2019年12月24日

「AI本格稼動社会」への大いなる懸念(続き)



「大変申し訳ありませんが、いくつか誤植がありましたので・・」
「手書きで訂正すればいいじゃないの」と作業の手を止めず目も上げない。
「そ、それに、文章の追加がありまして・・お客様に納品する浄書なのでスミマセン。夕方までにお願いします。」
そっと差し出した朱書きを一目するやキッと眦を上げた。
「わっ!こんなに追加がある!全部打ち直しになるじゃないの。全く!終わったあとから注文付けないで頂戴!」
A課長の尖った声に周りの女の子たちは一斉に私に冷めた視線を送る。

文句を言われるのも私の仕事ゆえに心得ている。上司から財布をもらって職場から数丁先の岡埜榮泉まですっ飛んで行ったものだ。

「仕方ないわねぇ、いつもこれね。たまには違う菓子折り持って来なさいよ。一個余してるからここで食べてってと」と茶を振る舞われながら腕貫に飛んだ粉を払うお姉さま方に弄られたのも思い起こせば今から30-40年程前。

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当時、私の職場では、和文タイプに従事する者(全員女性)はその高度な専門技能を以て他から一目も二目も置かれていた。大きなタイプライターの筐体のアームを上下左右に動かしてはガッチャンガッチャンと活字を拾う作業の手早さに程々感心したものである。少なくとも職場内では代替不能な業務ゆえに絶対的な立場にいた。

職場に日本語ワープロが導入されるようになり、浄書がタイプからプリントに置き換わるにつれて和文タイプ業務は従事する人とともに職場から消えていった。それでも証書の類はタイプ打ちが客先に好まれた時期がしばらく続いたので、西新橋界隈のタイプ屋に仕事を発注したものだった。その細々たる需給関係もPCの導入によって完全になくなった。

あの時代、仕事を頼む側・頼まれる側の間でマージンがあった。お互いの余白のようなものの中に、相手の仕事への敬意を含め、様々な人間関係が形成されていたのかもしれない。余白の一切ない摩擦だらけのギスギスとした今の世の中から振り返れば、不便なことも多かったが豆大福で不平不満をそっと懐に仕舞うことができた時代でもあった。

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いまどきの若者ならPCのキーボード操作を以てタイピングは自得しているだろう。近い将来、義務教育の現場でPCが導入されればキー操作=タイピングは凡そ特殊技能ではなくなる。そのキーボードも音声入力に置き換われば指先の技能すら不要になるだろう。

それどころか、人間の頭脳や思考判断すら不要となる将来を人工知能(AI)社会は暗示している。

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“人民たちはこの紳士が手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思っていました。しかし、かれはどうしたら働かないでくらしを立てて行けるかということを、くりかえしくりかえし話しただけでした。・・・年よった悪魔はまた次の日も一日塔の上に立っていましたが、そろそろ弱って来て、前へつんのめったかと思うと、あかり取りの窓の側そばの、一本の柱へ頭を打っつけました。それを人民の一人が見つけて、イワンのおよめさんに知らせました。するとイワンのおよめさんは、野良に出ているイワンのところへ、かけつけました。「来てごらんなさい。あの紳士が頭で仕事をやりはじめたそうですから。」・・・頭を柱に打ちつけていました。そしてイワンが塔へちょうどついた時、年よった悪魔はつまずいてころぶと、ごろごろと階段をころんで、その一つ一つに頭をゴツンゴツンと打ちつけながら、地べたへ落ちて来ました。・・・年よった悪魔は階段の一ばん下のところで一つとんぼがえりをして、そのまま地べたへ頭を突っ込みました。イワンはかれがどのくらい仕事をしたか見に行こうとしました。その時急に地面がぱっとわれて紳士は中へ落っこっちてしまいました。そしてそのあとにはただ一つの穴が残りました。・・・ただイワンの国には一つ特別なならわしがありました。それはどんな人でも手のゴツゴツした人は食事のテイブルへつけるが、そうでない人はどんな人でも他の人の食べ残りを食べなければならないことです。”
(青空文庫・トルストイ「イワンのばか」から)

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「手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思って」とは、世に言う「AIを使うこと」かもしれない。スマホの画面を四六時中撫でまわし、ひたすら情報を選択しポチッと「イイね」と勤しむことや、「OK Google!」「教えてGoogle!」で最適解を得たとばかりに済ませてしまう。ゴツゴツした手を嫌うばかりか、頭脳や思考判断まで他者に委ね、その事に何の疑問も持たないということ(拙稿「<意識なきシステム>で「世界一」となる国」)。

“その時急に地面がぱっとわれて紳士は中へ落っこっちてしまいました。そしてそのあとにはただ一つの穴が残りました”

手にも頭にもコブを作らずでは、”何の余りも将来食べることはできないであろう”、ことを無意識に「AIを使うこと」は示してはいまいか?ワープロの出現と共に、和文タイピストが消えたように、従来代替不能とされていた業務もAIを使うことで代替容易としてしまう。

モノ・装置・方法に留まらず、ヒトの存在理由すらAIは曖昧にしていく。使っているその人がユニーク(唯一無二)である必要がない将来かもしれない。つまり、AIを使うことにばかり勤しむ人は、その人でなければならない「個人」なる定義を自ら失う可能性がある。AIに仕事ばかりか頭まで取られ、人としての「個(アイデンティティ)」まで奪われ、終いには食べたければ身体を差し出せと、製薬会社のモルモットか戦地の兵士になるしかない。モルモットも兵士も「個(アイデンティティ)」は要らない。

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AI(人工知能)は、「使う側(=ユーザ/借手・大多数)」ではなく「(他者に)使わせる側(=ベンダ/貸手・少数)」にAI社会の上流工程(upstream)で将来に亘って経済的利益をもたらすものであり、「言語資源データビジネス」はその上流工程に位置しているとされている。AIが神羅万象を司る存在になる(そうはならないとだろうが)=シンギュラリティ、まではそうだともされている。

神ならぬ悪魔がAIなら、「イワンのばか」での、悪魔に唆されて戦をしたセミョーンや悪魔に騙されて財産を巻き上げられたタラースはさしずめ「使う側(=ユーザ/借手・大多数)」で、その悪魔に唆されたり騙された人々ということになる。

“食事のテイブルへつける” こと以外は望まず、手にコブを作ることを厭わない「ばかなイワン」は悪魔に騙されない程 賢く”ばか" なのである。

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ならば、その悪魔を作る「AIを(他者に)使わせる側(=ベンダ/貸手・少数)」はイワンよりもさらに賢く”ばか" なのだろうか?

“コンピュータが自己進化していくことにより、エネルギー・食料・安全保証の問題が全て解決され衣食住がフリー、労働から解放、不老不死となり生まれた時から好きなことだけを追求する社会がくる。AIとスーパーコンピュータの進化により、仕事が無くなるのではなく労働から開放される。(斎藤元章氏が提唱したシンギュラリティ)”

“地面がぱっとわれて紳士は中へ落っこっちてしまいました。そしてそのあとにはただ一つの穴が残りました。”

「手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思って」が未だ錬金術であることを牢屋に落ちた斎藤氏は自ら示した。彼の唱えるシンギュラリティの向こう側では、人間は存在理由を失い、あまつさえその人間を構成要素とする社会さえ必要でなくなる。椅子取りゲームの椅子が一つもなくなる将来とはその椅子に座る人間も存在する必要がない “ただ一つの穴が残りました” がその結末とすれば、いかに自家撞着した予測でもあるか判りそうなものである。

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“どんな人でも手のゴツゴツした人は食事のテイブルへつける” がおそらくこの先の世に於いても真理だろう。

「AIを専ら使う」でも「AIを他者に使わせる」でもない、愚直に手にコブを作りながら畑仕事を続けるイワンこそ、人類の過去数千年の経験則に照らせば、明日の食事にありつくことができる賢い "ばか" だろう。AIを知らない人類以外の生物はみなその ”ばか" を地で行く。人類だけがその他生物と異なる生態系にあるとAIを以て過信することこそ真正の馬鹿かもしれない。

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「手を使わないで頭で働く方法を見せてくれるものと思って」とデジタル経済・電子社会に邁進し、農業など第一次産業を蔑ろにし、食料自給率のダダ下がりを放置するどころかTPPや日米FTA交渉で低下を促し、遺伝子組み換えやらグルホサートまみれの工業食品を世界一輸入し(そんな食品を食べるのは「家畜とメキシコ人と日本人だけ」と言われている)、壊れた原発からトリチウム(他の核種も含む)を意図的且つ大量に環境曝露させれば、製薬会社や保険会社が揉み手でやってくるのは必然。飢えたら自動車の鋼板でも齧れば良いとでも言いたげな現政権の産業政策は全くもって真正の馬鹿である。

それならばもはや人でなくても良い。鉄を喰うバクテリアでも構わないということだ。国民をバクテリア扱いにするがゆえに与党自民党は憲法の規定する「個人の尊重(尊厳)」が大嫌いなのだろう(拙稿『「個人」か「人」か(憲法第13条)』)。「一億総〇〇」と国民を一絡げにして「死なばもろとも・玉砕!」と刹那に叫んだ時代に戻ることである。賢くなるべきはAIなどではなく人間の知性。真正の馬鹿=反知性を標榜する安倍政権を戒めとし、我々はイワンの” ばか" に倣ってAIを知らぬ草木や虫たちと共に地に足をつけて生きるべきなのかもしれない。

(人間の知性を超えて)「自己進化するAI」であるのなら、超える手前で止めるのも人間の知性であろう。それが確かでないのであれば、“その時急に地面がぱっとわれて紳士は中へ落っこっちてしまいました。そしてそのあとにはただ一つの穴が残りました。” としかならない。「自己進化する」などとさも賢そうにサラッと言うは、「個人の尊重(尊厳)」への挑戦、生態系全般への冒涜であり傲慢でもある。

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(おわり)

posted by ihagee at 03:17| エッセイ