生活環境、特に台所や食卓でハエを目にすることは少ない。バナナの熟れた臭いに惹かれてどこからかコバエが進入してくることはあっても、銀バエがそれこそ五月蝿く飛び回ることは都会生活では見受けなくなった。
私が子どもの頃は(半世紀以上前)、どの家でもハエ取り紙を天井からクルクルと下げたり、蠅帳(フードカバー)で皿をハエたちの襲撃から保護したりしたものだ。急襲を企てて敢え無くカレー沼に不時着したハエはスプーンで拾い捨てて、あとは綺麗と気にしなかったが、便所で自分の落とし物に蠢く糸のような蟯虫を発見して喜んでいたりした時分だから、その当時の衛生観念などそんな程度だったのだろう。
ブンブンと飛び回るハエを始末するのはいつも私の役目だったが(殺虫スプレーなど昔はなかった)、ハエ叩きでハエを叩けた例(ためし)があまりない。むしろ叩く寸前で逃げられてしまうことの方が多かった。

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“迫りくる脅威の位置を判断し、回避するための方法を計算する。そして、逃げるのに最適な場所に脚を置き、脅威とは反対の方向にジャンプして逃げ去る。これらの行動はハエが脅威を発見してからわずか100ミリ秒の間に起きる。「ハエの現在の場所をたたいてもダメ。ハエが逃げるべきと判断した方向の、ちょっと先の方を狙うべき」”(マイケル・ディキンソン米カリフォルニア工科大学教授 / ITmedia2008年9月1日記事)
「ちょっと先の方を狙う」が科学の導き出した解らしい。つまり、ハエ叩きで目の前の実像を視認してから叩いてもダメということ。ハエの回避行動特性を把握して一手先をハエ同様こちらも読んで今そこには存在していないその場所(虚像)=目の先を叩けということらしい。
「ちょっと先の方を狙う」という点では、オーケストラの棒振りもハエ叩きと思う。指揮者は棒を振る(拍取り)わけだが、奏者はその棒を時折横目に見ながら楽器をエイヤーと操作するから音が出るのが若干遅れる。遅れると拍が乱れたりするが、すでに振った棒ゆえ修正しづらい。ゆえに、指揮者は実際に音として出る音符の拍を一寸先に振って、拍に音を従わせる(アインザッツを揃える)。出た音に合わせて振っているわけではない。だから、譜面の読めない我々が指揮台で出た音に合わせてカラヤンの真似をしたところでまともな音楽にはならないということ。弦や金管などパート毎にアインザッツを的確に出せるようにと、数百ページ数十段にびっしり音符が書き込まれた長大な楽曲の総譜を書き込みやページの染みごと写真のように瞬時に記憶する指揮者もいる(いた)。
先日惜しくも亡くなった野村克也氏(当時・監督業)がその昔、指揮官なる共通項でカラヤンと思想を比較・論じる番組があったのを思い出した。互いに全くの畑違いのミスマッチのように思えるが、精神論を排し科学眼を重んじた野村氏であれば、音楽上のアインザッツや「ちょっと先の方を狙う」拍打ちの意味をすぐに理解したことだろう。打撃王の「ボールが止まって見えるも」アインザッツを揃えること。なかなか含蓄のある内容だった。
若い内は巨匠と呼ばれた指揮者でも、晩年になるほど楽曲のテンポが遅くなる傾向にあるのは譜面の解釈に拠るばかりではなく、「ちょっと先の方を狙う」ことが肉体・精神的(譜面を頭の中で追えない)にできなくなることにも由来しているのかもしれない。それでも巨匠と呼ばれるのはもう棒など必要としない後光のようなオーラだと言う説もある。大病後の晩年のカラヤンもそうだった。野村氏も然り。
我々の目には「やってる振り」の様にも見える棒振りも、ハエ叩き以上にオケから音を叩き出すのは難しい。誰かさんの得意な「やってる振り」はことプロの音楽家には通用しない。その誰かさんはオーラすらないときている、嗚呼。
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さて、我々が血眼で叩かなくてはならないのは、新型コロナウィルス(COVID-19)である。
“コントロールが難しいウイルスだが、ここがウイルスの弱点だ。80%が感染させていないということは、クラスターを形成するような大きな、10人、20人規模のクラスターをつぶすと、コントロールできる可能性がある(新型肺炎 「閉鎖空間が患者集団形成」 専門家会議 2020年3月2日/ 押谷仁・東北大教授発言から)”
“対策の重点=クラスター対策
クラスター(集団)発生の端緒を捉え、早期に対策を講ずることで、今後の感染拡大を遅らせる効果大・・・@患者クラスター発生の発見(積極的疫学的調査実施) A感染源・感染経路の探索 B感染拡大対策の実施(外出自粛等、各種要請)“(厚生労働省資料から)
「患者のクラスター」という聞きなれない言葉が飛び交っている。屋内の閉鎖空間などで1人から複数に感染させていく患者の集団(クラスター)のことを指す。その「クラスター潰し」が制圧の対策の重点とされている。
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「感染ルートが辿れない」「クラスターを潰しにかかっている間に別の場所でクラスターが発生する」と、現状はいわゆるモグラ叩き状態。

モグラ叩きはゲーセンのものをすぐに思い浮かべるが、ゲームならモグラの出そうな穴の位置はあらかじめ判っている。頭を引っ込めるすんでのところを叩けば得点。要するに実像を素早く視認してハンマーで叩けば良いので最初はこちらの条件反射次第だが、出没のスピードが増すと出た場に合わせて叩いてもすでにモグラは頭を引っ込めて他の穴からヒョイと出るよう仕組まれている。こうなると山勘を働かせるしかないが、それに合わせてタイムアウトとなるオチ。ちょっとしたパニック状態を遊戯者は楽しむという他虐が自虐に転じるゲームで、私は結構好きだ。
件の「クラスター潰し」は、どうもこのモグラ叩きに近いが、出没する穴は全国津々浦々と不特定である点、ハエ叩きにも近い。叩いた時にハエはもうその場にいないからだ。飛び去って別の場所で手足を擦っている。
「クラスター潰し」の時間軸はもっぱら過去から今で、その過去が判らなくなって(クラスター発生に至る感染ルートが判らない)、端緒を含む今を叩いて潰しにかかっている。潰している間に別の場所でクラスターが発生し、その時間的間隔が次第に狭まってモグラ叩きゲームの終盤のようなパニック状態を呈し始め、タイムオーバーがパンデミックということ。ワクチン開発も含め、ヒョコヒョコ出てきたものへの対処は全て後手。
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棒振りの譜面のように、音ならぬウィルスの出順が判っていれば何の世話もないがそうではない。ハエ叩きのハエの回避行動特性に近いのかもしれない。
”ハエの現在の場所をたたいてもダメ。ハエが逃げるべきと判断した方向の、ちょっと先の方を狙うべき”
ハエにとって「べき」ことは、そのハエにとってはちょっと先の行動(未来)ゆえ、ハエ叩きの極意はハエの身になって未来をこちらも予測して「ちょっと先の方」を狙って叩くことにある。
目の前よりも目の先で叩くこと。
ウィルスに置き換えれば、過去や今にばかり捕われることなく、「ちょっと先の方」(未来)の行動を予測し、その場を叩くこと(予めある地域を封鎖し=ロックダウン、行動自粛させ、無作為にスクリーニング検査を行い、感染弱者を隔離保護し、消毒防除に務める)によって、端緒自体を潰すことになるのではないか?
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目の前の感染をモグラ叩きのようにひたすら叩いていた後手対応の途中から、目線をあげてその先の感染になり得る場所を予測し次々と閉鎖隔離する先手に転じ、経済や民心が一時パニックになろうと端緒自体を潰しにかかった武漢を含む湖北省、同様に無作為にスクリーニング検査を行っている韓国は、COVID-19を制圧する日は近いかもしれない。
"ジョンズ・ホプキンス大学看護学部の看護師開業医兼教授であるジェイソン・ファーリーによると、韓国が広範な検査戦略を展開したとき、国民の恐怖は著しく減少した。"(ジョンズ・ホプキンス大学の最新情報から)
韓国での無作為なスクリーニング検査は国民の恐怖を著しく減少させる。先手先手と検査することで感染確定数はうなぎ登りになるが、国民の恐怖は反比例するとは面白い。日本は感染確定数増加が国民の恐怖を煽ることにでもなると思ってか、ひたすら後手にまわっている。
「クラスター潰し」が、過去から今の「患者のクラスター」を対象としその集団の患者に相関性や因果関係を追及し、感染経路を探索することで、同じ経路に居た人々に措置を施すことができるということは、所詮は後手。あくまでもクラスターなる点在する感染集団が前提。その点が面となって繋がってしまうと、関係性も経路も見えなくなる。針先の点が棒大にならない前に潰すには、点の兆候(未来)を予測するしかない(先手)。
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ハエ叩きのハエの回避行動特性も、「迫りくる脅威の位置」「逃げるのに最適な場所」「脚の置き(方)」などのデータを「データのクラスター」として扱えば、人工知能(AI)分野での、データの集団化(クラスタリング)によって、「反対の方向」を予測することが可能とも思える。AI技術の適用フィールドは先手にこそ本領を発揮する。
「患者のクラスター」なる分類(クラスター)が逃しやすい擬陽性・偽陰性集団も、クラスタリングならば、陽性・陰性のそれぞれの集団に集めることが可能となるのではないか?
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隣国台湾では、米国の外交政策研究季刊誌『Foreign Policy』に「世界の頭脳百人」にも選ばれた台湾・デジタル担当政務委員(大臣)の唐鳳(オードリー・タン)氏が、新型コロナウイルス騒動のなかで、マスクの在庫が一目でわかるアプリのプログラムを開発し同国内の感染対策に多大な貢献をしていると報じられている。これも先手の好例。
単なるプログラマーの才覚ではなく、哲学まで修めた全人的に物事を捉える非凡な頭脳を持ち合わせているがゆえ、感染症という広範な社会問題にも難なく最適解を導き出しているようだ。
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それに比べ、我が国のIT担当大臣の歴代の無知且つポンコツぶりは目に余る。79歳の竹本直一大臣は一体何を役目として仰せつかっているのか?まさに譜面の読めない「やってる振り」の棒振りに他ならない。楽曲が終わって幕が下りようとしているのに、なぜか一人棒を振っていそうな後手後手。
「今が正念場」と言う国家危難の場面で、ITなりAIを前面に押し出して活用できない我が国の科学の樹の不在を嘆く暇もない(拙稿「科学の樹」のないこの国の暗愚・続き2)。
安倍首相は三跪九叩頭の礼を以て、件のハエ叩きの極意伝授を唐鳳氏に請うべきだ。彼女なら「ちょっと先の方」(未来)でバシッとコバエのうちに叩いてみせるに違いない。「ちょっと先の方」がハエもウイルスも弱点なれば、それを狙うのが「先手先手で対応すること」であり「未来志向」と言うもの。
ハエ叩きでなぜハエを叩けないのか?
叩こうとするのが、目の前のハエ(後手)で目の先のハエ(先手)でないから。
竹中平蔵氏(この新自由主義者の言説は嫌いだが)も後手=レアクティブに回る日本政府の対応を厳しく批判している(PRESIDENT Online 2020年3月9日記事)。この限りで彼の言い分は全く正しい(ただし、オリンピック中止判断決定は "東京五輪組織委員会" ではなく、IOCの専権事項であることだけは指摘しておきたい)。
我々は真剣に科学しなければならない。
(おわり)
追記:
コロナ特措法の緊急事態宣言の我々が知っておかなければならない危険性
間違ってもこの先、自由民主党「日本国憲法改正草案」の第98条に「緊急事態の宣言」第99条「緊急事態の宣言の効果」と題された条文(案)を立法化させてはならない。(拙稿「新型コロナウィルスに乗じる厚顔」)
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