2020年01月13日

和文タイプと特許技術翻訳



”当時、私の職場では、和文タイプに従事する者(全員女性)はその高度な専門技能を以て他から一目も二目も置かれていた。大きなタイプライターの筐体のアームを上下左右に動かしてはガッチャンガッチャンと活字を拾う作業の手早さに程々感心したものである。少なくとも職場内では代替不能な業務ゆえに絶対的な立場にいた。

職場に日本語ワープロが導入されるようになり、浄書がタイプからプリントに置き換わるにつれて和文タイプ業務は従事する人とともに職場から消えていった。”


和文タイプライター wikipediaより引用)

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以上、拙稿「AI本格稼動社会」への大いなる懸念(続き)から引用。

和文タイプ業務がタイプ代(印書代)など営利をもたらす事業であった時代は、ワープロ・パソコンの普及に伴い終わった。そして、AI(人工知能)の時代。その特殊且つ人の能力に依存する業務ゆえ無くならないとされてきた特許技術翻訳(特許業界に於ける営利事業)がAI翻訳に代替されつつある(未だ超えられない "壁" がAI翻訳にはあるがいずれ克服されるだろう)。

技術資料の翻訳が営利事業(=売り物)でなく内部コストでしかない製薬メーカーなどは、内部コスト圧縮の目的に適うとしてAI翻訳の導入に積極的だと聞く(「グラクソ・スミスクライン社と製薬業向けAI翻訳の共同開発を開始」)。特許業界にとってクライアントとなる製薬メーカーが技術翻訳をそう見ているということは、当然メーカーはそのコスト意識を特許業界に問うことになる。それは、かつてのタイプ代(印書代)と同様、費用請求に値しない業務という見方である。

また、我々が普段それとなく用いているグーグル翻訳(AIを中心とする)は、従来、商品として市場価値を有していた多言語間の翻訳(技術翻訳も包括する)サービス供給基盤を翻訳業者から奪い、翻訳のコモディティ化(ジェネリック化)を促進させている。こうなると翻訳業者・翻訳者間の差別化は価格競争一方となる。実質0円のグーグル翻訳にマニュアル(人間)翻訳としての差別化は品質(訳精度)に係るが、その品質と市場価格が比例していることが前提のAIを想定していない昨日のビジネスモデルの「安かろう悪かろう」的常識が、AI前提の社会では「安かろう良かろう」と非比例になりつつある。

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一般社団法人日本翻訳連盟のHP で技術翻訳の標準単価が公開されているが、マニュアル(人間)翻訳での市場価格は機械翻訳・AI翻訳の台頭によって単価は低廉の一途を辿り、フリーランサー間の競争単価は英和・和英共に10円/wd前後と、もはや翻訳業務だけでは生活できないレベルになっているとも聞く。それでも、がむしゃらに営業し訳語数で稼ぐしかないが、そうなると品質を維持し納期を守ることが難しくなる。だからと言ってAI翻訳を下訳として活用すれば、そのAIにその人なりの学習値を吸い取られることにもなる(職能すらAIに渡すことになる)。AI翻訳によって新たに雇用が創出されると期待されていたポストエディット業務などは、人が直した箇所の数に10円以下の単価の掛け算となるゆえ、訳語数以下(ページ辺り数カ所分)の収入しかエディターにもたらさず、果たして業務として成立するのかさえも疑問視されている。アダプテーションもポストエディットも上述の製薬会社では自社内で行っているゆえ(内部コスト扱い)、AI翻訳に関連するそれら業務の需要は喚起されず、市場も雇用も生まれないだろう。

このような環境にあって、AIを想定していない昨日のビジネスモデルの上に胡座をかいていた特許業界、特に特許事務所に於いて、特許技術翻訳は間接業務(直接的に会社に対して利益を生み出さない業務。特許事務所で言えば、事務管理部門の業務)の範疇に内部コストとして押し込むしかなくなるだろう。和文タイプ・英文タイプに続き、技術翻訳はそれ自体は利益を生み出さないAIに代替可能な業務になっていく。特許技術翻訳業務を収益(=売り物)の柱としてきた特許事務所にとって、そうならないAI本格稼働社会を見越して既存の収益体制の抜本的な見直しが求められることになるに違いない。そしてその流れはいずれ特許明細書を作成する弁理士にも及ぶだろう。国家資格に守られてきた士業ですら、AIを想定していない昨日のビジネスモデルの上にいつまでも胡座をかいていられない。厳しい時代になりそうだ。

便利だと「OK Google」とか「教えてGoogle」などと、AI(人工知能)を無意識に使うことは、他者の知能を借り他律に従うことになる。そもそも発想の原点が他者にあって自己にない日本の社会。そこにAI(人工知能)が適用されればどういうことになるか(拙稿 <意識なきシステム>で「世界一」となる国)?

発想の原点を自己に求めることは無論、AI(人工知能)を使わせる側(AIを制御する側)に回る位の意識の転換が我々一人一人に求められている。それが「私が私である」アイデンティティ identity(すなわち、「個人 an individual」)を失わないことでもある(identity as an individual)。

「我思う、故に我在り」(Je pense, donc je suis)。

(おわり)

posted by ihagee at 10:42| エッセイ