場所はビルマのラングーン(現:ミャンマーのヤンゴン)。同地を支配している英軍が日本軍の空からの奇襲に遭っている。逃げ惑う多くの民衆の中にガウタム一家がいた。至るところで爆弾が炸裂しガウタム少年の母親が犠牲になった。残された少年と父はやり場のない悲しみと怒りの眼差しを夜空に向けている。
戦争が終わり、父子は遺影を抱いて母国に戻った。ガウタム青年は英国に渡り研学に励み医師の資格を得る。広島・長崎の被爆者に今こそ援助の手を差し向けるべきとの念に駆られる。そして、敬愛する一人の老人の元を訪ねた。
「私の祝福は君と共にあります。君の抱えている問題は全世界の問題です。君の行おうとしていることが成功することを願っています。君の考えに感謝すると共に、その仕事は偉大な人のものとなることであると信じています。あなたのしようとしていることを世界中の全ての国が見るでしょう。そして手を差し伸べるに違いありません。」
信念を新たにしたガウタムは父の待つインドに戻る。母親の遺影の前でガウタムはその堅い決意を父に伝えるが反対される。数日後、父親は考えを改め、日本行きの航空券を息子に手渡した。
高度経済成長只中の日本。赴任した病院のベッドに原爆症に苦しむ人々が横たわっていた。患者を診て回る。火傷の跡が酷い者の中に、一人外見は何ら変わりがないヒロコという女性がいた。血液のガンで自暴自棄となっていたヒロコの手を青年はしっかり握った。
この病院の設立者アキラには娘がいた。インドで教育を受けヒンディ語が達者な彼女はミロダという。ミロダはガウタムに好意を寄せるが仕事に一途なガウタムはそれを感じ取れずにいる。
ガウタムにだけ気を許しその下で治療を受けるようになったヒロコだが、ガウタム以外の医師に対しては反抗した。そして、或る日、ベッドに押さえつけて治療を施そうとする医師たちの手を振り払って、手術室に逃げ込みそこで自殺してしまう。ガウタムは自らの無力を嘆いた。
やがて、ガウタムは放射線治療の画期的方法を見つける。
軌を一にするかに、太平洋のとある環礁で仏軍が大気圏核実験を行った。日本の漁船が巻き添えになりガウタムは周囲の反対を押し切り船を仕立て、救助に赴く。核の雨が降る下をずぶ濡れになりながら漁民を救助したものの被曝してしまう。自ら発見した方法を施術しようとするがその途中、突如視力を失い病院のベッドに自ら横たわる身になった。目の見えぬガウタムの指を借りミロダは額にシンドゥールを付け契りを交わしガウタムはやがて息を引き取る。その遺骸はミロダに付き添われ母国に戻る。英雄と迎える者たち、「不道徳者!」とその遺骸に鼓を鳴らして攻める者たち、そのいずれも遠ざけるようにガウタムの父はミロダを祝福し、息子の額にそっと口付けをした。遺骸は荼毘に付される。

(バートランド・ラッセル卿・1967年製作のヒンディ映画「アマン(平和)」)
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1967年製作のヒンディ映画「アマン(平和)」のあらすじである。
ガウタム医師役Rajendra Kumar、その父親役Balraj Sahni、日本人のミロダ役Saira Banuで、英国、インド、日本で撮影されたこの映画。ガウタムの決意を祝福する老人は、哲学者バートランド・ラッセル卿(Bertrand Russell)本人である(出演当時95歳)。映画の中の言葉(上述)はヒンディ語のナレーションが被って聞き取りづらい部分のラッセル卿の言葉である。
My blessings are with you, this problem, is a problem of the entire world. I hope that you will be successful in this mission. I appreciate your thoughts, and believe that your work is that of a great man, and I hope all the countries in the world will see your challenging work and support you.
ラッセル卿については、本ブログでも別に記事を掲載している(『「'ヒト'という'種'の一員として」の戦争放棄(憲法第9条)』)。最晩年に至るまで非核平和を自ら世界に発信していたが、それが時にビートルズに語ったり、時に上述のような映画出演ともなったようだ。「アマン」でのラッセル卿のシーンはそれ自体がカメオ(名場面)としてインド映画史に刻まれていると聞く。その相手となるガウタム医師役はRajendra Kumarだが、Kumarは私生活に於いても清廉を貫きヒューマニストとして夙に知られていた名優である。
平和を希求し言葉だけでなく実践する者こそ「その仕事は偉大な人のもの」と、ガウタム医師に照らすのは非暴力主義に徹したマハトマ・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)であることに疑いはない。「マハートマー(महात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンディーの尊称である。
「アマン」を元に以下考察を行った。いささか長文となるがご勘弁。
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「アジア最初のノーベル賞受賞者は誰?」
1913年、文学賞受賞者 ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)と答えられる人は少ないだろう。ガンディーに「偉大なる魂」という尊称を与えたのはこの詩聖タゴールである。「物理学賞の湯川秀樹博士(1949年)に決まっている」などと、ナショナリズムに凝り固まり、何事も「日本国って素晴らしい・日本人って凄い」と一部自慢をする向きに、アジア人としての意識を促す質問でもある。モンゴロイドの血族だけがアジア人ではないのである。
映画「アマン」では、アキラの屋敷の壁にタゴールの肖像画が飾られているシーンがある。
そのタゴールと生涯交流を持った日本人がいた。詩人ヨネ・ノグチこと野口米次郎である(彫刻家イサム・ノグチの実父)。その野口もタゴールと並んで米国で最初に作品が紹介されたアジア人詩人である(1924年「ニュー・ポエトリー(The New Poetry)」に英文詩が掲載)。
しかし、両者は思想面では時として激しく対立した(侵略戦争観)。野口や、その当時の日本国・日本人一般が描いていた「大東亜共栄圏」なるアジア主義と軍事派遣主義(アジアの平和を西洋文明の暴力から守るための戦争)について、タゴールは単なる侵略戦争に過ぎないと一蹴した。
1935 年 12 月にガンディーと会見した野口は、次のように言われる。
「私の日本人へのメッセージは、詩人タゴール博士からあなたがたが受け取ったものに含まれている。彼のメッセージには、私たちが与えることのできるあらゆるメッセージが含まれている。」
しかし、野口はそのメッセージを理解することができなかったのだろう。
「その言葉の意味が私に明瞭でなかったが、恐らく彼はタゴールが常に抱いている日本の物質主義への反対を意味したのであろう。」『印度は語る』1936 年(野口米次郎)
「それから印度を考えて見るに、印度の独立を論ずるのは単に彼地に於ける少数の理想家の夢とばかり結論することが出来ぬ、英国の軍事上又政事上の圧迫は来る幾年かの間も依然として経続するであろうが、いつかは印度人が自覚してその自覚を体現するに至るであろう。今回の大戦争が印度にも波及せしめた民主主義が之の自覚を早めたと思われる実際の証拠もある。してこの印度も支那同様、日本の覇権を認めて共に東亜の一部分となって欧羅巴に対抗するに至るであろう。ずっとこの予想を更に拡めて、波斯その他の小国もその手に入れることも出来そうである。(慶大教授 野口米次郎「猶太国の建設」大阪毎日新聞 1918.7.17-1918.7.21から)
野口にとって、「彼地に於ける少数の理想家の夢」がガンディーであり、タゴールであり、「日本の覇権を認めて共に東亜の一部分となって欧羅巴に対抗する」印度志士が、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)であった。
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私の母方の祖父は太平洋戦争中、内地で軍需産業(写真フィルム・乾板製造)に密接に関わっていた関係もあり、「大東亜共栄圏」の正当性と共に「インド解放の志士」チャンドラ・ボースについて、少年だった私にじゅんじゅんと説いたものだった。その正当たる所以は「日本はアジアを開放し、アジアの諸民族から感謝されている」などと、時折中村屋の話(新宿中村屋で本人を目にした等)が混ざっていたので、もしかすると、チャンドラではなく別人のラース・ビハーリー(Rash Behari Bose、中村屋のボース・インドカレーの父)のことだったのかもしれない。
その中村屋のボースは「自由インド仮政府」のオブザーバーとなって、英国植民地からの解放をスローガンとしインド進攻のための仮政府本部を当時日本の占領下にあったビルマのラングーンに移転させた。すなわち、映画「アマン」の最初のシーンに関わってくるのである。チャンドラと同じく「日本の覇権を認める」印度志士であった。
“目下ビルマ作戦に敗れた英国軍はインドに飛行基地を置いて蠢動し、ラングーン市その他を盲爆、無辜のビルマ人、インド人を苦しめつつあり、これに対し日本はインドに対する無差別爆撃を厳に戒めているが、これはインド人の惨禍を避けている結果にほかならない、また地上部隊の進攻についても日本軍は一挙全インドの戡定をなすは易いけれどもそのインド人に対する戦禍の如何に惨憺たるべきかを憂え差控えているにすぎない、この際全インド人はよく事態を認識し機会を失うことなく蹶然起ってその民族の宿敵である英軍を自身の手により全インドより駆逐すべきであると考える(「民族的栄誉担わん・インド人も蹶然起て(飯田最高指揮官)大阪毎日新聞 1942.8.2 (昭和17)」”
“だがもっと重要なことは、ラングーン市民がうけた爆撃の被害であった。爆撃の結果は壊滅的だった。火災が全市をおおい、数千人の市民が死傷し、多くの海岸倉庫が破壊された。イギリスの志願兵たちは、爆撃のあと片づけを能率よく行い、負傷者の面倒をみたが、ビルマ人やインド人労務者が田舎に逃げだすのを、阻止することはできなかった。(「孤軍奮闘! ビルマの戦い」から)
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「愛国者は常に祖国のために死ぬことを口にするが、祖国のために殺すことについては決して語らない(バートランド・ラッセル卿)」
「目下ビルマ作戦に敗れた英国軍はインドに飛行基地を置いて蠢動し、ラングーン市その他を盲爆、無辜のビルマ人、インド人を苦しめつつあり(飯田最高指揮官)」と新聞記事にあっても、その実際の仕業は、英国軍ではなく日本軍であったことを史実は示している。

(ラングーン爆撃 陸軍第3飛行集団と爆撃機87機で実施された最初の空襲「ビルマ作戦(援蒋ルートの遮断)」より引用)
映画「アマン」に於いても、「祖国(インド)のために殺す」とインド国軍と協働した日本軍の爆撃で殺されたのがガウタムの母親ということになっている。その一家の祖国はインドであっても。
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マハトマ・ガンディーは1942年に「すべての日本の人々へ」と題する手紙を記している。その訳文がネットで公開されているので以下一節を引用させていただく。
“あなた方の主張とあなた方の容赦ない中国への攻撃に、整合性はありません。あなた方が「インドから歓迎をもって迎え入れられる」などという悲しい幻想に惑わされ、過ちを犯さないようにお願いしたいのです。”
1935 年 12 月、ガンディーが野口米次郎に託したメッセージの内容とは即ちこの「アジア幻想」である。そして、その幻想の果てがインパールだった。
“英国領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略は、作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため(公称7万2,000人)、現在では『史上最悪の作戦』と言われている。・・・インパールでは当時の戦闘を「日本戦争」と呼んでおり、巻き込まれて死亡した住民が237人いる(wikipedia)”
1947年8月15日、ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)は英国からのインド独立を宣言した。「あなた方」ではなく、インド人自身の手による「運動」で勝ち得た独立である。
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そのインパールを安倍晋三内閣総理大臣が今月訪問する。
237人の無辜のインド市民ではなく、7万2,000人の「あなた方」を悼み、「インドから歓迎をもって迎え入れられ(たに相違ない)」などとインパールの地で思いを新たにするのであろうか?「アジア幻想」を追い求め「積極的平和主義」なる造語を以て、武力(積極的)覇権を正当化しようとする先に再び第二のインパールが現れない保証はない。
「その仕事は偉大な人のものとなることであると信じています。(映画「アマン」でのバートランド・ラッセル卿)」
偉大な魂「マハートマー(महात्मा)」は「アマン(平和)」を希求し実践する者にだけ与えられる尊称である。それがガウタム医師に照らすガンディーである。
戦後、日本国は憲法で平和主義を謳っているにも関わらず、「アマン(平和)」を希求し実践することを「少数の理想家の夢(野口)」と言わんばかりに軽んじ、戦争に戦うことから戦争で戦う国に変えてしまった安倍晋三氏に、インド人にとっての「偉大な魂」とは何か全く理解することはできないだろう。「彼地に於ける少数の理想家の夢(野口米次郎)」は幻想でなく現実となった。翻って武力覇権主義に拠った「アジア幻想」こそ夢まぼろしとなったことを我々は忘れてはならない。
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余談:
1.ジャワハルラール・ネルー(Jawaharlal Nehru)の名著「父が子に語る世界歴史」(みすず書房)の訳者、大山聰氏(元成城大文芸学部教授、東京都立大名誉教授、ドイツ文学)は私の恩師。ご自身、ドイツ文学者でありながら、英語の長大な原著を翻訳された。大山先生は同じくドイツ文学者の登張正美先生とは学生時代(東大)からの盟友で、お二人から等しくドイツ語を教わったことは今でも私にとって得難い経験となっている。大山先生はおっとりと柔和な授業で、音吐朗々威厳に満ちた登張先生の授業とは好対照でもあった。登張正美先生のお父上、登張竹風氏の編纂した赤い表紙のドイツ語辞典は母方の祖父の遺品である。戦前のドイツ文字(フラクトゥール)で実用に供することはなく、書棚の奥で今は眠っている。
2. ラビンドラナート・タゴールの遠戚にボリウッド映画の名女優シャルミラ・タゴール(Sharmila Tagore)がいる。ワヒーダ・レーマン(Waheeda Rehman)と共に、私の好きな1960-70年代の女優である。Rajendra Kumarとも数本共演の映画があるが、最も共演しているのはRajesh Khannaだろう。唇の端を僅かに引いて微笑む表情やら、何気ない仕草に情感が溢れていた。その娘も同じく女優として活躍している。
3. 映画「アマン」で日本人のミロダ役を演じたサイラ・バヌ(Saira Banu)は幼少期ロンドンで育った為か、その役柄も西欧文明に毒された女性がやがてインド人としてのアイデンティティを取り戻すという類の映画が多かった。美貌に恵まれツンとお高くとまっていながら、トンマなドジを踏むというコメディ場面はいつ観ても楽しい。バヌの夫は伝説の名優Dilip Kumarである(97才で存命)。
(おわり)