

一般社団法人日本翻訳連盟のHP で技術翻訳の標準単価が公開されているが、マニュアル(人間)翻訳での市場価格は機械翻訳・AI翻訳の台頭によって単価は低廉の一途を辿り、フリーランサー間の競争単価は英和・和英共に10円/wd前後と、もはや翻訳業務だけでは生活できないレベルになっているとも聞く。それでも、がむしゃらに営業し訳語数で稼ぐしかないが、そうなると品質を維持し納期を守ることが難しくなる。だからと言ってAI翻訳を下訳として活用すれば、そのAIにその人なりの学習値を吸い取られることにもなる(職能すらAIに渡すことになる)。AI翻訳によって新たに雇用が創出されると期待されていたポストエディット業務などは、人が直した箇所の数に10円以下の単価の掛け算となるゆえ、訳語数以下(ページ辺り数カ所分)の収入しかエディターにもたらさず、果たして業務として成立するのかさえも疑問視されている。アダプテーションもポストエディットも上述の製薬会社では自社内で行っているゆえ(内部コスト扱い)、AI翻訳に関連するそれら業務の需要は喚起されず、市場も雇用も生まれないだろう。

このような環境にあって、AIを想定していない昨日のビジネスモデルの上に胡座をかいていた特許業界、特に特許事務所に於いて、特許技術翻訳は間接業務(直接的に会社に対して利益を生み出さない業務。特許事務所で言えば、事務管理部門の業務)の範疇に内部コストとして押し込むしかなくなるだろう。和文タイプ・英文タイプに続き、技術翻訳はそれ自体は利益を生み出さないAIに代替可能な業務になっていく。特許技術翻訳業務を収益(=売り物)の柱としてきた特許事務所にとって、そうならないAI本格稼働社会を見越して既存の収益体制の抜本的な見直しが求められることになるに違いない。そしてその流れはいずれ特許明細書を作成する弁理士にも及ぶだろう。国家資格に守られてきた士業ですら、AIを想定していない昨日のビジネスモデルの上にいつまでも胡座をかいていられない。厳しい時代になりそうだ。

便利だと「OK Google」とか「教えてGoogle」などと、AI(人工知能)を無意識に使うことは、他者の知能を借り他律に従うことになる。そもそも発想の原点が他者にあって自己にない日本の社会。そこにAI(人工知能)が適用されればどういうことになるか(拙稿 <意識なきシステム>で「世界一」となる国)?

発想の原点を自己に求めることは無論、AI(人工知能)を使わせる側(AIを制御する側)に回る位の意識の転換が我々一人一人に求められている。それが「私が私である」アイデンティティ identity(すなわち、「個人 an individual」)を失わないことでもある(identity as an individual)。

「我思う、故に我在り」(Je pense, donc je suis)。

(おわり)

posted by ihagee at 10:42| エッセイ