歩廊といい構内といい、通勤電車の待合で烟草を燻らしても咎められない時代があった。さすがに車内で一服は法度だったが、それでも電車の連結部分で前後のドアを締め切りしゃがみ込んでこっそりふかす者はいた。
「誰か吸ってんな?」とすぐに周りで気づくが、それでも見逃すような今に思えばいたって寛容な時代だった。
(1969年撮影「サイアノタイプ - その87(引き伸ばし機)」)
丸ノ内線・線路の壁際に点々と注意書きがあったことを思い出した。確か、「たんやつばを線路に吐かないように」だったと思う。当時は公共空間での喫煙が大目に見られていたのでいがらっぽい人が多かったのかもしれない。たんやつばを飲み込む為にニッキやクールの浅田飴も流行った時代である。
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時代が代わり、喫煙者は肩身が狭くなった。駅構内は終日禁煙。たとえ一本の煙でも遠くからでもその臭いが判るということは路上でも同じ。ゆえに街中での歩き煙草も禁止のご時世である。
その煙のエアロゾル状態での粒子径は0.1 μm〜1μmと言われている。市販のマスク越しにもその臭いは十分感じられるので、マスクは煙り除けにもならないということだろう。
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”これが「事実」なら衝撃的だ。欧米の科学者らが6日、世界保健機関(WHO)や各国保健当局に対し、公開書簡を出した。新型コロナウイルスは2メートルをはるかに超える距離で浮遊し、空気感染する可能性があると指摘。WHOに感染防止策を見直すよう求めたのだ。WHOも精査に動くという。・・・AFP時事などによると、直径5〜10マイクロメートル以上の飛沫は1〜2メートルで地面に落ちるが、それより小さな飛沫は霧状の微粒子となり、はるかに長い間空気中を浮遊し、遠くまで移動するという。対策として屋内では換気を良くし、建物内や公共交通機関での混雑を避けることを提唱している。WHOはこれまで特殊な環境を除いて空気感染の恐れはなく、1メートルの距離を取るよう呼び掛けていた。”
(日刊ゲンダイDigital2020年7月8日付記事より)
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霧状の微粒子、エアロゾルでのコロナウイルスの粒子径は0.1 μm。つまりエアロゾルは考えてみれば件の煙もコロナウイルスも同じ。違いは臭いがあるかないかだけ。コロナウイルスも煙草のように臭えば通勤電車内のスーパースプレッダーは忽ち判るものだろう。
つまり、煙草が臭う距離(1〜2mどころではなく、10m程度)であればコロナウイルスも吸い込む可能性があるということ。所謂ソーシャル・ディスタンスが10mにもなったら、煙草であれば公共の場での禁煙を徹底すれば良いが、コロナウイルスの場合どうしたら良いのだろうか?煙草を吸うな(=煙を吐くな)とは言えるが、会話や咳、くしゃみをするな(=息を吐くな)と言うわけにはいかない。通勤電車内でスマホを撫で回すことも、便器以上に菌やウィルスが付着し易いと言われるディスプレイから指を介して口や鼻からコロナウイルスが感染するリスクはある(人=人感染ではなく、物=人感染)。だからと言って、車内のスマホ操作を一切禁じることはできない。「揺れますのでつかまってください」と車内放送で呼びかけるつり革や手すりなど挙げたらキリがない。密集近接空間では換気を良くして人や物へのウイルスの付着を最小化するしか手はないということになる。
そうしない限り、満員の通勤電車は紫煙立罩む昭和の雀荘と同じと考えた方が良い。通勤電車ばかりでなく、職場の閉め切った空調も内外気を常に交換する方式でなければ同じく雀荘となり兼ねない。階下の煙草が頭上のダクトから臭うような空調ならば雀荘を疑っても良い。ましてや、唾さえ飛ばなければ大丈夫とスーパーのレジなどに吊るしているビニールのシールドは、それ以前にその場全体の空調が雀荘化していれば意味を為さないのかもしれない。この点、福島第一原子力発電所事故で暴露した(今も続いている)放射性物資が外部環境と表には見えない地下水脈などを介して何の隔たりもなく流通しているにも関わらず「アンダーコントロール」なる言葉だけで問題を事故原発構内にのみ「表向き」封じ込めていることと変わりがない。色も臭いもない放射性物質だからビニールのシールド程度の薄っぺらな言葉一つでどうにでも始末がつくと為政者はたかを括り、東電は「表向き」の作業を行いその言葉に辻褄を合わせている。原発事故なる国家の宿痾(治らない病)への政治・行政の「アンダーコントロール」ぶりは(拙稿” いつまでも「うそつきロボット」で良いのか(原発事故なる国家の宿痾(治らない病)続き)”)コロナウイルス禍でも同じく発揮されつつある。
”フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。……”(安倍首相)
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「統制されています」とばかりに、誰にも見えやすいこと、すなわち、事故原発の建屋やその周囲にのみ世間の関心を向けさせると同じく、夜の街やホストばかりに世間の関心を向けさせ、感染源と決めつけ、社会生活上、夜の街は昼の街と比較すれば不要不急、「行かないで」と政治や行政は言いやすい。しかし、都内の感染者の過半数はルート不詳と言う。感染ルートが辿れずクラスター対策が打てない地下水脈的ケースを敢えて政治や行政は思考から排除し「アンダーコントロール」を装っているようにも思える。しかし、上掲の記事のようにそのルートに通勤電車など昼の街にも係るファクターがあると欧米の科学者は指摘している。
昼の街のファクターを議論の俎上に上げることは数段難しい。経済活動とのバランスを測ることが至難ゆえに、政治はバランスが取り易い夜の街対策で「やってる感」を目一杯創出するものの、この眼前の最大リスクは敢えて看過しているとも言える。
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”水に涵つた桃林を、人は雨外套の襟をたてて足ばやに、暗いはうへ消えていつた。
その後姿に、薫ゆらすとみえた、紫煙のけむの一片。それが白い。ぽんと、抛げすてられたその殻。地におちて、なほ燻る余燼。――もはや夜の大地が、こんな小つぽけな烟草を薫ゆらせてゐると、みえないことはない。”(「高祖保詩集・烟草のから」)
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けむの一片は夜の大地にばかりみてはならないのかもしれない。
(おわり)
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