2022年09月15日

無法による無法者のための儀礼(国葬儀)



私裁のもっともはなはだしくして、政(まつりごと)を害するのもっとも大なるものは暗殺なり。古来暗殺の事跡を見るに、あるいは私怨のためにする者あり、あるいは銭を奪わんがためにする者あり。この類の暗殺を企つるものはもとより罪を犯す覚悟にて、自分にも罪人のつもりなれども、別にまた一種の暗殺あり。この暗殺は私のためにあらず、いわゆるポリチカル・エネミ〔政敵〕を悪(にく)んでこれを殺すものなり。天下の事につき銘々の見込みを異にし、私の見込みをもって他人の罪を裁決し、政府の権を犯して恣(ほしいまま)に人を殺し、これを恥じざるのみならずかえって得意の色をなし、みずから天誅を行なうと唱うれば、人またこれを称して報国の士と言う者あり。そもそも天誅とは何事なるや。天に代わりて誅罰を行なうというつもりか。もしそのつもりならば、まず自分の身の有様を考えざるべからず。元来この国に居(お)り、政府へ対していかなる約定を結びしや。「必ずその国法を守りて身の保護を被むるべし」とこそ約束したることなるべし。もし国の政事につき不平の箇条を見いだし、国を害する人物ありと思わば、静かにこれを政府へ訴うべきはずなるに、政府を差し置き、みずから天に代わりて事をなすとは商売違いもまたはなはだしきものと言うべし。畢竟この類の人は、性質律儀なれども物事の理に暗く、国を患(うれ)うるを知りて国を患うる所以の道を知らざる者なり。試みに見よ、天下古今の実験に、暗殺をもってよく事をなし世間の幸福を増したるものは、いまだかつてこれあらざるなり。

「国法の貴きを論ず(福沢諭吉・学問のすすめ)」から抜粋

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山上徹也による安倍晋三元首相殺害事件。「国を害する人物ありと思わば、静かにこれを政府へ訴うべきはずなるに、政府を差し置き、みずから天に代わりて事を」なした私刑(私裁)であった。

「私のためにあらず、いわゆるポリチカル・エネミ〔政敵〕を悪(にく)んでこれを殺すものなり」が暗殺であるのであれば、安倍元首相は政敵として殺されたのではない。

政敵による暗殺などではなく、「危機感や不安感をあおって勢力拡大を図り、不法事案を引き起こすことも懸念される特異集団」と公安調査庁が長らく認識していた旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)への被害者・怨恨者によって、その特異集団を代表する者(キーパースン)の一人として殺されたのである。疾しく不名誉(スキャンダラス)な死と言って良い。安倍氏自身の疾しさ、つまり、安倍氏と同集団との唯ならぬ関係は山上の一方的な思い込み(「私の見込み」)などではなく、数々の資料が示す通りである。

「安倍(元)総理がどのような関係を持っておられたのか、このことについては、御本人が亡くなられた今、十分に把握するということについては、限界があるのではないかと思っています」(岸田首相)と言おうとも、我々はその関係を如実に示す資料に簡単に当たることができる。「報道に出ているものを見る限り、私が出席したと考えるのは自然だと思います(山際大志郎 経済再生担当大臣)」などと受動を装うことすらできない、主体性能動的な関わりがはっきり現れている。


(天宙平和連合=UPFは世界平和統一家庭連合系のNGO)


(世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会)の関連団体・国際勝共連合の月刊誌「世界思想」の表紙を飾る安倍晋三首相=当時。画像出典:山崎 雅弘氏 Twitter 国際勝共連合なる政教一致の政治団体の思想に少なくとも共鳴し広告塔となるような行為をしていたことなどは容易に確認できる。)

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国も政府も旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の社会にもたらしてきた害悪についてまともに取り合わず、ましてや政権与党自由民主党の最大派閥を率いていた安倍晋三氏自身がその「前首相」という肩書きを以てその団体に肩入れをし、文科省をして法人格(宗教法人)を与えてその活動に国のお墨付きを与えていた。

その私刑を以て「国を害する人物」は第一に山上であっても、同様に安倍晋三元首相にも該当する。法なき天誅は無法者の仕業であり、山上がアナーキストであるとともに、憲法違背の政教一致の原理を堂々と国政に持ち込んだ安倍元首相も同様にアナーキストである。

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(検察・司法にまで手を突っ込む=越権=国を害すること)

お互い自分の行っていることを承知しているゆえ、その殺し殺される関係は「果たし合い」と呼ぶのが相応しい。「果たし合い」とは無法のヤクザ同士の抗争を今は言う。

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山上の罪は法によって裁かれる。他方、安倍元首相の生前の「国を害する」罪は裁かれるどころか、国葬に値するとされる。そしてその「国葬」もまた無法の儀礼(国葬儀)とあって、無法にすっかり包羅されたこの国の有体を内外に晒すことになる。曲がりなりにも民主主義国家・法治国家を標榜するのであれば、この民の声を一つと聞かぬ無法な儀礼はこれもまた「国を害する」ことに他ならない。安倍国葬儀は行うべきではないのである。

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(おわり)


posted by ihagee at 05:54| 憲法