2021年01月25日

無観客8%「選手のため」



” 東京五輪開催について、スポーツ報知では22日までにホームページなどで意見を求めるアンケートを実施した。IOCと大会組織委では「再延期はしない」との意向を出しており、中止などの選択肢で294人の回答があった。中止が234人(80%)で最多。あとは有観客が35人(12%)、無観客が25人(8%)だった。(中略)【無観客への意見】「できないではなく、どうしたらできるかを考えるべきではないか。現場のアスリートやサポートをする人の努力は無駄にできない」(20代男性)「代表を勝ち取った選手の皆さんのために開催してほしい」(50代男性)「感染拡大防止と今まで頑張ってきたアスリートのために開催する方が良いと思う」(50代女性)”

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(スポーツ報知・2021年1月23日記事一部引用 / 下線は筆者)

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無観客開催をアンケート回答者中8%が「選手のため」と支持している。

オリンピックの根本原則(オリンピック憲章)では、「スポーツをすることは人権の 1 つである。 すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。 」とある。「スポーツをすることは人権の 1 つである」が人権の全てではない。

また「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、 財産、 出自やその他の身分などの理由による、 いかなる種類の差別も受けることなく、 確実に享受されなければならない。 」とある。しかしパンデミックのコロナ禍にあって「オリンピック憲章の定める権利および自由」は「確実に享受され」得ない状況になっている。

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東京都は、多額の都民の税金をオリンピック・パラリンピック競技大会開催のために投じ、足らない分は政府が支出することになっている(つまり国の税金)。「無観客」は都民・国民の大多数にとって受益なき負担となる。納税したにもかかわらず、スタジアムはおろか沿道でも観戦応援は規制され、テレビやネットでしか競技を観ることができない。その開催のために用意されているリソースはコロナウイルス感染下にあっても一切我々に利用されることはない。そして、あたかも開催のために感染対策を講じるという本末転倒ぶりは、開催自体が感染対策上、最大の障害要因となりつつある。ワクチン接種や予備的隔離が前提でなくても各国から選手・関係者を迎い入れるなど、目的(開催)に応じて我々にとっての感染対策までも等閑にすることである。

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「無観客」でも開催すべしとの論は「(スポーツをする)選手のため」にのみ「権利および自由」が存在し、それらがたとえ「オリンピック憲章の定める範囲」であろうと社会に分断と差別をもたらすことに他ならない。オリンピック憲章の根本原則にオリンピック関係者が自家撞着し、開催の理念(オリンピズム)を喪失し、遠い昔の東京大会(1964年)の既視感でしかない「夢」とか「希望」といった漠たるイメージを年寄りたちが発しているだけだ(理念なき狂騒)。

「いかなる種類の差別も受けることなく」「権利および自由」が享受され得ない状況は、「スポーツをする」という「オリンピック憲章の定める」範囲を超えてコロナウイルス禍にあっては「生きるか死ぬか」という根本の人権に今や及んでいるからこそ、開催を強行しようとするIOCおよび日本のオリンピック関係者は国際社会から非難されているのである。

開催を断念し、その用意していたリソースをコロナ感染対策に投じることは我々にとって最大最良の受益であることは間違いない。経済効果の皮算用に此の期に及んでも執心させる「選手のため」ですらないオリンピックの拝金主義(商業主義)のグロテクスがコロナウイルスによって炙り出された。

オリンピック憲章の定める権利と自由の範囲での「開催できるかできないか」ではもはやなく、国際社会全般の根本の人権に照らして「開催すべきかすべきでないか」を問うべきであろう。それでも「すべき」と言えるだろうか?

(おわり)

posted by ihagee at 11:16| 日記