” 森氏の女性蔑視発言によって図らずもTOCOGのガバナンスに焦点が当たっているが、IOCにとって予期せぬことであることは想像に難くない。オリンピック憲章に掲げる原則や理念といった建前がことさらに前面に出れば、本音である商業主義に迎合しその役割(森氏について言うところの「功績」)を森氏並みに発揮する人物を後任に期待できなくなるからだ。”
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森氏の川淵氏への禅定と自身の相談役就任構想は森氏なりの「何が何でも開催する」路線の継承であった。
IOCの実質エージェントであるTOCOG、そのトップの本音での暴走に内外の世論は大反発し、事態を収拾するには建前を振りかざして止めるしかIOCとしては立場がない。そこで、IOC→菅政権の介入で内定人事が白紙になったのが真相と思われる。しかし、そうすればTOCOGの最重要の役割であるスポンサー契約(スポンサーの繋ぎ止め)と協賛金集め(開催支援)に森氏並みに「本音」で辣腕を振るう者を後任の会長職に期待できなくなる。それでもIOCは良いと実(本音)を捨て名(建前)を取るのであれば、それはIOC自身、開催を断念することを意味する。
開催都市契約の内容を鑑みれば、捨てる実の後始末は開催都市および日本政府が行うことになる(IOCとの直接ライセンス契約=TOPについてのみIOCがその始末を行う)。TOCOGは事業主体として残務処理(債務整理)の道筋を付けた後に解散。つまり、フルスケールの開催を以ってIOC共々名実を得られなければ(開催中止)、IOCは名を取り、開催都市・政府は花芽の出ない実の始末をするしかない、そういう契約。ゆえに開催都市・政府にとって名実が取れなければそれは一方的な敗戦と残務処理(債務整理)となる。TOCOGの後任会長は「敗戦処理」を担うことになるとの一部メディアの報道に対して、たとえ開催中止となろうと我々の「敗戦」と言うはけしからんと憤る人が多いが所詮そういう結末も伴う契約なのである。
ポツダム宣言を受諾すれば、受諾した側にとってそれは敗戦であるにも関わらず、我々は8月15日を「敗戦記念日」ではなく連合国側の言う「終戦記念日」と呼ぶと同じで、ポツダム宣言にIOCの開催中止決定を重ねれば、その決定を受ける側は無条件降伏=敗戦。初戦勝利の有利な条件で連合国側と早期講和(調停)を締結するという選択を時の政府がしなかった結果でもある。
別の喩えをするならば、胴元がIOCのオリンピックというポーカーの賭けに我々は敗けたに過ぎない。胴元とは常にルールを作る側ゆえ胴元が大損失を被る賭場にはならない。そのルールが開催都市契約とも理解できる。
だからこそ、調停(勝ち負けを決めるのではなく,話合いによりお互いが合意すること)を目的とする開催権返上を開催都市である東京都はIOCに対して行うべきではないのか?返上の理由はコロナウイルス感染拡大(不可抗力)に伴うリスク回避であれば国際世論はその返上に味方し、我々にとって敗けにはならないかもしれない。開催権返上(小池都知事)を前提に、その後調停に持ち込める人物を後任会長に選ぶべきと私は考える。そうであればIOCとしても落とし所を図らざるを得ず、IOCの実質エージェントであるTOCOGが開催都市・政府とIOCとの間に立って調停の役割を果たすことに異を唱えることはないと考える。1940年東京大会、1976年デンバー大会は共に開催都市がその開催権をIOCに返上した事例だが、その時の返上の大義とその後の調停に学ぶところは多い。(拙稿「返上そして提案しか立つ瀬がない」)
(おわり)
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