2022年09月02日
戦争が起きないようにすることだけがあなたの仕事だ
米国CBSニュースのアシスタントプロデューサーであったスティーブ・ローゼンバーグ(Steve Rosenberg)は、ミハイル・ゴルバチョフに20年間に計5回インタビューを行った。
ゴルバチョフ死去の報にローゼンバーグは一文を寄稿している(BBC News 2022/8/31)
その最後のインタビューとなった2019年に触れた一文:
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私が彼に行ったインタビューは、これが5回目、そして最後となる。彼にはこれまで見たことのない悲しみがあった。まるで、自分の功績が後退していること、ロシアが権威主義を再び取り入れ、東西対立が復活しつつあることを感じ取っているかのように。
ゴルバチョフ氏はインタビューの中で、政権を握ったばかりの頃を思い出している。
「ソ連共産党書記長に就任した私は、全国の町や都市を訪れ、人々に会った。みんなが話していたことがある。ミハイル・セルゲイビッチ、どんな問題があろうと、どんな食糧難があろうと、心配するな。食料は十分にある。何とかなる。戦争だけは起こすなよ」。
この時、ゴルバチョフの目には涙が浮かんでいた。
「唖然とした。唖然とした。それくらい、先の戦争で彼らは苦しんでいたのです」。
ミハイル・ゴルバチョフは完璧ではなかった。完璧な指導者なんていない。しかし、第三次世界大戦を回避することを深く考えていた人物である。そして、家族を深く愛していた。
この2つの点で、私は彼を温かく記憶にとどめるだろう。
(引用終わり)
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ヴィム・ヴェンダース監督の1993年映画「ベルリン・天使の詩」でゴルバチョフは実名の人物として登場した。自ら命を絶ったり、傷つけあう人間たちに思いとどまるように働きかける天使の姿は大人には見えず子供にだけ見える・・。ピーター・フォークにはその姿が見える、そういう設定だった。ゴルバチョフの目にも同様に見えていたのだろう。
(おわり)
posted by ihagee at 09:08| 日記
2022年09月01日
ゴルバチョフ死去
西ベルリンに住む遠戚の小さなアパートで私はテレビを観ていた。
ベルリンの壁の向こうから放たれた電波は、赤の広場での葬列を延々と映し出していた。レーニン廟の上のよぼよぼの老人が選出されたばかりの書記長らしい。その隣に眼光鋭い男が帽子を目深に被って立っていた。
1984年2月14日のことである。
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その男が後に歴史を大きく変えることになろうとは当時誰一人として思わなかっただろう。ソ連邦崩壊は本意ではなかったようだがグラスノスチなどの解放政策が崩壊寸前の連邦の死期を早めたわけである。(拙稿「ソ連邦崩壊に学ぶこと・統制経済と統計改竄」)
今のロシアではエリツィンと共に国を混乱させ破壊した政治家として国民の間での評価はとても低い。他方、ドイツを中心に西側諸国では融和・統合の象徴として認知されている。ロシアでは斯くたる事情ゆえ旧体制の元首と言えども国葬はなく、おそらくドイツを主導として西側諸国で追悼式典が行われるであろう。それがプーチンへの当てつけという意味もあろうが、そうなれば欧米の首脳がずらりと顔を並べることになるに違いない。
”「ゴルバチョフは世界史を書いた。彼は一人の政治家がいかに世界をより良く変えることができるかを示した。」 ゴルバチョフの勇気がなければ、「グラスノスチとペレストロイカ、つまり開放性と再構築において、東ドイツの平和的革命は不可能だったでしょう。」(アンゲラ・メルケル前ドイツ首相)” 独 tagesschau 2022/8/31 記事より
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国葬に値するであろう歴史的国際的偉業を為したか否かを問うこともなく、否、むしろそれは不問でただ長く政権の座に居ただけで値するに違いないと閣議で決めた安倍晋三元首相の国葬。アベノミクスの総括すら未だしていないのだからそういうことだろう。海図なき航路で歴史を新たに書いた(ゴルバチョフ)のではなく、過去の歴史を勝手に書き換えた者でもある。
その死も対立する政治的思想(政敵)の犠牲ではなく、反社会的勢力と見做されてきた宗教団体への恨みの延長線での死であるから、政治家として言わば本望であろう殉職でもない。反社会的勢力(カルト集団)に関わったが為のスキャンダラスな死は、政治家として寧ろ恥ずかしいことである。
そして、ロシアですら民意に慮って、西側諸国からすればすべき人を国葬にしない。しかし、その客観的評価は上掲のメルケルの言葉にあるように欧米を中心に澎湃として起きる人と比較して、安倍氏は死しても遺影にまで忖度を求める。国葬挙行と初めから結論ありきで、国民には説明ならぬ「弁え」(忖度)を求める岸田首相は、野党が求める国会を頑として開かず民意を一顧だにしない。
その地位が主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくのであれば、上皇や象徴天皇は皇室典範で行うことが定められている大喪の礼について、大嘗祭をめぐる秋篠宮の身の丈発言と同様、慎ましく行うことを望む旨、心意を表明しても良かろう。大喪の礼の言わば政治転換(利用)である国葬への牽制ともなる。
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「安倍晋三さんのどこが国葬に値しない政治家なのか誰か教えてくれ」(フジテレビ上席解説委員 平井文夫)
値するかしないか教えるも何も、法律にない国葬は挙行できない。それだけである。
平井という解説委員は幼児のような問いかけをコラムに認める。呆れてモノが言えない。価値や総意すら確かめることなく、国民総出でその死を弔うことに「決めた」などという全体主義はそもそも民主主義と相反する。その人が値するかは上述のようにその政治的功績への評価が何の忖度も伴わず、内外の市民の中から澎湃と湧き起こるべきことである。
教えてもらわなければわからないような値は、問う価値すらないということだ。
(おわり)
posted by ihagee at 08:13| 日記
2022年07月22日
三本和彦氏に思うこと
三本和彦氏が亡くなられた(7月16日)。徳大寺有恒氏(故人)と共に少なからぬ影響力を昭和世代の自動車好きに齎したモータージャーナリストである。
走る・止まる・曲がる、という車の基本機能に三本氏は拘り、コストや見てくれにそれら機能が犠牲になろうものなら、メーカの設計・開発者に直接歯に衣着せぬ物言い(所謂「三本節」)をするなど消費者目線での論評は夙に話題を呼んだ。特に、1977年(昭和52年)7月6日から2005年(平成17年)4月3日まで約28年間放送されていたテレビ神奈川(tvk)『新車情報』は、対米自動車輸出に於いて米自動車産業を脅かす程(「ジャパン・バッシング」)の我が国の自動車産業の興隆と時期を同じくし、今、YouTubeの公式チャンネルであらためて観て、あの当時の社会の勢いまで感じ取れる。
『新車情報』は「金は出すが番組内容に口出ししない」スポンサーに恵まれた。スポンサーやメーカに気兼ねせず、主義主張が明確なコンテンツが生まれることは、同時期の産業映画でも言えることである(「縁(えにし)の糸」)。
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さて、YouTubeで数十万単位のサブスクライバーを獲得するプロ・モータージャーナリストたちが発信する動画をどれでも良いから一つ観てほしい。『新車情報』の「三本調」と比べて、そのあまりに総花的且つ趣味性に傾斜した内容に気付くだろう。彼ら・彼女らは多分にメーカの意向(=都合)を気にし、また現実の消費者とは必ずしもイコールではないサブスクライバー(=趣味人)の視線を気にし、ゆえに実用性に欠けるばかりか走る・止まる・曲がる、という車の基本機能に劣る車までも褒め上げる。極端な加速性能を誇る車はサーキット場以外の公道ではむしろ危険極まりない欠陥商品(走る凶器)であるのに、それも個性かに趣味性で語ることはやはりおかしい。世界一の高齢化社会を迎えつつあるわが国で、ドライバーも年々高齢化が進むわけだからロケットやミサイルと蔑称されるような、みかけの斬新さに阿るあまり視認性や操作性を軽視した車(例:プリウス)はあってはならない。
「カーブを1秒速く曲がるよりも、5分早く家を出なさい(三本氏)」は移動手段=道具(車)を目的化することへの警句であるが、道具には道具なりの見方がある。それは単なる趣味性ではなかろう。
「もろもろの道具は、絶対に枝葉末節ではない。それは民族の心をのぞきこむ窓である。」(佐貫亦男著:「ドイツ道具の旅』(光人社 1987年)・拙稿:「佐貫亦男氏『発想のモザイク』から」)
佐貫氏がカメラという道具を通じてのぞきこんだと同様、三本氏は車という道具を通してその作り手の心(民族性)を丹念にのぞきこんでいたのかもしれない。そこまで洞察して語るが真のモータージャーナリストだろう。
心をのぞきこむこととは、ときとして我々日本人とは異なる発想パターンの回路を探し理解することでもある。ところが、どうだろうか?今様モータージャーナリスト(特にYouTubeで動画を配信しているモータージャーナリスト)はその車の作り手が韓国や中国となるや、途端にサブスクライバー(日本人)の視線を気にし出す。その言葉にイクスキュース(前置き)が付いてまわるのである。
また、そのレビュー対象はメーカ主催のプレミア試乗会の新車ばかりで、消費者にとって何より重要な耐用性に係る時間(数年)や距離(数万キロ)といったスパンでは何一つ論評していない。新車のラインナップとトレンドをカタログ的になぞっているだけだ。
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EV(電気自動車)分野での韓国や中国自動車勢は今や世界を席巻しつつある。かつて内燃式エンジンであったような欧米日の技術の真似事などではなく、全てゼロから設計開発し急速充電スタンドまでもメーカが主導して費用投下し拡充するといった発想パターンの回路は、何事にも箸の上げ下げまでお上に指図されることを期待するような親方日の丸思考とは全く異なるものだ。
水素燃料電池車(FCV)のプロジェクトを打ち上げても、そのインフラ環境整備(例えば水素ステーション)は全てお上に丸投げで採算性ばかりか将来性まで全く見通せないトヨタの事例がその親方日の丸思考を如実に表している(FCVはEV, PHVともども、その導入促進事業に多額の税金が投入されている)。国産メーカで最もEV開発販売に注力している日産ですら急速充電スタンドの拡充を図ることはしていない。急速充電方式でありながら最大90kWまでの直流(DC)しか許容しない我が国標準規格のCHAdeMO(チャデモ)は、交流と直流を1つにまとめた最大350kWの「CCS(Combined Charging System:コンボ方式)」の超急速充電規格の前にあっては陳腐化は避けられず、そのCHAdeMO(チャデモ)の充電ステーションすら国内で7,700箇所のままでは、普通充電前提の街乗りでしか実質運用できないEVは海外EV市場とは隔絶された孤立した環境(日本市場)でのジャラバゴスの進化系にある。
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外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るが「ジャラパゴス」の意味だが、それがわが国の基幹産業たる自動車産業に重なりつつある。
EV先進諸国の最新動向は、EVネイティブチャネル動画に詳しい。
(EVネイティブチャネルより)
わが国のジャラパゴスぶり(#EVガラパゴス)はついにその基幹産業にまで及んだ。最終的に国際社会から経済的に淘汰されるのはわが国自身であることについて、危機的意識を我々はもたなくてはならない。
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日が明るいうちに亡くなられた三本氏はある意味幸せだったのかもしれない。
(おわり)
posted by ihagee at 07:17| 日記