2020年09月18日

心の癒し・インコでも人間でも






”私セキセイインコを飼育し60年越えでしたが昨年夏に最後の1羽亡くなりました。インコの鳴き声もなくそれ以来、気が抜けた 毎日、高齢となりこれ以上の飼育を諦めました。ネットで貴社の「森のセンサーバード」を知り購入いたしました。 インコの動作、さえずり、可愛いですね。とても心が癒されています。ありがとうございました。”
(Yahooショッピング「森のセンサーバード」のレビュー欄より)

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我が家でもインコを一羽飼っている。齢14、人間で言えば80半ばの老体で脚が少し不自由になったものの毎日何気ない仕草で愛嬌を振りまく家族の一員。今はすっかり言葉を忘れてしまったようだが、数年前まではカミさんの声色でお喋りをしていた。

その彼女(雄なのに「ピーコ」と勝手にカミさんが呼んでいる)は、あしかがフラワーパークの売店で買った同種の玩具が大の気に入りで突っついたり、造作の花びらに頭を擦り付けたりして飽くこともないようだ。樹脂の花びらは頭を掻くには絶妙な形状をしていて、人間よりも本物のインコに遊んで貰おうと設計したかに思えるほどである。

電池が切れようものなら具合が悪いのかと心配気な表情をする(インコは顔色がある)ほどだから、つくりものでも情が通うのは人間もインコも同じだと上掲のレビューで感じた次第である。とても良い製品なので紹介したい。


(あしかがフラワーパークで買ったと同じ物・amazonで販売)




(電池が切れて動かないと心配そうにする)


(おわり)

posted by ihagee at 11:38| 日記

2020年09月04日

ハブる空気



「ハブる・ハブられる」は若者言葉らしい。私など中高年世代にとっては「シカトする・シカトされる」だろう。仲間外れにする・される、の意味では同義となる。

「ハブる・ハブられる」は言葉の上では、本来活用形のない(体言=名詞)に(る)を加えて動詞にした新造語のようであるが、「ハブ」なる体言は蛇ぐらいしか思い浮かばない。

「葬る・葬られる」という動詞と同源の「葬る(はぶる)・葬られる(はぶられる)」に由来するのではないか。「死体を埋葬する」という本来の意味から派生して「闇から闇に葬る」など「表面に現れないようにする。世間に知られないようにする。また、捨て去る。」の意味で使うことが多い。その意味を「仲間外れにする・される」に「ハブる・ハブられる」を当てているとしたら随分と剣呑である。

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「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう後足で石を転がしてはいかん。後から尾いて行くものが剣呑だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」(夏目漱石「虞美人草」から)

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山登りに石を転がしては危ない(剣呑)から止せとの件だが、わざと転がして後から尾いて来ないようにするのが「ハブる」に感じる剣呑さなのかもしれない。本当に石を転がして後から尾いて行くものを死なせては犯罪なので「後から尾いて来させない」ようにするには「村八分」が相当なのだろう。ムラ社会での十の共同行為の内の八分から特定の住民を排除するがその意味で、換言すれば、排除する側はその社会の行為の八分で空気を読み合っていることになる。

安倍政権下「忖度」が大手を振って罷り通り、自由に意見をする者が爪弾きにされた。「自由=個人=無責任」なるレッテル貼りに政権は血眼になり「自由」「個人」狩りへの社会的同調圧力をマスメディアを介して増幅し続けてきた。その結果、あることもなかったことにしたり、その逆にやってもいないのにやったふりをする(虚構・劇場化)、嘘の上に嘘を重ねる、巧言令色・舌先三寸のポエムにふわっと巻かれていれば良しとする空気が充満し、世の中全体が思考停止に陥っている。すべき議論すら空気に委ね、「生殺与奪の権」も誰かにあずけてしまう。責任は感じても取らない・取ることを要求しない社会は互いに言葉を飲むばかりの閉塞感に満ちてるのではないか。

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"朝日新聞社が2、3日に実施した世論調査(電話)で、第2次安倍政権の7年8カ月の実績評価を聞くと、「大いに」17%、「ある程度」54%を合わせて、71%が「評価する」と答えた。「評価しない」は、「あまり」19%、「全く」9%を合わせて28%だった。(朝日新聞 Digital 2020年9月3日配信から)”

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この結果に私は息苦しいほどの剣呑を覚えた。ハブる側の空気感が71%の「評価する」に現れているのではないか?

”もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろう” (「空気」の研究・山本七平著から)

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その空気感を目一杯醸成し最大限に政治利用した名目的責任者(安倍総理)が「破滅も所詮国民の空気のせいだ」と言わんばかりにその歴史検証すらできないように公文書すら隠滅・改竄すれば、またぞろ71%のふわふわした空気が安倍晋三氏の類系を為政者にすることだろう。鬼畜米英から対米隷属へと一夜の内に頭を切り変えてもそれは単に状況に合わせただけのことで、その根底に流れる「暗黙知」や「互いに察し合い」、論理や科学的検証よりも「情況がそうさせた」と空気に結論する意識(拙稿「運・不運でかたづけるなら神仏の世界」)は太古から一切変わっていない。その「情」たる有様は心の内であって文字に表せないゆえに厄介なのである。そこでは、賛美者、利害者ばかりを侍らしそれらと情実(秘め事)を交わすことこそ政治と嘯く人誑しがいる。桜を見る会はその秘技の最たるものだった。

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その「安倍政治」において、「自由」は経済的自由主義や政治的イデオロギーの内に留めおき、決して個人の独立した思想の上にあってはならないとしてきた(その「自由」は一握りの者のためにある=強者はさらなる自由を求め、弱者は平等を叫ぶ「新自由主義」)。ゆえに個人の思想よりも集団的意識を重んじ、日本古来の伝統や国粋ばかりを吹聴鼓舞し、国際社会に於いて日本の存在を神聖視し剰えその意識の発露たる同調と排除(差別)を社会に蔓延させる、危うさを含んだ幼い思考である(拙稿『自由主義・民主主義』)。「自由でも民主でもない」政党に変質した自民党。その変質すら気づかない集団的意識。

危うさを含んだ幼い思考がハブる空気に満ちた71%の「評価する」とあれば、またも破滅を招くことになる。

(おわり)

posted by ihagee at 06:59| 日記

2020年07月10日

けむの一片



歩廊といい構内といい、通勤電車の待合で烟草を燻らしても咎められない時代があった。さすがに車内で一服は法度だったが、それでも電車の連結部分で前後のドアを締め切りしゃがみ込んでこっそりふかす者はいた。

「誰か吸ってんな?」とすぐに周りで気づくが、それでも見逃すような今に思えばいたって寛容な時代だった。

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(1969年撮影「サイアノタイプ - その87(引き伸ばし機)」)
丸ノ内線・線路の壁際に点々と注意書きがあったことを思い出した。確か、「たんやつばを線路に吐かないように」だったと思う。当時は公共空間での喫煙が大目に見られていたのでいがらっぽい人が多かったのかもしれない。たんやつばを飲み込む為にニッキやクールの浅田飴も流行った時代である。

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時代が代わり、喫煙者は肩身が狭くなった。駅構内は終日禁煙。たとえ一本の煙でも遠くからでもその臭いが判るということは路上でも同じ。ゆえに街中での歩き煙草も禁止のご時世である。

その煙のエアロゾル状態での粒子径は0.1 μm〜1μmと言われている。市販のマスク越しにもその臭いは十分感じられるので、マスクは煙り除けにもならないということだろう。

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”これが「事実」なら衝撃的だ。欧米の科学者らが6日、世界保健機関(WHO)や各国保健当局に対し、公開書簡を出した。新型コロナウイルスは2メートルをはるかに超える距離で浮遊し、空気感染する可能性があると指摘。WHOに感染防止策を見直すよう求めたのだ。WHOも精査に動くという。・・・AFP時事などによると、直径5〜10マイクロメートル以上の飛沫は1〜2メートルで地面に落ちるが、それより小さな飛沫は霧状の微粒子となり、はるかに長い間空気中を浮遊し、遠くまで移動するという。対策として屋内では換気を良くし、建物内や公共交通機関での混雑を避けることを提唱している。WHOはこれまで特殊な環境を除いて空気感染の恐れはなく、1メートルの距離を取るよう呼び掛けていた。”
(日刊ゲンダイDigital2020年7月8日付記事より)

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霧状の微粒子、エアロゾルでのコロナウイルスの粒子径は0.1 μm。つまりエアロゾルは考えてみれば件の煙もコロナウイルスも同じ。違いは臭いがあるかないかだけ。コロナウイルスも煙草のように臭えば通勤電車内のスーパースプレッダーは忽ち判るものだろう。

つまり、煙草が臭う距離(1〜2mどころではなく、10m程度)であればコロナウイルスも吸い込む可能性があるということ。所謂ソーシャル・ディスタンスが10mにもなったら、煙草であれば公共の場での禁煙を徹底すれば良いが、コロナウイルスの場合どうしたら良いのだろうか?煙草を吸うな(=煙を吐くな)とは言えるが、会話や咳、くしゃみをするな(=息を吐くな)と言うわけにはいかない。通勤電車内でスマホを撫で回すことも、便器以上に菌やウィルスが付着し易いと言われるディスプレイから指を介して口や鼻からコロナウイルスが感染するリスクはある(人=人感染ではなく、物=人感染)。だからと言って、車内のスマホ操作を一切禁じることはできない。「揺れますのでつかまってください」と車内放送で呼びかけるつり革や手すりなど挙げたらキリがない。密集近接空間では換気を良くして人や物へのウイルスの付着を最小化するしか手はないということになる。

そうしない限り、満員の通勤電車は紫煙立罩む昭和の雀荘と同じと考えた方が良い。通勤電車ばかりでなく、職場の閉め切った空調も内外気を常に交換する方式でなければ同じく雀荘となり兼ねない。階下の煙草が頭上のダクトから臭うような空調ならば雀荘を疑っても良い。ましてや、唾さえ飛ばなければ大丈夫とスーパーのレジなどに吊るしているビニールのシールドは、それ以前にその場全体の空調が雀荘化していれば意味を為さないのかもしれない。この点、福島第一原子力発電所事故で暴露した(今も続いている)放射性物資が外部環境と表には見えない地下水脈などを介して何の隔たりもなく流通しているにも関わらず「アンダーコントロール」なる言葉だけで問題を事故原発構内にのみ「表向き」封じ込めていることと変わりがない。色も臭いもない放射性物質だからビニールのシールド程度の薄っぺらな言葉一つでどうにでも始末がつくと為政者はたかを括り、東電は「表向き」の作業を行いその言葉に辻褄を合わせている。原発事故なる国家の宿痾(治らない病)への政治・行政の「アンダーコントロール」ぶりは(拙稿” いつまでも「うそつきロボット」で良いのか(原発事故なる国家の宿痾(治らない病)続き)”)コロナウイルス禍でも同じく発揮されつつある。

”フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。……”(安倍首相)

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「統制されています」とばかりに、誰にも見えやすいこと、すなわち、事故原発の建屋やその周囲にのみ世間の関心を向けさせると同じく、夜の街やホストばかりに世間の関心を向けさせ、感染源と決めつけ、社会生活上、夜の街は昼の街と比較すれば不要不急、「行かないで」と政治や行政は言いやすい。しかし、都内の感染者の過半数はルート不詳と言う。感染ルートが辿れずクラスター対策が打てない地下水脈的ケースを敢えて政治や行政は思考から排除し「アンダーコントロール」を装っているようにも思える。しかし、上掲の記事のようにそのルートに通勤電車など昼の街にも係るファクターがあると欧米の科学者は指摘している。

昼の街のファクターを議論の俎上に上げることは数段難しい。経済活動とのバランスを測ることが至難ゆえに、政治はバランスが取り易い夜の街対策で「やってる感」を目一杯創出するものの、この眼前の最大リスクは敢えて看過しているとも言える。

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”水に涵つた桃林を、人は雨外套の襟をたてて足ばやに、暗いはうへ消えていつた。

その後姿に、薫ゆらすとみえた、紫煙のけむの一片。それが白い。ぽんと、抛げすてられたその殻。地におちて、なほ燻る余燼。――もはや夜の大地が、こんな小つぽけな烟草を薫ゆらせてゐると、みえないことはない。”(「高祖保詩集・烟草のから」)

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けむの一片は夜の大地にばかりみてはならないのかもしれない。

(おわり)


posted by ihagee at 07:01| 日記