2021年03月10日

個人の考えなどではない



自民党の現職国会議員が、選択的夫婦別姓制度への反対を呼びかける文書を道府県議会の議長などに送りつけていた問題。五輪相としてジェンダーギャップ解消の先頭に立っているはずの丸川珠代氏がその呼びかけ人であったことが判明して騒動となっている。丸川氏はあくまでも「個人の考え」であって大臣の立場と異なる旨の答弁を繰り返すが、選択的夫婦別姓制度への反対は「個人の考え」などではない。

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“家族は社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない”

このように、自民党が2012年にまとめた憲法改正草案の第24条に家族の互助を義務とする内容の第1項が新設されている。家族の互助を憲法上の義務として盛り込むことについては、同じく草案の第13条に盛り込まれている「個人」の否定(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)と合わせて考える必要がある。なぜなら現行憲法の理念の核心は「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという普遍的な考え(小林節慶大名誉教授)」であり、その考えが凝縮されている憲法第13条を見直し且つ家族の互助を憲法上の義務として盛り込むのが改正草案だからである。

「家族が大事なんだ」は“家族が社会の単位”、ゆえに、選択的夫婦別姓制度はその単位を侵すものであって認められない、が自民党およびその背景にある日本会議の基調であることは否定しようがない。

前川喜平・前文科次官の言葉を借りれば、この家族主義的考え方は戦前の国体思想であり、戦前の教育勅語で示されている考え方(拙稿「我々に再び、踏絵を踏まさせるのか(教育勅語について)」)。そして、そのベースには家父長制の家制度があった。そこでは親孝行こそ最大の美徳になる。家族なんだからという理屈ですべてを吸収してしまう。家父=男が言えば女は「みんなわきまえておられる(森喜朗氏)」となる社会でもある。これこそジェンダーギャップそのもの。

選択的夫婦別姓制度に反対することは、すなわち、性の多様性の前提である個人の尊重やら個人主義など認められない・家族主義こそこの国の社会の単位であり、それが美風である、とすること。ジェンダーギャップはあって然りとなる。

その美風が「絆」なる言葉に象徴されている。「絆」とは聞こえが良いが、為政者にとっては国や政治が一切責任を負わない自由主義レジーム全開の社会を目指すものである。そのような美風に寄りかかるは政治の低脳化・無責任化の現れとして危惧しなくてはならない。

事実、自民党の政策綱領では、「私たち自民党の基本的な考え方は、「自助」を基本として、「共助」「公助」の組み合わせに拠っています。(教育・農業・生活保護・憲法・子育て)」と謳っている。

「共助」と「自助」を組み合わせ、などと自民党は政策綱領で述べているが、その「共助」も、自由主義に邁進するあまり、派遣労働法を改悪。その単位となる「家庭」や「家族」を持つことすらできない非正規雇用を増大・常態化させ(これが非婚化・少子化の最大要因)、TPPなど自由主義経済政策によって、社会資本やコミュニティが失われつつある(故郷など拠り所さえ消滅している)現状に於いて、「共助」と言わんばかりに自民党が掲げる「家族主義」はもっぱら「美風」などという精神主義に加担するものであって(「絆」もその意味で精神主義)、実体は家族なき「おひとり様・無縁社会」が拡大深化している(拙稿「厚労省「福祉レジーム」からみた年金問題」)。

東北大震災後、盛んに使われるようになった「絆」という言葉も、このご都合な精神主義に他ならず、時代を遡れば “家族が社会の単位” なる「個」なき国体思想に行き着く。

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自民党国会議員の有志でつくる議員連盟「『絆』を紡ぐ会」が呼びかけの主体らしいが、その「絆」に選択的夫婦別姓制度を否定する思想・策謀が確固として横たわっていることを見逃してはならない。決して「個人の考え」などではないのである。

通称「丸川」は選挙用の通り名であって、選択的夫婦別姓制度とは別、と丸川珠代氏(本名:大塚珠代)は言っているようだが、いかに選択的夫婦別姓制度を都合(ダブルスタンダード)に解釈しているか判るというもの。自らの不明を恥じるべきだ。

(おわり)

posted by ihagee at 02:55| 日記