2016年11月25日

東京ゼロメートル(昭和34年)


「オリンピック東京に来る(サンデー毎日・昭和34年6月7日増大号)」

「200億円への挑戦・第18回オリンピック東京開催決定とともに動きだしたものは本来の競技をどうするかということより何より、そのことだった。・・・東京は、ひどい言葉をつかえば、江戸300年の残がいが、いまだに基本となっているだけに道路の整備は大変な仕事になる。」

そのオリンピックに向けた槌音が始まる前の「江戸300年の残がい」が至るところに残る東京の原風景。運河と6,000余の橋が水の都を形作っていた頃。江戸川・葛飾・江東・墨田・足立・荒川の六区は海抜ゼロメートル以下で庶民は水辺すれすれに住んでいた。気取りがなくて、親身で・・・というのが、この一帯の人たちであった。泥まみれのアヒルが一緒にいて湿地帯特有の風物をつくっていた。

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(おわり)
posted by ihagee at 20:55| 古写真

2016年10月29日

写真家・ヴァルター・ハーン(Walter Hahn)とドレスデン



Colmar Walter Hahn (* 20th April 1889 in Berlin ; † 24. November 1969 in Dresden ) (コルマー・ヴァルター・ハーン)は日本ではその名を聞くことはないが、ドイツのある世代以上の人々にとってはありし日のドレスデンを記録した写真家として知られている。

ハーンはベルリンで生まれドレスデンで殆どの生涯を過ごしたようだ。彼の写真家として最初の作品は山岳写真であったが、ガラス乾板の大判カメラを担ぎロッククライミングをしながら当時の著名な登山家を撮影したという。重く大きなカメラを背負うハーンは登山仲間からはレンガ屋(Hod)と仇名されたようだ。


(1922年 登山家・パウル・イルマーをファルケンシュタインで撮影)

初めのうち写真は登山仲間に配っていたそうだが、友人の勧めもあって1908年にフォト・ポストカードの会社をドレスデンに起こした(戦後はウィーンに本社を移転)。

以下は私が蒐集した戦前・戦後のハーンの会社のフォト・ポストカードの一部である(実際に切手を貼って使われたものもある)。

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(ハーンは美しい雲が浮かんでいる日を選んで撮影したそうだ)

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(ドレスデン大空襲で瓦礫と化す前の聖母教会・2005年に元どおりに復元された『百代の過客』)

山岳写真は1920年代迄で、1934年、ハーンはナチス党員となり航空写真を手がけ始める。第二次大戦も最中の1943年には許可を得てエルベ川の真珠と呼ばれたドレスデンの美しい街並みを陸と空から撮影した。連合国軍といえども古都ドレスデンを空襲することはないと信じていたドイツ人たちは戦禍を逃れてドレスデンに集まっていた。しかし、これが生けるドレスデンの最後のまとまった記録映像となった。

1945年2月13日の「ドレスデン大空襲」は絨毯爆撃と呼ばれ一夜の爆撃で古都の中心部は完全な廃墟となった。ドレスデンの街の85%を破壊し3万5千人もの一般市民が犠牲となった。空襲直後のアルトマルクトを撮影したハーンの一枚の写真にドイツ人同胞のみならず、その破壊の当事者たる英国人までが衝撃を受けたようである。



彼の妻はこの空襲の犠牲となった。しかし戦前彼が撮影した写真のネガは幸い殆どが無事であった。15,000枚にも上るガラス乾板を含め彼の写真遺産はドイツ写真ライブラリーに保管されている。東独時代は進まなかったが、ミレニアムを境にして、戦争で破壊された真珠のピースが一つづつそれら破壊される前の映像記録を参考に復元されている。写真を失われた過去の思い出とせずに再び写真を元に復元するという社会資本へのドイツ人の執念もさることながら、その甦りに「和解の印」を求めて、ドレスデンを爆撃した英国ばかりかナチスの侵略を受けた国々からも多くの支援が寄せられている。

(おわり)
posted by ihagee at 16:05| 古写真

2016年10月28日

明治31年・32年・34年・函館


古写真を三枚
明治34年(1901年)6月20日、函館蓬莱町の小泉写真館で撮られた写真。
左端は私の祖母(当時9歳)。その兄弟。函館商人の家に生まれた。祖母は昭和60年に92歳で亡くなったが、生前祖母から昔の話を色々聞く機会があった(思い出しながらいずれ記事にするつもりである)。

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もう一枚は明治32年(1899年)に撮影された。函館・小泉森一(大和座向)写真館。大和座という芝居小屋でもあったのだろうか。その向かいの写真館だろうか。先の写真と背景が同じなので、同じ写真館だろう。
左の人物は「一抹の航跡(函館・筑紫丸(ちくしまる))」「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)』「一枚の舌と二個の耳」で触れた、私の曽祖父。曽祖父は祖母とその兄弟を養子とした。抱かれているのは上述の祖母の弟。この大伯父にも何かと私は可愛がられた。囲碁が好きな人だった。

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そして、明治31年(1898年)函館蓬莱町の小泉写真館で撮られた写真。祖母(6歳)。多難な人生が待ち受けていようとは知る由もない。

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(おわり)

追記:
本稿にて大和座という芝居小屋について触れたが、明治期、音羽町に酒造場(清酒)を建てた菅谷善司は音羽町を歓楽街(色街)にするつもりだったらしい。菅谷が亡くなった後、丸善菅谷(丸善酒造場)が出資してその音羽町に<音羽館>という活動写真小屋を建てられたようだ。大正4年7月に開設された音羽館(音羽町)は、1400人も収容する規模だった。その周辺にも写真館があったのだろう。(拙稿「巴(ともゑ)の酒(函館・菅谷善司伝)」)


(音羽館)

posted by ihagee at 19:22| 古写真