2021年05月25日

これがパリだったらIOCは開催しない



「これがパリだったら IOCは開催しない」

” いかなる主権の原理も本質的に国民に存する。どの団体も、どの個人もそこから明確に発しないような権威を行使することはできない。自由とは他人を害しないすべてのことをなしうること。” (人権宣言から)

人権宣言(1789年)発祥の国、主権原理にとりわけ市民意識(観念)の強い国柄では、コロナ禍での開催にパリ市民の大多数が反対すれば、それがパリ大会であればIOCは開催を自ら直ちに中止する。

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開催都市および属する国家の市民/国民の主権を蔑ろにしてまで、IOCは開催の自由を行使し得ない。つまり、かかる意識の高い市民/国民に対しては、IOCは敬意を払うということだ。

さらに、人権デューデリジェンス(人権侵害のリスクを特定して、予防策や軽減策をとること)の立場では、開催都市がその行動指針を厳しく要求するのであれば、公衆衛生上のリスクが人権の基本たる「生存権」を脅かし少なからず「犠牲」まで想定した時点で、IOCは開催を自ら中止するに相違ない。

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逆に、人権(国民主権)意識が低く、デューデリジェンスが企業の行動指針になっていないような都市/国家にこそ、どのようなリスクがあろうともIOCはその権威を遠慮なく行使するのである。そんな意識の低い市民/国民相手だから、「五輪を可能にするのは日本の皆さんのユニークな粘り強さの精神と逆境を耐え抜く能力(バッハ会長)」とか、ステレオタイプの国民性を持ち上げて "おべんちゃら" でも言っておけば、開催に靡くとIOCはタカをくくっている。

つまり、日本国/東京都の国民/都民、大手新聞各社などオリンピック協賛企業はその程度と、IOCは見ているわけだ。われわれ国民は誰もが昨今のIOC関係者の高圧傲慢な発言に苛立っているが、しかし、どのようなリスクがあろうと開催しようとする東京都および菅政権および大会組織委員会などが、開催反対の大多数の民意を無視し「何が何でも開催」とIOCと共に踵を合わせているから、結果としてIOCを増長させているのである。

中国政府による少数民族に対しての人権抑圧問題で国際社会からその開催に反対の声が上がっている北京大会(2022年)ですら、要するに、国際世論が反対しようが、当事国の市民意識が低いからIOCは開催の意向を取り下げる必要がない。

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「東京だから開催しない」とIOCに言わしめ、「御見逸れしました」とIOCに頭を下げさせることこそ必要であり、そうさせるも翻せば我々の一人一人の意識(主権が国民に存する)に掛かっている。

「水は低きに流れ、人は易きに流れる」、しかし、低きところ易きところに国民主権の原理は存在しない。低きところ易きところへ流れる先を失ったとき、オリンピックはその歴史を終えるだろう。

(おわり)

posted by ihagee at 04:07| 東京オリンピック