2020年10月04日
伊勢志摩/平安神宮時代祭・1966年
古映像の続き(Kodachrome Super 8フィルム / 撮影者氏名不明のオーファンワーク)。200 ftのフィルム数本をWolverine MovieMaker Proとliquivid Video Improveでデジタル化した(それら機材とソフトについては本ブログ「8mmフィルム」カテゴリーに記載)。
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翌、早朝に自動車二台で賢島へ向かって走る。冬日和の志摩半島を南へ南へ約二時間ゆく。
波切の漁村あたりは洋画家がよく取材に歩くところと健吉画伯がいう。御座湾の小埠頭で車を降りる。ちょっと、連絡ちがいが生じて、待っているはずの小汽艇が見えない。支局長が気をもんで島へ電話したり船長を探しにゆく。
その間を、一行埠頭の茶店にはいって蜜柑など剥く。居合わせた六、七十歳の老漁夫と老海女から、志摩名物の海女の生活をいろいろ聞く。終戦後一しきりの海女の稼ぎはまったく海底の珠採り姫そのままな漁村インフレの花形であったらしい。だが海女も三十歳までが花だと、今は老いたる海女のかこち顔であった。
すると、この老海女の娘だろうか、カールをして、男ズボンに下駄ばきという顔の丸っこい戦後派娘が「わて、海女なんて、大っ嫌いさ」とたれもききもしないのに、抗議をつぶやく。そしてレコード仕込みのブギウギやら与太を飛ばしたりしてお客のぼくたちに、お愛想のつもりか、しきりに皆を煙に捲く。
するとまた、破れ障子をあけて、日の丸鉢巻ではないが、それに似たものを蓬髪に巻き、頬のとがった青年が、底光りのする眼をもって、
「あなたは、作家だってね、そんなら聞いてもらいたいことがあるんだ」
といってぼくらの前に飛び出して来た。そしてケースのチャックを引っ張るとガリ版のパンフレットだの原稿綴じみたいな物を展開して、穏田の飯野吉三郎先生とかの衣鉢をうけたような話から喋々と説き初め「ひとつ、読んでください」と、世直し運動宣言のガリ版刷りをくれた。漁村製の戦後派娘は、あっ気にとられているぼくらを見て、「これよ、これよ」と、自分の頭を人さし指で突っつきながら横目で笑っている。ハハアとこっちもうなずかれた。けれど伊勢の宮柱のある志摩の国だけにこういう人を見るのはなんだか皮肉である。あるいはかつての神風が地元だけに他地方よりは一倍強烈だった惨害によるものだろうか。なにしろ不愍な気もちと、おかしさを禁じえなかったが、その間に島から汽艇が来た。海上わずか十五分で賢島へ着く。真珠翁の御木本おじいさんが鎮座まします島である。
(「随筆 新平家」吉川英治歴史時代文庫、講談社 から抜粋)
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ブギウギ娘と日の丸鉢巻の青年が伊勢の宮柱のある志摩の国に居合わせる可笑しさ、穏田(おんでん)の飯野吉三郎先生とかの衣鉢に染まった頭に「これよ、これよ」は、「随筆 新平家」が週刊朝日で連載されていた当時(昭和25年から7年)世間一般に膾炙されていた可笑しさでもあったのだろう。
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「戦争ばかりしていたギリシャで平和を祈念して古代五輪が実施された。当時のギリシャ人も感染症にかなり苦労していたようで、平和と感染症を克服するために五輪を行うと、神託を受けたというのが古代五輪の始まりだと言われている。時代は違って、現代ではコロナ感染症を克服して東京大会を開催するのが、五輪の原点だとさえ、私は思っている。調整会議で議論を重ねて年内一定の成果を示して、国内や海外のアスリートからそこまでコロナ対策を取ってくれるのであれば、来年夏の東京大会は安全、安心だねと実感いただけるように努めていきたい」(大会組織委員会・武藤敏郎事務総長)
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ひと昔前なら「これよ、これよ」とその中身を疑われた頭が今は我々に託宣を下す世の中。古代と譜系を全く異にする近代オリンピックにまで、コロナに打ち克つとして古代の神託を持ち込むが、そこにはエビデンス不在の精神主義が蔓延っている。科学のエビデンスよりも、マスク程度の安心にしか拠り所がない罹らないとする精神主義にどんどん傾斜する東京オリンピックは「成功する確率は極めて低い」と知りつつ「貫徹に努力」した結果、戦う前に感染症でバタバタと兵士が倒れていったインパール作戦の代名詞たる「無謀さ」を照らすことができる。
古代では神託に生贄が饗された。先の大戦でどんなに体当たりをして犠牲を積み重ねても「神風」はそよとも吹かなかったが、それでも「皇国=神の国」であろうとする「おかしさ」にあとになって気づいたはずの我々なのに、いつの間にかその「おかしさ」を忘れてしまったのかもしれない。今度も犠牲を前提にするのだろうか?「神の国」観を共有しない諸国はそんな「神託」の犠牲になるのはまっぴら御免と選手団を送り込まない可能性もある。無理やり開催したとしてもモスクワオリンピック(1980年)のような惨憺たる大会になるだろう。
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そんなこんなと映像とは関係のないことを思ってしまったが、さて、船縁からするりと海に落ちる海女の姿に少し心が騒いだ。「波の底にも都の候ぞ」ではないが入水を連想するからかもしれない。今は観光らしく海女もダイブするようである。
(おわり)
posted by ihagee at 13:56| 古写真・映像