NPO法人情報公開クリアリングハウス理事長三木由希子氏のネット記事に目が留まった。
公文書とは何か…「薬害エイズ事件」の文書が与えた大きな影響 公文書問題30年史(1)
薬害エイズ事件訴訟で原告側の有力な証拠となり国が謝罪し和解する理由にもなった、通称「郡司ファイル(厚生省生物製剤課長を務めた郡司篤晃氏のメモファイル)」に端緒する「公文書」の定義の件(以下記事抜粋)は興味深い。
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“ジャーナリストの魚住昭氏が自身のウェブサイトで採録・公開している週刊現代「ジャーナリストの目」でも、郡司ファイルがどのようなものであったのかが触れられている。
それによると、「実は厚生省の新庁舎ができたとき、職員たちは「机の上に物を置くな。日常、使わない物は(新設の)倉庫に入れろ」と指示されていた。その倉庫から見つかったファイルの中身は雑多なメモや新聞記事だった。メモは、課内のスタッフが議論のために書いたのを直ちに捨てるのも気が引けるので、郡司篤晃課長がファイルしておいたものだった」とある。
魚住氏は、「つまり『郡司ファイル』は隠されていたのではなく、単なる『ごみファイル』だったのである」とまとめているが、これは、「行政文書」に関わる議論が濃縮されたような話だ。
郡司氏は部下からメモを示されていたので、部下のメモや参考資料としとして共有されたものは、職務上共用された文書に当たる。
また、ファイルは適切に管理されずに倉庫に放置されていたとしても、共用部分にファイルが保存されていれば、必要な場合に組織的に用いることができるものとして保管されていることになる。郡司氏の意図は関係なく、組織的に用いられる文書としての形式を満たしていることになる。“
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その「郡司ファイル」には
“「非加熱製剤を使用しないよう業者に対する行政指導をする」などと、新任の技官補佐が「思いついた個人的意見」を記したメモもあったが、それが課内で議論されたことは一度もなかった。まだHIVの正体が分からなかったからだ。” (魚住昭氏)
そうであろうとも “組織的に用いられる文書としての形式を満たしていることになる。“
つまり「郡司ファイル」は情報公開条例の請求対象文書としての「行政文書」に「組織的に用いる」という定義を加えるきっかけとなった。
この定義は反面、
“余計な文書は残さない、文書をやたらと共用しないし共用スペースで保管しない、個人メモと行政文書の線引きをして分けて管理する、合法的に廃棄できるものは廃棄するといった教訓になる。情報公開請求の対象文書の範囲を広げる役割を果たした郡司ファイルは、その反面、組織的に用いられる状態に文書を残すことのリスクを、政府内で印象付けたともいえるだろう。結果的に、その後、情報公開法施行を前に文書の廃棄が始まり、何が行政文書に該当するのかという線引きが問題になるのである。“(三木由希子氏)
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たとえ『ごみファイル』であっても情報公開条例の請求対象文書として「(共用部分で)発見される文書」であれば組織的に用いられる文書(=公文書)としての形式を満たしていることになる。さらに言えば「課内のスタッフが議論のために書いたのを直ちに捨てるのも気が引けるので、ファイルしておいた」郡司氏に公文書隠匿の悪意はない。
他方、安倍政権下、森友学園公証記録(財務省)、南スーダンPKO派遣記録(陸上自衛隊)等々、1年未満保存文書のため短期間で廃棄済みだから存在しない=公文書の隠蔽廃棄は “職務上共用された文書”であるにも関わらず、事後その形式要件を満たさなくすることを意図するゆえに悪意がある。それが何故悪意なのかは、その情報を隠匿する側にとって利益となり、情報が開示されるべき国民にとって不利益となるからだ。
「郡司ファイル」を「教訓」として逆にこのような悪意に基づく公文書管理の恣意的運用が蔓延することになった。学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、「郡司ファイル」と本来なるべき「赤木ファイル(自殺した同省近畿財務局職員赤木俊夫氏が改竄の経緯を記した文書)」は「発見」されたものの黒塗りの開示であり、これは上述の利益・不利益の観点に照らせば「悪意」を意図しているに他ならない(赤木氏の公務災害認定報告書のみ本月17日付でほぼ全文開示された)。
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<本題>
“職務上共用された文書”(公文書)を国民の目から遠ざけたり(隠匿・廃棄)、大衆を欺く(嘘をつく)ことが、むしろ公共の利益の為になる場合もある。
そんな馬鹿なことはあり得ない!と思うかもしれないが、新型コロナウイルス感染下の公衆衛生の保持に於いては、嘘や不真実は許されるのである。
新型コロナウイルス(COVID-19)に関するWHOの「パンデミック」宣言を考えてみたら良い。日本国に於いて、このウイルスに罹った人は総人口の1%足らずであり、季節性インフルエンザの感染規模と同等またはそれ以下のendemic エンデミック(地域流行)又はepidemic エピデミック(流行)の範囲でしかない。
しかし、この感染症は国際社会に於いては人類にとっての脅威(パンデミック)とされている。これは我が国の感染状況に照らせば未だ明らかに事実の「誇張」であるが、人々があまり注意を払っていないとき、より良い公衆衛生の結果を達成するために誇張したり(不真実)嘘をついたりすることは、人々に注意を払わせ、結果として命を救うことになる。そのつく嘘が公共社会にとって利益となるのであるから「善意」に基づく嘘ということである。事実、WHOと米CDCは例えば、遺伝子ワクチン接種による免疫獲得の機序を過度に単純化したり、ワクチンの効果をあえて過大評価し非接種者が感染を拡大する主因であるとする。また、追加の接種を続けない限りパンデミックを抜け出すことはできないと言う。これらには多分に「誇張」がある。また、治験中で未だ確証(特に中長期の安全性)もない「安全性」を喧伝することは「善意」に基づく嘘または不真実である。
また、厚生労働省配下の「新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード」に於いて、構成員の間における自由かつ率直な議論が妨げられることがないようにする観点等から審議内容の公表等について座長が適当と認めるときは非公開とすることができることとしている。感染症の専門家であるからと言って、大衆の行動など他の複雑な問題に対する特別な洞察を備える者ではない(リスクコミュニケーションの専門家がボードに加わっているが洞察すべき問題はその範囲だけではない)。その議論の内容によっては「一般の人がパニックを起こすのではないか」と専門家自身がパニックを起こしたり(エリートパニック)、専門知識は譲渡できないにも関わらず、自分たちが他の分野にも通用する一般化された賢さを持っていると勘違いする。ここから、たとえ自由かつ率直な議論であっても国民の目から遠ざけたり、公共の利益のためであれば時として大衆を欺いたり嘘をつくことも倫理的であると考える。
新型コロナウイルス感染下の公衆衛生の保持に於いて必要な誇張や嘘だから(それで救われる命があるのなら)、これを「善意の嘘(白い嘘・高貴な嘘)」と呼ぶ。
関連記事:いつまでも「うそつきロボット」で良いのか(原発事故なる国家の宿痾(治らない病)
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つまり、“公衆衛生には「嘘をつく権利」が自己割り当てされている” と考えて良いだろう。
公衆衛生の保持のために必要な「善意の嘘(白い嘘・高貴な嘘)」ならばそれでも良いだろうが、そのつく嘘が公共社会にとって利益とならない、否、むしろ害悪となる場合、それは「本当の嘘」でしかない。
「善意の嘘(白い嘘・高貴な嘘)」や小さな不真実の積み増しは予測不可能な結果をもたらすこともある。
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「あなたが私に嘘をついたことではなく、もはやあなたを信じられなくなったことが私を揺さぶった(ニーチェ)」
より良い公衆衛生の結果を達成するために誇張されてきた「パンデミック」。その為についた嘘や小さな不真実自体にやがて人々は注意を向けるようになる。複数の情報源を漁り、多くの視点を得ることによって、その嘘や不真実が公衆衛生上の利益にならないことを人々が知った時(「本当の嘘」と知った時)、社会は予測不可能な結果に陥る(「もはやあなたを信じられなくなった」)。
白い嘘と本当の嘘は以下の6つの特徴で区別することが可能ではないだろうか?
(参照:What Is a White Lie? Certain features distinguish white lies from big lies. by Ekua Hagan)
1:「意図」
本当の嘘には悪意があるが、白い嘘には善意がある。
2:「結果」
本当の嘘の結果は深刻なものになりがちだが、白い嘘の結果は非常に些細なものであることが多い。
3:「受益者」
本当の嘘は、嘘をついた人に利益をもたらす傾向があるのに対し、白い嘘は、嘘をつかれた人や関係に利益をもたらす傾向がある。
4:「嘘の度合」
本当の嘘は大部分が嘘であるのに対し、白い嘘は真実を曲げただけのものが多い。
5:「普遍的に誤りである」
本当の嘘は普遍的に間違っていると考えられているのに対し、白い嘘は大体において真実ではないと考えられる。
6:「嘘の白さ」
本当の嘘はその嘘が与える刺々しさが際立つが、白い嘘は社会的に受け入れられる、取るに足らない、良心的な嘘である。
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新型コロナウイルス(COVID-19)のワクチン接種(mRNAワクチン)について上述の特徴を当て嵌めてみると以下のようになる。
1:「意図」
他国での治験完了や国内の完全な薬事審査を必要としない緊急認可は、その治験中の医薬品によって引き起こされるあらゆる危害から製薬会社を免責することであり、何ら科学的確証もなく「安全」を吹聴したり、医薬品と危害との間の因果関係について科学的に真実を求めようとしないことは国民にとって利益にならない。製薬会社を免責とするのであればなおさらに加害者の存在の有無に関わらず被害者に対して補償する「無過失補償制度」が必要であるのに、接種は自己責任と被害者を放置することは悪意がある。
2:「結果」
約半年ほどの新型コロナウイルスワクチンの接種の間に、過去すべてのワクチン死亡報告事例の毎年の記録を大幅に上回っているどころか、約 30年間ほどのすべてのワクチン死亡事例と匹敵するものとなっている(米CDC「ワクチン有害事象報告システム」)。「安全」なる白い嘘の結果は「非常に些細な」ものなどではない。
3:「受益者」
接種者にのみ社会生活や経済活動上の便宜を図る。接種による感染予防効果が期待値通りでないにもかかわらず、ワクチンを有効手段とすることは製薬会社の利益にしかならない。インドなど感染集積地で収束効果があった安価な経口駆虫薬(イベルメクチン)について頑なに承認しないことは、公衆衛生上の「受益者」が国民である観点を欠くことである。
4:「嘘の度合」
ワクチン有害事象はメディアで報じられることがない。報じられるとしても接種直後の軽度なアナフィラキシーばかりで、科学的確証(中長期の安全性については当然確証などない)のない「安全」サイドのバイアス=嘘の度合が常に報道にかかっている。
5:「普遍的に誤りである」
治験中の医薬である上での危険性(有害事象は厚労省に報告されているのだから予見可能性はある)の社会周知がなされておらず、社会的同調圧力で半ば強制的に接種を図ることは「ニュルンベルク綱領」が定めるインフォームド・コンセントの法的原則を欠く非倫理的な人体実験である。
6:「嘘の白さ」
接種・非接種者の間で深刻な差別・分断が生じ、社会全体が殺伐となる。非接種者の雇用(生存権)を奪ったり犯罪者呼ばわりすることに公権力が加担する(オーストラリア)など、ウイルスと戦うのではなく、人間同士、そしてワクチンと戦わざるを得ない様相や、公衆衛生上必要な介入をはるかに逸脱した差別主義(アパルトヘイト)の様相は、到底「白く」ない。
新型コロナウイルス(COVID-19)のワクチンおよびワクチン接種に存在するのはそれでも「白い嘘」なのか?
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白い嘘の歴史
白い嘘の定義が文書化されたのは、1741年にイギリスで発行された「The Gentleman's Magazine」という雑誌に掲載された記事である。その中で著者は、「ある高貴な女性が...白い嘘と黒い嘘を賢明に区別している」と書いている。白い嘘とは、誰かの財産や利益、評判を傷つけることを目的とせず、ただ、おしゃべりな性格や、素晴らしい話をして人を楽しませたいという気持ちを満たすためのものである」と書かれている。つまり、「白い嘘」とは、昔話を盛り上げるための無害な嘘に過ぎないと考えたのである。白という接頭語が使われたのは、歴史的に白は純粋さや善良さを連想させ、黒や闇は悪意や邪悪さを連想させたからである。オックスフォード英語辞典によると、嘘をつくという意味での「lie」という言葉が初めて使われたのは1,000年以上前だが、「white lie」という言葉が記録されたのは1567年のことで、以下のように抜粋されている。"I do assure you he is vnsusspected of any vntruithe or oder noted cryme (exceptte a white lye) wiche is taken for a Small fawte in thes partes." このように、白い嘘という言葉は、その始まりから、本当の嘘が持つ道徳的な負担や非難から解放された、より軽い嘘という意味合いを持っていた。
(おわり)
追記:「受益者」の観点:
「新型コロナウイルスのワクチン接種1回当たりの平均価格は、配送費などを含めて2400円程度とみられることが27日、政府の資料で分かった。政府が確保済みか、確保に向けて海外の製薬会社と協議中のワクチンは計6億8400万回分で、支出額は1兆6685億円に上ることも判明。世界中でワクチンの獲得競争が激しくなる中、政府はこれから供給を受ける分の単価を高く見積もっており、値上がりしている可能性がある。(共同通信2021年8月27日付記事引用)
比較:イベルメクチン(ジェネリック薬)[260円] 1回/12mg
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再追記:
要は「白い嘘」なのか?であって、「本当の嘘」をあれこれ詮索することではない。
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「本当の嘘」の「意図」などは「関係者の認識の食い違いなどにより、物事の真実が明らかにならない」藪であるから不用意に入り込まないことだ(拙稿:「藪の中」考)。その藪にはオカルトめいた陰謀論まで紛れ込んでいる。
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客観的な物事に照らして「白い嘘」なのか?だけに関心を抱き、自分と家族の身の処し方だけを考えることが大事だと考える。たとえ「真相は藪の中」であろうと、藪中思考は一分の理もない。
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子宮頸がんワクチン被害者救済(ワクチン接種再開反対)に取り組んでいる池田利恵・日野市議会議員が先日自身のフェイスブック上で「京王線事件はやらせ」かと受け取られるような内容の投稿をしたようだが、かかる藪中思考は本論の立ち位置までも危うくする。客観的な物事に照らして「白い嘘」なのか?だけを問えば自ずと持論の正しさが明らかになるのに残念なことだ。
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