モノクローム専用設計の6.08" LCD(Duobond)は晴れて全面表示可能となり、気を良くして古びた35mmアナログフィルムをネガ元にサイアノプリントを行った(B5 Cotman Smooth 水彩画紙・露光時間約5時間)。
(昭和30年代の劣化したアナログフィルムがネガ元)
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プリントしたものの、アナログネガがあるのだからわざわざデジタル化した上でLCD上でバーチャルネガにする必要はないのである(アナログフィルムはUV光源の引き伸ばし機で従来通りプリントできる為)。
つまり、バーチャルネガ方式にしたからにはネガ元はスマホのデジタル画像で一向に構わない。それを写真アプリでリサイズ・ネガにするだけで良い。インプットについてはアナログ(アナログフィルム)との完全なる決別となるが、引き伸ばし機と感光性の印画紙からなるアウトプットの終段がかろうじてアナログというオチ。オーディオで言えば、アナログレコード(アナログ音源)の代わりにデジタル音源・増幅機としておきながら、アウトプットの終段は昔ながらにコイルと紙による空気振動たるアナログスピーカというオチと同じかもしれない。
アナログは所作、しきたりや立ち居振る舞いといったある種の儀式(心構え)を伴う。音楽鑑賞・暗室現像は華道・茶道と同様、極めれば道につながるが、その道をそもそも全く必要としない便益が今の世の中では罷り通っている。どこでもアイチューンズ、いつでもインスタである。「インスタ映え」の「見映え(見栄え)の良さ」は電子的イリュージョン(幻影・錯覚)に過ぎない。ものごとの真理も現実もそこにはない。
そんな便益ばかりの世の中(デジタル社会)にあって、アナログフィルムやアナログレコードにその便益世代の若者ほど関心を寄せるところは、不便益がむしろ五感(複雑系)に強く働くのだろう。手間がかかり、スキルや思考を常に使い、場合によっては非効率であり失敗もするといった不確実性は人間の生理現象と一致している。「見映え(見栄え)の良さ」とは逆、雑味ばかりだからこそ雑たる生身に染み渡るのである。
つまり、デジタル社会にどっぷり浸かるということは、その人の思考も行動様式も割り切り・単純化されていくということである。しかし、生身の体は正直にアナログのままである。遺伝も細胞分裂も排泄も老化も生死も全てありのままでしかない。そんな内側は草ぼうぼうの庵に毎日、割り切り・単純化を是とするデジタルなる客人が応接に暇なく訪ねてくるのである。客人は来る度に、こんなところに雑草が生えていると云いながらアナログ的なるものを刈取っていくのである。(ピュアは毒なり)
そのような便益にどっぷり浸かって受身になれば途端に自分を見失う。便益全盛・意識なきシステム社会ではいとも簡単に自分を見失い(<意識なきシステム>で「世界一」となる国)、自ずとは存在し得なくなる(「個人」か「人」か(憲法第13条))。
何事にも意識を通わせることは自分を見失わないことでもある。
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バーチャルネガ方式から話が脱線したが、インからアウトプットまで、ただ便利だからといって、全て意識なきシステムに身を委ねてしまう危険性を政府が率先するマイナンバーカードに感じてならない。考えてみれば、誰が普段の買い物に実印(マイナンバーカードと等価)を持ち歩くだろうか?個人の生命財産・人権に場合によっては紐づけられる実印は厳重にその個人によって仕舞われ管理されるべきものだ。それをただ「便利だから」といって、その管理をその個人の意識が通わない他者(国・政府)に預けてしまえば良いという意思薄弱に迎合して良い筈がない。カードと引き換えに生殺与奪の権を他者に委ねると同じことである。
マイナンバー制度に「NO!」を突き付けて廃止とした英国の国民性の底には人権は<意識なきシステム>に決して委ねないという強固な意志がある。人権の為なら、人間の意識をどこまでも通わせようとする努力を惜しまない。(<意識なきシステム>で「世界一」となる国)
(おわり)
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