”カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。力なき正義は反抗を受ける。なぜならは、つねに悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。それゆえ正義と力を結合せねばならない。” (パスカル 「パンセ」)
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海外渡航禁止の保釈条件に反し、レバノンへ逃亡した前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告が会見を開く。
「公正な裁判(a fair trial)は期待できるのだろうか」、逃亡前ゴーン被告は弁護人にしきりに質問していたそうだ。公正であるか否か、事犯を裁く裁判なり、裁判に関する法そのものが「公正」であるかを問うことは、法そのものが普遍的価値を有するか否かを問うに等しい。しかし、法は「公正」という理念に対する未完の規範でしかない。
”法律が信用されているのは、それが公正であるからではなく、それが法であるからである。これが、すなわち法律の権威の不可思議な基礎であり、これ以外に基礎はまったくないのである。”(モンテスキュー 「随想録」)
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ゴーン被告は日本の法から逃れた。今後は国際社会に「人質司法」なる「公正」なる理念と反する我が国の法規範を、刑事司法における検察の絶対的権力(裁判官ですら検察官の判断に従い、検察官が起訴すれば99%の確率で有罪になるという)と共に ”正義なき力は圧制”と、”力なき正義” の被告として暴き立てるだろう。
そして、今やその力を国際社会・国際世論に得ようとしている。ゴーン氏を侮るべきではない。
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「ほら、日本ってめちゃくちゃでしょ」 ゴーン氏の逆襲をナメてはいけない(窪田順生氏・ITMediaビジネスONLINE記事・2020/1/7配信)は、アルベルト・フジモリ氏の例を挙げるなど、とかく「ゴーン氏やレバノンに対して過度に攻撃的」になる我々にその怒りの前提が間違っているかもしれないことを教えてくれる。
この記事には慧眼がある。一読を薦めたい。
(おわり)
追記:
”【ベルリン時事】日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告が逃亡先のレバノンで8日に行った記者会見をめぐり、複数の独メディアが「日本が恥をかいた」(シュピーゲル誌)など、ゴーン被告の罪状にかかわらず、日本の司法制度の不備が世界にさらされることになったと指摘した。”(『「日本司法「恥かいた」』 ゴーン会見で独メディア」(時事ドットコム記事引用・2020/1/9)
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ゴーン被告の罪状(逃亡含め)にのみ焦点を当てる国内メディア(裁かれる前にすでに罪人扱い)。
他方、海外メディアでは「日本の司法制度の不備」に焦点が当たっている。ゴーン被告にとって逃亡とは、国際社会・世論に力を得、自らの「正義」を発信する為の唯一の手段であって、その目論見通りになっていると言える。逃亡という罪を犯さなければ、裁判が始まるまでの長い期間寡黙を強いられ、保釈されていようが実質独房に留置されているに等しく、国際社会・世論から隔離されその存在が忘れ去られる一方、検察の嫌疑内容のメディアリークと日本のメディアの増幅によって「クロ」の印象操作が行われ(裁かれてもいないのに罪人扱い)、剰え検察官が起訴すれば99%の確率で有罪になることへの恐怖は、彼と同じく世界を股にかける欧米企業の最高経営責任者(CEO)たちにも共有されつつある。こんなことでは日本企業のマネージメントはできないと。
そもそも大元の犯罪とされる行為については、日産社内の問題として取締役会で諮られるべきことであって(CEOの個人的特典など他の企業でも探せば幾らでも見つかること)、いきなり検察が刑事事件に持ち込むこと自体非常に奇異である。政治家や公務員と民間企業との間の贈収賄であればまだしも、民間企業内の問題に検察捜査が入ることは日本政府が初めから関わっているに違いない、は海外メディアの共通した認識であり、その政治(国策)に司法制度がべったりと都合しているという認識でもある。
”ゴーン氏の逆襲をナメてはいけない”
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