今夏開催予定とされるオリンピック・パラリンピック競技大会は森大会組織委員長の舌禍を界に嵐の様相を呈している。IOCの実質エージェントである大会組織委員会であるから、その後任委員長人事に菅政権が露骨に介入すれば、IOCはスポーツへの政治介入を禁じる建前を以って開催権剥奪なるペナルティを課すことも可能なので、現職閣僚や国会議員の登用は難しいだろう(橋本聖子五輪相の名前が一部報道で候補に上がっているが)。それとも今度ばかりは事態収束が先とIOCは目を瞑るのだろうか。
開催前提路線であれば、女性差別発言に端緒した今般の騒動を表向きその問題を糊塗するかの人事(女性の会長職登用)であろうが、現実、開催は限りなく不可能に近い。代表選考も進捗がなくコロナ感染拡大で参加できない国々も想定される中、一部の国々の参加を以って強行開催すればオリンピック憲章に謳う平等主義に反する大会になり、さらに無観客開催は開催の意義(公益性)を問われることである。新型コロナウイルス感染防止対策(プラス熱中症対策)のために確保が必要な医療資源、民間ボランティア、大会組織委員会の内部留保が尽き投入される税金等々、開催のために費やされるヒト・モノ・カネは、わずか数週間足らずの運動会にではなく、我々国民の公衆衛生に投じるべきものであることは言うまでもない。
現実問題を直視すれば、開催中止&敗戦処理(法律・契約面での後始末、組織委員会活動の精査検証)こそ大会組織委員会の役目となる。その役目に相応しい人物の会長職選びであるべきだ。コロナ感染拡大を主因に開催不能を開催都市が判断したとしても国際社会は十分理解するであろう。主因と認め開催を断念すれば開催のための帳尻合わせをする必要もない。新国立競技場、選手村等オリンピック関連施設を感染者の隔離やワクチン接種の場として用いることも可能となる。
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このまま、IOCから開催都市契約の解除および大会開催中止を一方的に通告されることは、事実上、オリンピックを開く資格を剥奪されることでもあり、日本側に何の大義もない無条件降伏となる。たとえ再度開催延期となっても、その先に開催される確証は一つとしてなく、人類の危機たる災害(原発事故)まで踏み台にし(「アンダーコントロール」なる嘘)アスリートや観客の命を危険に曝してまでもオリンピックを政治利用する日本の浅ましい姿だけが浮き上がるばかりでなく、女性差別やジェンダーギャップといった日本社会の暗部が暴かれることになる(それ自体は悪いことではない)。最後の最後まで、無神経・無責任な日本を国際社会に見せたまま、IOCに投了を宣告されて良いのだろうか?
「延期(開催)」は東京都および日本政府の願望であっても確実性を伴わないギャンブルであるゆえ、そのリスクは全て東京都および日本政府が負うと声明しなければ無責任の誹りを免れない。そう仕向けるかに、日本側の願望に応じ「延期(開催)」としたかのIOCの姿勢はそのギャンブルの胴元なりの狡猾ぶりを示している。
他方、コロナ感染拡大を主因とする(開催都市の)開催権返上は国際世論に訴えるだけの大義がある。同時に自己中心的な無謬とバンザイ突撃的(Banzai charge)に敗けているにもかかわらず勝利を叫んで突進する森(神の国)的=前時代的精神主義は森氏の組織委員長辞任とともにホウキで吐き捨てなければならない。1940年東京大会の開催権返上での「これが、君が世界に見せたい日本かね?」を、今再び組織委員会が自問することである。(拙稿「これが、君が世界に見せたい日本かね?」)
1940年東京大会の大義ある返上=撤退はIOCも理解し、当時委員だったアベリー・ブランデージは日本のIOC復帰(1950年)を後押しし、1964年東京大会実現にも尽力した。1940年東京大会開催権返上の大義あればこそ、1964年大会は実現したとも言える。
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現下の国際信義とは、COVID-19禍およびそれに連鎖する世界的経済恐慌に各国と連携しながら専念対応することである。オリンピック開催という国際公約よりも遥かに重大且つ喫緊な信義則であることは明白ゆえに、公約を反故にしてでもこの国際信義に立つことが、開催都市・国家の大義であろう。
なお、戦後の「(開催権を)返上」の事例としては、1976年デンバー大会(アメリカコロラド州・冬季)がある。自然破壊(環境問題)と経済的負債(財政負担)に対する市民運動(市民投票)が「(開催権を)返上」に繋がり、インスブルック(オーストリア)で代替開催された。
大会組織委員会と距離を置き始めた小池都知事の(政治)勘は、開催権返上という一世一代の勝負に出る可能性がある。上述の大義は国際社会は元より都民・国民の大半が理解するから、開催都市の首長でありながら蚊帳の外に置かれ何もせずに森的なギャンブルのリスクをただ背負い込む位ならば、その大義を以って有利なマウントを取ることが自らの総理への道に利すると考えても不思議ではない。その場合、森的な人々を対立軸に旗色鮮明に得意の小泉流の劇場政治を展開するだろう。
悲しいかな、それも他面、強権限者がいなければまともに治らないこの国の民主主義の底浅さを示している。そのような強権限者に頼ることなく、デンバーのように市民運動(市民投票)で開催権を返上することが本筋だろう。さらに、オリンピックのあり方についてもこの際、様々な問題が噴出した我が国であればむしろ主体となって国際社会に問う姿勢が欲しい。開催都市の恒久化(アテネ・オスロなど)などを国際社会に積極提案することこそ、我が国の立つ瀬となる。
(おわり)
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