2017年08月07日

「軍人として非常なる損害(白瀬矗)」が北方領土問題の元



安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領が長門市で会談し北方領土での共同経済活動に向けた協議の開始を合意したことは記憶に新しい(2016年12月15日)。民間を含めた日本側の対露経済協力は総額3000億円規模となる。

ところが、先月ロシアは北方領土に国内法に従って経済特区(先行発展地域)を設け第三国の企業進出への道を開く方針に転じてしまった(北方領土を管轄するトルトネフ極東連邦管区大統領全権が同特区指定を政府に提案する旨を発表している)。

このことは、北方領土、即ち、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の島々について、ロシアが自国の法律に基づいて事業を行うように日本側に圧力をかけ始めたと理解すべきだろう。北方領土について、ロシアは主権を1mmたりとて譲らないばかりか、軍事的にも経済的にも実効支配を強める姿勢に、先の合意の日本側の意義が大いに問われている。

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明治政府による開拓事業(黒田開拓使)から歴史を辿れば、樺太千島交換条約発効後(1875年)はクリル諸島を千島国に入れ、ウルップ島からシュムシュ島までのすべての島が日本領となり、海軍大尉郡司成忠が「報效義会」を組織し(1893)、占守島開発と周辺海域の警備に当たり、さらに日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で北緯50度以南の南樺太が日本の領土となったが、太平洋戦争で日本が敗れサンフランシスコ平和条約で日本は「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する(第2条)」に従う立場になったが、同条約に当時のソ連は調印していないことと、千島列島に北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)が歴史的に含まれておらず(歴史的に日本以外の他国の領土になったことがない)、その千島列島の「放棄」後に帰属する国がどこかも決まっておらず、条約上、対露関係では「放棄していない」わが国の立場が、北方領土問題となっている。

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黒田開拓使とは、ロシア帝国の覇権が及びつつあった樺太に危機感を覚えた明治政府は明治3年(1870)に黒田清隆(旧薩摩藩士)を開拓使次官として設置した使節で、対露沿岸交易の可能性を探りつつ経済圏を拡大しようとする政治的野心が企図されていた(拙稿「横山松三郎と或る函館商人」)。

この開拓使が呼び水となって、日本人の漁業者が沿海州、カムチャッカ東海岸に資源(主に鮭・蟹)を求めて北方へ進出することになる。明治20年代になるとロシア側は外国人の海面漁業の規制を緩めた為、さらに日本からの漁業者の沿海州への進出に繋がった。

カムチャッカ沖に志を固めた者たちについて「一抹の航跡(函館・筑紫丸(ちくしまる))」で綴った。その者の一人であった曾祖父(明治元年生まれ)が残した手記に「郡司成忠」の名がある。

以下、手記を抜粋する。

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「26才のとき、札幌でイギリス人の経営するアルコール醸造所を引き受けて経営していました折、国策で課税が大きくなり採算がとれず閉業しました。27才のとき、函館のイギリス人ハウルが経営する田中鑛山の用度課長に就任して入山しましたが、31才で退山しました。

32才のとき、イギリス人デンビー氏経営の樺太漁業に従事しました。三井物産会社と、代議士牧口義方、福山の山本昇右エ門、越後の大島重太郎、伊勢四日市の九鬼紋七、北海道江差の永瀧松太郎氏の五氏の出資で、ロシア領ニコライエフスク即ち黒竜江の鮭の漁業に従事することになったのである。

投網五統で行う鮭漁は六千尾を以て百石といいましたが、この年の漁獲は大漁で一万数千石となり、更に幸いなことに、この年の鮭市場は高騰したため、各出資者への配当は実に十三割になりました。

翌年、また大々的に準備しているとき、ロシア官憲から日本型角網は乱獲の為、今後漁業は禁止するとの命が出てしまいました。

33才のときは、規模を小さくしてニコライエフスクに漁業に出ました。

34才のとき、ウラジオストックのロシア人と共同出資で日露漁業事務所を設置し、カムチャッカ西海岸百マイル南北の地点に投網五カ所の許可を受けました。

汽船二艘に漁夫二百五十人と漁具を満載し、その総帥となって五月に出発しました。カムチャッカの首都ペトロパロースク港に入港し、諸般の手続を終え、一週間停泊してから漁場に回航しました。

カムパコーハを根拠地とし、その前後五十(日本)里の間に網五統を建て、大きな漁獲がありました。捕った得物を塩蔵とし積取船二艘に満載して帰国させました。

その後の獲物約六千石と漁夫二百五十名を乗せてペトロパロースクから回航中のことです。占守島沖で難航し沈没する憂目にあってしまいました。

占守島に居た郡司成忠海軍大尉に助けられて上陸し待機していました。

郡司氏は報效義会で石川丸、報效丸、占守丸の三艘の帆船があり、漁夫はこの三艘に分乗しました。私は七十人の漁夫と一緒に石川丸に乗りました。十五日余りで北海道厚岸港に入港、上陸して釧路を廻り、日本輸船会社の汽船で十月末函館に帰り着きました。」

(引用終わり)

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引用にあるのは、曾祖父にとって自分史のほんの数ページ分に過ぎない。

物心ついて間もなく父母に死に別れ、10代にして意を決し家を飛び出て、神戸一の鰻屋(江戸孝)の配達夫から、洋品雑貨食料品製造業の菅谷善司方での丁稚奉公を経て、横浜居留地三十番にあったフランス人の商館レビュー商会に雇われ、夜は羽衣町の大塚法律学校に通って法律と英語を学び(親友に後に横浜貿易新聞を発行して横浜の名士となる恩田栄次郎がいる)、函館に活動の場を移した菅谷善司に付いて函館に移るという前史があり(拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)、天津の日本租界から日本が日露戦争で占領した営口に渡り、政商となって営口の市街建設に取り組み、南満州鉄道会社の指定請負人に指定されて大連でいくつもの会社を起業経営し40代から28年間に亘って大連・新京の市街地設計を企画し(大連郊外土地株式会社専務取締役)、学校を経営し(双葉学院院長など)、輸入自動車の販売を取扱い(大連スミス自動車株式会社社長)、その間もキリスト組合教会の執事、大連区長や市会議員を務め、西勝造氏の西式健康法を資金面から支えるばかりか(西銘会会長)満州での西氏講演旅行を企画挙行し(拙稿「跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ」「一枚の舌と二個の耳」)、敗戦とともにあらかた資産を失いながらも頭脳明晰に百歳近くまで矍鑠とした生活を送った後史がある。

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出資の内外を問わず、機を見るに敏であり、一つの成功体験に囚われず、常に新たな事業にリスクを恐れずチャレンジする気宇の大きさ逞しさは明治人に多かれ少なかれ共通する気質だろう。そういう気質を許すだけのチャンスに恵まれた時代でもあった。

イギリス人ハウルはデンビーと商売上の取引があったので、曾祖父は鑛山から漁場に移る伝手があったのだろう。漁場の先には、すでに多大な犠牲を払いながらも千島拓殖事業(第二次)を報效義会と共に行っていた郡司成忠がいた。日露戦争は講和条約(ポーツマス条約)でこの地域の日本の領土を広げる結果となったが、それが却って実効支配を緩めることとなって、占守島の拓殖事業も郡司の死後は日本人一家族だけとなって、太平洋戦争での敗戦後のソ連進駐に伴い島を離れざるを得ず、拓殖なる実効支配を目的にしていた報效義会はここに完全消滅した。

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日本人漁夫の活躍が、格段に優れた漁法(投網五統)や保存法(塩蔵技術)で帝政ロシアにとってすぐに脅威となったと同じく、第二次千島拓殖時の報效義会が占守島で築き上げた経済生活圏は、魚肉の缶詰工場や鍛工場が建設され、幌延島には分村が作られ、会員も増加していき、1903年(明治36年)には、占守島の定住者は170人(男100人、女70人)にまで膨らむなど、拓殖の成果を上げつつあった。

歴史の過去に「もし」はあり得ないが、中国東北部に中国人と同化して骨を埋める覚悟で内地から殖民としてやってきた人々の後から、政治軍事的な実効支配を狙って安倍首相の曾祖父やら神国の軍隊がゾロゾロと入ってこなければ、ブラジル移民(日系ブラジル人)のような関係(日系中国人)のまま、今日まで当初の理念としての「五族協和」が続いていたかもしれない。大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家(満州国)なぞ目指すこともなかった筈だ。そんな独立国家など作ったばかりに、敗戦という政治軍事上の落とし前で、全てが無になってしまった。

「千島列島並びに日本国が 1905 年 9 月 5 日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島」についても同様で、報效義会的に民間主導でアイヌ人や樺太の原住民(ニブフなど)と協和する経済生活圏を着実に広げていけば、今日の北方領土問題はなかっただろう。

「矗は軍人として非常なる損害を蒙るに至った」と政治軍事的に実効支配すべきだと、郡司を批難した白瀬矗を代表する意見が、郡司の拓殖なる民間主導の実効支配を阻害し、逆に政治軍事的イシューとして白黒付けやすくなり、挙句サンフランシスコ平和条約で片づけられてしまうこととなった。

「住んでいるから、生活しているから、原住民と同化共存しているから」と事実上の実効支配を言えたのは当初日本の側であったのに、今ではロシアの側の言い分となっている。

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難船沈没した船から曾祖父らを助けてくれたのは、郡司の報效義会であった。報效義会は占守島沖で遭難した船がどの国の船であろうと救助することを使命としていたようだ。民間であればできることも、政治や軍事が絡んでいたらどうであろうか?

あらためて、北方領土問題について、一旦、事実上の実効支配を許してしまえば、いかに解決が困難になるか、そのきっかけはロシアにあるのではなく、日本側(大日本主義に取り憑かれた政治家・軍部)が作ったのかもしれない。その大日本主義の系譜に日本会議とそれに連なる安倍政権がある(拙稿『安倍晋三首相・座右の銘「至誠」が意味するもの』)。

(おわり)



posted by ihagee at 18:08| エッセイ

2017年07月13日

新京第一中学校と父(第6期生)



監督・脚本:松島哲也、原作:田原和夫、主演:田中泯、夏八木勲の映画「ソ連国境15歳の夏」は2015年8月に劇場公開された。



敗戦色が濃厚となっていた昭和20年5月28日、旧満州の新京(現中国東北部・長春市)にあった旧制新京第一中学校からソ満国境の東寧報国農場に動員された学徒(当時:中学3年生=15歳)126人がソ連の侵攻に遭遇し必死の逃避行をした史実に拠っている(同農場には新京一中から動員された学徒とは別に14歳から17歳まで140名余の農場隊員がいたがその多くは非業な死を遂げたとされている)。動員された時点で国境に友軍は存在しないにも拘わらず、なぜ青少年を動員したのか?列車は不通となり、国境線の戦闘が終ったあと中学生たちは広大な大陸を歩いて新京まで帰ることになるが、伝染病と餓え、寒気、そしてソ連軍の銃火と中国人の憎悪の下、彼らは70余日の避難行をし、乞食姿の幽鬼の有様で新京へ辿り着くものの、4人が途中で亡くなったとされる。

その新京第一中学校の第6期生に私の父がいた(1943年同校卒)。4期下の後輩たちが上述の学徒動員に駆り出されたことになる。

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(新京第一中学校入学・右=父)


新京第一中学校は優秀な教師陣を揃え満州でトップクラスの学舎であった。父の3期下にはその後、英文学(シェークスピア)の大家となられた小田島雄志氏がいた。

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第6期生(1938年入学〜1943年卒業)、即ち、大正13年〜14年生まれは、昭和という時代を丸ごと人生としている世代でもある。その多くが社会の第一線を退いた頃、父が幹事となって学友および当時存命であった恩師と連絡を取り合って、卒業40周年(1983年)、50周年(1993年)及び60周年(2003年)の節目毎に6期会の記念文集を発行した。いずれも100頁程の小冊子である。父は退職後パソコンを能くしたので50、60周年のテキストの打ち込み・編集も受け持った。

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寄稿された文章は、内地に引き揚げた後の職歴や現況を綴ったものも多く、新京や中学時代の想い出に傾斜した内容ばかりでない点は興味深い。10年を経る毎に文集末尾に掲載の物故者名は増え逆に連絡用の住所録は薄くなり、父も重い病を得て70周年(2013年)の寄稿・編集に加わることなく、2015年の春に鬼籍に入った。母もその後を追うようにして3か月後に旅立った。

文集は遺品として今、私の手元にある。

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「朝に紅顔あって世路に誇れども 暮に白骨となって郊原に朽ちぬ(朝有紅顔誇世路)」と人生の儚さや無常を私なりに思うばかりであるが、寄稿文を「老人は夢を見、若者は幻を見る」と聖書の一節(ヨエル書第三第一節)で締めくくった方がいた。

神様の思し召しに従って人生を充実させ旅立つことを夢に見るのは老人である。父も母もそうであったろう。その啓示を知らずに俗世の支配者に幻を追わされて犠牲になるのはもっぱら若者だ。五族協和や王道楽土といった理念が最後は幻に化けて青少年までも死地に追いやったのである。

それらの理念に共鳴し中国の人々と同化し大陸に骨を埋める覚悟で渡満した人々の後から、理念を阿漕に用いようと政治家や軍人がやってくれば、初めはどんなに高尚な理念も一夜にして幻に変る。そしてあとからやってきた政治家・軍人は卑怯にもソ連兵から彼らを守ることなく一目散に逃げていた。

ソ連侵攻に先だって、軍及び政府関係の日本人家族だけが特別編成の列車で新京を離れたとされている。軍人及び政府関係者たちは明白な「棄民」を行った(映画では別のテーマ=原発事故被災者と重なっている)。軍中央も政府も、承知していた。「お友だち」だけが優遇されるのは今に始まったことではない。取り残されたのが東寧報国農場の隊員・学徒である。私の父は軍隊に召集されこそしなかったが、ソ連兵の略奪に遭い命からがら身一つで内地に引き揚げた。市民よりも先に一目散に逃げた政治家(岸信介)の孫が安倍晋三首相であり、「この道しかない」などとまたぞろ理念と称して祖父と同じく幻を若者に見せているのである。遺影の向こうから父がそう私に告げているようでならない。

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映画「ソ連国境15歳の夏」の中では、中国人として骨を埋める覚悟をした村長(田中泯演ずる元動員学徒の一人)が登場する。理念を幻にしないばかりか、残留孤児の養父養母と同様、被害者が加害者を助けるシーンはこの映画のハイライトとなっている。なお、この映画は名優・夏八木勲の遺作ともなった。

戦後70年の安倍談話「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」の出典は殴られた者(周恩来)が殴った者(日本国民)に与えた赦しの言葉に他ならない(日中国交樹立時)。

忘れ難き歳月」という冊子は、日中国交樹立に関わった両国の政治家の決意が綴られている。岸信介・佐藤栄作については日中関係改善に極めて否定的な立場でしか綴られていない。そして「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない(安倍首相)」の言葉は、周恩来首相(当時)の言葉がその出自であることが判る(同書73頁〜74頁)。安倍首相はこともあろうか日中和平を絶対前提として賠償請求権を放棄した上に唇を噛み締めながらも周首相が述べた「殴られた者」からの赦しの言葉を主客を逆さに解釈し韓国との従軍慰安婦問題で勝手に流用し、さらに「靖国」に代表される嫌中の前提で用いたことまで、この冊子に照らすとわかる(第一次安倍政権で日中関係改善に努力しておきながら、変心したかの如く第二次・第三次安倍政権は中国との間に緊張関係を作ることに全精力をつぎ込むあたりも含めて)。

日中和平・友好を誓うがゆえに「殴られた者」が我々に与えた言葉、そして「殴った者」からは決して出ようもない言葉を、我々、殴った者がその言葉をわが物のように手前勝手に用いてはならない筈なのに、安倍首相、即ち、殴った者の孫が赦しの主体を挿げ替えて勝手に用いる。その傲慢且つ偏狭さは、この映画のハイライトに照らせば一層のこと炙り出される。父が存命であれば「先の大戦に関して将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」なる安倍首相の戯言にどれほど憤ったことだろう。

(おわり)



posted by ihagee at 18:56| エッセイ

2017年04月21日

「チェキ」の横恋慕





富士フィルムの「写るんです」が誕生して30周年を迎えたのは去年だった。フィルム毎にカメラが付いているという逆転の発想は今なお斬新であるとともに現役のフィルムカメラとして地味ながら根強い人気がある。デジカメやスマホなどデジタル端末の画像データの扱いに四苦八苦するお年寄りには、写してカメラ毎プリントに出せるシステムは大変重宝なのだろう。そしてネガフィルムという現物(オリジナル)が手元にあるという安心感は代えがたいそうだ。それは、祖父の代のフィルムから今もプリントができるというモノとしての確実さが証明している。2011年の東北地方太平洋沖地震でも津波に流され塩水に浸かったネガやプリントといった現物から家族の思い出が復元されている(「富士フィルムの写真救済プロジェクト」)。



それとは対照的に被災したパソコンやデジタル端末から画像をレスキューすることは難しかったようだ。このことからも、経年や災害・事故にアナログ媒体は強いと実感する。メモリー上のモノに非ざる電気にはこの強さがない。

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「写るんです」と同じくニッチな人気があるフィルムカメラに富士フィルムの「チェキ」がある。フィルムを使うトイカメラのブームや、スマートフォンで撮った写真を加工してシェアできるSNS「Instagram」の登場と時期的に重なったこともあって、インスタント写真システムならではのキッチュさはカラフルな筐体共々若者に受けているようだ。ポラロイドがこの分野から消えインスタント写真は今や富士フィルムの独壇場である。「チェキの販売台数、ついにデジカメを逆転へアジアや欧米で人気が拡大・300万台の販売計画」と伝えられて久しい。



その「チェキ」用のインスタントフィルムを使ったモバイルプリンターが「スマホdeチェキ」で、スマホのデジタル写真をワイヤレスでプリンターに送信し、インスタントフィルム上に有機EL(発光ダイオード)で露光し同時にプリントアウト(現像)という仕組みだ。



フィルム自体は現像液をセットしたアナログフィルムだが、「チェキ」ではレンズからの外光をフィルム面に当てて現像する(アナログ・プリント)のに対して、「スマホdeチェキ」は最初からデジタルデータの色情報を3色(RGB)の点に置き換え有機ELで露光するので外光を使わないデジタル・プリントということになる。

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「写るんです」は、カメラ店に頼んでプリントをする段ではネガフィルムの情報をデジタルデータ化した上でのデジタル・プリントとなるので、ネガに光を当てて印画紙に露光する昔ながらの銀塩写真プリント(アナログ・プリント)ではない。引伸ばし機を使って自家焼きするマニアを除けば、アナログ・プリントと言えるのは今や「チェキ」だけとなっている。レンズを通しての自然光が情報の全てだから、失敗もするし(二重露光を除いて)撮り直しもできないが、ときに思いも寄らない写真ができたりもする。その不確実さが創造性を掻き立てるアナログ的魅力となって「チェキ」は若者の感性に応えているようだ。世界でたった一枚というオリジナリティは、オリジナルとは何なのかわからなくなりつつあるデジタル写真とは反対の方向性だろう。

著作権の観点からはこんな指摘もある
「従来は写真家がフィルムさえ確保しておけば、作品が無断で利用される事態をある程度予防することができた。しかし、写真がデジタル化された場合、データさえあれば写真はいくらでも複製・加工でき、無断利用も容易になってしまう。しかも、委託する側がデジタル化を希望するのは、上述のとおり、複製・加工が簡便だからからである。その背景には写真を一つの作品としてではなく、単なる素材として捉える考えがある。容易さに加えて、そのようなメンタリティーからも、委託する側は無断利用に陥りやすいのである。(中略)デジタル先進国のアメリカでも、デジタル技術で制作された映画をアセットとして管理する際には、あえてフィルムを使用するアナログ方式が採られている。これは、フィルムの褐色や損傷がデジタル技術で容易に復元できることもあって、安全性に問題のあるデジタル方式を避けた結果といわれている。写真についても、委託者が保管・管理を希望する場合にはアナログ方式(フィルム)を選択し、デジタル情報は廃棄するか、回収して写真家が自ら管理することが望ましい。」(「デジタル時代―浮き彫りになる写真著作権問題」(桑野雄一郎 弁護士)から抜粋)

デジタル写真の利便性が却って災いして著作権上問題となる場面が多いが、現物主義のアナログ写真では予防可能という不可思議さは、拙稿「紙は最強なり」で述べた通りだ。

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さて、その「チェキ」にハイブリッドインスタントカメラ「instax SQUARE SQ10」なる新商品が加わった(実勢価格3万円程度)。

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このSQ10は従来からある「スマホdeチェキ」のプリンターにデジタルカメラ(デジタルイメージセンサー)を載せたもので実質はプリンター付デジタルカメラだが、インスタントフィルムを用いる点が富士フィルムに言わせると「ハイブリッド」であり、他者製品との差別化らしい。しかし、露光は「スマホdeチェキ」と同じく外光を直接使わないデジタル・プリントなので従来の「チェキ」のアナログ的魅力であったアナログ・プリント部分は無くなってしまっている。LCDモニター、メモリーや編集機能があることから、最初からイメージング可能で何枚も同じ写真がプリントアウトできる点、インスタントフィルムを用いる以外は組み合わせの上での目新しさはないと思う。



SQ10専用のインスタントフィルムはスクエアフォーマットフィルム「instax SQUARE Film」でその名前の通り、62mm×62mmのプリント画面サイズの「ましかくプリント」という点が唯一の目新しさかもしれない(参照:拙稿「ましかくプリント」)。なお、SQ10に採用されているイメージセンサー(撮影素子)は主に携帯電話やスマートフォンに使われるセンサーと同じ1/4型(4.00mm×3.00mm(12.00平方mm))のCMOSのようだ。富士フィルムの最高級・中判ミラーレスデジタルカメラ「GFX50S」に搭載されているような中判サイズ43.8×32.9mm(有効画素数5140万画素)の大型CMOSセンサーではない。従って、クオリティー的にはSNS「Instagram」に応じたレベルで価格相当の妥協をしている。

若者には斬新に受け止められているスクエアフォーマットも、アナログ・120フィルム(有効画面サイズ56mm×56mm)ではすでに百年余の歴史がある。フィルムの粒子を単純にデジタル画素数に換算するのは条件が違い過ぎて難しいが、デジタルフィルムスキャナー(商用ドラムスキャナー)で120フィルムをスキャンする際に経験的に要求される画素数が5000万画素以上と知られている(スキャナーのスペックが許すのであれば1億画素とも言われている)ようなので、最新の大型CMOSセンサーで扱う以上のリアルな情報をすでに百年以上前に先人たちはフィルムという技術で得ていたことになる。基板上に配列した受光素子(フォトダイオード)よりも、所望感度に応じてフィルムに積層し得る銀粒子であれば当然といえば当然の話だろう。

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(120フィルム作例:Rolleiflex SL66 with TTL meter finder / filmed by Carl Zeiss S-Planar 1:5.6 f=120mm,
Kodak TRI-X 400)

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実物を手にせず感想を述べるのは良くないのかもしれないが、アナログ的魅力がSQ10から一掃されて何が魅力として残るのか気になるところである。

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アナログフィルムがアナログたる所以は「現像」にあるが、その「現像」を誰もが気軽に楽しめるようになればアナログ的魅力を更に開拓できるかもしれない。潜像が顕像となるプロセスの体験は新鮮である上、増感・減感などの次第で結果が大きく変わるという趣味性はマニアを除けば未だ知られていないと言える。従来、「現像」のプロセスはそれなりに大がかりで素人が始めるに当たって敷居が高かったが、フィルムを使うトイカメラのブームは「現像」にまでその関心が及び、トイ的解決方法を最近以下の商品が示して話題となっている。

LAB-BOXなるワンボックスの現像システムがそれである。



昼光の下、フィルムの引き出しから現像までの一連の処理が一つの箱の中で行える画期的な商品だそうだ。



35mmパトローネフィルムと120mmフィルム(モノクローム・カラーのいずれも可)に対応している。今流行のクラウドファンディングでの企画で残念ながら今年の3月末で一旦ファンディングの受付は終了した。当初の目標額を大幅に超える資金が集まったようなので、いずれ一般に商品化されて買えるようになるかもしれない。

ついでにアナログ・プリントにも同様にトイ的解決を期待したいところだ。その暁にはデジタルへの横恋慕は不要となることだろう。

(おわり)

posted by ihagee at 19:33| エッセイ