2020年10月13日

文理統合型の視点(日本学術会議)の重要性




スクリーンショット 2020-10-13 3.04.34.png

スクリーンショット 2020-10-13 3.04.17.png


----

「謙虚さが微塵もない」がないのは橋下徹氏であろう。

日本の展望―学術からの提言 2010 (2010年4月5日・日本学術会議)」を彼は読んだのだろうか?「文理統合」の視点の重要性を知るべきである。

『人文・社会科学は自然科学や技術が導き出すことのできない価値的な視点を追究し』

成果主義(果実を受け取ること)に陥りがちな自然科学や技術の価値的視点は国策にあっては「この道しかない(安倍前首相)」となる性向を持つ。その道には過ち・誤りがあるかもしれない、と立ち止まって考え直したり時として方向転換を促す視点を人文・社会科学系学者が担っている。「社会に対して何の貢献をしているのかわからん(橋下氏)」とは無知蒙昧も甚だしい。

科学の樹:「根は哲学、幹が自然学、枝は諸学であり、医学、工学、道徳の3本の枝に果実が実る、とくに完全な知としての道徳の枝に実る(デカルト)」

科学の精神を学ばず、果実(成果物)だけを受け取ることが科学だと勘違いしてはならない。その根たる「哲学」は我が国にあっては今に至っても異物のままであることが不学たる証左である。根無しの樹にひたすら果実を求め続けてきた。

「日本人は科学の成立と本質について誤解している。何か機械のようなもの、すなわち単に成果を上げ、無造作に別の場所に移して仕事させる機械のように考えている。科学の成長には一定の風土と環境が必要であり、生き物である」「日本人は外人教師を科学の果実を切り売りする人として扱った。成果を生み出すはずの科学の精神を学ばずに、外国人教師から最新の成果物を受け取るだけで満足してしまった」

明治9年に東京帝国大学にドイツから招聘されたエルヴィン・フォン・ベルツ博士(日本の近代医学の父)は在職25年の講演で<科学=Science>の精神(「科学の樹」)を学ぼうとしない日本人に警鐘を鳴らす言葉を残している(拙稿「科学の樹のない」この国の暗愚)。

その警鐘の意味を理解しなかったがゆえに、我が国では科学(基礎研究)=(すなわち)産業技術(成果物)→(ゆえに)「科学技術」という成果主義に逆立ちした科学観に陥ってしまった。斯様な科学観に人文系の学問は、産業技術・経済に貢献しない科学(「社会に対して何の貢献をしているのかわからん」)などと己の浅学菲才を恥じぬ者が現れる。このような者の眼には「哲学」は塵芥の類にしか映らないだろう。

繰り返すが、文理統合型の視点(日本学術会議)は国策の内容および方向性に過ち・誤りがないか常に質し、場合によっては転換させる役目を果たす。係る視点に社会倫理や規範までを宿す「完全な知(デカルト)」がある。特に人文社会系はその役割を担っている(メルケルが国策たる原発推進を脱原発に転換したのも人文社会系の学者の意見に耳を傾けたからとされる)。科学は時として諸刃の剣であり、そも諸刃たるを知る視点が「文理統合型の視点」である。先般の人文社会系の学者に対する任命拒否は、国策推進にあたって「(係る視点から)物を言う」人文系学者の排除を図り、文理統合型の視点を潰して、余計な首を突っ込まず与えた課題にのみ忠実な事なかれ主義の学者(公務員)を以って国策(軍事研究など)を進める意向がはっきりわかる人事である。

A案はあってもB案がない「この道しかない」国の政策は過去の歴史において国民に多大な不幸をもたらした。精神主義の下、貫徹努力することだけで突っ走って多くの兵隊が戦う前に病死したインパール作戦に代表される「無謀さ」こそ「謙虚さがない」ことである。その精神主義に阿ってとかく「無謀」に走りがちな国民性を諌める役目を果たす人文系学者に「謙虚さがない」と言うことこそ「無謀」を招来する暗愚であると断じる。

「謙虚さが微塵もない」とはこの「無謀」に言うべきで諌める側に言ってどうなる?

哲学を含めた人文社会科学系などなくとも「世界一」の<科学技術>と言って憚らず、根がなくとも葦で居られると過信することこそ「謙虚さが微塵もない」ことであろう。それでは科学の樹は枯れる。

(おわり)

posted by ihagee at 04:00| 日記