2020年10月09日

忖度を使って国民を支配する



日本学術会議が新会員に推薦した6人の任命を菅義偉首相が拒否した問題。

10月8日の参院内閣委員会に於ける日本共産党の田村智子議員は極めて緻密且つ正鵠を得た質問を行った。




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田村議員:「形式的任命だから推薦されたものは拒否しない」。これが政府の答弁です。今回の任命拒否は、83年当時の答弁を覆す行為ではありませんか?

大塚官房長:繰り返しで恐縮ですが、今ご紹介いただきました昭和58年当時の答弁も、平成30年の文書もいずれも憲法15条を前提としていること。これは(法律の)改正当時からも前提になっていたことでございます。「形式的な発令行為」という発言がなされてることは十分承知ですが、必ず推薦の通りに任命しなくてはならないとは、言及はされてないところであります。

田村議員:違います。83年の会議録は「推薦に基づき総理大臣が任命する。それは形式的任命、形式的発令行為であり、推薦された全員を任命する。拒否はしない」。一貫した政府答弁です。国会会議録は国会と国民に示された条文解釈そのものです。法制局に聞きます。逆に「推薦された者を任命拒否することはあり得る」という日本学術会議法の法解釈を示す文書はあるんですか

木村第1部長:はい、お答え致します。私どもとしては平成30年の説明資料について、当局に意見を求められました際に、ご指摘の国会議事録のほか、昭和58年の日学法改正時の法律案審議録の中に、総理府作成の想定問答集があります。それについては確認は致しております。そういう意味でいいますと、今、委員がご指摘されましたような「義務的な任命であるのかどうか」という点について、明瞭に記載したものというのは、私が知る限り見当たりません。ただし、先ほども言及ございましたような、高辻長官以来の答弁の積み重ねの上に立ちまして、昭和58年の法改正以来、一貫した考え方として成り立っているものと理解しています
(ハフポスト日本版 2020年10月8日付記事から議事内容引用・下線は筆者)

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加藤勝信官房長官は1日の記者会見で、日本学術会議が推薦した会員候補の一部の任命が見送られたことを巡り
「推薦を義務的に任命しなければならないというわけではない(義務的な任命はない)」と答弁している。

その前提で、
田村議員は「義務的な任命はない」という日本学術会議法の法解釈を示す文書はあるんですか?
と実質質問したことになり、内閣法制局木村第1部長は、「義務的な任命があるのかどうか」という日本学術会議法の法解釈を示す文書は見当たらない、と答弁したが、ここで、「義務的な任命はない」?と田村議員の質問を、「義務的な任命であるのかどうか(ある・か否か= or not)」?と言い換えている。

注記:この言い換えでは、「か否か= or not→ない」に答弁が関係している(官僚言葉は紛らわしい)。

「義務的な任命がない(任命拒否ができる)」にはそれを示す文書は「見当たらない」と答弁し、しかし
「義務的な任命がない(任命拒否ができる)」には「ただし、先ほどもご言及ございましたような、高辻長官以来の答弁の積み重ねの上に立ちまして、当然そういう解釈のうえに立脚して、今回、あるいは昭和58年のその法改正以来、一貫した考え方として成り立っているものというふうに理解をしております。」と答弁している。

「必ずしも義務的でない」=「義務的な任命がない(任命拒否ができる)」とする答弁の積み重ねがあると木村部長は答弁しておきながら、それを示す文書は「見当たらない」とも答弁。そもそも書面がなければ答弁の積み重ねなど確認しようもない。すかさず田村議員は「その答弁書を提出しなさい」と木村部長に迫り、「結局、ないんですよ」とトートロージの崩壊を突いた。この部分が質疑の中の一番の山場であり、高級官僚すら追随不能な田村議員の論理展開の「凄まじさ」の真骨頂である。他の野党議員もこの明瞭な頭脳を見習って質問を鍛えるべきであろう。

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田村議員:(憲法)15条1項のね、それを持ち出してきた高辻法制局長官の答弁、ぜひ皆さん読んでみてほしいんですよ。これ、理論上はあるけれども、まず有り得ないって答弁なんですね。これ、大学紛争が起こっている時で、学長の任命をめぐって、かなりの大激論になるんですよ。それでも法制局長官は、かなりもう形式的なんだと、明らかに不適当で、どうしてこんな人が学長になるんだというような人が上がってこない限りは任命するっていう、そういう答弁で一貫してるんですよね。だから15条1項は、もう持ち出さないで、って言ってるんですよ。

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憲法第15条1項:
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

高辻長官以来の答弁とは、任命できない理由をもっぱら国家公務員法(職務怠慢など)や国家公務員倫理法(不公正な職務執行)に求め、憲法第15条1項の公務員の人事権は「どうしてこんな人が学長になるんだというような人」にのみ行使可能(任命を拒否できる)とする答弁である。

田村議員が繰り返して念押ししているように、1983年(昭和58年)当時(日本学術会議法改正時)の政府解釈は憲法第23条と一体(学問の自由の観点から)に憲法第15条1項の実効性を「形式的任命・形式的発令行為」と解釈している(憲法第23条が憲法第15条よりも優先する)。これが表の解釈である。

その裏読みの解釈が「どうしてこんな人が学長になるんだというような人」といった「理論上はあるけれども、まず有り得ない」法の空白部分に相応している。ところが、この裏読みの解釈を都合よく目的論的に表に引っ張り出して、高辻長官以来の答弁の積み重ねの上に立って「昭和58年のその法改正以来、一貫した考え方」と木村第1部長(内閣法制局)は答弁していることになる。

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「憲法第23条とは別に」、憲法第15条をもっぱら当てて任命が必ずしも義務的(形式的任命)ではないとする政府解釈は、上述の通り裏読みの法解釈であるから、被推薦者(6名)に対する会員任命を拒否することについて、「どうしてこんな人が」といったそれこそ "裏事情的な「明らかに不適当な理由」" が存在しなければならない。理由を詳らかにすべきは任命を拒否した菅義偉首相に対してであろう。

しかし菅首相は「明らかに不適当」なる具体的理由は一切開示しない。それでいて憲法第15条1項を執拗に持ち出すことは被推薦者について「明らかに不適当」な事由があるに違いないとする印象操作を行うに等しく、メディアも大衆もそれに乗っかって何が不適当なのか被推薦者の裏側(思想信条やプライバシー)にまで詮索し、徒らに被推薦者の社会的評価が低下する危険を生じさせ、個人の名誉を毀損する方向に向かっている。また憲法第15条1項(「国民固有の権利」)を執拗に持ち出すことは翻ってそれら被推薦者が「国民の義務を果たしていない」と吹聴していることになる。これは「非国民」と言うに等しく、それら被推薦者に対して人権侵害を官邸が率先して一般大衆に焚き付けていることに変わりがないゆえに「15条1項は、もう持ち出さないで」と田村議員が声を張り上げるのは当然過ぎるが、我々も同じく声を上げなくてはならない。

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その陰湿な印象操作を利用し、さらに被推薦者(6名)の任命拒否の理由は、日本学術会議に問えとばかりに同会議の在り方を審議する方向に同じくジメッと胆汁質の河野行政改革担当大臣が乗り出した。理由を組織に探すかの議論の付け替えは卑怯としか言いようがない。

科学・学術なる知性を行政改革するとは一体何なのか全く理解不能である。インテリゲンチャを紅衛兵や群衆の晒し者にしたかつての中共の文化大革命でもやらかそうというのか?今回の被推薦者のような人文社会科学系の学者は何の経済価値ももたらさないと真っ先に「不要」と槍玉に上げ、ハンコとそれら学者は同じ三文の価値しかないなどと河野大臣だったら言いかねない。人文社会科学系を「科学の樹」から排除する愚を犯そうとしているが、むしろ、人文社会科学系こそ理学系と共に「科学の樹」の「根」であり「枝」でなければならない。

自身理論物理学の博士号を持つ学者宰相アンゲラ・メルケルが<脱原発>を諮問し決断したのは、人文社会科学系の学者の意見に注意深く耳を傾けたことが大きい。国家(国策)が誤った方向に進みつつあるとき、それを軌道修正するのは、時として法学・哲学・宗教学など人文社会科学系の重要な役目であるからだ。いざとなったら<根=哲学、枝=道徳(社会倫理)>を以て決断できる精神の健全性と言えるだろう。メルケルはこの精神の健全性を重要視した。今般の人文社会科学系学者の排除人事は、精神の健全性が脅かされていることでもある。

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さて、日本学術会議の(たった)10億円の予算の費用効果まで審議にかけると河野行政改革担当大臣はやる気満々だが、安倍マリオのコスプレ(リオ五輪)に費やした同額の税金やら、虫カビだらけの役立たずなアベノマスクに費やした数百億円の税金の無駄遣いぶりは不問だそうだ。

「総合的、俯瞰的」とは聞いて呆れる。

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「明らかに不適当」なる具体的理由を言わない。言えないから言わないのではなく、言わないことに菅首相の策略がある。中央官僚と同じく言わなくとも空気を読んで「忖度」する構図を日本学術会議のみならず社会全体に広め、やがては、主権者としての国民(個人)と正反対の、国家権力の行使を受ける対象としての人(臣民)の方向に持って行こうとしている。

安倍長期政権が忖度を使って官僚を支配する政治だったとすれば、忖度を使って国民を支配する政治が菅政権の本領なのかもしれない。民主主義とは正反対の全体主義(ファシズム)がこの国の在り方で良いと本気で考えている節がある。国策はイケイケドンドンで異論や批判は一蹴、それを唱える者は排除し、立ち止まって考えたり思い直して後戻りすることすらない「この道しかない(安倍前首相)」的な国家は「いつか来た道」の通り、再び国民に多大な不幸をもたらすことになる。

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裏から手を回す、が安倍=菅政権の常套のようだ。<搦め手>たちは背後から手をまわすから一人として表に出ない。菅首相は安倍前首相にも勝る搦め手遣いの天才に違いない。(拙稿 <搦め手>好きの安倍首相)しかし、今回、日本学術会議に肝心の「搦手門」がなかった。ない門から手はまわせない。だからといって「大手門」はしっかり施錠されている。「他のところでは全て言いなりになったのに、なぜ日本学術会議は言いなりにならないのか」と天才も策略の相手を間違ったと頭を抱えているようだ。


(おわり)

参考:「陰湿な公安体質を暴露した菅義偉」<盛田常夫:経済学者・在ハンガリー>・ちきゅう座2020年10月8日付記事




posted by ihagee at 09:57| 政治