2020年07月11日

命の選別



”れいわ新選組から昨夏の参院選(比例)に立候補し、今後の国政選挙の立候補予定者でもある大西つねき氏の発言が炎上、党の代表でもある山本太郎氏にも批判が及ぶ状況となっている。大西氏の発言への対応を誤れば、「山本太郎」という政治家の基盤すらも揺るぎかねない。発端となったのは、大西氏が自身のYoutubeチャンネルの中での「命の選別」という発言。その核心部分を引用しよう。

「どこまで高齢者をちょっとでも長生きさせるために、子供たち、若者たちの時間を使うのかっていうことは、真剣に議論する必要があると思います。こういう話多分、政治家怖くてできないと思うんですよ。『命の選別をするのか』とか言われるでしょ?命、選別しないとダメだと思いますよ。はっきり言いますけど。なんでかというと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなに良いこと言っていても、多分、現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて、順番として。これ順番として選択するんであればもちろん、その、高齢の方から逝ってもらうしかないです」(大西氏の動画より*現在は非公開)”
(志葉玲タイムス 2020年7月10日記事より引用)

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「私は若者に集中治療を譲ります」。そう書かれたカードを見たスタッフは、老人を放置して若者を中へと運んでいった──。さて、あなたはこの老人になれますか?

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(大阪大学人間科学研究科未来共創センター招聘教授で現役医師(循環器科専門医)の石蔵文信氏(64)が高齢者向けに作成した「集中治療を譲る意志カード(譲〈ゆずる〉カード)」)

”「ICUやECMOが足りない日本で新型コロナの重症者がさらに増えると、現場の医療従事者は『命の選択』を迫られるかもしれません。激務の医療従事者に重い精神的負担を強いるのは酷なので、『高齢者が万が一の時、高度医療を若者に譲るという意志』を示すことができる『譲カード』を作成しました」(石蔵氏)”
(NEWS ポストセブン 2020年5月11日付記事から引用)

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「命の選別」は、社会的合意(総意)とすべきことなのか?

その「命の選別」、非常事態の際に、明らかに助かる可能性が低い人、軽症の人、という形で患者を重症度によっていくつかの段階に分け、治療の優先順位を決める「トリアージ」の観点なのか?それとも、そのような事態とは関係なく、経済的効率性の上から命を選別する観点なのか?後者は人種差別や障害者差別を理論的に正当化する優生学と親和性を持っている。

大西つねき氏が「命の選別」をすべきとする「現実問題」が前者、すなわち「トリアージ」にあると仮定しても生命の尊厳は個人になくてはならない(尊厳が個人にあるからこそ、「譲る」なる意思は個人が表示するもの=『譲カード』)。「トリアージ」の対象となる人が意思表示できない場合は少なくともその家族の同意がなければならない(たとえば、人工呼吸器や人工心肺を外し、命が助かる可能性のある人にその治療手段を譲るなど)。医師および社会・国家は個人の尊厳を侵してはならない。ゆえに「順番として」「高齢の方から逝ってもらうしかないです」の「しかないです」は生命の尊厳を個人から社会・国家が一方的に剥奪することに他ならない。「しかないです」にはその含みがある。またその「順番」は「高齢の方から」とは限らない。元々重い基礎疾患のある人、生まれつき障害を負っている人にも「順番」付けることもゆくゆくは許す考えではないのか?その順番付けを本人の意思とは関係なく政治が主導しその順番を国家や社会が決めることの怖さを大西氏は判っているのであろうか?

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"カトリック教会イエズス会のアメリカ人神父ジェイムズ・マーティン司祭はツイッターで、「(信者たちが自分のために買ってくれた)人工呼吸器を自分より若い患者に(知らない相手に)譲った72歳のベラルデッリ神父が、亡くなった」と書き、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」という新約聖書のヨハネによる福音書の言葉を引用していた。・・・ベラルデッリ神父に信者たちが人工呼吸器を寄付し、神父がこの呼吸器を若い患者に譲ったと伝えられ、BBCもこれを引用して報道した。しかし、カスニーゴ司教区でベラルデッリ神父の同僚だったジュゼッペ・フォレスティ氏は、神父が若者に呼吸器を譲ったという話は「フェイク」だとして、神父は基礎疾患のために重症化して亡くなったのだと述べた。また、カトリック・ニュース通信は、ベルガモ司教区のジュリオ・デッラヴィーテ事務局長が「寄付された人工呼吸器はない」と話したと伝えている。
(BBCニュース 2020年3月26日付記事より引用)

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「トリアージ」なる優先順位は社会的合意を形成し易い。ゆえに上述の「お年寄りが・・神父が・・」を主語にした「フェイク」ですら美談がましく流布する。「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」の愛を隣人(個人)から勝手に国家や社会に広げて「(御国のために)命を投げ出すほど大きい愛はない」などと聖書に書いてある筈もない。

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大西つねき氏が「命の選別」をすべきとする「現実問題」が後者、すなわち経済的効率性の上から命を選別する観点と仮定するのであれば、それは「人間を「尊厳(Würdeヴュルデ)」においてではなく、「価値(Wertヴェルト)」の優劣において理解する思想に繋がる。ナチス政権の「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てたホロコーストで代表される人種政策はこの優生学思想に基づく。

そして、人工知能(AI)が持て囃される今、「社会価値」を生み出す技術に重きを置くAIが結果としてこの優生学に行き着く可能性がある。すなわち、AIを中心とする産業技術の発展が技術的特異点(シンギュラリティ)に達すると、人間の尊厳(Würdeヴュルデ)はAIの下、産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」によって制限または否定され、生きる価値があるかどうか=「命の選別」と値踏みが当然とされ必然化される。「人間の尊厳」を「価値」よりもはるかに低位に置く時代が到来するかもしれない。経済的効率性の観点から生きる価値がない者をあらかじめ探して、いざとなれば「選別・排除」しても構わない(または「選別・排除」すべきである)、が最適解とする社会が形成されつつある。(拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念

何事も「価値(Wertヴェルト)」に判断を求める安倍総理、小池都知事の政治家としての言葉や行動の端々に、その通りの「選別・排除」思想を我々は看取する。

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AIでなくとも、わが国では旧優生保護法(現:母体保護法)の下、「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわない」という優生思想に基づき人工中絶が合法化された経緯がある(「姥捨」や「(♀嬰児の)間引き」など、生きていても経済的利益を生まない者を区別し排除することも止むなしとの社会的合意が近世日本にあった)。

「障害を理由にして胎児を中絶することは、いま生きている障害者の存在を否定することにつながる」は、その否定があってはならない、ゆえにその存在を我々国民の代表(国会議員)として国政の場に送り込んだ "れいわ新選組" の原点でもある。経済的効率性の上から人間の生死を決めてはならない、は "れいわ新選組" の結党の精神、そして「山本太郎」という政治家の基盤と私は理解するが、その精神なり基盤が今、同党の大西氏によって激しく揺り動かされている。

「トリアージ」に限ってのこととしても、それをきっかけとして、人間の尊厳が産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」によって優劣付けられ「命の選別」がその産業・経済(延いてはAI)の求めるところなどと、さも合理的かのようにサラッと理解してはならない。「高齢の方から」なる言い方はベラルデッリ神父の件のように(実際は「フェイク」)社会に美談として受け止められ易いが極めて危険な社会的合意形成を孕んでいる。大西つねき氏がいかなる考えの上で「現実問題として無理」と「命の選別」に社会的合意形成を図ろうとしているのか判らないが、それが政治主導の上意下達であれば、生命の尊厳は個人にはないという前提に立っているということになる。

憲法第13条:
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

この前提にも立っていないことになる。

産業・経済の求める「価値(Wertヴェルト)」に照らす「人」に専ら(生きる)権利を認めようとするが、自民党憲法改正草案での憲法第13条である(拙稿「個人」か「人」か(憲法第13条))。

「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」

経済的効率性の上から人間の生死を決めてはならない、という "れいわ新選組" の結党の精神とは真逆の「個人」から「個」を奪い取り単なる「人」(無個性)として国家の「資源」扱いにし、その命も「価値(Wertヴェルト)」に照らした「選別」がされるべきであるという思想に立つのが自由民主党である。

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”生産性や効率性だけで「存在すべきかどうか?」の価値が決まるなら、そもそも人間など存在しない方がいいのだ。AI搭載のロボットとコンピューターを残し、すべての人類は消滅した方が良いことになるだろう。
人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。古代、中世はもちろん、つい百何十年か前なら、そんなことは皆わかり切っていた。というか、むしろ効率性で人間を測るという考え方の方が異端であったろう。人間に生産性や効率を当てはめるようになったのは、工場や国家の軍隊という近代的なシステムの発生と無関係ではないと思われる。もちろん、それまでも小規模な工房や王の軍隊などはあったが、労働者、一兵卒として個人が無名化され、無個性化された「資源」と見做されて、初めて生産性や効率性が問題になってくる。大西氏は経済アナリストとしては有能なのかもしれないが哲学がないようだ。だから経済的効率性が社会の基本のように見做されている現代の風潮が絶対的な真理ではなく「時代精神」に過ぎないことに気づかない。”(或るネット民のコメント)

ネットの良識は斯様に指摘する。「人間とは非合理で非効率なもの。効率性などで測れないもの。」が真理だからこそ、我々一人一人は唯一無二の存在たり得、アイデンティティ(自己・自我意識)を保つことができる。「これがほかならぬ自分なのだ」と一人一人が言える世の中を希求することが政治の使命であっても、「これはほかならぬあなただ」と社会や国家が生産性や効率性の観点から誰かを値踏みし価値づけし剰えその命を選別(排除)することが政治の使命であってはならない。

(おわり)


posted by ihagee at 08:07| 政治