2021年02月26日

わきまえて戴く・聖火リレー



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(1936年8月1日)


最初の聖火リレーは1936年に行われた。ベルリン・オリンピック大会組織委員会の責任者、カール・ディームが発案したこのリレーは1936年7月20日の正午、ギリシャ・オリンピアで採火し7か国(ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリア、ドイツ)総距離3,187キロメートルのルートに、3,330人のランナーの手を経て8月1日、ベルリン・オリンピックスタジアムに到着した。

宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの期待通り、カール・ディーム発案のこの聖火リレーは「ヘレニズム」と国家社会主義を組み合わせることによってアーリア民族の文化的優位性・国家社会主義ドイツ労働者党政権(ヒトラー)の正当性を示す絶好の手段となった。

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”  聖火リレーの方は、ナチスドイツが国威発揚のために政治利用した1936年ベルリン大会で始まったという、特異な誕生の経緯があります。オリンピアで採火された聖火は3千人余のリレーで北上しベルリンに入りましたが、これが後の南欧侵略ルートと重なりました。このため、第2次大戦後の五輪大会では聖火リレーの存続に異論が出ましたが、五輪に花を添え盛り上げる効果を惜しむ声も多く大会ごとに盛んになりました。(中略) 人気の高い聖火・聖火リレーは、政治宣伝の絶好の機会で、五輪開催国が国威発揚(語感は良くないですがそれ自体は当たり前の政治・外交行為です。政権や政策の正統性が問題)に利用したり、逆に、反対派が示威行為を行います。特に2008年北京大会はチベットや人権問題に絡むリレー妨害が世界中で多発し、とうとうIOCは国際ルートを廃止し、採火国ギリシャと開催国の国内のみとしました。その後も地政学的リスクや地球規模課題に絡み政治がスポーツに関与する事例が増えているので、やむを得ないでしょう。バッハIOC会長が今年の年頭の辞で東京大会を念頭にオリンピックの“政治化”への懸念を表明したのもこのためです。(中略)我々が聖火・聖火リレーを含め五輪に惹かれエキサイトする理由としては、教科書的な説明ですが、@運動・遊戯・競う喜び A儀式・信仰 B祝祭・お祭り C豪華ショー・スペクタクル・劇場性等の非日常性にあるとされています。実感としてもそうです。” (「聖火がやって来る −その由来と今後の課題−(望月敏夫氏)」から引用)

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オリンピックに花を添え盛り上げる効果(祝典性)がある聖火リレーは反面、その出自の「特異性」を今も引きずり続けている

平時であれば聖火リレーの祝典性・非日常性は歓迎されるだろう。しかし、今、世界規模の新型コロナウイルス禍という非常時にあって国民の大半が今夏のオリンピック開催に反対する中、聖火リレーに平時なりの祝典性を求めることがいかに非常識であるか(多くは公衆衛生上のリスク面)同様に国民の大半が思うところでもある。

「人気タレントは人が集まらないところ、例えば田んぼを走るしかないんじゃないか(森組織委前会長)」

祝典性を削いでまでもなぜ「走るしかない」のか?そこまでして走らせることに一体何の効果を期待しているのだろうか?全府県で聖火リレーを行うことがあたかも「義務」であるかの空気がこの国を支配している。オリンピックに花を添え盛り上げる効果ではない効果をその空気は暗に求めているのだろうか?

「新型コロナ対策は大事だが、聖火リレーとは次元が違い、結び付けるのは違和感がある。やるかやらないかは組織委員会や国民、世界が決めることであって、知事が決めることではない」(竹下元総務会長)

しかし、国民、世界に「やるかやらないか」を問いかけることなど一切しない。要するに、組織委員会が「やる」と決定したら全府県は異論を排し絶対服従らしい。その組織委員会も会長も全て政権の息がかかっているから、聖火リレーは橋本会長が前任者から引き継いだ森流(「神の国」)の「(国民には)承知して戴く」の一つなのだろう。道理で「知事が決めることではない=わきまえて戴く」と丸山氏(島根県知事)を島根の自称ボスの竹下氏が恫喝まがいに牽制するわけだ。その構図は喩えれば、神の国の御使(竹下氏)が八俣遠呂智(聖火リレー)を退治しようとしている須佐之男命(丸山氏)を退治しようというのだから、その崇める「神」とやらの正当性まで問われる。

祝典性はもはや度外視し、もっぱら政治的動機で聖火リレーを行おうとしていることは誰の目にも明らかだが、「政権や政策の正統性」を表出し異論を排する全体主義を全国津々浦々に広めようとするのなら、それこそ聖火リレーのお里(特異性)が知れるということ。

その動機は「アンダーコントロール」(招致段階)から「コロナに打ち勝った証」に至るまで何かと政治的不純(嘘)が付き纏っている。この国が曲がりなりにも民主主義を標榜するのであれば、我々は安倍=菅と続く「政権や政策の正統性」を総括し、その上で聖火リレーおよびオリパラ開催そのものの是非を問わなければならない。

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ただでさえこの季節花粉症でわきまえが悪いこの鼻に、なんとも芬々と「特異性」が臭う。

(おわり)

posted by ihagee at 08:10| 日記