西ベルリンに住む遠戚の小さなアパートで私はテレビを観ていた。
ベルリンの壁の向こうから放たれた電波は、赤の広場での葬列を延々と映し出していた。レーニン廟の上のよぼよぼの老人が選出されたばかりの書記長らしい。その隣に眼光鋭い男が帽子を目深に被って立っていた。
1984年2月14日のことである。
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その男が後に歴史を大きく変えることになろうとは当時誰一人として思わなかっただろう。ソ連邦崩壊は本意ではなかったようだがグラスノスチなどの解放政策が崩壊寸前の連邦の死期を早めたわけである。(拙稿「ソ連邦崩壊に学ぶこと・統制経済と統計改竄」)
今のロシアではエリツィンと共に国を混乱させ破壊した政治家として国民の間での評価はとても低い。他方、ドイツを中心に西側諸国では融和・統合の象徴として認知されている。ロシアでは斯くたる事情ゆえ旧体制の元首と言えども国葬はなく、おそらくドイツを主導として西側諸国で追悼式典が行われるであろう。それがプーチンへの当てつけという意味もあろうが、そうなれば欧米の首脳がずらりと顔を並べることになるに違いない。
”「ゴルバチョフは世界史を書いた。彼は一人の政治家がいかに世界をより良く変えることができるかを示した。」 ゴルバチョフの勇気がなければ、「グラスノスチとペレストロイカ、つまり開放性と再構築において、東ドイツの平和的革命は不可能だったでしょう。」(アンゲラ・メルケル前ドイツ首相)” 独 tagesschau 2022/8/31 記事より
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国葬に値するであろう歴史的国際的偉業を為したか否かを問うこともなく、否、むしろそれは不問でただ長く政権の座に居ただけで値するに違いないと閣議で決めた安倍晋三元首相の国葬。アベノミクスの総括すら未だしていないのだからそういうことだろう。海図なき航路で歴史を新たに書いた(ゴルバチョフ)のではなく、過去の歴史を勝手に書き換えた者でもある。
その死も対立する政治的思想(政敵)の犠牲ではなく、反社会的勢力と見做されてきた宗教団体への恨みの延長線での死であるから、政治家として言わば本望であろう殉職でもない。反社会的勢力(カルト集団)に関わったが為のスキャンダラスな死は、政治家として寧ろ恥ずかしいことである。
そして、ロシアですら民意に慮って、西側諸国からすればすべき人を国葬にしない。しかし、その客観的評価は上掲のメルケルの言葉にあるように欧米を中心に澎湃として起きる人と比較して、安倍氏は死しても遺影にまで忖度を求める。国葬挙行と初めから結論ありきで、国民には説明ならぬ「弁え」(忖度)を求める岸田首相は、野党が求める国会を頑として開かず民意を一顧だにしない。
その地位が主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくのであれば、上皇や象徴天皇は皇室典範で行うことが定められている大喪の礼について、大嘗祭をめぐる秋篠宮の身の丈発言と同様、慎ましく行うことを望む旨、心意を表明しても良かろう。大喪の礼の言わば政治転換(利用)である国葬への牽制ともなる。
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「安倍晋三さんのどこが国葬に値しない政治家なのか誰か教えてくれ」(フジテレビ上席解説委員 平井文夫)
値するかしないか教えるも何も、法律にない国葬は挙行できない。それだけである。
平井という解説委員は幼児のような問いかけをコラムに認める。呆れてモノが言えない。価値や総意すら確かめることなく、国民総出でその死を弔うことに「決めた」などという全体主義はそもそも民主主義と相反する。その人が値するかは上述のようにその政治的功績への評価が何の忖度も伴わず、内外の市民の中から澎湃と湧き起こるべきことである。
教えてもらわなければわからないような値は、問う価値すらないということだ。
(おわり)
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