2019年11月15日

天皇の身の丈




皇居・東御苑の大嘗宮で14日夜から執り行われた大嘗祭の中心儀式「大嘗宮の儀」は15日午前3時15分ごろ終了した。各界代表ら五百十人が参列、千三百年以上の歴史があるという神秘的な儀式を見守った。政府は大嘗祭の宗教性を認めつつ、「天皇の一世一代の伝統儀式で公的性格を持つ」として二十四億円を超える国費を支出した

この大嘗祭に関しては、宗教色が強いものを国費で賄うことが適当と言えるのか、身の丈に合った儀式に簡素化した上で、天皇家の私費にあたる内廷会計で賄うべきである、との秋篠宮の指摘(昨年誕生日を前にした発言)が記憶に新しい。

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天皇家は自身外部から収入を得る手段がないので、「私費」にあたる内廷会計で経済を立てている。元は皇室経済法に基づき宮内庁の経理に属する公金で、それが内廷会計、つまり天皇家のポケットマネーとなる。内廷会計といえど元は我々の税金。金額は定額制であり、1996年度以降毎年3億2400万円と規定されているようだ。内廷費は不時に備えるため、1割の予備費が加算されるものと認め、ある程度のゆとりを付けるとのこと。内廷会計が大赤字にならない程度に天皇家には身の丈が求められている。

内廷費の使い道は、人件費と物件費の大きく二つに分けられ、全体の約3分の1が人件費、残る3分の2が物件費」とされている。物件費には食費、被服費、研究経費、私的な交際費、御用邸などへの私的な旅行費、宮中で受け継がれる神事の経費などが含まれる。皇室経済に関する重要な事項の審議に当たるため、合議体の皇室経済会議が設置され、同会議の議員は、衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長並びに会計検査院の長の8人。議長は内閣総理大臣。
(以上、wikipedia参考)

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つまり、内廷会計の財布を握っているのは衆議院及び参議院の議長及び副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長並びに会計検査院の長の8人。両院の副議長を除けば全て、安倍総理大臣の息のかかった布陣である。

宮中で受け継がれる神事の経費ゆえ、内廷会計で賄うべきであるのは当然で、皇室経済会議で予備費として加算される範囲(3億2400万円の1割、3千万円)で大嘗祭も執り行われるべきであるが、それでは足らないということか二十四億円を超える国費を支出する結果となった。

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一晩の私的な秘儀に二十四億円を超える国費。秋篠宮が示唆した天皇の「身の丈」、つまり皇室経済の上での応分は、「天皇の一世一代の伝統儀式で公的性格を持つ」との政府見解によって拡大解釈され、国費が充てられた大嘗祭は事実上、国事ということになった。宗教性を認めつつとしながらも、憲法の定める政教分離の原則を破る国事である。

その大嘗祭の中心儀式「大嘗宮の儀」で天皇は何をしたのだろうか?秘儀ということから我々は一切窺い知れない。

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“天皇の御即位式に続いて行わせらるる大嘗祭は、天皇が天照大神と同一の御神格御心境に進ませ給う御祭である。斯くて天皇は御即位と共に現御神(あきつみかみ)として、天照大神の体現し給うた神ながらの道を其儘に体現せられ、絶対唯一の御位に登らせ給うものなるが故に、天皇の御位は即ち至高至聖至尊の御位であらせられるのである。此等の事を理解し得る者にして始めて日本が 皇祖以来の神国なる所以をも理解し得るのである。…又日本国は斯る 天皇を中心として国家的にも民族的にも代々に綜合統一融和の実を示し来った国柄(即ち国体)であって、実に祖神と祖国を同じゅうし国民亦悉く皇統の御流れであると云う世界無比の国体であるから、即ち 天皇ありての日本国なるが故に、天皇は日本国の主体であり本体であり且つ全体であらせられると信じて疑わないのが日本国民の国体観念である。”
(「天皇機関説を排す : 美濃部博士の転向を望む」大阪毎日新聞 1935.3.10 (昭和10))

“大嘗祭・新嘗祭には皇祖を始め天神地祇を祀らせ給うて新穀を御親供あらせられ、御親らもこれをきこしめし給うのであって、何れも重大な祭儀とせられていることをここに深く拝し奉るべきである。我等が安らかに日々の生活を営み得るのは種々の物資があればこそであり、そこに自ら報恩感謝の念が滲み出るのである。これ我が国民本来の心情である。”
(「臣民の道」大阪朝日新聞 1941.7.23 (昭和16))

“天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。この現御神(明神)或は現人神と申し奉るのは、所謂(いわゆる)絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである。”
(「國體の本義」(1935年)より)

以上、大嘗祭に関する戦前の公論だが、大嘗祭が今なお「天皇の一世一代の伝統儀式」であるならば、徳仁天皇もその伝統に則り大嘗祭を以て現御神(あきつみかみ)=現人神(あらひとがみ)となったのであろう。天皇家としての内なる習わしとしてなら良い。しかし、国費が充てられた大嘗祭は事実上、国事ということになった。すなわち、象徴天皇がこっそりと、賢所で現御神(あきつみかみ)になっているとすれば、憲法第一条に定めた象徴天皇としての「身の丈」を超えてしまったことになる。主権在民に根ざしたその象徴たる意味が、その瞬間、天皇=国体と臣民に変わると言っても良い。

大嘗宮の儀に用いられる三種の神器(鏡と剣と玉)の八咫鏡(やたのかがみ)は天照大御神自身である。天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために、天照大御神が「私の御魂」として邇邇藝命に授けた神器でもある。天孫、天(あま)つ神の子孫が天皇であり、大嘗宮の儀は天皇が神格を得ることに他ならない御簾(憲法)の向こうで天皇が「公的性格を持って」神格化することに、我々は大いに懸念を示さなくてはならないだろう

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「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」(憲法第一条)

その象徴性は我々国民のありのままを映す鏡であると先のブログ記事に書いた。その鏡に常に映るべきは主権者たる我々国民であろう。己の姿を見よ、とこの鏡は存在する。その鏡を我々に掲げる役目が天皇であり皇室であり、この国の最高法規から導出される象徴性である。それ以外それ以上の象徴性はない。掲げる人に権威を与えないように神格を奪い、人としての品格に我々は襟を正して我が姿を見ることができる。天皇の存在に有り難さなるものがあるとすれば、その点であろう。

ところが、その象徴であるべき天皇は大嘗祭を以てその鏡を介して天照大御神から神格を契った。これが天皇家の私的行事であれば構わないが、国費を充てた国事であれば、憲法に定めた象徴性を天皇自ら否定することになる。鏡の担ぎ手から鏡自身に天皇がなること、そして鏡に映し出されるは宗教的国体と臣民の関係だからだ。そこには主権者たる国民の姿は映っていない。あるのは気高く神々しい天皇の姿であり、その神たる天皇を敬い絶対的に服従する臣民となった我々の姿である。ここで心から「天皇陛下万歳!」となる。

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「現代と比べ厳しい状況にあった衣食住の環境下で、陛下が自然が鎮まるよう祈られる。近年は国内でも災害が続くが、日本国中に住む人々の祈りを、天皇の立場で共有するところに現代的な意味がある」(「天皇と国民つなぐ祭祀、大嘗宮の儀 「災害はらう」古代から継承」国学院大名誉教授の岡田荘司氏・産経新聞2019.11.14)

戦前から伝統として引き継がれてきた「天皇ありての日本国なるが故に、天皇は日本国の主体であり本体であり且つ全体」となるための大嘗祭が、なぜ現代的な意味があると言うのか?憲法で定められた象徴たる応分を超えて、何を国民と共有しようと言うのか?

秋篠宮が懸念する以上に、天皇の身の丈を我々国民が懸念しなければならない。以下のような不埒者に利用されないように。

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「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く」(森喜朗元首相の神の国発言)



憲法の象徴天皇にそのような神事絡みの公務はない。国家の安寧と五穀豊穣を祈念するは主権者である国民であろう。勝手に主客を転倒させてはならない。

(おわり)



posted by ihagee at 18:08| 憲法