2020年09月14日
台糖ファイザー(名古屋工場)・1966年
古映像の続き(Kodak Ektachrome Super 8フィルム / 訪日外国人が撮影したと思われるが、撮影者氏名不明のオーファンワーク)。200 ftのフィルムをWolverine MovieMaker Proとliquivid Video Improveでデジタル化した(それら機材とソフトについては本ブログ「8mmフィルム」カテゴリーに記載)。
前回記事で「訪日外国人としてはかなりニッチな場所にまで足を運び、カメラワークもなかなか手慣れている。どういう人物なのか、少しだけ手がかりとなるフィルムがあった。それは映像共々、追って掲載したい。」と述べた。その映像が以下のものである。
稲刈り、潮干狩り、突堤での海釣りの様子に続いて、PFIZER TAITO COMPANY LIMITEDでの式典の様子が記録されている。 1950年代、ファイザー社は感染症治療薬を提供することで日本の人々の健康にも寄与するという目的をもって日本への進出を図り、田辺製薬および台糖社(旧:台湾製糖)とそれぞれ共同出資(折半)によって新会社を設立し、そのうちの台糖ファイザー社はペニシリン(醗酵技術で砂糖から製造)の国内生産拠点として愛知県知多郡武豊町に名古屋工場を建設した(Pfzier社沿革参考)。その台糖ファイザー社名古屋工場・起工式(または竣工式かもしれない)の模様が記録されている。
”ファイザー日本法人。その象徴ともいえるのが名古屋工場の完成です。この工場が完成した1967年を機に、見事な成長軌道に入っていきます。神戸工場から名古屋工場へ――ファイザー日本法人の新たな冒険と挑戦が始まりました。(中略)1967年、新工場建設計画決定から約2年の歳月をかけて名古屋工場が完成しました。5月30日に開催された開所式には東京と大阪から2隻の客船がチャーターされ、約1500名の社員が新工場に集結。さらに1000有余名の取引先、関係先の方々を招き、式典は盛大に行われました。1965年の年頭所感での言葉通り、台糖ファイザーは新しい冒険と新しい希望達成への第一歩を踏み出したのです。”(Pfzier社沿革より)
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医薬品および農畜産事業(動物薬、飼料添加剤など)でファイザー社が力を入れた地域密着型営業を象徴するかの如く、式典では地元の芸能が披露された。フィルムの前段で工場が立地する地域周辺が紹介されているが、その周辺は今は海浜緑地(武豊緑地)となり「ファイザー工場前」として市民に親しまれている。
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撮影者はファイザー社と何らか関係のある人物かもしれない。単なる観光ではなく商用(商業撮影)も兼ねて訪日したとも推測される。
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1964年の東京オリンピックのトーチは、我が国の製造開発業にとって「新たな冒険と挑戦」の着火点ともなった。2021年大会開催に一縷の望みを託すは観光(インバウンド需要)・カジノなどサービス産業で、それがこの国の将来の基幹産業と政府は胸を張る。「新たな冒険と挑戦」の対象は半世紀を経て何ともちっぽけになった(拙稿 "オリンピック命" と言わせる日本の落日)。
(おわり)
posted by ihagee at 19:07| 古写真・映像