2020年08月28日

生殺与奪の権



よく昔は六十になりゃ生き埋めにするとか、それから姥捨山へぶっちゃる(棄てる)とかいう。

一人息子が、年寄りをもってなくて(勿体なくて)、ぶっちゃれねえで、室(むろ)の中へ隠しといたって、そうしちゃオマンマ運んじゃくれ、大事にしておいたって。

そしたらところか、殿様に「灰の縄をなって出せ」って、ゆわれた(言われた)が、さあだれも灰の縄なんつものは、なえようもねえじゃい。

そうしたところが、息子が御飯持ってってやって、「殿様から灰の縄を出せっちゅうことをゆってきたけんど、灰の縄なんちゅ物出せねけんど、おっかさそういうこと知ってるかい」そうゆって、六十の上になるおばあさんに聞いただってなあ。

そうしたら、「灰の縄なって出さったらなら、ワラへ塩水うんと吹いといてなあ、そうしてそれから、縄になって、そうして一ぽ(一本)なったならば、それをたごんだやつをよーく干して、板の上せ結い付けて、そうして板の上で燃やせ」ってなあ。そうして板の上で燃やしたなら、ちゃんとたごんだいちりで、そっくり一ぽなって、殿様の前せ出したって。

そうしたら、殿様は、「だれもできねえに、こんな縄どうしてこせた」ってそういったから、「申し訳ねえが、こうゆで(可哀想で)、おっかさんぶっちゃらねえで、ムロの中へ入れておいて、聞いたなら、こうしろちゅから、そうして縄なってなあ、そうで出した」っていったら、

殿様は、「年寄りは大事にして、いつまでも生かしておけ」ってゆったって。

そういうわけで、それからはいつまでも生かしておくことになった、なんて、こう話したったけんど。

(浅川欽一著「信濃川上物語」から)

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「年寄りは大事にして、いつまでも生かしておけ」ただしお殿様=御国の役に立つ限りということで、生かすも殺すも、与えることも奪うことも自分=権力者の思うままであることに変わりがない昔話ということである。百姓の生きるも死ぬも、その与奪の権利は年貢徴収権と共に知行制として領主に与えられていた(「生殺与奪の権」)。知行制の維持(土地の支配権)のためには、領主は、百姓は生かさず殺さず、死なない程度に働かせ年貢を納めさせた。ゆえに、年を取って働きの悪い者は死ぬしかなかった。姥捨、つまり棄老は民話として全国各地に存在する。

その話の顛末も二通りあるようだ。
・「役に立つなら生かしておこう」
・「親を捨てる非道さに子が気づく」

いずれも「生殺与奪の権」がお上にあることに変わりがない。経済合理上の人口抑制(間引き)は農民層の老人と赤子(嬰児・特に「めのこ」=女の子)を対象に姥捨・間引として存在していた。「おのこ=男の子」は殿上に奉仕するが、めのこはそうではないという、労働生産性=経済価値の有無で生きるか死ぬかが決まる層が大半であった時代を民話は語っているのだろう。

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”厚生労働省は26日までに、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けの見直しを検討することを決めた。現在は「指定感染症」となっており、危険度が5段階で2番目に高い「2類相当」。入院勧告ができるが、感染者数の増加に伴い医療機関の負担が重くなっている。このため多数を占める軽症や無症状の人は宿泊施設や自宅での療養とし、入院は高齢者や重症化リスクが高い人に絞ることなどが想定される。(中略)政府内には2類相当からインフルエンザ相当の5類への引き下げを容認する考えが出ている。”
(共同通信社報・2020年8月26日付)

”「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかっていうことは、真剣に議論する必要があると思います。こういう話多分、政治家怖くてできないと思うんですよ。『命の選別をするのか』とか言われるでしょ?命、選別しないとダメだと思いますよ。はっきり言いますけど。なんでかというと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなに良いこと言っていても、多分、現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて、順番として。これ順番として選択するんであればもちろん、その、高齢の方から逝ってもらうしかないです」(大西氏の動画より*現在は非公開)”
(志葉玲タイムス 2020年7月10日記事より引用)拙稿「命の選別」から

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新型コロナウイルスを指定感染症から外して、ただの風邪(インフルエンザ相当の5類)扱いとするらしい

ただの風邪として「入院は高齢者や重症化リスクが高い人に絞る」としながら、その入院・治療は3割自己負担(現状:新型コロナウイルスは感染症法に基く「指定感染症」扱い=感染した場合の治療費は公費負担となり、個人の負担はない)、とどの詰まり、二言目にも「経済」の市場原理を感染症なる非経済的領域に拡大適用し「高齢者や重症化リスクが高い人」を「淘汰」の側にまわすことになり兼ねない。ただの風邪扱いは、軽症や無症状の子供たち、若者たちに「適者生存」とばかりに弱者を淘汰する思想(選民意識)を蔓延らせることになる。

「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかって」といった、社会的弱者が死ぬことを「いたしかたない」とする思考は、「親を捨てる非道さに子が気づく」ことすらもさせない。

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日本国憲法は生存権について第25条、個人の尊重(尊厳)について第13条に規定を置いている。

日本国憲法第25条:
「第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

憲法第13条:
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

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官僚機構や政治家の胸三寸で決まる生殺与奪の権。我々一人一人に自ずとある生存権と尊厳を制限・剥奪し、それらを市場原理の思いのままにする新自由主義思想がコロナウイルス禍に乗じてこの国を支配しつつあるのではないかと危惧する。

生産性の低い企業の淘汰により産業の平均的な生産性が上昇しても、そこにもはや「人間」が存在する必要すらない人工知能(AI)が稼働する社会が見えてきた(拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念)。

「生存権」や「尊厳」を語り合うのはそれらを共有する人間同士であるのに、AIの将来は計算機が「数理的」に答えを出せば終わりで、「人間」が経済の資源(モノの数)でしか語られなくなる。「生産性」なる価値を声高に語る人ほど、生産性の低い企業があたかも社会悪であるかのように、そこで働く人間の尊厳までも軽んじる傾向がある。それでは家内労働に頼る伝統工芸などひとたまりもない。

「人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。」が真理だからこそ、我々一人一人は唯一無二の存在たり得、アイデンティティ(自己・自我意識)を保つことができる。「駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人」という諺にあるように多少経済的にムダがあろうと多様性の中にあなたも私も生かされているという暗黙知である。草履を作る人にも多様性なりのアイデンティティがある。

その非合理・非効率にこそアイデンティティを見つけた筈の人間(ゆえに人間たる)が、ムダの一つも許さぬ生産性(合理性・効率性)に奔放を得るのが新自由主義ということ。それではアイデンティティなど保たれようがない。経済の価値観に照らせば、芸術はモノの価値にもならないことにされ根絶やしになる。

そんなために我々は人間として生まれてきたわけではない。

(おわり)



posted by ihagee at 05:37| 政治