2020年10月11日

雨月物語・上田秋成







(RQ-705で再録)


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妻、涙をとどめて、
「ひとたび別れを参らせて後、たのむの秋より先に恐ろしき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海に漂ひ山に隠れば、たまたまに残りたる人は、多く虎狼の心ありて、かく寡婦となりしを便りよしとや、言葉を巧みていざなへども、玉と砕けても瓦の全きにはならはじものをと、幾度かからき目を忍びぬる。銀河秋を告ぐれども、君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても、消息なし。今は都に上りて、尋ね参らせんと思ひしかど、ますらをさへ許さざる関の閉ざしを、いかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端のまつに効なき宿に、狐・ふくろふを友として、今日までは過ごしぬ。今は長き恨みも晴れ晴れとなりぬることのうれしく侍り。逢ふを待つ間に恋ひ死なんは、人知らぬ恨みなるべし。」と、またよよと泣くを、「夜こそ短きに。」と言ひ慰めて、ともに臥しぬ。

窓の紙、松風をすすりて、夜もすがら涼しきに、道の長手に疲れ、熟く寝ねたり。五更の空明けゆく頃、現なき心にもすずろに寒かりければ、衾被かんと探る手に、何物にや、さやさやと音するに、目覚めぬ。顔にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば、有明月の白みて残りたるも見ゆ。
家は、戸もあるやなし。簀垣朽ち崩れたる隙より、萩・薄高く生ひ出でて、朝露うちこぼるるに、袖ひぢて絞るばかりなり。

壁には蔦・葛這ひかかり、庭は葎に埋もれて、秋ならねども野らなる宿なりけり。さてしも、臥したる妻は、いづち行きけん、見えず。

狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど、もと住みし家に違はで、広く造りなりせし奥わたりより、端の方、稲倉まで好みたるままのさまなり。

あきれて足の踏所さへ忘れたるやうなりしが、つらつら思ふに、「妻は既にまかりて、今は狐狸の住み替はりて、かく野らなる宿となりたれば、あやしき鬼の、化して、ありし形を見せつるにてぞあるべき。もしまた、我を慕ふ魂の帰り来たりて語りぬるものか。思ひしことのつゆ違はざりしよ。」と、さらに涙さへ出でず。
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雨月物語上田秋成
解説者:立教大学教授 長野嘗一
朗読:丹阿弥谷津子
音源:NHK録音教材 国語研究(対象者:高校生)1964年

(おわり)


posted by ihagee at 13:18| 国語研究